◻️◻️341の2『自然と人間の歴史・日本篇』戦争体制はやがて崩壊へ(1941~1945 の総論)

2021-06-05 22:04:34 | Weblog
341の2『自然と人間の歴史・日本篇』戦争体制はやがて崩壊へ(1941~1945
の総論)


 1941年12月8日には、ハワイへの空襲があった。宣戦布告の国際的慣わしだが、何かの手違いからなのか、その通告がアメリカ側に届いたのは、ゼロ戦の編隊列が、真珠湾(パール・ハーバー)にいるアメリカ軍に攻撃を開始した後のことであったという。
 しかして、これを先導したのは、一体誰であったのだろうかという話になると、今でも、かなりの日本人は、口が重たくなってくるのではないだろうか。とりあえず、ここでは、外国人による一説を手短かに紹介しておこう。

 「官権力は荒々しい力ともなりうる。ときにはきわめて危険なものになる。この抑制されない官権力の典型例が、軍官僚の仕組んだ真珠湾攻撃だ。責任ある政府の指導者ならば、当時、日本の十倍との工業力をもっていた国アメリカを攻撃するようなことはなかっただろう。日本国民が慈悲深いはずの支配者たちに裏切られたという点できわめて悲劇的だった。」(カレル・ヴァン・ウォルフレン著、篠原勝訳「人間を幸福にしない日本というシステム」毎日新聞社、1994)

 続いての12月10日には、日本軍が、フィリピンに上陸する。12月11日には、グアムを占領する。12月23日には、ウェーク島を占領する。12月25日には、香港を占領する。

 1942年1月には、マニラを占領する。同月、長沙を占領する。2月には、シンガポールを占領する。2月には、スラバヤ沖海戦。3月には、バタビヤ海戦、同月占領する。3月、ラングーンを占領する。


 4月、アメリカ(艦載)機が、東京を初めて空襲する。4月には、マンダレー(ビルマ)を占領した、これにより南方作戦は一段落。5月には、コレヒドール(フィリピン)を基地とするアメリカが降伏する。同月、珊瑚海(さんごかい)海戦が戦われる。


 そして6月には、ミッドウェー島付近で大規模な海戦があり、日本の海軍が大損害を受ける。同月、アッツ島にアメリカ軍ぐ上陸する。8月には、アメリカ軍を中心とする連合軍をが、ガダルカナル島に上陸し、第一次から第三次までソロモン諸島付近で海戦が戦われる。

 1943年になると、日本軍の南方部隊の崩壊が始まる。4月には、山本五十六連合艦隊指令長官の乗った飛行機が撃墜され、戦死する。5月になると、アッツ島の日本軍が全滅する。6月には、学徒戦時動員体制確立方針が決定となる。

 7月には、キスカ島撤退作戦が実行される。9月には、御前会議において、「今後とるべき戦争指導大綱(「絶対防衛網」確保に向けたもの)」を決定する。要するに、これからは勝利はもうおぼつかない。海外拠点の多くを失い、守りの方に目をくばらなければならなくなった訳だ。

 それでも戦いを続けるのか、それに関わる選択が話されてもおかしくはあるまい。果たして、その時の御前会議で天皇はどのように発言したのだろうかは、多くの国民が本来なら聞きたいところであったろう。だが、政府の発表や国内のマスコミなどは、戦況の不利については国民に伝えなかった。

 11月には、マキン・タラワ島の日本軍が全滅する。11~12月には、ブーゲン・ルオット沖で海空戦がある。そしての12月には、学徒出陣となる。

 1944年2月には、クエゼリン・ルオットの日本軍が全滅する。同月、アメリカ軍が、トラック島を空爆し、日本軍は大損害を受ける。
 それでもの2月から、日本軍はインパール作戦に打って出て、7月まで行う。3月には、古賀連合艦隊指令長官が戦死する。

 そして迎えた6月には、マリアナ群島にて激戦の方向。アメリカ軍がサイパン島に上陸する。同月には、マリアナ沖で海戦がある。そして迎えた7月7日には、サイパン島の日本軍が全滅する、そのことは日本にとって大打撃となったことは、想像に難くない。

