966『自然と人間の歴史・世界篇』ミャンマーのクーデターで軍事政権(~2021)
この国の政治状況を、少し前から拾うと、およそ次のようであった。
1948年1月には、イギリスから独立する。これより前の1940年においては、当時ファシズム国家の日本が、「大東亜共栄圏」構築の一環たとして、この地に食指を動かしていた。対米英戦争が始まると、日本が仕立てたビルマ独立軍とともに日本軍がこの地に進駐し、「独立国ビルマ」を承認し、政権を発足させる。
日本側の当面の政治スタンスとしては、完全独立をいう勢力を首相に据えることをせず、そのため地元の最大勢力のタキン党は、これを不満として反日の姿勢に転換し、アウン・サン(アウン・サン・スー・チー氏の父親)らは「AFO(反ファッショ)機構」を結成し、抗日運動を展開する。
日本の敗戦後、AFOは、ビルマを完全独立、人民政府樹立を目指して、ビルマをイギリス連邦内にとどめようとするイギリスと渡り合う。AFOは、「AFPFL(反ファシスト人民自由連盟)」と改め、アウン・サンは「人民義勇団」を組織する。
それから暫くの間(~1988)の政治経済状況について、説明している数少ない文献として、塚本健氏の論考「ビルマの政治経済」があり、ここでその一節から引用させてもらおう。
「9月には警官と公務員が政治ゼネストに入った。AFPFLメンバーは、それまでビルマ行政評議会閣僚から排除されていたが、これ以後、入閣し、閣僚ポストの過半数を占めた。AFPFL・イギリス間で、ビルマ独立についての協定がむすばれた。ところがアウン・サン暫定政府閣僚5人は半年後の7月、親英右派分子に暗殺された。」(塚本健「ビルマの政治経済」、社会主義協会「社会主義」1995.9)
ここで話を戻して、イギリスから独立してからのビルマ連邦共和国だが、1958年9月には、軍事クーデターが起こる。これには、初代ウーヌー政権が、最初国有化政策をとったものの、1949年7月にはこの政策を停止、外資導入・合弁企業設立へと動いたものの、少数民族のカレン族、共産党らが反対するなど、政情は安定しなかった。
その後、1960年に行われた総選挙で、ウーヌー派が勝利し、党首て首相のなったウーヌーは、仏教を国教とする、ビルマ型の社会主義を唱える。しかし、1962年3月には、再びネ・ウィン参謀総長が指導する国軍が、軍事クーデターに打って出て、国軍が政治の全権を握る。
かくて、革命評議会政権与党としてのBSPP(ビルマ社会主義計画党が結成される。そればかりか、同党以外のすべての政党が解散された。
それからの約12年間のネ・ウィン軍事独裁政権のあとの1973年12月、民政移管を目指しての、憲法制定についての国民投票が行われる。翌1974年1月には、新憲法にもとづくビルマ連邦社会社会共和国が成立する。
1988年には、反政府の学生デモが起こり、ネ・ウィン党議長(ビルマ社会主義計画党)と、サン・ユ大統領が辞任する。後任のた大統領セイン・ウインは、戒厳令を布告し、軍にデモを弾圧したものの、鎮圧に失敗し、在任17日で辞任する。
政局は、文民大統領のマウン・マウンが登場して、戒厳令を解除し、複数政党制度を提案する。しかし、学生側も含めて、これらのグループには政権を担うまでの実力はなく、結局、ソー・マウン大将指導の軍が、市民運動を鎮圧して、政権を掌握する。
この軍事政権は、SLORC(国家法秩序評議会)を設置するとともに、国名をビルマ連邦社会主義共和国からビルマ連邦に変える。
これに合わせる形で、同し1988年、アウン・サン・スー・チー氏らがNLD(国民民主連盟)を結成する。彼女らは、ソー・マウン軍政批判を展開していく。
1989年になると、6月に軍事政権は、国名をビルマ連邦からミャンマーへ、首都ラングーンの名をヤンゴンに変える。翌7月には、国家防御法を使って、アウン・サン・スー・チー氏を自宅軟禁し、NLD党首のテイン・ウーを逮捕する。
それでも、1990年の総選挙でNLDが勝利する。ちなみに、この選挙には、NUP(国民統一党、前のビルマ社会主義計画党)、NLDをはじめ93もの政党が参加していた。このままでは危なくなると判断したのであろう、軍事政権側は、政権委譲を拒否する。
