新11の2『岡山の今昔』邪馬台国と吉備(大和説、北九州説以外の説) 

2021-06-23 09:59:05 | Weblog
11の2『岡山の今昔』邪馬台国と吉備(大和説、北九州説以外の説) 

 前置きとして、まずは、在りしその頃の国際関係の一端を振り返ってみよう。改めていうならば、239年(景初3年)に、卑弥呼の使者が帯方郡に来る。この頃、現時点での多数説でいうと、倭国内で前方後円墳の築造が始まった模様である。ちなみに、大和の箸墓古墳に関しては、残存炭素測定の方法により、一説には、3世紀後半の築造ではないかと考えられている。

 240年(正始元年)には、帯方郡の使者が倭国に来る。243年(同4年)には、卑弥呼の使者が再度、朝貢してくる。
 245年(同6年)には、魏が倭国に軍旗を下賜する。かの「倭人伝」(書き下し文)でいうと、「正始6年(245年)、皇帝(斉王)は、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜するよう詔した」となっている。
 246年(同7年)には、卑弥呼が狗奴国と交戦のあったことを報告する。同年、帯方郡の使者が派遣される。248年(同9年)に卑弥呼が死ぬと、「倭国」では内乱が起き、壱与が即位するまで続く。

 このように、少なくとも239年から248年までの「倭国」(中国から見たこの「ウー」という呼び方は、当時の邪馬台国連合なりの全体を指している)においては、邪馬台国を中心として連合したり、その結束力が弱体化して部族国家の間で争うことになったりしていた。すなわち、当時の日本人列島では、数十との部族国家が緩い形で大方連合志向で並立していたのではないだろうか。

 もう一つ踏まえておきたいのは、「倭人伝」に記されている「伊都国」(その位置について、大方の専門家の見解が一致している)から「邪馬台国」(「女王国」とも)までの行程の解釈だろう。

 その中でも、伊都国から東南に行って奴国に至るのに要すのが百里とあって、そこには2万余戸が有るという その次の行程というのは、こうである。

 「東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家」
 「東行、不弥国に至る。百里。官は多摸と曰い、副は卑奴母離と曰う。千余家有り。」
 (奴国から)東に行き不弥国に至る。百里。官はタボといい、副官はヒドボリという。千余りの家がある。

 「南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸」
 「南、投馬国に至る。水行二十日。官は弥弥と曰い、副は弥弥那利と曰う。五万余戸ばかり。」
 「(不弥国から)南、投馬国に至る。水行二十日。官はビビといい、副はビビダリという。およそ五万余戸。」

 「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸
 「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮と曰う。七万余戸ばかり。」
 「(投馬国から)南、邪馬壱国に至る。女王の都である。水行十日、陸行ひと月。官にイシバ(イキマ)がある。次はビバショウ(ミマショウ)といい、次はビバクワクシ(ミマカクキ)といい、次はドカテイ(ナカテイ)という。およそ七万余戸ばかり。」(以上、「三国志」魏書巻三十・東夷伝・「三国志」魏書巻三十・東夷伝・倭人の条(通称は「魏志倭人伝」))

 これらを含めて踏まえて、といったらいいのだろうか。ちなみに、邪馬台国が大和の地にあったとする説に従うと、投馬国辺りが吉備国であったということになるのかもしれない。それと、今度は大和説(狭義では、大和の地に勃興した政権をいい、他の地域から移ったとのではない)、北九州説いずれにもつかないとする立場もあり得て、実は邪馬台国そのものが吉備にあったのだという説とがあるようだ。

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 それでは、なぜ吉備説(狭義)、もしくは吉備東遷説でなれればならないかという理由付けなのだが、これまた、前項で紹介した大和説、北九州説同様に、誰もが納得せざるを得ないような決め手となるものは、残念ながら見あたらない。強いてその近辺となりそうなものを拾うと、前方後円墳墓の前期といえそうな墳墓の形態的特徴、及び特殊な土器がこの地において、全国に突出して出土していることであろう。しかして、後者については、別のところでこう紹介しておいた。

