新51◻️◻️『岡山の今昔』太閤検地と慶長検地(1594~1604)
太閤検地に示された石盛の標準というのは、上田が15斗、中田13斗、下田11斗ということなのだが、これらのランクのどれを割り当てるかを、一つひとつ現地を測量して決める訳なのである。
そうであるからには、役人を組織して、かれらの下に測量技術者や同補助者が揃い踏みして村々を巡って、村役人が差し出した帳面と田畑に立ててある畝札(うねふだ)を対照に検査をしていく。そう、やる以上は土地によって不公平とならないように、全数を定められた基準により行わなければならないのである。
ところが、この当たり前のことが、美作ではうまくやられなかった。しかして、その理由とされているのは、こうである。
太閤検地に示された石盛の標準というのは、上田が15斗、中田13斗、下田11斗ということなのだが、これらのランクのどれを割り当てるかを、一つひとつ現地を測量して決める訳なのである。
そうであるからには、役人を組織して、かれらの下に測量技術者や同補助者が揃い踏みして村々を巡って、村役人が差し出した帳面と田畑に立ててある畝札(うねふだ)を対照に検査をしていく。そう、やる以上は土地によって不公平とならないように、全数を定められた基準により行わなければならないのである。
ところが、この当たり前のことが、美作ではうまくやられなかった。しかして、その理由とされているのは、こうである。
一つには、当時は豊臣秀吉の朝鮮出兵により、五大老の一人、宇喜多秀家が出陣の最中であった。二つには、中でも美作においては、土豪(国人)勢力の存在があり、武力を持つ彼らとの対立を避ける必要があった。
そうした懸念から、検地役人は帳簿に載った全数を検査する訳にはゆかず、不審な所のみ緩めに測ったという。こうして合算された美作当該地域の総石高18万6500石が定まったと言われている。
その影響は、徳川氏の天下になっても尾を引いていたようで、1604年(慶長9年)に森忠政が行った「慶長検地」によると、検地奉行が、田畑一枚一枚を実測し、先の検地基準に照らしての「慶長検地帳」を書き上げていく。しかも、それらの一枚毎に地名、等級、面積、それから割り出した石高を記した上、村毎に台帳を作成したという。
かくも厳しい検地となったのには、忠政が入国に当たって前述の国人衆をうまく丸めこんだ、その自信の表れでもあったろう。その際には、旧国人「国侍」の有力者から大庄屋(おおじょうや、5千石前後の地域割を設け、肝煎(きもいり)2~3名が補助役)を選んで郡奉行に服属させ、大庄屋の支配下には村庄屋が、村の有力弱者の中から指名されるという仕組みで、かなりややこしい。そして、この村庄屋には、数十軒前後の村の管理者として、組頭と百姓代が補助役として従うことになっている。
そうした懸念から、検地役人は帳簿に載った全数を検査する訳にはゆかず、不審な所のみ緩めに測ったという。こうして合算された美作当該地域の総石高18万6500石が定まったと言われている。
その影響は、徳川氏の天下になっても尾を引いていたようで、1604年(慶長9年)に森忠政が行った「慶長検地」によると、検地奉行が、田畑一枚一枚を実測し、先の検地基準に照らしての「慶長検地帳」を書き上げていく。しかも、それらの一枚毎に地名、等級、面積、それから割り出した石高を記した上、村毎に台帳を作成したという。
かくも厳しい検地となったのには、忠政が入国に当たって前述の国人衆をうまく丸めこんだ、その自信の表れでもあったろう。その際には、旧国人「国侍」の有力者から大庄屋(おおじょうや、5千石前後の地域割を設け、肝煎(きもいり)2~3名が補助役)を選んで郡奉行に服属させ、大庄屋の支配下には村庄屋が、村の有力弱者の中から指名されるという仕組みで、かなりややこしい。そして、この村庄屋には、数十軒前後の村の管理者として、組頭と百姓代が補助役として従うことになっている。
(続く)
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