2003年には、軍政側が「民政移管計画」を発表する。
2008年には、新憲法が成立、発布される。この中では、国会の4分の1が軍人枠になる。
2011年には、軍事政権からの民政移管完了により大統領に就任した軍人出身のティン・セインが、国内の平和を実現すべく、少数民族武装勢力と和平への道を探る。
2012年4月には、議会補欠選挙が開催され、アウン・サン・スー・チー氏が党首のNLDが45議席中43議席を獲得して圧勝を果たす。
2012年6月以降、ラカイン州において仏教徒ラカイン族とムスリム住民との間でコミュニティ間衝突が起こる。
2015年10月には、ミャンマー政府は、KNU(カレン民族同盟)を含む8つの少数民族武装組織との間で全国規模の停戦合意(NCA)が成る。
2015年11月の総選挙で、アウン・サン・スー・チー議長の率いるNLDが大勝する。同じ2015年には、国軍出身のティンセイン軍事政権下で、カレン民族同盟、パオ民族解放戦線なと8組織が、全国規模での停戦協定に署名する。
2016年3月には、アウン・サン・スー・チー氏側近のティン・チョウ氏を大統領とする新政権が発足する。アウン・サン・スー・チー氏は、国家最高顧問、外務大臣及び大統領府大臣に就任し、この新政権は、民主化の定着、国民和解、経済発展を打ち出す。
同じ2016年には、アンサー・スーチー氏が率いるNLD(国民民主連盟)政権下において、初の「連邦和平会議」が開かれる。その場で、和平に向けた協議が始まる。
2017年8月には、ラカイン州北部における治安拠点への連続襲撃事件が発生する。その後の情勢不安定化により、70万人以上の避難民がバングラデシュに流出したという。
2018年には、新モン党など2政治組織が、停戦協定に署名したことで、停戦協定の署名に参加しているのは計10組織になる。
2020年8月には、第4回連邦和平会議か開催される。同年11月には、総選挙が行われる。ラカイン州などの一部地域では、治安の悪化を理由に選挙を中止する。
この総選挙では、アウン・サン・スー・チー議長の率いるNLDが勝利する。ちなみに、ミャンマー連邦議会・上院(定数224)の構成としては、NLD(国民民主連盟)が138議席、軍人枠が56議席、USDP(連邦団結発展党)が7議席、その他の順。同・下院(定数440)の構成は、NLD(国民民主連盟)が258議席、軍人枠が110議席、USDP(連邦団結発展党)が26議席、その他の順。(2021年5月時点)
2021年2月1日に、国軍によるクーデターがあり、国軍が全権を掌握する。スーチー氏らを拘束し「非常事態宣言」を発する。
この国の政治状況を、少し前から拾うと、およそ次のようであった。
1948年1月には、イギリスから独立する。これより前の1940年においては、当時ファシズム国家の日本が、「大東亜共栄圏」構築の一環たとして、この地に食指を動かしていた。対米英戦争が始まると、日本が仕立てたビルマ独立軍とともに日本軍がこの地に進駐し、「独立国ビルマ」を承認し、政権を発足させる。
日本側の当面の政治スタンスとしては、完全独立をいう勢力を首相に据えることをせず、そのため地元の最大勢力のタキン党は、これを不満として反日の姿勢に転換し、アウン・サン(アウン・サン・スー・チー氏の父親)らは「AFO(反ファッショ)機構」を結成し、抗日運動を展開する。
日本の敗戦後、AFOは、ビルマを完全独立、人民政府樹立を目指して、ビルマをイギリス連邦内にとどめようとするイギリスと渡り合う。AFOは、「AFPFL(反ファシスト人民自由連盟)」と改め、アウン・サンは「人民義勇団」を組織する。
それから暫くの間(~1988)の政治経済状況について、説明している数少ない文献として、塚本健氏の論考「ビルマの政治経済」があり、ここでその一節から引用させてもらおう。
「9月には警官と公務員が政治ゼネストに入った。AFPFLメンバーは、それまでビルマ行政評議会閣僚から排除されていたが、これ以後、入閣し、閣僚ポストの過半数を占めた。AFPFL・イギリス間で、ビルマ独立についての協定がむすばれた。ところがアウン・サン暫定政府閣僚5人は半年後の7月、親英右派分子に暗殺された。」(塚本健「ビルマの政治経済」、社会主義協会「社会主義」1995.9)