 「(前略)そして、この倉敷にある墳丘墓の発掘(岡山大学が中心、1976~1989)を行ったところ、様々な土器類が供献されていることが判明した。
 その中には、大型の壺や器台が含まれていた。それらの壺や器台は、特殊壷形土器・特殊器台形土器(略して、「特殊壷・特殊器台」とも)と呼ばれる。
 これらのうち特殊器台は、器高が70~80センチメートル程もあるものが少なくない。さらに、大型のものでは1メートルを越えるものもあるという。また、器体の胴部は文様帯と間帯からなり、文様帯には綾杉文や斜格などが刻まれている。そのかなりに、極めて精密に紋様が施されているのには、おそらくこれらが、埋葬するにあたり祭礼を行う時に用いられたのではないか。そして、そのあと一緒に埋められたのではないか、と考えられている。
 このような特珠壷・特殊器台は、一部を除いたはとんどが、吉備地方の同時期の遺跡からかなりの数が出土しており、これらの全体がこの地に特有のものであるといって差し支えない。
 次に紹介するのは、宮山墳丘墓という、総社市の山懐近くにあり、その案内板には、こうある。
「県指定史跡宮山墳墓群 昭和39年5月6日指定 
 およそ1700年前の弥生時代から古墳時代の初め頃の墳墓遺跡です。全長38メートルの墳丘墓と、箱式石棺墓・土棺墓・壺棺墓などで。、される『むらの共同墓地』です。東端に位置する墳丘墓は、盛土でつくられた径23メートル、高さ3メートルの円丘部と、削り出して作った低い方形部をもち、全体として前方後円墳状の平面形をしています。
 この墳丘墓には石が葺かれ、特殊器がたてられていました。円丘部の中央には、円礫や割石を用いた竪穴式石室があり、鏡・銅鏃・ガラス小玉・鉄剣・鉄鏃などが副葬されていました。(中略)このような埋葬施設の規模や構造、副葬品の相違は、当時の社会にすでに支配する者とされる者の差をうかがわせるもので、やがて首長が卓越した存在として村人に君臨し、巨大な古墳を造営する時代の歩みを示しています。」」

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 次に、青銅器や鉄器については、これまでのところ、有望とみられる遺跡からの出土状況は、それほどではない。それというのは、鉄の場合、この辺りでは数が特に少ない。それと、5世紀後半には、列島でたたらによる製鉄が始まったようなのだが。中でも、吉備での製鉄年代の開始は、現実問題としてどうであったのだろうか。

 参考までに、上相(かみや)遺跡と鍛冶屋逧(かじやさこ)古墳群(現在の美作市勝央町岡山県古代吉備文化財)は、津山盆地の東の端、中国山地から続くなだらかな丘陵上に、隣り合わせで見つかっている。前者はひとかたまりなのだが、後者は中国縦貫道を境に二つに分かれている。
 こちらは、古墳時代後期から飛鳥時代(6世紀後半~7世紀前半)のものと推定されており、その7世紀と見られる地層から、多量の鉄滓(てっさい)といって、たたら製鉄の時に出る鉄のかすが出土しているのみならず、そのすぐ西側で製鉄炉跡が見つかっている。
 これは、鍛冶屋逧古墳群の一角において日常的に製鉄が行われたことを窺わせる。また、この両方の遺跡において刀子(とうす・工具)、鏃(やじり)、馬具など多種の鉄製品見つかっていることから、この地域に埋葬されている人物は、当時の鉄生産者の集落の首長ではないだろうかと推測されているとのことだ(さしあたり文化庁編「発掘された日本列島ー新発見考古速報、2015」共同通信社に、カラー写真入りの解説がある)。

 見られるように、これらの遺跡は、邪馬台国の時代からかなり後にずれてのものであり、当面の話に加えるのは難しいようである。それでも、一方では、弥生時代後期(1~3世紀)に鍛冶工房が急増することを根拠に、列島での製鉄の開始時期を前倒しにする説も、少数ながらあるという。

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 これらを受けて、それでは、これら学説が林立している状況をなるべく収束に導き、この列島の古代史を世界水準へとしていくには、一体どうしたらよいのだろうか。
 それには、やはり、これまで大王なり天皇なりの陵墓と目されている遺跡を、現代世界で行われているような科学的な見地から、発掘ないし再発掘することではないだろうか。少なくとも、そのことで得られる有益な情報が何かしらあると信じたい。
 しかして、その際には、幾つもの歴史観が平行して語られるべきであろうし、その辺り、例えば次のような見方が提出されているのが、参考になるのではないだろうか。


○「仁徳天皇の実在性も、聖帝とされる事蹟(じせき)の評価もその事蹟が「陵墓」に反映することも、そもそも古墳時代の「陵墓」の存在自体も、いずれも現代の科学において、証明されたことはありません。」(今尾文昭・基調講演「陵墓限定公開」40年と現状から考える」、「陵墓限定公開40周年記念シンポジウム実行委員会「文化財としての「陵墓」と世界遺産」新泉社、2020)


○「仁徳天皇陵というのは漢風諡号の「仁徳天皇」と倭の王墓との結合であって、そうした歴史認識は、天皇制が巨大であった、律令国家の形成期と、それから1889年に秩序ができた近代の二つの産物に過ぎないものです。」(高木博志「近代天皇制と陵墓」、「陵墓限定公開40周年記念シンポジウム実行委員会「文化財としての「陵墓」と世界遺産」新泉社、2020)

(続く)

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新447の4◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、宇垣一成、橋本欣五郎)