 折しもの1944年(昭和19年)3月から6月にかけては、あのインパールての日本軍の進軍があったものの、その末路としての悲惨な退却につながっていく。「インパール作戦」と銘打ったこの日本軍の作戦は、ビルマ(現在ノ、ミャンマー)西部、イワラジ川、チンドゥン川沿いに遡り、国境をこえてインド・マニプル州の都インパールを目指して侵攻した。
 ところが、である、それは、補給を無視した軍事作戦にて、無謀な突っ込みであった、というほかはあるまい。おまけに、いつ病人か出てもおかしくない環境下での行軍であり、やがて撤退を余儀なくされる。
かくて、帝国陸軍第十五軍の三個師団は、約3万人との戦死者と戦傷病者約4万2千人を出して、文字通り壊滅した。敗残して捕虜となる道ではほとんどなくて、敗兵撤退、退却の道なき道すがらは、「白骨街道」になってしまう。しかも軍部は、国民に、この大敗北をひたすらに隠すのであった。

 それというのは、これにて、「南方占領地からの物資補給は事実上断絶し、物動計画も、1944年第3四半期以降は崩壊するにいたった」(安藤良雄「現代日本経済講義史」第二版、東京大学出版会、1963)という。安藤氏によりては、続けては、こうある。

 「アメリカの海上封鎖、とくに潜水艦作戦のため、中国大陸からの輸送、朝鮮からの輸送も不可能にな、さらに機雷投下のため本土沿岸航路さえ混乱におちいった。
 一方、マリアナを基地とする対日戦略爆撃の開始、さらには機動部隊の鑑載機の攻撃、艦砲射撃のため、軍需工場・交通機関が大損害を受け、一般都市も焼夷弾爆撃によって大きな損害をこうむるにいたった。」(同)

 これらをもって、戦争経済は崩壊へ向かう。それを受けてか、7月17日には海軍大臣が更迭される、それもつかの間の翌7月18日には東条内閣が総辞職し、小磯・米内協力内閣となる。

 それからも、8月には、テニアン・グアム島の日本軍が全滅する。10月には、台湾沖で空中戦が戦われる。10月には、兵役年齢の引き下げを実施する。

 10月には、アメリカ軍がレイテ島に上陸する。同月、神風特攻隊による攻撃が開始される、帰ることを予定しない出撃として。11月には、マリアナ基地よりのB29の日本基地への来襲が始まる。

 明けて1945年1月には、アメリカ軍がルソン島に上陸する。最高戦争指導会議が、「今後とるべき戦争指導大綱」、それに「決戦非常措置要綱」を決定する。本土決戦までを想定し始めてのことであったのは、否めない。


 ちなみに、この年の2月にあった近衛文麿が天皇に提出した「上奏文」にまつわる話を、女性史研究で知られる鈴木裕子氏は、こう解説しておられる。

 「天皇家と藤原鎌足以来、姻戚関係が強く、もっとも親近感のあった元首相で公爵の近衛文麿は、45年2月14日、敗戦は必死であり、共産革命か起こる以前に手を打つ必要を天皇に説いた。近衛はのちの首相吉田茂と協議のうえ作成した長文の「上奏文」をもとに「戦争終結」を強調した。