ここで話を戻して、イギリスから独立してからのビルマ連邦共和国だが、1958年9月には、軍事クーデターが起こる。これには、初代ウーヌー政権が、最初国有化政策をとったものの、1949年7月にはこの政策を停止、外資導入・合弁企業設立へと動いたものの、少数民族のカレン族、共産党らが反対するなど、政情は安定しなかった。
その後、1960年に行われた総選挙で、ウーヌー派が勝利し、党首て首相のなったウーヌーは、仏教を国教とする、ビルマ型の社会主義を唱える。しかし、1962年3月には、再びネ・ウィン参謀総長が指導する国軍が、軍事クーデターに打って出て、国軍が政治の全権を握る。
かくて、革命評議会政権与党としてのBSPP(ビルマ社会主義計画党が結成される。そればかりか、同党以外のすべての政党が解散された。
それからの約12年間のネ・ウィン軍事独裁政権のあとの1973年12月、民政移管を目指しての、憲法制定についての国民投票が行われる。翌1974年1月には、新憲法にもとづくビルマ連邦社会社会共和国が成立する。
1988年には、反政府の学生デモが起こり、ネ・ウィン党議長(ビルマ社会主義計画党)と、サン・ユ大統領が辞任する。後任のた大統領セイン・ウインは、戒厳令を布告し、軍にデモを弾圧したものの、鎮圧に失敗し、在任17日で辞任する。
政局は、文民大統領のマウン・マウンが登場して、戒厳令を解除し、複数政党制度を提案する。しかし、学生側も含めて、これらのグループには政権を担うまでの実力はなく、結局、ソー・マウン大将指導の軍が、市民運動を鎮圧して、政権を掌握する。
この軍事政権は、SLORC(国家法秩序評議会)を設置するとともに、国名をビルマ連邦社会主義共和国からビルマ連邦に変える。
これに合わせる形で、同し1988年、アウン・サン・スー・チー氏らがNLD(国民民主連盟)を結成する。彼女らは、ソー・マウン軍政批判を展開していく。
1989年になると、6月に軍事政権は、国名をビルマ連邦からミャンマーへ、首都ラングーンの名をヤンゴンに変える。翌7月には、国家防御法を使って、アウン・サン・スー・チー氏を自宅軟禁し、NLD党首のテイン・ウーを逮捕する。
それでも、1990年の総選挙でNLDが勝利する。ちなみに、この選挙には、NUP(国民統一党、前のビルマ社会主義計画党)、NLDをはじめ93もの政党が参加していた。このままでは危なくなると判断したのであろう、軍事政権側は、政権委譲を拒否する。
2003年には、軍政側が「民政移管計画」を発表する。
2008年には、新憲法が成立、発布される。この中では、国会の4分の1が軍人枠になる。
2011年には、軍事政権からの民政移管完了により大統領に就任した軍人出身のティン・セインが、国内の平和を実現すべく、少数民族武装勢力と和平への道を探る。
2012年4月には、議会補欠選挙が開催され、アウン・サン・スー・チー氏が党首のNLDが45議席中43議席を獲得して圧勝を果たす。
2012年6月以降、ラカイン州において仏教徒ラカイン族とムスリム住民との間でコミュニティ間衝突が起こる。
2015年10月には、ミャンマー政府は、KNU(カレン民族同盟)を含む8つの少数民族武装組織との間で全国規模の停戦合意(NCA)が成る。
2015年11月の総選挙で、アウン・サン・スー・チー議長の率いるNLDが大勝する。同じ2015年には、国軍出身のティンセイン軍事政権下で、カレン民族同盟、パオ民族解放戦線なと8組織が、全国規模での停戦協定に署名する。
2016年3月には、アウン・サン・スー・チー氏側近のティン・チョウ氏を大統領とする新政権が発足する。アウン・サン・スー・チー氏は、国家最高顧問、外務大臣及び大統領府大臣に就任し、この新政権は、民主化の定着、国民和解、経済発展を打ち出す。
同じ2016年には、アンサー・スーチー氏が率いるNLD(国民民主連盟)政権下において、初の「連邦和平会議」が開かれる。その場で、和平に向けた協議が始まる。
2017年8月には、ラカイン州北部における治安拠点への連続襲撃事件が発生する。その後の情勢不安定化により、70万人以上の避難民がバングラデシュに流出したという。
