新450◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、常の花寛市)
常の花寛市(つねのはなかんいち、1896~1960)は、明治〜昭和期の力士にして、第31代横綱、それに、 日本相撲協会理事長を務める。
岡山市西中山下の生まれ。本名は、山野辺寛一という。どの位の年齢から、相撲、そして力士を志したのだろうか。明治42年には、出羽海部屋に入門する。
翌1910年(明治43年)に初場所、大正6年には、新入幕を果たす。1924年(大正13年)1月には、めでたく第31代横綱に昇進する。
1930年(昭和5年)には、これを引退する。通算成績は、「221勝58敗8分6預」という。そのスタイルとしては、速攻の技能派力士で優勝10回を数える。
いわゆる「春秋園事件」後の戦時中には、相撲協会理事長に推され、戦中戦後の苦境に臨んだという。
1957年(昭和32年)には、日本相撲協会のあり方が国会で取り上げられる。これがこじれてであったろうか、問題に発展したときは、国技館内で自殺を図ったと伝わる。
とはいえ、大相撲の復興の基をリードしたことで知られており、理事長在任中初の還暦記念の土俵入りを行う。
(続く)
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常の花寛市(つねのはなかんいち、1896~1960)は、明治〜昭和期の力士にして、第31代横綱、それに、 日本相撲協会理事長を務める。
岡山市西中山下の生まれ。本名は、山野辺寛一という。どの位の年齢から、相撲、そして力士を志したのだろうか。明治42年には、出羽海部屋に入門する。
翌1910年(明治43年)に初場所、大正6年には、新入幕を果たす。1924年(大正13年)1月には、めでたく第31代横綱に昇進する。
1930年(昭和5年)には、これを引退する。通算成績は、「221勝58敗8分6預」という。そのスタイルとしては、速攻の技能派力士で優勝10回を数える。
いわゆる「春秋園事件」後の戦時中には、相撲協会理事長に推され、戦中戦後の苦境に臨んだという。
1957年(昭和32年)には、日本相撲協会のあり方が国会で取り上げられる。これがこじれてであったろうか、問題に発展したときは、国技館内で自殺を図ったと伝わる。
とはいえ、大相撲の復興の基をリードしたことで知られており、理事長在任中初の還暦記念の土俵入りを行う。
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