 「昭和天皇実録 第九」(以下「実録」)によれば、侍立の内大臣木戸幸一の要旨によれば次の通りである。要約抜粋引用する(原文片仮名)。

 「最悪の事態に至ることは国体の一大瑕瑾(かきん)たるべきも、英米の興論は今日のところまだ国体の変更とまでは進まず、国体護持の立場より憂うべきは、最悪なる事態よりも之に伴って起こることあるべき共産革命なり。(中略)「翻って国内を見るに共産革命達成のあらゆる条件日々に具備せられ、・・・生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親近ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂(いわゆる)新官僚の運動」「之を背後より操る左翼分子の暗躍なり」とし、「勝利の見込なき戦争を之以上継続することは全く共産党の手に乗るもの」「国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を構ずべき」と進言した(「実録」45年2月14日条)。 近衛のこの上奏に対し、天皇は「今一度戦果を挙げなければ粛軍の実現は困難」と口吻(こうふん)を洩らした(同右)。もしこの時仮に近衛の上奏を受け、「終戦」に努力していれば、あの凄絶な沖縄戦はじめ東京大空襲など各都市へのB29機の焼夷弾投下による莫大な人命の損失をも免れていたであろう。」(鈴木裕子「続・天皇家の女たち」)


 同じ2月には、米鑑載機による本土爆撃が開始される。3月になると、B29による東京下町地区への無差別空襲が始まる。以後、全国的な規模で、焼夷弾攻撃が始まる。3月には、硫黄島の日本軍が全滅する。

 3月には、軍事特別措置法が制定されるとともに、決戦教育措置要領、さらに国民義勇隊設置が決定される。

 4月には、アメリカが、沖縄本島に上陸する。同月、アメリカの要請を受けたソ連が、連合国としての立場から、日本に対して日ソ中立条約の不延長を通告してくる。

 4月5日には、小磯内閣が、総辞職する。後継は、鈴木内閣。5月には、最高戦争指導会議幹部が、ソ連仲介による終戦申し合わせを行った由、以後、終戦工作が活発化していく、しかしながら、時既に遅しの状況。

 6月には、御前会議にて、本土決戦断行の「戦争指導要領」を決定し、いわば、「一億玉砕」の覚悟を国民に強いようとしたのであろうか。

  同月、昭和天皇が、終戦措置を指示したというのだが、もはや、連合国に対し降伏を急ぐべし、とはならなかった。同月、日本政府はなおも戦争を継続しようとしてか、戦時緊急措置法、義勇兵役法、国民義勇戦闘隊統率令を公布する。あわせて、決戦生産体制確立要綱を決定する。

 同6月中には、沖縄の日本軍が全滅、これには民間人多数の死者を伴う。多くの民間人に死が強いられた。同月、昭和天皇が、近衛文麿に訪ソ連を指示する。同月、国内戦場化具体措置を閣議決定する。

 7月からは、米鑑隊による日本本土艦砲射撃が本格化する。主食配給が10%減となる。同月、戦時農業団令が出される。

 同7月17日には、米英ソ連首脳によるポツダム会談が開会され、同7月26日には、対日ポツダム宣言が発表される。同宣言は、日本に対し無条件降伏を求める。
 
 8月6には広島に、9日には長崎に原爆が投下される。8月10日には、御前会議にて、ポツダム宣言を受け入れることに決定する。その際、天皇制を中心とする国体護持が条件であるとして、連合国側に示される。国民の命より天皇制の護持の方が先であったことは、疑うべくもなかろう。同月14日には、これがアメリカに受け入れられたことにより、無条件降伏を決定、連合国側に通告する。
 
 翌8月15日、昭和天皇は、国民向けに「終戦の詔」を発布、自身が放送する。それは、相変わらず国民を下に見た上での話であった。鈴木内閣は総辞職するも、戦争終結に反対の乱が各地で起こる、しかし、クーデターなどは起こらなかった。日本の敗戦は、ここに確定する。


 なお、先ほど引用した鈴木前掲論文において、彼女は、自身の問題意識から、その末尾を天皇制の将来についての次のように結んでいるのであって、ここに紹介しておこう。

 「昭和天皇その人の意識はどこまで変わったのか、依然として疑問が残るが、天皇家が生き延びるための新たな「演出」工作が図られ、存続を可能ならしめたわけである。その息子の明仁・美智子天皇制に象徴されるように、「愛される天皇・天皇家」が誕生し、今日に至っているが、法の下の平等・男女平等を謳(うた)った日本国憲法との矛盾は明らかであろう。
 筆者としては、天皇家の人びとが「ただの市民」になることを願い、戦前戦後の天皇・天皇制へのタブーなき真実の歴史が多くの人びとに理解・共有されることを願うばかりである。」(同)



