◻️44の2の3『岡山の今昔』目代と助郷(江戸時代の吉備)

2021-06-15 18:58:32 | Weblog
◻️44の2の3『岡山の今昔』目代と助郷(江戸時代の吉備)

 まずは、用語の意味から、ごく簡単に説明しよう。目代(もくだい)というのは、元々は、日本でいうところの古代末・中世において、中央から派遣される、地方官たる国守の代官として「任国」に下向(げこう)し、在庁官人を指揮して事務を取り仕切る者をいう。それが、分配(ぶはい)目代、公文(くもん)目代などと称して、かかる事務を分掌していくことにもなっていく。
 それが、鎌倉時代へと向かう中世ともなると、国守が遙任(ようにん)と称して任国に下向しなくなる。すると、目代は、なにしろその事務能力によって登用されたので、留守所の統轄者たる庁目代だけが目代といわれるようになる。
 次に助郷(すけごう)というのは、その初めは鎌倉時代に遡るといわれるものの、広く知られるようになるのは、1637年(寛永14年)には幕府や諸藩がそれぞれの領内宿駅に助馬村を定めていることから、江戸時代の初期といったところか。
 五街道を中心に、その他の中規模の街道までも、当時の旅宿駅が常備人馬(伝馬)で負担しきれぬ大通行とか、扱う物資が特別な場合が見込まれる。そんな場合に、本役に追加してといおうか、補助的に人馬を提供する助人馬出役を担うよう、予め定められた村をいう。
 この助人馬をも助郷,あるいは助郷役といって、これまた、1637年(寛永14)には、幕府や諸藩がそれぞれの領内宿駅に助馬村を定め、そこそこに申し付けているのであった。

(続く)


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◻️162の1『岡山の今昔』岡山人(17世紀、小原七郎左衛門)

2021-06-15 06:29:41 | Weblog
162の1『岡山の今昔』岡山人(17世紀、小原七郎左衛門)

 小原七郎左衛門(おばらしちろうざえもん、?~1677)は、本姓を藤原氏といい、備前領・岡山藩の下道郡((かどうぐん、しもつみしのこおり、明治維新後の1878年(明治11年)に行政区画化されての郡域は、倉敷市の一部(真備町各町・玉島服部)と総社市の一部(高梁川以西)をいう))富原村上原の庄屋である。

 農民のためにと、普段から何かにつけて、生活に困窮するこの辺りの、額に汗して働く人々のことを心掛けにしていたと伝わる。

 かかる折を見て、遂に上原用水取入口の拡張を約し、旧来の溝を改めた。そのことで、岡山藩の隣の岡田領のために便を与えた形となる。

 ところが、である。備前藩主は、これを知り、自領の地を提供して他領の利益を計ったとして彼を罪にし、1677年(延宝5年)には、死罪に処せられる。はたして、この時、藩主を止める役柄の武士は皆無であったのだろうか。

 これを聞いた岡田藩側の領民は、さぞかし驚いたことだろう。その死を悼み、国司神社(現在の大字辻田字森)にその霊を合祀するとともに、その首代として、玄米一俵をその子孫に代々寄贈することを決めたのだという。

 かくて1676年(延宝4年)に造成の現上原井領用水は、現在、かたや備前領富原上原井領用水とは、総社市湛井堰から取水し、総社市秦・上原・富原・下原地区を通り真備町へ流れる農業用水であり、辻田から岡田にかけて県道に並行して、有井雇用促進住宅の南側から箭田地区へ流れているとのこと。
 しかして、上原井領用水区域たる箭田・薗・川辺・岡田・神在に至ると、その辺りは平たい市街地が相当ある中にも、大方手入れが行き届いての五か村の田園風景にて、彼の功によ り長く灌漑の益を受けているのが窺える様子となっている。

(続く)

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◻️238『岡山の今昔』岡山人(20世紀、黒崎秀明)

2021-06-15 05:59:59 | Weblog
◻️238『岡山の今昔』岡山人(20世紀、黒崎秀明)


 黒崎秀明(くろさきしゅうめい、1911~1976)は、劇作家、脚本家、郷土史家、版画家と、多彩だ。岡山市蕃山町の生まれ。
 1927年、岡山第一商業高校(現在の岡山東商業高校)を卒業すると、東京へ出て、劇作を学ふ。まだ若くして、特別な学校なり養成所なりに入ってのことではなくて、ほとんと独学にして日々研鑽していたようだ。
 やがて、当時の放送界へ出る。例えば、映画「海の見える家」(1941.4公開、日活の多摩川撮影所)では、原作が本人で、脚本は館岡謙之助、監督は島耕二となっている。
 著書でいうと、「放送劇名作選・新選ラジオドラマ」(森本治吉との共著)、日本放送出版協会、1942年)や「僕等の海軍史物語」 (文修堂、1943)を出版する。
 戦後になっては、NHK岡山放送局専属のシナリオライターとして働く。
 珍しいところでは、本業ではなかったものの、版画が得意であった。1967年には、「版画 岡山後楽園」(河出書房新社)を出版する。郷土史研究もかなりのもので行って、晩年には、岡山県の人物に関する著書
「岡山の人物」(岡山文庫 44) 日本文教出版、1971年)が有名だ。


(続く)

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