新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

3月24日 その2 IOCバッハ会長の考察

2020-03-24 14:43:40 | コラム
バッハ氏に緊急事態への対応能力ありや:

私は以前から「各競技の上部団体(例えば日本~連盟)で管理・運営しておられる方々は大変ご苦労だとは思うが、その多くは元の名選手ではあっても一流の管理・運営の専門家であるとは限らない」と言って、かなり真正面から批判してきた。その批判の対極にあるのが、サッカーのJリーグを協会長としてあそこまで盛り立て、次いでは先頃のバスケットボール界の再編成に対応され、見事にBリーグを人気の競技団体に仕上げた川淵三郎氏の見事な手腕だと思って見てきた。川淵氏は大企業で部長職を勤められ、組織を運営する力を十分に養っておられたのだった。

私の言いたいことは「営利を追求するビジネスの競争社会で責任ある地位におられた方は、指導者として組織を如何に管理・運営し、如何に人と使っていくかの責任を負う職務を経験したからこそ、スポーツの上部団体を晴の日にも雨の日にも風の日にも恙無く導くことが出来るのだ」なのである。これと同じような事を我が友のYM氏に聞いた。それは「アメリカのビジネススクールでは同じMBAでも会社の管理・運営だけではなく、学校・病院等の組織を運営するコースもある」というものだった。簡単にいえば「病院長はお医者様の仕事ではなくMBAに任せよ」がアメリカ式だ。

ここまでを導入部として、新型コロナウイルス問題が発生してからのIOC及び会長のバッハ氏の優柔不断振りと言おうか、決断できずに右往左往し何処まで信頼して良いか疑問であるとしか見えない「WHOのテドロス事務局長の決定に従う」とか「オリンピックの中止はないが、別のシナリオ考えている」とか、IOCと会長にとっては未だ嘗て経験したことがない緊急事態であり、一刀両断的に解決するには余りにも複雑な要素と要因が絡んでいる難問を突きつけられて、唯々オロオロしているだけとしか見えなかった。

要するに「二者択一」の決断など出来る能力はなかったとしか、私には見えなかった。こういう言い方をすれば「またまた、批判しているだけで相変わらず“negativeだな」と言われそうだが、私は寧ろ諧謔的に同情しているのだ。それはIOCという組織ではテレビの放映権その他で(興行収入があるかどうか知らないが)上がってくる収入を各国のオリンピック委員会に配り、オリンピックという大運動会を恙無く運営する為の団体なのだから、今回の新型コロウナ・ヴァイラスが突きつけた大難問題に如何に対処するかというような、緊急事態対応の専門的知識など最初から持ち合わせなどなかったのだと思う。

この状態は後難を恐れずに言えば「バッハ会長もIOCの理事(委員?)の方々は、ある意味で無能レベルに期せずして到達してしまったのではないか」ということだ。既に申し述べたように、私はその点を責める気はない。もしも責める点があれば、そういう緊急事態や危機対応の経験があり、それだけの力を備えておられる政治家やビジネスマンの力を借りれば良いのだが、遺憾ながら彼等にはそういう知恵は無かったようだ。先ほどのニュースでは「バッハ会長は安倍総理、森組織委員会長や小池都知事と今夜テレビ会談をれる」そうだ。

これこそが、私が言う「知恵を借りる」ことではないか。遅きに失してはいるが“Better late than never.”であろう。バッハ会長は何と一国の現職と元職の総理大臣の意見を聞こうという挙に出られたのだ。私が見るところ、我が国ではオリンピックを余りに神聖なものとして祭り上げ過ぎたのだ。IOCを恰も無用の長物化しつつある“United Nations”の如くに敬いすぎたと、私は見ている。バッハ会長が如何なる結論に到達しようとするのか知らないが、延期しようと万が一にも中止しようと、待っているのは泥沼的な苦境であり難関だと思う。

バッハ会長には精々気張って決断すべき事は遅滞なく決断して欲しい。彼にはもうほとんど失うものなど残っていない気さえするのだ。難局に対峙して引っ込み思案では駄目だ。頭から突っ込んでいって引き下がることなどせずに「長いトンネルの先にあるはずの灯りを見出そうと努めるべきだ。この世には明けない夜はなく、止まない雨もない」のだから。