(続く)

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◻️◻️24『岡山の今昔』建武新政・室町時代の三国(南北朝統一(1392)後)

2021-06-05 09:57:09 | Weblog
◻️◻️24『岡山の今昔』建武新政・室町時代の三国(南北朝統一(1392)後)


 政治状況から始めると、例えば、この時期の備中国は、高(南)宗継が守護となり、ついで秋庭氏、細川氏、宮氏、渋川氏などへと、守護が慌ただしく交代していく。

 具体的には、1375年(永和元年)には、渋川満頼がこの地域の守護職を継承する。その在職中の1381年(永徳元年)からは、川上郡を石堂頼房が分郡支配し、その後には川上郡と英賀・下道の各郡賀細川頼元の統治下となる。
 かたや後者の細川氏の側の細川頼之は、1392年(明徳3年)には、明徳の乱鎮圧後ほどなく没し、かかる3つの郡は、備中守護の統治下に置かれるも、同年中には、哲多郡については頼之の子頼元の支配となる。

 1393年(明徳4年)になると、大きな変化、すなわち渋川満頼は、室町から備中守護を罷免されてしまう。その後釜の守護職には、細川頼元の弟の満之がなり、さらに頼元の子孫が世襲していくのだが、こちらも、次第にだんだんに現地での支配力が低下していく。

 かくて、備中国の細川氏支配の守護代としては、庄氏・石川氏が知られているのだが、こみらが力を伸していく。やがて、守護やその被官は国内の寺社の造営や重要な行事を取り仕切るようになる。
 さらに、かれらにより、荘園・公領が押領され、被官や国人衆(こうじんしゅう)の実質的所領化していく。かくて、それらの具体像をもう少しわけいって見るには、成羽荘の三村氏、新見荘の新見氏などの振る舞いかどうであるかが、「繋ぎ目」として重要になっていく。

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 室町時代における地方の土地の所有関係は、なかなかに複雑になってきていた。その一つとして、先に取り上げた新見荘のその後を語ろう。1333年(元弘3年・建武元年)に鎌倉幕府が亡びると、この荘園の地頭職が、「建武新政」で新政府を再興した朝廷(後醍醐天皇)によって取り上げられ、東寺に寄進された。理由としては、この荘園の地頭が北条氏一門だったことによると考えられている。しかし、この東寺への粋なはからいは長く続かない。1336年(建武3年)、後醍醐天皇が足利尊氏らの軍により京都を追われ、吉野へと逃げ延びる。南と北に天皇家が分裂の時代となる。
 そうなると、前からの領家である小槻氏と東寺の間には激しい相論が繰り広げられる。その新見荘も、ついに足利幕府により没収されてしまうのである。こうした状況で東寺に代わって現地で新見荘を支配するようになるのが、室町幕府の管領を務めた細川氏の有力家臣である安富氏(やすとみうじ)であった。これは「請負代官(うけおいだいかん)」というシステムで、双方による契約で、現地で安富氏が徴収した年貢を、荘園領主である東寺に送るようになったのである。
 しかしながら、年貢はかならずしも東寺に順調には上納されず、武家代官の支配が増していくのであった。1461年(寛正2年)には、新見荘から「備中国新見荘百姓等申状」を携えた使者が東寺にやってきた。その申状のとっかかりには、こう記されてあった。

 「抑備中国新見庄領家御方此方安富殿御○○候に先年御百姓等直寺家より御代官を下候ハゝ御所務○○○随分御百姓等引入申候処ニ無其儀御代官御下なくてハ一向御○○○やう歎入候事」