2021-06-22 21:25:03 | Weblog
新447の4◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、宇垣一成、橋本欣五郎)

 宇垣一成(うがきかずしげ、1868~1956)は、戦前軍人(陸軍大将)で、政治家だ。

 磐梨郡大内村(現在の岡山市東区瀬戸町)の生まれ。1890年(明治23年)に陸軍士官学校卒業する。1900年(明治33年)に陸軍大学校を卒業すると、参謀本部員となり、主に、軍事研究のため日露戦争前後に二度ドイツに駐在する。
 
 帰国しての1913年(大正2年)には、山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣の下、軍部大臣現役武官制廃止に反対の立場をとる。


 1916年(大正6年)には、参謀本部作戦部長となる。1918年には、シベリア出兵方針の策定にあたる。これは、革命ロシアに干渉して、あわよくば海外領土を広げようとの目論見であったろう。

 その後、陸軍大学校校長を皮切りに、1924年清浦奎吾(きようらけいご)内閣の陸相となり、加藤高明内閣、第一次若槻礼次郎内閣と留任する。


 この間、4個師団を廃止し、経費節減分を戦車、飛行機など装備の充実にあて、軍の近代化を図り、同時に学校教練、青年訓練所制度を実現したという。


 1929年(昭和4年)には、浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣の陸相となるも、1931年(昭和6年)には、陸軍有志の「桜会」を中心とするクーデター計画である三月事件に関与したとされ、事件後に陸軍大臣を辞職する。
 もっとも、その理由について、「宇垣自身は、三月事件のとき、軍隊を動かすことに反対したと強調している」(大内力「ファシズムへの道」中央口論社版の「日本の歴」シリーズ24、1967)とされ、そのことから、真相は現在に至るまで行方知れずのようである。


 その後は、1936年まで朝鮮総督となる。一説には、「ともかく、これによって宇垣は一度に全軍の信望を失ってしまった」(同)とも。

 1937年には、広田弘毅(ひろたこうき)内閣の総辞職後、組閣の大命を受けるも、陸軍が反対するなどがあり、組閣を流産してしまうことが、起きる。

(続く)

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新62『岡山の今昔』江戸時代の宗教政策(日蓮宗不受布施派、キリスト教徒弾圧など)

2021-06-22 09:07:21 | Weblog
新62『岡山の今昔』江戸時代の宗教政策(日蓮宗不受布施派、キリスト教徒弾圧など)
 
 まずは、日蓮宗不受布施派の扱いから、簡単に紹介しよう。
 1595年(文禄4年)、豊臣秀吉は東山の方広寺に大仏殿を建て千僧(せんそう)供養を営み、諸宗の僧とともに日蓮宗も招請したのだが、独立精神からこれを拒む日奥(にちおう)と柔軟派の日重(にちじゅう)とが対立する。
 徳川家康の時代となると、日奥の主張は国主の権威を損なうものとして1600年(慶長5年)には、対馬(つしま)に遠流される。1623年(元和9年)には、幕府は不受不施派に公許状を与える。それにもわらず、布施を受けることを認める京都側と、不受不施(他からの布施のやり取りを拒む)を主張する関東側との対立は続く。
 1660年(万治3年)頃、幕府は、全国寺社領の朱印を調査し、改めて朱印を与える。それでも、かかる朱印を放棄し出寺した不受不施僧(法中(ほっちゅう)と呼ばれる)は、表面は一般日蓮宗や天台宗、禅宗などの檀家(だんか)となる。それと、内心に不受不施を抱く(内信(ないしん))者などができ、彼らは、(法立(ほうりゅう))者との対立していく。こうした関係に対応するかのように、内信―法立―法中と連係する秘密の教団組織が形成され、これを不受不施派という。
 
 
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 1612年(慶長17年)には、幕府が、直轄領にキリスト教禁止令を出す。翌年には、全国に同令を適用する。また、1613年(慶長18年)には、キリシタン大名の高山右近(たかやまうこん)ら148名を、マカオやフィリピンへ国外追放処分とする。
 1616年(元和2年)になると、徳川家康を継いで2代将軍となっていた徳川秀忠が、改めてキリシタン禁止令を発布するとともに、ヨーロッパからの船の来航を平戸と長崎に限る。

 1622年(元和8年)には、幕府が、長崎において、キリスト教の宣教師・信徒を死刑にする、これを「元和の大殉教(げんなのだいじゅんきょう)」と呼ぶ。

 さらに、3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)となっての1633年(寛永10年)には、ついに17か条から成る最初の鎖国令が発布される。これにより、海外渡航の船が老中作成の奉書を持たない場合、その船の渡航を禁じることになる。1635年(寛永12年)になると、日本人の海外渡航と在外日本人の帰国も禁じる。