2018年には、新モン党など2政治組織が、停戦協定に署名したことで、停戦協定の署名に参加しているのは計10組織になる。
2020年8月には、第4回連邦和平会議か開催される。同年11月には、総選挙が行われる。ラカイン州などの一部地域では、治安の悪化を理由に選挙を中止する。
この総選挙では、アウン・サン・スー・チー議長の率いるNLDが勝利する。ちなみに、ミャンマー連邦議会・上院(定数224)の構成としては、NLD(国民民主連盟)が138議席、軍人枠が56議席、USDP(連邦団結発展党)が7議席、その他の順。同・下院(定数440)の構成は、NLD(国民民主連盟)が258議席、軍人枠が110議席、USDP(連邦団結発展党)が26議席、その他の順。(2021年5月時点)
2021年2月1日に、国軍によるクーデターがあり、国軍が全権を掌握する。スーチー氏らを拘束し「非常事態宣言」を発する。
2日には、国軍のミン・アウン・フライン総司令官を議長とする国家統治評議会の設立を発表する。
2月3日には、市民らが街頭に出て、「不服従運動」を始める。同日には、無線機の違法輸入容疑などで警察当局がスーチー氏を訴追する。5日には、民主派が、CRPH(連邦議会代表委員会)を設立する。
2月6日から10日にかけては、大規模な抗議運動としてのデモになっていく、しかも全国にデモが広まる。
2月11日には、アメリカがミャンマー国軍幹部らを制裁の対象に指名する。
2月19日には、首都ネピドーで初めての犠牲者が出る、9日に国軍の兵士に銃撃された女性が死亡したのだ。
2月6日から10日にかけては、大規模な抗議運動としてのデモになっていく、しかも全国にデモが広まる。
2月11日には、アメリカがミャンマー国軍幹部らを制裁の対象に指名する。
2月19日には、首都ネピドーで初めての犠牲者が出る、9日に国軍の兵士に銃撃された女性が死亡したのだ。
2月22日には、全国でゼネスト、100万人超のデモが起こる。
3月2日には、ASEAN(東南アジア諸国連合)が、オンライン形式で非公式の臨時外相会議を開き、ミャンマー問題を議論する。同3日には、国外から情報を発信している国連大使(市民側)によると、全国各地において、国軍がデモ隊に発砲し、38人が死亡した。
3月8日には、地元メディア5社の免許が取り消される。3月14日には、最大都市ヤンゴンの一部に戒厳令が発動される。
3月22日には、EU(欧州連合)が、ミャンマー国軍幹部ら11人に制裁を発動する。3月23日には、第二の都市マンダレーで7歳の少女が国軍の兵士に銃撃されて死亡した。
2021年3月23日には、国軍に対抗する形で活動するCRPH(連邦議会代表委員会)が副大統領代行に任命したマンウィンカインタン氏は、フェイスブックを通じて演説し、少数民族に協力を求める。CRPHは、5日に発表した政治方針に、少数民族側が長年要求してきた自治権を実現することを盛り込む。
一方、国軍側も内戦になってはたまらないということであろうか、3月11日、ラカイン州の武装組織「アラカン軍」のテロ組織指定を解除する。国軍はまた、ミンアウンフライン国軍最高司令官を長とする意思決定機関「連邦行政評議会」のメンバーに、少数民族政党らの幹部を加える。
3月24日には、人権団体「政治犯支援協会」の同日までの集計によると、286人が殺害され、2906人が国軍や警察に拘束された。国軍記念日の3月27日には、国軍が軍事パレードが実施され、抗議デモ弾圧で114人が死亡したという。
3月31日には、NLD側が、軍事政権下で制定された現行憲法の廃止を宣言する。これを行ったのは、NLD当選議員らで組織するCRPH(連邦議会代表委員会)とされ、、国軍によるクーデター後、独自に「閣僚代行」を任命するなどして、いわば「地下臨時政府」「亡命臨時政府」とでも形容したらよいのだろうか、そうした抵抗の動きで国軍に対抗している。
一方、流血が続いている中では、やがてはNLD派を含めての市民側は、中東での「自由シリア」のように武力闘争に転じていくこともあるかも知れないと。そうなると、国軍に反発する少数民族勢力を巻き込んでの内戦は避けられまい、という見方も成り立つ展開となろう。