 その申立理由だが、現地を預かる安富氏が農民たちから東寺と契約した以上の年貢を徴収し続けたことにあるという。1459年(寛正2年)から続いた作物の不作がさらにあって、新見荘の農民たちの我慢もついに限界に達したのであろう。彼等は、蜂起したものとみえる。そしてて、荘園領主である東寺に直接支配するよう、使者をよこして来たのであるから、東寺としても事の経緯を調べ、対処しない訳にはいかない。1461年(寛正2年)には、東寺の現地の直接支配が成立した。
 そんな一連のいきさつがあったので、この決算書は監査を受けないまま東寺供僧の手もとに保存されていた。その数ある決算書類中に、「地頭方損亡検見ならびに納帳」という、前の年の年貢の収支決算書があり、網野喜彦氏の紹介にはこうある。

 「長さ二十三メートルにも及ぶ長大な文書で、それを読むと中世の商業や金融、その上に立った荘園の代官の経営の実態が非常によくわかるのですが、その文書の中に「市庭在家」という項があります。
 それによってみると、この荘園の地頭方市庭には三十間(軒)ほどの在家が建てられていたことがわかります。恐らくそれは金融業者や倉庫業者の家で、道に沿って間口の同じ家が短冊状に並んでいたと思われます。こうした在家に住む都市民は「在家人」と呼ばれました。そしてその傍らの空き地に商人が借家で店を出す市庭の広い空間があったことも、この文書によって知ることができます。」(網野喜彦『歴史を考えるヒント』新潮選書、2001)

 なお後日談だが、やがて戦国時代になると、この新見荘もまた、他の荘園と同様、漸次東寺の支配を離れ、守護、そして戦国大名の支配に組み入れられていった。


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 今ひとつの例として、室町幕府が一応の安定期に入った(南北朝統一後)頃の、備後・備中の荘園地の支配を巡っては、次に紹介するように、当地の守護であった山名氏の実質支配が進んでいた。

 「高野領備後国太田庄並桑原方地頭職尾道倉敷以下の事
下地に於ては知行致し、年貢に至りては毎年千石を寺に納む可きの旨、山名右衛門佐入道常煕仰せられおはんぬ。早く存知す可きの由仰下され候所也。仍て執達件の如し。
 応永九年七月十九日、沙弥(しゃみ)(花押)、当寺衆徒中」(『高野山文書』)

 ここに、時は、南北朝の統一がなされて2年目の1402年(応永9年)、高野山(こうやさん)の寺領とある備後国(びんごのくに)大田荘(現在の広島県世羅郡甲山町・世羅町・世羅西町)と、桑原方地頭職尾道の倉敷(現在の広島県尾道市、岡山県倉敷市のあたりか)などについて、「沙弥」の異名をもつ管領(室町幕府の重職)・畠山基国(はたけやまもとくに)が、備後守護職の山名氏(山名時煕(やまなときひろ))に対し「下地に於ては知行致し、年貢に至りては毎年千石を寺に納む可きの旨」を内容とする請負(うけおい)を命じた。

 これは、守護請(しゅごうけ)と呼ばれる。ありていにいうと、守護は、荘園・国衙領の年貢取立て、ここでは各々へ年貢1000石を各領主に納入する業務を代行する。領主たちは、その代わりに荘園の現地支配から手を引く事になっていた。
 こうした形の仕事請負行為は、守護職からいうと地方での権限拡大につながるもので、「渡りに舟」であったのではないか。事実、これらの荘園地は応仁の乱後には事実上山名氏の所領化していった。室町時代に入ると、荘園主に決められた量の年貢が入らなかったり(「未進」)や、はては逃散・荘官排斥などがあった。こうした動きの背景には、荘園領主と守護職とを含めての、現地農民に対しての搾取強化があったことは否めない。

その後、戦国大名が割拠する時代に入ってからは、全国の荘園で消えていくものも多くあり、それが残る場合においても、紆余曲折を経ながら領主権力の空洞化が進んでいったようだ。例えば高野山の寺領は、1585年(天正13年)の豊臣秀吉による紀州攻めまで維持されたものの、その高野山が秀吉に降伏した後、その寺領はいったん没収される。のち1591~1592年(天正19~20年)に、秀吉の朱印をもって2万石余の寺領が与えられた。

(続く)

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