397新◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、大原孝四郎)
大原孝四郎(おおはらこうしろう、1833~1910)は、明治時代の実業家にして社会事業家だ。
岡山藩士藤田伝吉の三男に生まれる。それが、1858年(安政5年)に、備中国窪屋郡倉敷村の庄屋、地主にして豪商でもある大原壮平の養嗣子となる(注)。その折、幼名であった幸三郎を孝四郎と改名する。
大原孝四郎(おおはらこうしろう、1833~1910)は、明治時代の実業家にして社会事業家だ。
岡山藩士藤田伝吉の三男に生まれる。それが、1858年(安政5年)に、備中国窪屋郡倉敷村の庄屋、地主にして豪商でもある大原壮平の養嗣子となる(注)。その折、幼名であった幸三郎を孝四郎と改名する。
(注)「市内新川(しんかわ)町の大原家住宅などはその代表的なもので、主屋は本瓦で屋根を葺(ふ)き、白壁で塗りこめた厨子(ずし)に木格子(きごうし)を連ね、庇(ひさし)の下も格子(こうし)で囲んでいる。これは広い敷地に独立して建つ民家の形式である。」(早川貞和、坂田貞和ほか制作・編集「グラフィックカラー 日本の民話」12、中国2❮岡山・広島・山口❭研秀出版、1977)
「蔵造り商家の外観(旧大原家)典型的な倉敷の町家で、白壁と自然釉(しぜんゆう)の豊かな色をもつ張り瓦が色彩的にも鮮やかな外観をみせている。」(同)
「土間(同上)米俵を一時的に置くため、広い土間を必要とした。」(同)
「土蔵(同上)敷地の西・北の道路にそって7棟の蔵が並ぶ。」(同)
「蔵造り商家の張場(旧大原家)この家は18世紀後半の建築。米問屋を経て呉服問屋になった家で、広い土間の横に帳場を設けてある。家の正面にある格子窓の内側にあたり、左は作り付けの戸棚になっている。土間との境の障子戸などは、昔は板戸であった。古い商業都市ならではの帳場である。」(同)
それからは、儒学者森田節斎の簡塾、犬飼松窓の三餘塾に学ぶ。それに、儒学、書といった教養も養っていったようだ。
1888年(明治21年)には、倉敷紡績所(のちの倉敷紡績)の初代頭取となる。その前の1880年(明治13年)には、児島郡下村(現在の倉敷市児島)の渾大防益三郎が、政府がイギリスから輸入したミュール精紡機をいち早く買入れ、日本初の民間紡績会社・下村紡績所を立ち上げていた。
これに触発されてのことであったろうか、その8年後、倉敷村(現在の倉敷市)の孝四郎が、高性能のリング精紡機を導入して倉敷紡績所を創設する。
1891年(明治24年)には、倉敷銀行を設立する。1898年(明治31年)には、大原奨学会を創設する。
1888年(明治21年)には、倉敷紡績所(クラボウ)の初代頭取に就任する。養父壮平が森田節斎から学んだ「満は損を招き、謙は益を受く」という格言を、大事にしたという。
1891年(明治24年)には、倉敷銀行を設立し、頭取に就任する。1906年(明治39年)には、倉敷紡績社長と倉敷銀行頭取を退任する。
概して、孝四郎においては、産業界に出た頃の当初は名望家気取りとあったのが、1890年代からはとみに社会福祉に貢献していく道を探るようになっていく、そこに中央に近い渋沢栄一など大方の新興資本家との違いが鮮明になっていく。
(続く)
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「蔵造り商家の外観(旧大原家)典型的な倉敷の町家で、白壁と自然釉(しぜんゆう)の豊かな色をもつ張り瓦が色彩的にも鮮やかな外観をみせている。」(同)
「土間(同上)米俵を一時的に置くため、広い土間を必要とした。」(同)
「土蔵(同上)敷地の西・北の道路にそって7棟の蔵が並ぶ。」(同)
「蔵造り商家の張場(旧大原家)この家は18世紀後半の建築。米問屋を経て呉服問屋になった家で、広い土間の横に帳場を設けてある。家の正面にある格子窓の内側にあたり、左は作り付けの戸棚になっている。土間との境の障子戸などは、昔は板戸であった。古い商業都市ならではの帳場である。」(同)
それからは、儒学者森田節斎の簡塾、犬飼松窓の三餘塾に学ぶ。それに、儒学、書といった教養も養っていったようだ。
1888年(明治21年)には、倉敷紡績所(のちの倉敷紡績)の初代頭取となる。その前の1880年(明治13年)には、児島郡下村(現在の倉敷市児島)の渾大防益三郎が、政府がイギリスから輸入したミュール精紡機をいち早く買入れ、日本初の民間紡績会社・下村紡績所を立ち上げていた。
これに触発されてのことであったろうか、その8年後、倉敷村(現在の倉敷市)の孝四郎が、高性能のリング精紡機を導入して倉敷紡績所を創設する。
1891年(明治24年)には、倉敷銀行を設立する。1898年(明治31年)には、大原奨学会を創設する。
1888年(明治21年)には、倉敷紡績所(クラボウ)の初代頭取に就任する。養父壮平が森田節斎から学んだ「満は損を招き、謙は益を受く」という格言を、大事にしたという。
1891年(明治24年)には、倉敷銀行を設立し、頭取に就任する。1906年(明治39年)には、倉敷紡績社長と倉敷銀行頭取を退任する。
概して、孝四郎においては、産業界に出た頃の当初は名望家気取りとあったのが、1890年代からはとみに社会福祉に貢献していく道を探るようになっていく、そこに中央に近い渋沢栄一など大方の新興資本家との違いが鮮明になっていく。
(続く)
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