🙆読者の皆様へ、お知らせ(2021.6.14、丸尾泰司)

2021-06-14 08:47:16 | Weblog
読者の皆様へ、お知らせ(2021.6.14、丸尾泰司)

 いつもありがとうございます。おかげで、このブログは、なんとか続いています。
 項目数は2300を超え、これまで新しい項目を作っては加え、前のものに改訂を加えたりしてきました。
 構成は、「自然と人間の歴史・世界篇」、「自然と人間の歴史・日本篇」、「岡山の今昔」、そして「自伝」とありまして、都合4つの物語の寄せ集めです。
 これらのうち、前の方の3つは、歴史、しかも過去を尋ねて、というばかりでなく、現在そして未来をなにがしか展望する(言うなれば「論語」でいうところの「新しく知る」)という課題を背負わせているところです。

 例えていうと、「岡山の今昔」は項目数がかなり出揃ってきていて、これからは、内容や体裁(誤字脱字の訂正など)を整えることに主眼をおくつもりでおります。合わせてその中では、これからの岡山を展望する話題も、積極的に取り上げていくつもりでおります。
 またこれに付随して、本ブログとは別に「岡山の歴史と岡山人」を立ち上げています。こちらは、郷土の歴史の流れにできるだけ留めて無難なものに改善を重ねることにより、今は漠然ながら、「将来的になんらかの形で出版できたらいいな」(夢)、と考えているところです。
 
 もちろん、我が身を見ると、微力な上にも微力です。この分野での学力たるや、いまだに、この分野で取るにも足りない存在なのかもしれません。
 そういうことで、今後とも頑張っていきますので、ご支援よろしくお願いいたします。 

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◻️19の1『岡山の今昔』三国の奴隷制と疫病(8世紀)

2021-06-14 08:03:55 | Weblog
19の1『岡山の今昔』三国の奴隷制と疫病(8世紀)


奈良時代(710~791)に大陸から持ち込まれたと考えられている疱瘡(ほうそう、痘瘡、天然痘)は、種痘が行き渡る明治時代中頃まで、千数百年にわたって日本人を苦しめた伝染病だ。記録によれば、奈良時代には慢性的に流行し、身分の高低、貧富の差というよりは、もっと泥縄式のあんばいにて、人々を襲い続けた。かかると、ほとんどが死を身近に感じたのではないたろうか。運良く死を免れても、高熱によって失明したり、深刻な後遺症が生じたりして、疱瘡が個人の人生に与えた影響の大きさはどれほどのものだったのか、計り知れない。
 これを裏付ける史料としては、「続日本紀」に、こうある。

・「 (735年)8月12日、勅して曰はく、如聞らく、比日、大宰府に疫に死ぬる者多し、ときく。疫気を救ひ療して、以って民の命を済はむと思欲ふ、とのたまふ・・(巻十二、天平七年八月)。


・ (735年)11月21日、是の歳、年頗る稔らず。夏より冬に至るまで、天下、天然痘(俗曰裳瘡)を患む。夭くして死ぬる者多し(巻十二、天平七年十一月)。


・ (737年)4月17日、参議民部卿正三位藤原朝臣房前薨。送以大臣葬儀。其家固辞不受。房前贈太政大臣正一位不比等之第二子也(巻十二、天平九年四月)。

・ (737年)4月19日、大宰の管内の諸国、疫瘡時行りて百姓多く死ぬ。詔して幣を部内の諸社に奉りて祈み祷らしめたまふ。また、貧疫の家を賑恤し、并せて湯薬を給ひて療さしむ(巻十二、天平九年四月)。

・ (737年)5月1日、日有蝕之。僧六百人を請ひて、宮中に大般若経を読ましむ(巻十二、天平九年五月)。

・ (737年)6月1日、廃朝す。百官の官人、疫に患へるを以ってなり(巻十二、天平九年六月)。


・ (737年)6月10日、散位従四位下大宅朝臣大国卒(巻十二、天平九年六月)。

・ (737年)6月11日、大宰大貳従四位下小野朝臣老卒(巻十二、天平九年六月)。


 ・「あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」 

・ (737年)6月18日、散位正四位下長田王卒(巻十二、天平九年六月)。

・ (737年)6月23日、中納言正三位多治比真人県守薨。左大臣正二位嶋之子也(巻十二、天平九年六月)。


・ (737年)7月5日、賑給大倭。伊豆。若狹三国飢疫百姓。散位従四位下大野王卒(巻十二、天平九年七月)。

・ (737年)7月10日、賑給伊賀。駿河。長門三国疫飢之民(巻十二、天平九年七月)。

・ (737年)7月13日、参議兵部卿従三位藤原朝臣麻呂薨。贈太政大臣不比等之第四子也(巻十二、天平九年七月)。

・ (737年)7月17日、散位従四位下百済王郎虞卒(巻十二、天平九年七月)。

・ (737年)7月25日、勅遣左大弁従三位橘宿祢諸兄。右大弁正四位下紀朝臣男人。就右大臣第。授正一位拝左大臣。即日薨。遣従四位下中臣朝臣名代等監護喪事。所須官給。武智麻呂贈太政大臣不比等之第一子也(巻十二、天平九年七月)。

・ (737年)8月1日、中宮大夫兼右兵衛率正四位下橘宿祢佐為卒(巻十二、天平九年八月)。

・ (737年)8月5日、参議式部卿兼大宰帥正三位藤原朝臣宇合薨。贈太政大臣不比等之第三子也(巻十二、天平九年八月)。


・ (737年)12月27日、是の年の春、疫瘡大きに発る。初め筑紫より来りて夏を経て秋に渉る。公卿以下天下の百姓相継ぎて没死ぬること、勝げて計ふべからず。近き代より以来、これ有らず(巻十二、天平九年十二月)。」

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 これら一連の記述(735~737)の解釈としては、まずは、聖武天皇(しょうむてんのう)の治世(701-756)においては、この伝染病は、「豌豆瘡(「わんずかさ」)と呼ばれていたという。
 そのきっかけは、735年(天平7年)「この年、凶作、豌豆瘡が流行し、死者多数、遣唐使の多治多比広成が帰国し、節刀(天皇から下賜された大刀)を返上する」とあることから、発症地は大宰府管内(対外窓口)と見ていた。そうであるなら、いわば当時の外界との接点・関わりというか、遣唐使船、新羅船の渡来と符合することから唐か新羅伝来の可能性が高くなろう。
 その広がり方は、九州から西日本へ、さらに畿内にかけて天然大流行になっていく。日本史研究者ウィリアム・ウェイン・ファリスが、正倉院の宝物に含まれる「正倉院文書」に残されている古代律令制下の「正税帳」すなわち出納帳を利用し、算出した推計(1985)による天然痘死亡者は、総人口の25~35%に達していたという。そうなると、100万~150万人がかかる感染症で死亡したという。
 あわせて、当時の平城京において政権を担当していた藤原不比等(ふじわらのふひと)の4人の息子(藤原4兄弟)が相次いで罹患し、死亡したとされる。

 ここにいう藤原四兄弟とは、藤原不比等の子である武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)。聖武天皇の后(きさき)となった光明皇后の兄たちをいい、737(天平9年)に彼らは、次々に亡くなった。その後は、房前の子孫の北家が藤原氏の嫡流となっていく。

 なお、736年の記述にないのはわからない、ひょっとしたら、余りの政権の中核にいた有力者が亡くなり、朝廷政治は大混乱した。この大流行は738年(天平10年)にほぼ終息したのではないかと考えられているものの、当時の日本の政治・経済両面、宗教面に甚大な影響を与えたであろうことは、想像に難くない。

(続く)


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