397新◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、大原孝四郎)

2021-06-19 22:15:53 | Weblog
397新◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、大原孝四郎)


 大原孝四郎(おおはらこうしろう、1833~1910)は、明治時代の実業家にして社会事業家だ。


 岡山藩士藤田伝吉の三男に生まれる。それが、1858年(安政5年)に、備中国窪屋郡倉敷村の庄屋、地主にして豪商でもある大原壮平の養嗣子となる(注)。その折、幼名であった幸三郎を孝四郎と改名する。

(注)「市内新川(しんかわ)町の大原家住宅などはその代表的なもので、主屋は本瓦で屋根を葺(ふ)き、白壁で塗りこめた厨子(ずし)に木格子(きごうし)を連ね、庇(ひさし)の下も格子(こうし)で囲んでいる。これは広い敷地に独立して建つ民家の形式である。」(早川貞和、坂田貞和ほか制作・編集「グラフィックカラー 日本の民話」12、中国2❮岡山・広島・山口❭研秀出版、1977)
「蔵造り商家の外観(旧大原家)典型的な倉敷の町家で、白壁と自然釉(しぜんゆう)の豊かな色をもつ張り瓦が色彩的にも鮮やかな外観をみせている。」(同)
「土間(同上)米俵を一時的に置くため、広い土間を必要とした。」(同)
「土蔵(同上)敷地の西・北の道路にそって7棟の蔵が並ぶ。」(同)
 「蔵造り商家の張場(旧大原家)この家は18世紀後半の建築。米問屋を経て呉服問屋になった家で、広い土間の横に帳場を設けてある。家の正面にある格子窓の内側にあたり、左は作り付けの戸棚になっている。土間との境の障子戸などは、昔は板戸であった。古い商業都市ならではの帳場である。」(同)

 それからは、儒学者森田節斎の簡塾、犬飼松窓の三餘塾に学ぶ。それに、儒学、書といった教養も養っていったようだ。


 1888年(明治21年)には、倉敷紡績所(のちの倉敷紡績)の初代頭取となる。その前の1880年(明治13年)には、児島郡下村(現在の倉敷市児島)の渾大防益三郎が、政府がイギリスから輸入したミュール精紡機をいち早く買入れ、日本初の民間紡績会社・下村紡績所を立ち上げていた。


 これに触発されてのことであったろうか、その8年後、倉敷村(現在の倉敷市)の孝四郎が、高性能のリング精紡機を導入して倉敷紡績所を創設する。


 1891年(明治24年)には、倉敷銀行を設立する。1898年(明治31年)には、大原奨学会を創設する。


 1888年(明治21年)には、倉敷紡績所(クラボウ)の初代頭取に就任する。養父壮平が森田節斎から学んだ「満は損を招き、謙は益を受く」という格言を、大事にしたという。


 1891年(明治24年)には、倉敷銀行を設立し、頭取に就任する。1906年(明治39年)には、倉敷紡績社長と倉敷銀行頭取を退任する。


 概して、孝四郎においては、産業界に出た頃の当初は名望家気取りとあったのが、1890年代からはとみに社会福祉に貢献していく道を探るようになっていく、そこに中央に近い渋沢栄一など大方の新興資本家との違いが鮮明になっていく。

(続く)

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新408◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、安井誠一郎)

2021-06-19 12:43:11 | Weblog
新408◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、安井誠一郎)


 安井誠一郎(やすいせいいちろう、1891~1962)は、官僚を経て、政治家だ。
 伊島村の出身。生家は代々、備前藩の庄屋を務める旧家だという。

 やがて、東京帝国大学法学部を卒業し、内務省に入る。富山・兵庫警察部長を経て、1929年(昭和4年)には、東京市社会局長となる。 
 
 次いで、1931年には、宇垣一成(うがきかずしげ)について、朝鮮総督秘書官となる。同時の朝鮮は、日本が植民地支配していたのであって、教育に日本語を強要するのも含めて、全体としては、悪逆無道のことをしていたのであろう。そのことをどう考えていたのだろうか。


 その地にて、総督府専売局長、京畿道(けいきどう、韓国語では現在「キョンギド」という)道知事などを務めた模様だ。その後帰国して、新潟県知事にもなる。


 太平洋戦争中は、つまびらかでないが、浪人していたという。

 戦後になってのは1946年(昭和21年)には、厚生次官、同年7月最後の官選東京都長官。1947年(昭和22年)4月の第1回公選に出て、初代東京都知事となる。戦災復興や食糧確保に尽力し、1964年には東京オリンピック誘致活動も進める。

 1959年まで3期を務め、都議会、都庁に「安井王国」を築き、中央政府と直結して東京の巨大化を進めたというのだが、その志には、ほかにも何かあったのなら、もっと人々に伝わるような工夫なりがあってしかるべきではなかったか

(続く)

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409『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、阪田久五郎)

2021-06-19 09:37:47 | Weblog
409『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、阪田久五郎)

 阪田久五郎(さかたひさごろう、1883~1961)は、実業家だ。後月出部村(現在の井原市)において、阪田紋三の五男として生まれる。

 1897年(明治30年)の14歳の時であったろうか、呉(くれ、広島県の当時は海軍城下町といったところか)で、金属文房具工場を経営する兄・斉次郎を頼り移住する。
 それからは、、兄の工場を手伝う。そのうちに迎えた、1904年(明治37年)、21歳にして日露戦争に従軍、無事に帰っての終戦後、大陸での戦功により金鵄勲章を受章したという。

 そして、こ青年にある転機が訪れた。1905年(明治38年)、22歳の阪田は、何かの機会にて友人の将校から英国留学土産に万年筆をもらったという。その時、「万年筆というものを生まれて初めて見た時の心のときめきは、言葉で言い表せないほどだった」とか、そういうことがあって、自分でも作ってみようと取り組んだらしい。

 1911年(明治44年)には、兄から離れて、呉市稲荷町にセーラー万年筆の前身・阪田製作所を創業する。そこで、「14金」のペン先をもつ万年筆の製造に着手する。
 1917年(大正6年)には、呉市浜田町に工場を新設、万年筆の完成品を製造するに漕ぎ着ける。

 1932年(昭和7年)には、社名を「株式会社セーラー万年筆阪田製作所」とし、専務取締役に就任する。「セーラー万年筆」というブランド名は、軍港として栄えていた呉で創業した事に由来するという。

(続く)

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