 ところが、1637~1638年(寛永14~15年)には、あの島原・天草一揆(島原の乱)が勃発し、鎮圧の過程で実に多くの血が流される。あわせて、幕府は、この戦いを経験して、ヨーロッパからの外圧と受け止め、危機感を新たにしたのであろう。

 それから、1639年(寛永16年)には、だめ押しということか、ポルトガル船の来航を禁じるとともに、1641年(寛永18年)には、オランダ人を長崎の出島を移して、鎖国体制を完成させる。
 
 およそこのような政治・経済と、キリスト教及びキリシタン弾圧とが織り成す歴史として、かかる全体を見渡すことができよう。
 
 
 
(続く)
 
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新51◻️◻️『岡山の今昔』太閤検地と慶長検地(1594~1604)

2021-06-21 15:34:18 | Weblog
新51◻️◻️『岡山の今昔』太閤検地と慶長検地(1594~1604)

 太閤検地に示された石盛の標準というのは、上田が15斗、中田13斗、下田11斗ということなのだが、これらのランクのどれを割り当てるかを、一つひとつ現地を測量して決める訳なのである。
 そうであるからには、役人を組織して、かれらの下に測量技術者や同補助者が揃い踏みして村々を巡って、村役人が差し出した帳面と田畑に立ててある畝札(うねふだ)を対照に検査をしていく。そう、やる以上は土地によって不公平とならないように、全数を定められた基準により行わなければならないのである。
 ところが、この当たり前のことが、美作ではうまくやられなかった。しかして、その理由とされているのは、こうである。

 一つには、当時は豊臣秀吉の朝鮮出兵により、五大老の一人、宇喜多秀家が出陣の最中であった。二つには、中でも美作においては、土豪(国人)勢力の存在があり、武力を持つ彼らとの対立を避ける必要があった。
 そうした懸念から、検地役人は帳簿に載った全数を検査する訳にはゆかず、不審な所のみ緩めに測ったという。こうして合算された美作当該地域の総石高18万6500石が定まったと言われている。
 その影響は、徳川氏の天下になっても尾を引いていたようで、1604年(慶長9年)に森忠政が行った「慶長検地」によると、検地奉行が、田畑一枚一枚を実測し、先の検地基準に照らしての「慶長検地帳」を書き上げていく。しかも、それらの一枚毎に地名、等級、面積、それから割り出した石高を記した上、村毎に台帳を作成したという。
 かくも厳しい検地となったのには、忠政が入国に当たって前述の国人衆をうまく丸めこんだ、その自信の表れでもあったろう。その際には、旧国人「国侍」の有力者から大庄屋(おおじょうや、5千石前後の地域割を設け、肝煎(きもいり)2~3名が補助役)を選んで郡奉行に服属させ、大庄屋の支配下には村庄屋が、村の有力弱者の中から指名されるという仕組みで、かなりややこしい。そして、この村庄屋には、数十軒前後の村の管理者として、組頭と百姓代が補助役として従うことになっている。


(続く)

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195『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、児島虎次郎)

2021-06-21 09:56:10 | Weblog
195『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、児島虎次郎)

   児島虎次郎(こじまとらじろう、1881~1929)は、現在の高梁市成羽の出身、日本における印象派の代表的な画家の一人だ。
 1902年(明治35年)には、上京して、東京美術学校西洋科に入る。1904年(明治37年)に東京美術学校西洋科を卒業する。成績優秀で、飛び級したという。1906年の作品に、「登校」というのがあって、母と娘が連れだって、平ら地の林間をゆつたりあるいている。研究科に進み、1907年(明治37年)には、東京府主催の勧業博覧会美術展にて一等を受賞する。
1908~1912年には、ヨーロッパに留学する。大原家の援助があった。それからは、色彩豊かにして温かい雰囲気を醸し出す作品が多い。風景画では、「ベゴニヤの畠」や「酒津の秋」などが有名だ。花や木に包まれた人がたのしげにいたりしていて、こちらは観ていて心地よい。日本の風景というよりも、どことなく、パリ郊外の野や原っぱのような気がしないでもない。
 人物画は、こちらをちゃんと見ているものが多いようだ。女性の落ち着いた、静かな表情に、こちらもゆったりした気分に浸れる。また、自画像らしきものもあり、こちらは控え目ながらも、少し気難しい性質が表れているようなのだが。
 児島には、20世紀に入って父・孝四郎の紡績事業ほかを継いだ大原孫三郎という友達がいた。大原は、紡績業を営むだけでは満足できなかったらしい。大原は、野趣というよりは、西洋の洗練された文化・文物をたしなむ素質を宿していたのだろうか。友人の画家である児島に、西洋風の美術館をつくる夢を託す。児島はその期待に応え、西洋美術を中心とし、同時に集めた中国、エジプト美術なども加え収集に精を出す。
 実にたくさんの西洋絵画などを現地で探し、大原に送り、それらが基礎となり、今日の大原美術館の所蔵ができていく。この二人の友情なくして、倉敷文化の一大快挙は望めなかった。彼こそは、文化・芸術の地方都市・倉敷の草創期を現出した恩人の一人だといえよう。

