32の4『岡山の今昔』岡山の藩政(支配構造、岡山藩)
まずは、農民支配の在り方は、他藩と似たり寄ったりというべきだろうか。岡山藩では、庄屋(名主(なぬし))を中心に、その補佐役としての組頭(年寄とも)が村に一人か二人置かれていた。その任命は、庄屋に準じていたが、ひんぱんに交代していたようである。報酬は米三斗か四斗ぐらいで、高掛り物もいくらか免除されていた。
農民支配の末端ということでは、そればかりではない。農民に近いところでの百姓代は、岡山藩で元禄以後判頭(はんがしら)といった。庄屋、組頭の行う事務、中でも年貢の割りつけなどの監査に当たるものである。
こちらは、村民の選挙によって選ばれ、大庄屋が任命する場合が多かったようで、村の大小により一人ないし数人が置かれていた。そして、年貢供出などに関しての連帯責任の代表格を「仰せつかっていた」ことが窺えよう。
以上の村方三役の他に、しばしば保頭(ほうとう)と称する、藩からの通達なりを触れ歩く役が村に一人か二人いて、村役人の使役に当たっていたようである。
次に、今からおよそ350年前に出された、当時の岡山藩の法令から、その一部分を紹介しよう。
「一、百姓共礼儀不正を御見付被成候は、御年寄中を初御近習中・御横目中其御外用人衆、少も御見遁なく郡を御尋、御郡の御奉行へ御つれさせ被遣候様に奉存候事、(中略)
一、士中と見掛候はば、笠頭巾(ずきん)ほうかむりを取、道片寄半腰にて通可申候、惣て奉公人には行當不申様に遠慮仕通可申事、(付紙)御老中様其外歴々へは、ついはい可申事、
一、田畑にて農業相勤申節、士中道を通被申候はば、近所のものは笠ほおかむり物を取、一度つくはい候て其儘(そのまま)耕作可仕候、(付紙)近所之者と申候は、聲届の者と申聞せ候、(中略)
右之品々違背之者有之候はば、御郡方御用人は不及申何れ士中にても、見合次第に急度捕可申候、其上に御足軽を御廻し捕させ可申候間、末々堅可申付候、右之通十一時朔被仰出、」(「法令集巻七、池田家文書天和三年(1683)」)
「一、百姓共礼儀不正を御見付被成候は、御年寄中を初御近習中・御横目中其御外用人衆、少も御見遁なく郡を御尋、御郡の御奉行へ御つれさせ被遣候様に奉存候事、(中略)
一、士中と見掛候はば、笠頭巾(ずきん)ほうかむりを取、道片寄半腰にて通可申候、惣て奉公人には行當不申様に遠慮仕通可申事、(付紙)御老中様其外歴々へは、ついはい可申事、
一、田畑にて農業相勤申節、士中道を通被申候はば、近所のものは笠ほおかむり物を取、一度つくはい候て其儘(そのまま)耕作可仕候、(付紙)近所之者と申候は、聲届の者と申聞せ候、(中略)
右之品々違背之者有之候はば、御郡方御用人は不及申何れ士中にても、見合次第に急度捕可申候、其上に御足軽を御廻し捕させ可申候間、末々堅可申付候、右之通十一時朔被仰出、」(「法令集巻七、池田家文書天和三年(1683)」)
なお、1654年に隠居してからの熊沢蕃山(くまざわばんざん)は、新田開発からは宗門改め、ここに紹介した百姓礼儀の掟といった備前藩の政策につき、津田永忠・群代が関係した政策を含めて幅広く、大いに批判したのが、広く知られている。
(続く)
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