新51◻️◻️『岡山の今昔』太閤検地と慶長検地(1594~1604)

2021-06-21 15:34:18 | Weblog
新51◻️◻️『岡山の今昔』太閤検地と慶長検地(1594~1604)

 太閤検地に示された石盛の標準というのは、上田が15斗、中田13斗、下田11斗ということなのだが、これらのランクのどれを割り当てるかを、一つひとつ現地を測量して決める訳なのである。
 そうであるからには、役人を組織して、かれらの下に測量技術者や同補助者が揃い踏みして村々を巡って、村役人が差し出した帳面と田畑に立ててある畝札(うねふだ)を対照に検査をしていく。そう、やる以上は土地によって不公平とならないように、全数を定められた基準により行わなければならないのである。
 ところが、この当たり前のことが、美作ではうまくやられなかった。しかして、その理由とされているのは、こうである。

 一つには、当時は豊臣秀吉の朝鮮出兵により、五大老の一人、宇喜多秀家が出陣の最中であった。二つには、中でも美作においては、土豪(国人)勢力の存在があり、武力を持つ彼らとの対立を避ける必要があった。
 そうした懸念から、検地役人は帳簿に載った全数を検査する訳にはゆかず、不審な所のみ緩めに測ったという。こうして合算された美作当該地域の総石高18万6500石が定まったと言われている。
 その影響は、徳川氏の天下になっても尾を引いていたようで、1604年(慶長9年)に森忠政が行った「慶長検地」によると、検地奉行が、田畑一枚一枚を実測し、先の検地基準に照らしての「慶長検地帳」を書き上げていく。しかも、それらの一枚毎に地名、等級、面積、それから割り出した石高を記した上、村毎に台帳を作成したという。
 かくも厳しい検地となったのには、忠政が入国に当たって前述の国人衆をうまく丸めこんだ、その自信の表れでもあったろう。その際には、旧国人「国侍」の有力者から大庄屋(おおじょうや、5千石前後の地域割を設け、肝煎(きもいり)2~3名が補助役)を選んで郡奉行に服属させ、大庄屋の支配下には村庄屋が、村の有力弱者の中から指名されるという仕組みで、かなりややこしい。そして、この村庄屋には、数十軒前後の村の管理者として、組頭と百姓代が補助役として従うことになっている。


(続く)

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195『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、児島虎次郎)

2021-06-21 09:56:10 | Weblog
195『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、児島虎次郎)

   児島虎次郎(こじまとらじろう、1881~1929)は、現在の高梁市成羽の出身、日本における印象派の代表的な画家の一人だ。
 1902年(明治35年)には、上京して、東京美術学校西洋科に入る。1904年(明治37年)に東京美術学校西洋科を卒業する。成績優秀で、飛び級したという。1906年の作品に、「登校」というのがあって、母と娘が連れだって、平ら地の林間をゆつたりあるいている。研究科に進み、1907年(明治37年)には、東京府主催の勧業博覧会美術展にて一等を受賞する。
1908~1912年には、ヨーロッパに留学する。大原家の援助があった。それからは、色彩豊かにして温かい雰囲気を醸し出す作品が多い。風景画では、「ベゴニヤの畠」や「酒津の秋」などが有名だ。花や木に包まれた人がたのしげにいたりしていて、こちらは観ていて心地よい。日本の風景というよりも、どことなく、パリ郊外の野や原っぱのような気がしないでもない。
 人物画は、こちらをちゃんと見ているものが多いようだ。女性の落ち着いた、静かな表情に、こちらもゆったりした気分に浸れる。また、自画像らしきものもあり、こちらは控え目ながらも、少し気難しい性質が表れているようなのだが。
 児島には、20世紀に入って父・孝四郎の紡績事業ほかを継いだ大原孫三郎という友達がいた。大原は、紡績業を営むだけでは満足できなかったらしい。大原は、野趣というよりは、西洋の洗練された文化・文物をたしなむ素質を宿していたのだろうか。友人の画家である児島に、西洋風の美術館をつくる夢を託す。児島はその期待に応え、西洋美術を中心とし、同時に集めた中国、エジプト美術なども加え収集に精を出す。
 実にたくさんの西洋絵画などを現地で探し、大原に送り、それらが基礎となり、今日の大原美術館の所蔵ができていく。この二人の友情なくして、倉敷文化の一大快挙は望めなかった。彼こそは、文化・芸術の地方都市・倉敷の草創期を現出した恩人の一人だといえよう。

(続く)

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