(続く)

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新500◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(20世紀、上代淑)

2021-06-20 13:45:11 | Weblog
新500◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(20世紀、上代淑)

 上代淑(かじろよし、1871~1959)は、キリスト教の精神を具現化した日本の教育者だ。

 愛媛県松山市の生まれ。父は伊予松山藩士であった。明治維新後、大阪に出てキリスト教の牧師になる、その父に従って、家族で大阪に移る。
 淑もほどなく洗礼を受け、梅花女学校小学科に入学したというから、家族の影響もあって、キリスト教に入信したものと推察されよう。
 卒業後は、先生として強く望まれ、1889年(明治22年)には、岡山のキリスト教系の山陽英和女学校(現在の山陽学園)へ赴任する。
 1893年(明治26年)には、アメリカのマウント・ホーリョーク女子大学に留学する。それには、人類愛から来る、「一粒の麦もし地上に落ちて死なずば」(アンドレ・ジッド)のごときひたむきさが、おおきな力を与えたのではないたろうか。
 
 1897年(明治30年)には、バチェラー・オブ・サイエンスの学位を得て卒業し、翌年帰国し、再び山陽女学校の教師として教壇に立つ。
 その後も、欧米へ教育事情視察に出かけ、帰国した明治41年(1908)に山陽高等女学校校長に就する。

 なにしろ、山陽高等女学校(後の山陽学園大学・山陽女子中学校・高等学校(現在の山陽学園中学校・高等学校)の校長を51年間務めたというから、前人未到の境地を経験したのではないだろうか。養子である上代晧三によって墓碑に書かれた言葉に、「神と人に愛されて其生涯を女子教育の為に捧ぐ」とあるという。

(続く)

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新576◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、吉永祐介)

2021-06-20 13:34:10 | Weblog
新576◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、吉永祐介)


 吉永祐介(よしながゆうすけ、1932~2013)は、検察官にして「ミスター検察」のニックネームを持つ。
 岡山市の生まれ。岡山大学法文学部を卒業する。1955年(昭和30年)には、検事に任官する。
 1968年(昭和43年)に発覚した汚職事件の日通事件など、戦後の著名な疑獄事件の捜査に携わる。
 1976年に発覚したロッキード事件では東京地方検察庁特別捜査部(東京地検特捜部)副部長、主任検事として田中角栄元首相らを受託収賄などの罪で起訴した。「首相でも庶民でも法の前では平等だ」との言葉は有名だ。
 いわゆる「田中政治」は、日中国交正常化に辣腕を振るって後は、国内において利権絡みの話が多く、この事件はその最たるものであったろう。
 1978年には同、特捜部部長に就任する。同年に発覚したダグラス・グラマン事件(日米間の戦闘機購入に絡む汚職事件)の捜査指揮を執る。
 東京地検検事正の時代には、リクルート事件の捜査を指揮する(この事件については、拙論文「プラザ合意30年」においても簡単に触れている)。
 その後は、広島・大阪・東京の各高等検察庁(高検)検事長などを歴任し、1993年に最高検察庁の検事総長になる。1996年に任期を1年残しながら勇退し、弁護士となる。かくて、東京地検特捜部での在籍期間は14年弱にも及んだという。

(続く)


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397新◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、大原孝四郎)

2021-06-19 22:15:53 | Weblog
397新◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、大原孝四郎)


 大原孝四郎(おおはらこうしろう、1833~1910)は、明治時代の実業家にして社会事業家だ。


 岡山藩士藤田伝吉の三男に生まれる。それが、1858年(安政5年)に、備中国窪屋郡倉敷村の庄屋、地主にして豪商でもある大原壮平の養嗣子となる(注)。その折、幼名であった幸三郎を孝四郎と改名する。

(注)「市内新川(しんかわ)町の大原家住宅などはその代表的なもので、主屋は本瓦で屋根を葺(ふ)き、白壁で塗りこめた厨子(ずし)に木格子(きごうし)を連ね、庇(ひさし)の下も格子(こうし)で囲んでいる。これは広い敷地に独立して建つ民家の形式である。」(早川貞和、坂田貞和ほか制作・編集「グラフィックカラー 日本の民話」12、中国2❮岡山・広島・山口❭研秀出版、1977)
「蔵造り商家の外観(旧大原家)典型的な倉敷の町家で、白壁と自然釉(しぜんゆう)の豊かな色をもつ張り瓦が色彩的にも鮮やかな外観をみせている。」(同)
「土間(同上)米俵を一時的に置くため、広い土間を必要とした。」(同)
「土蔵(同上)敷地の西・北の道路にそって7棟の蔵が並ぶ。」(同)
 「蔵造り商家の張場(旧大原家)この家は18世紀後半の建築。米問屋を経て呉服問屋になった家で、広い土間の横に帳場を設けてある。家の正面にある格子窓の内側にあたり、左は作り付けの戸棚になっている。土間との境の障子戸などは、昔は板戸であった。古い商業都市ならではの帳場である。」(同)