カタカナ語排斥論者の嘆きと怒り

2020-03-24 07:41:03 | コラム
河野太郎防衛大臣も批判していたというではないか:

カタカナ語排斥論者の私としては、新型コロナウイルス問題発生以来国会、閣僚、専門家、有識者たちが、余りにも英語擬きのカタカナ語を意識的か、あるいはそれが言葉の誤用であることをご存じてない為か、恣意的に乱用されるのを非常に嘆かわしい傾向だと思って憤慨している。何度も指摘して来たことで「英語教育を小学校の3年から開始する愚挙を敢えてしてまで、我が国民の英語能力を高めよう」としている最中に、出鱈目なカタカナを偉い方が使ってどうすると言いたいのだ。

昨日、河野太郎防衛大臣がその乱用振りを窘めたとの報道があったそうだが、遺憾ながら私はそのニュースを見損なった(聞き損じた?)のだった。だが、「善くぞ仰って下さった」と歓迎したいのだ。既に指摘したことで、「クラスター」、「オーバーシュート」、「ロックダウン」、「チケット」、「コロナ」、「アスリート」等々枚挙に暇がない次第だ。私は特に酷いと敢えて非難し批判したいのが尾身茂専門家会議副座長様だ。重複するが敢えて言えば「あの記者会見でオーバーシュートやロックダウンなどと言うカタカナ語をお使いになる必然性などないのでは」なのだ。

「オーバーシュート」の使い方のおかしさも既に採り上げたが「感染者が爆発的に増加」という意味は“overshoot”にはないのだ。昭和大学の二木教授が指摘された「感染者が推定を上回って急増した」と言われたいのならば、そう言われれば良いだけのことで「通り過ぎる」とか「(予算を)使いすぎる」という意味しかない“overshoot”を持ってこられた意図が解らない。「ロックダウン」だって同様だ。私が本気で疑っているのは「英語を知っていることを衒っているだけで格好と箔付けか」という点。私はこれが正しいかどうかを何れアメリカの元同僚と上司に尋ねてみようと思案中だ。

もっとイヤな現象はマスコミが「オーバーシュート」を真似て使うのは仕方がないが、英語をご存じのはずの小池都知事までが平然と「オーバーシュート」と「ロックダウン」を使っておられた現象。こんな事をなされば、罪なき一般大衆と英語をおかしな我が国の教育で学んでこられた方々は「そうだ。これだ」と思い込んでしまうことだ。私は私以外に誰も尾身茂副座長様のこれ聞けがしの英語擬きのカタカナ語をお使いになったことを批判しないのは不思議だと思っていた。河野太郎防衛大臣がどの言葉を批判されたか知らないが「良く言って下さった」と歓迎するのだ。

「チケット」も以前から槍玉に挙げておいたが「入場券で何が悪いのか」なのだ。それに“ticket”を何で「チケット」とするのか。「何故チャンと『テイケット』と言えるように教えておかないのだ」と英語教師の方々に伺いたいし、カタカナ語製造業者にもその根拠を問い質したい。「コロナ」もそうなると危惧していたらそうなってしまった。「コロナ」だけでは新型コロナウイルスの意味にはならない、“corona”とは「光冠;(太陽・月の光環)」とジーニアス英和にある。これを「英会話」などで使っても先ず通じないだろうよ。

もうこれくらいで良いだろう。私が主張したいことは「漢字なり平仮名などを使って正しい日本語の表現を捨て去って、まがい物の如何にも英語風のカタカナ語を乱用するのを止めろ」の一点である。これを強く言っておきたいのだ。それは総理までもが平然と「アスリート」などと言われるのは情けない限りだからだ。何故「運動選手」ではいけないのだ。総理自らがカタカナ語の乱用に走られては如何ともし難いではないか。同時に尾身茂専門家会議副座長様にも猛省を促したい。事態はカタカナ語を使って悦に入っている場合かということ。