そこで、まずもってこれをやめさせることが和平への近道なのだろうが、現時点の双方とも話し合いのテーブルにつく動きにはなっていない。一方、国連はといえば、国軍への制裁をどうするかを巡り、まとまらない。法的拘束力を持つ決議の採択に積極的なアメリカなどと、「一方的に圧力をかけ、制裁や強制措置を求めることは緊張と対立を、悪化させ、状況をさらに複雑にするだけで、まったく建設的でない」とする中国などとの間で、身動きがとれていない。
4月9日には、中部バゴーで武力弾圧があり、少なくとも80人が死亡したという。同16日には、CRPHが挙国一致内閣を発足させる。同18日には、警察当局が、ヤンゴンで、日本人のフリージャーナリスト北角裕樹氏を逮捕する。同24日には、インドネシアの首都ジャカルタでASEAN臨時首脳会議が開かれ、暴力の中止や平和解決に向けた5項目で合意したとの議長声明が発表される。
(続く)
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3月2日には、ASEAN(東南アジア諸国連合)が、オンライン形式で非公式の臨時外相会議を開き、ミャンマー問題を議論する。同3日には、国外から情報を発信している国連大使(市民側)によると、全国各地において、国軍がデモ隊に発砲し、38人が死亡した。
3月8日には、地元メディア5社の免許が取り消される。3月14日には、最大都市ヤンゴンの一部に戒厳令が発動される。
3月22日には、EU(欧州連合)が、ミャンマー国軍幹部ら11人に制裁を発動する。3月23日には、第二の都市マンダレーで7歳の少女が国軍の兵士に銃撃されて死亡した。
2021年3月23日には、国軍に対抗する形で活動するCRPH(連邦議会代表委員会)が副大統領代行に任命したマンウィンカインタン氏は、フェイスブックを通じて演説し、少数民族に協力を求める。CRPHは、5日に発表した政治方針に、少数民族側が長年要求してきた自治権を実現することを盛り込む。
一方、国軍側も内戦になってはたまらないということであろうか、3月11日、ラカイン州の武装組織「アラカン軍」のテロ組織指定を解除する。国軍はまた、ミンアウンフライン国軍最高司令官を長とする意思決定機関「連邦行政評議会」のメンバーに、少数民族政党らの幹部を加える。
3月24日には、人権団体「政治犯支援協会」の同日までの集計によると、286人が殺害され、2906人が国軍や警察に拘束された。国軍記念日の3月27日には、国軍が軍事パレードが実施され、抗議デモ弾圧で114人が死亡したという。
3月31日には、NLD側が、軍事政権下で制定された現行憲法の廃止を宣言する。これを行ったのは、NLD当選議員らで組織するCRPH(連邦議会代表委員会)とされ、、国軍によるクーデター後、独自に「閣僚代行」を任命するなどして、いわば「地下臨時政府」「亡命臨時政府」とでも形容したらよいのだろうか、そうした抵抗の動きで国軍に対抗している。
一方、流血が続いている中では、やがてはNLD派を含めての市民側は、中東での「自由シリア」のように武力闘争に転じていくこともあるかも知れないと。そうなると、国軍に反発する少数民族勢力を巻き込んでの内戦は避けられまい、という見方も成り立つ展開となろう。
そこで、まずもってこれをやめさせることが和平への近道なのだろうが、現時点の双方とも話し合いのテーブルにつく動きにはなっていない。一方、国連はといえば、国軍への制裁をどうするかを巡り、まとまらない。法的拘束力を持つ決議の採択に積極的なアメリカなどと、「一方的に圧力をかけ、制裁や強制措置を求めることは緊張と対立を、悪化させ、状況をさらに複雑にするだけで、まったく建設的でない」とする中国などとの間で、身動きがとれていない。
4月9日には、中部バゴーで武力弾圧があり、少なくとも80人が死亡したという。同16日には、CRPHが挙国一致内閣を発足させる。同18日には、警察当局が、ヤンゴンで、日本人のフリージャーナリスト北角裕樹氏を逮捕する。同24日には、インドネシアの首都ジャカルタでASEAN臨時首脳会議が開かれ、暴力の中止や平和解決に向けた5項目で合意したとの議長声明が発表される。
(続く)
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