 それからは、儒学者森田節斎の簡塾、犬飼松窓の三餘塾に学ぶ。それに、儒学、書といった教養も養っていったようだ。


 1888年(明治21年)には、倉敷紡績所(のちの倉敷紡績)の初代頭取となる。その前の1880年(明治13年)には、児島郡下村(現在の倉敷市児島)の渾大防益三郎が、政府がイギリスから輸入したミュール精紡機をいち早く買入れ、日本初の民間紡績会社・下村紡績所を立ち上げていた。


 これに触発されてのことであったろうか、その8年後、倉敷村(現在の倉敷市)の孝四郎が、高性能のリング精紡機を導入して倉敷紡績所を創設する。


 1891年(明治24年)には、倉敷銀行を設立する。1898年(明治31年)には、大原奨学会を創設する。


 1888年(明治21年)には、倉敷紡績所(クラボウ)の初代頭取に就任する。養父壮平が森田節斎から学んだ「満は損を招き、謙は益を受く」という格言を、大事にしたという。


 1891年(明治24年)には、倉敷銀行を設立し、頭取に就任する。1906年(明治39年)には、倉敷紡績社長と倉敷銀行頭取を退任する。


 概して、孝四郎においては、産業界に出た頃の当初は名望家気取りとあったのが、1890年代からはとみに社会福祉に貢献していく道を探るようになっていく、そこに中央に近い渋沢栄一など大方の新興資本家との違いが鮮明になっていく。

(続く)

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新408◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、安井誠一郎)

2021-06-19 12:43:11 | Weblog
新408◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、安井誠一郎)


 安井誠一郎(やすいせいいちろう、1891~1962)は、官僚を経て、政治家だ。
 伊島村の出身。生家は代々、備前藩の庄屋を務める旧家だという。

 やがて、東京帝国大学法学部を卒業し、内務省に入る。富山・兵庫警察部長を経て、1929年(昭和4年)には、東京市社会局長となる。 
 
 次いで、1931年には、宇垣一成(うがきかずしげ)について、朝鮮総督秘書官となる。同時の朝鮮は、日本が植民地支配していたのであって、教育に日本語を強要するのも含めて、全体としては、悪逆無道のことをしていたのであろう。そのことをどう考えていたのだろうか。


 その地にて、総督府専売局長、京畿道(けいきどう、韓国語では現在「キョンギド」という)道知事などを務めた模様だ。その後帰国して、新潟県知事にもなる。


 太平洋戦争中は、つまびらかでないが、浪人していたという。

 戦後になってのは1946年(昭和21年)には、厚生次官、同年7月最後の官選東京都長官。1947年(昭和22年)4月の第1回公選に出て、初代東京都知事となる。戦災復興や食糧確保に尽力し、1964年には東京オリンピック誘致活動も進める。

 1959年まで3期を務め、都議会、都庁に「安井王国」を築き、中央政府と直結して東京の巨大化を進めたというのだが、その志には、ほかにも何かあったのなら、もっと人々に伝わるような工夫なりがあってしかるべきではなかったか

(続く)

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409『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、阪田久五郎)

2021-06-19 09:37:47 | Weblog
409『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、阪田久五郎)

 阪田久五郎(さかたひさごろう、1883~1961)は、実業家だ。後月出部村(現在の井原市)において、阪田紋三の五男として生まれる。

 1897年(明治30年)の14歳の時であったろうか、呉(くれ、広島県の当時は海軍城下町といったところか)で、金属文房具工場を経営する兄・斉次郎を頼り移住する。
 それからは、、兄の工場を手伝う。そのうちに迎えた、1904年(明治37年)、21歳にして日露戦争に従軍、無事に帰っての終戦後、大陸での戦功により金鵄勲章を受章したという。

 そして、こ青年にある転機が訪れた。1905年(明治38年)、22歳の阪田は、何かの機会にて友人の将校から英国留学土産に万年筆をもらったという。その時、「万年筆というものを生まれて初めて見た時の心のときめきは、言葉で言い表せないほどだった」とか、そういうことがあって、自分でも作ってみようと取り組んだらしい。

 1911年(明治44年)には、兄から離れて、呉市稲荷町にセーラー万年筆の前身・阪田製作所を創業する。そこで、「14金」のペン先をもつ万年筆の製造に着手する。
 1917年(大正6年)には、呉市浜田町に工場を新設、万年筆の完成品を製造するに漕ぎ着ける。

