◻️44の2の3『岡山の今昔』目代と助郷(江戸時代の吉備)
まずは、用語の意味から、ごく簡単に説明しよう。目代(もくだい)というのは、元々は、日本でいうところの古代末・中世において、中央から派遣される、地方官たる国守の代官として「任国」に下向(げこう)し、在庁官人を指揮して事務を取り仕切る者をいう。それが、分配(ぶはい)目代、公文(くもん)目代などと称して、かかる事務を分掌していくことにもなっていく。
それが、鎌倉時代へと向かう中世ともなると、国守が遙任(ようにん)と称して任国に下向しなくなる。すると、目代は、なにしろその事務能力によって登用されたので、留守所の統轄者たる庁目代だけが目代といわれるようになる。
次に助郷(すけごう)というのは、その初めは鎌倉時代に遡るといわれるものの、広く知られるようになるのは、1637年(寛永14年)には幕府や諸藩がそれぞれの領内宿駅に助馬村を定めていることから、江戸時代の初期といったところか。
五街道を中心に、その他の中規模の街道までも、当時の旅宿駅が常備人馬(伝馬)で負担しきれぬ大通行とか、扱う物資が特別な場合が見込まれる。そんな場合に、本役に追加してといおうか、補助的に人馬を提供する助人馬出役を担うよう、予め定められた村をいう。
この助人馬をも助郷,あるいは助郷役といって、これまた、1637年(寛永14)には、幕府や諸藩がそれぞれの領内宿駅に助馬村を定め、そこそこに申し付けているのであった。
まずは、用語の意味から、ごく簡単に説明しよう。目代(もくだい)というのは、元々は、日本でいうところの古代末・中世において、中央から派遣される、地方官たる国守の代官として「任国」に下向(げこう)し、在庁官人を指揮して事務を取り仕切る者をいう。それが、分配(ぶはい)目代、公文(くもん)目代などと称して、かかる事務を分掌していくことにもなっていく。
それが、鎌倉時代へと向かう中世ともなると、国守が遙任(ようにん)と称して任国に下向しなくなる。すると、目代は、なにしろその事務能力によって登用されたので、留守所の統轄者たる庁目代だけが目代といわれるようになる。
次に助郷(すけごう)というのは、その初めは鎌倉時代に遡るといわれるものの、広く知られるようになるのは、1637年(寛永14年)には幕府や諸藩がそれぞれの領内宿駅に助馬村を定めていることから、江戸時代の初期といったところか。
五街道を中心に、その他の中規模の街道までも、当時の旅宿駅が常備人馬(伝馬)で負担しきれぬ大通行とか、扱う物資が特別な場合が見込まれる。そんな場合に、本役に追加してといおうか、補助的に人馬を提供する助人馬出役を担うよう、予め定められた村をいう。
この助人馬をも助郷,あるいは助郷役といって、これまた、1637年(寛永14)には、幕府や諸藩がそれぞれの領内宿駅に助馬村を定め、そこそこに申し付けているのであった。
(続く)
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