新500◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(20世紀、上代淑)

2021-06-20 13:45:11 | Weblog
新500◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(20世紀、上代淑)

 上代淑(かじろよし、1871~1959)は、キリスト教の精神を具現化した日本の教育者だ。

 愛媛県松山市の生まれ。父は伊予松山藩士であった。明治維新後、大阪に出てキリスト教の牧師になる、その父に従って、家族で大阪に移る。
 淑もほどなく洗礼を受け、梅花女学校小学科に入学したというから、家族の影響もあって、キリスト教に入信したものと推察されよう。
 卒業後は、先生として強く望まれ、1889年(明治22年)には、岡山のキリスト教系の山陽英和女学校(現在の山陽学園)へ赴任する。
 1893年(明治26年)には、アメリカのマウント・ホーリョーク女子大学に留学する。それには、人類愛から来る、「一粒の麦もし地上に落ちて死なずば」(アンドレ・ジッド)のごときひたむきさが、おおきな力を与えたのではないたろうか。
 
 1897年(明治30年)には、バチェラー・オブ・サイエンスの学位を得て卒業し、翌年帰国し、再び山陽女学校の教師として教壇に立つ。
 その後も、欧米へ教育事情視察に出かけ、帰国した明治41年(1908)に山陽高等女学校校長に就する。

 なにしろ、山陽高等女学校(後の山陽学園大学・山陽女子中学校・高等学校(現在の山陽学園中学校・高等学校)の校長を51年間務めたというから、前人未到の境地を経験したのではないだろうか。養子である上代晧三によって墓碑に書かれた言葉に、「神と人に愛されて其生涯を女子教育の為に捧ぐ」とあるという。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

新576◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、吉永祐介)

2021-06-20 13:34:10 | Weblog
新576◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、吉永祐介)


 吉永祐介(よしながゆうすけ、1932~2013)は、検察官にして「ミスター検察」のニックネームを持つ。
 岡山市の生まれ。岡山大学法文学部を卒業する。1955年(昭和30年)には、検事に任官する。
 1968年(昭和43年)に発覚した汚職事件の日通事件など、戦後の著名な疑獄事件の捜査に携わる。
 1976年に発覚したロッキード事件では東京地方検察庁特別捜査部(東京地検特捜部)副部長、主任検事として田中角栄元首相らを受託収賄などの罪で起訴した。「首相でも庶民でも法の前では平等だ」との言葉は有名だ。
 いわゆる「田中政治」は、日中国交正常化に辣腕を振るって後は、国内において利権絡みの話が多く、この事件はその最たるものであったろう。
 1978年には同、特捜部部長に就任する。同年に発覚したダグラス・グラマン事件(日米間の戦闘機購入に絡む汚職事件)の捜査指揮を執る。
 東京地検検事正の時代には、リクルート事件の捜査を指揮する(この事件については、拙論文「プラザ合意30年」においても簡単に触れている)。
 その後は、広島・大阪・東京の各高等検察庁(高検)検事長などを歴任し、1993年に最高検察庁の検事総長になる。1996年に任期を1年残しながら勇退し、弁護士となる。かくて、東京地検特捜部での在籍期間は14年弱にも及んだという。

(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