 1932年(昭和7年)には、社名を「株式会社セーラー万年筆阪田製作所」とし、専務取締役に就任する。「セーラー万年筆」というブランド名は、軍港として栄えていた呉で創業した事に由来するという。

(続く)

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新450◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、常の花寛市)

2021-06-18 22:37:34 | Weblog
新450◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、常の花寛市)


 常の花寛市(つねのはなかんいち、1896~1960)は、明治〜昭和期の力士にして、第31代横綱、それに、 日本相撲協会理事長を務める。


 岡山市西中山下の生まれ。本名は、山野辺寛一という。どの位の年齢から、相撲、そして力士を志したのだろうか。明治42年には、出羽海部屋に入門する。


 翌1910年(明治43年)に初場所、大正6年には、新入幕を果たす。1924年(大正13年)1月には、めでたく第31代横綱に昇進する。

 1930年(昭和5年)には、これを引退する。通算成績は、「221勝58敗8分6預」という。そのスタイルとしては、速攻の技能派力士で優勝10回を数える。

 いわゆる「春秋園事件」後の戦時中には、相撲協会理事長に推され、戦中戦後の苦境に臨んだという。


 1957年(昭和32年)には、日本相撲協会のあり方が国会で取り上げられる。これがこじれてであったろうか、問題に発展したときは、国技館内で自殺を図ったと伝わる。
 とはいえ、大相撲の復興の基をリードしたことで知られており、理事長在任中初の還暦記念の土俵入りを行う。


(続く)

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新468◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(20世紀、布施健)

2021-06-18 22:12:14 | Weblog
新468◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(20世紀、布施健)

 布施健(ふせたけし、1912~1988)は、弁護士で、検事でもある。備前市の生まれ。子供の頃養子に出て布施姓になる。


 1936年(昭和11年)に、東京帝大法学部を卒業する。1937年(昭和12年)には、検事に任官する。


 戦時中をはさんでは、甲府地検、東京地検、最高検、東京高検検事長を経て、1975年1月には検事総長へと、トントン拍子の階段を上ったことになろうか。


 そして1977年3年に退官する。この間、戦前のゾルゲ事件の被告、ブランコ・ド・ブーケリッチの取り調べを担当、下山事件では主任検事を務める。
それからもうひとつ、布施には希代の大事件との関わりがあった。それというのは、検事総長就任後に発覚したロッキード事件を担当する。しの過程では、政治の圧力に屈せず田中角栄元首相の逮捕を敢行する。


 ちなみに、当時この事件を担当していたメンバーの一人、堀田力(ほったつとむ)氏は、後にこう述懐しておられる。

 「米国の国務省、司法省、証券取引委員会(SEC)などと捜査資料の引き渡しについて交渉するため、二月二十六日、隠密裏にひとりでワシントンに飛んだ。三木首相は、資料を公開するよう求める親書をフォード大統領に送っていた。
 反応をワシントンで探ると、米政府は「資料公開はプライバシーを不当に侵害する恐れがある」として消極的だとわかった。そこで、日本の検察が秘密裏に資料をもらい、捜査して起訴するという正規の手続きを通して、事実を公表するのはどうか、という線で押した。米政府はこれに乗ってきた。

免責与えて口開かす

 このときの米国側のキーパーソンである司法省渉外部長は、偶然にも、大使館勤務のころ、家族で付き合っていた仲。話はツーカーだった。
 安原美穂・刑事局長が官邸への根回しを済ませ、三月二十四日、塩野宣慶法務次官が渡米して日本司法共助協定が結ばれた。これに基づき捜査のカギとなる極秘扱いのSEC資料が、四月十日に届いた。その少し前の二日、田中角栄元首相は、派閥の集会で「潔白宣言」をしていた。
 資料を翻訳していくうち、元首相の名前が出てきた。武者ぶるいがした、と言いたいところだが、実際には気が重くなった。元首相に関する記述が、簡単なメモ程度の内容だったからである。資料に目を通した布施検事総長が「これだけか」と言われた、と聞いた。」(同氏のブログから引用、元の出所べは、朝日新聞、1992.4.11と見られる)

(続く)

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◻️299に合併『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、守屋勘兵衛)

2021-06-18 10:45:57 | Weblog
299に合併『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、守屋勘兵衛)

 守屋勘兵衛(もりやかんべえ、本名は重行(しげゆき)、1649~1730)は、八田村の農家の生れ。
 1700年(元禄13年)に、領内方及び普請方を仰せつけられて、美濃国の堤普請に派遣される。
 1704年(宝永元年)には、藩主長救は、水害の度重なる小田川の大改修を勘兵衛に命じる。小田川河身の変更と堤防新設を手掛ける。川辺から岡田までの新道建設についても、さもあろう。
 それに、領内の検地改め・吉備公墳墓の修理もあろというが、それは支配側からの都合であろう。
 とはいえ、1717年(享保2年)からの岡田藩において起きた新本義民騒動に接して、その解決に尽力したことで、知られるという。かかる事件とは、新本村(現在の総社市新本)の農民たちが共有山の奪還を目ざして起こした百姓一揆のことである。
 その中での役割がどうであったのかは、なかなかうまい史料が見つからないのだが。
 何でも親子二代の土木周りの役柄であるとか。勘兵衛こと重行の代に岡田藩の御領内山方・普請方奉行を命じられているとのこと、そういうことであれば、権力志向でなかったのではないだろうか。

(続く)

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◻️211の2の7『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、井戸泰)

2021-06-18 09:06:10 | Weblog
211の2の7『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、井戸泰)

 井戸泰(いどやすし、いどゆたか1881~1919)は、内科医にして医学者だ。勝田郡奈義町の生まれ。第六高等学校に進学する。
 そこを卒業して、新設の京都帝国大学福岡医科大学(現在の九州帝国大学医学部)に入る。
 1908年(明治41年)に卒業すると、同大学の副手となり、第一内科教室に務める。
 1916年(大正5年)には、助教授になり、内科学第三講座を分担する。

 その前年の1915年1月までには、画期的な発見に漕ぎ着ける。恩師の同学教授、稲田竜吉(いなだりょうきち)とともに、黄疸(おうだん)出血性スピロヘータ病に関する研究を「ワイル氏病病原スピロヘーター確定に関する予報」(第54回九州帝国大学集会にて)発表し、これが、帝国学士院恩賜賞を受賞したという。
 これにより、ワイル病(黄疸出血性レプトスピラ病)の原因たる病原体を発見したという訳だ。

 1918年(大正7年)には、東京帝国大学医学部助教授に転じ、アメリカに留学。帰国後、九州帝国大学医学部教授となる。
 しかし、1918年(大正8年)中に、スペイン風邪に腸チフスを併発して、37歳にして、さらなる夢を実現することかできなかったのは、いかにも惜しい。

 珍しいところでは、病に倒れる少し前、ある人物、かの野口英世との出会いがあり、野口はアメリカに立ち寄った井戸をわざわざ港に出迎えたのだという。

(続く)


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◻️211の28『岡山の今昔』岡山人(20世紀、宗道臣)

2021-06-18 08:34:00 | Weblog
211の28『岡山の今昔』岡山人(20世紀、宗道臣)

 宗道臣(そうどうしん、1911~1980)は、現在流通している少林寺拳法の創始者だといわれる。
 当時の作東町(現在の美作市)の生まれ。
 17歳のとき、中国に渡る。その時、既にどのような技を身につけたいか、その胸に秘めていたのだろうか。とにかく、旺盛な活動をもって、大陸を駆け巡る。

 その間、河南省嵩山少林寺の流れを汲む文太宗老師の知遇を得てその門に入る。この寺は、かのインド僧侶・達磨(中国での呼び名)が「面壁9年」の故事を遺したところだ。

 ちなみに、この寺の由来については、こんな説明があるところだ。

 「西域沙門(しゃもん)に跋陀(ばっだ)というものあり、仏道の実践にすぐれた人で、深く帝に敬信された。帝は詔(みことのり)して少室山(しょうしつさん)の山麓に少林寺を建て、ここに住せしめ、衣食等を給(たまわ)った。」(「魏書」釈老志)
 インド僧跋陀のための寺であった。達磨大師、正確にいえば摩訶釈迦葉(まかかしょう)第28代仏徒菩提(ぼだい)達磨がインドからやってくるのはそれからほぼ30年後のこと、孝明帝の孝昌3年(527年)、海路広東に入り南京(なんきん)から北、長江(ちょうこう)を渡って少林寺に入ったのである。」(鎌田茂雄、NHK取材班「大黄河」第4巻、仏陀の道、日本放送出版協会、1987)

 それからは、「青年の力」とたゆまぬ探求心でもって、同門の技を教えられ、修得していったようである。
 1947(昭和22年)10月には、戦後間もない日本に帰っていたという、一体どのようにして無事帰還したのであろうか。
 日本に帰ってみると、そこは荒れ果てたいたに違いあるまい。それでも、中国で会得した技が、「平和で物心共に豊かな社会をつくりたい」と願う、その社会への還元を思いついた模様だ。
 故郷に近い香川県多度津町において、「力愛不二」、それに「自己確立・自他共楽「を旨と、拳禅一如の「少林寺拳法」を組み合わせての新たな少林寺拳法の境地を創始、少林寺拳法師家となる。以来、自流の教育道を滔々とした流れで歩んでいったようだ。

(続く)

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