571◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、橋本龍太郎)

2021-06-23 22:07:59 | Weblog
571◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、橋本龍太郎)

 橋本龍太郎(はしもとりゅうたろう、1937~2006)は、保守派の政治家だ。ポマードで整えた感じの頭髪を思い浮かべる人も、多いのでは。


 東京都の生まれ。父の地元の岡山とも行き来したのではないか。1960年(昭和35年)には、慶応義塾大学法学部政治学科を卒業する。


 そして、まだ20代の青年だというのに、厚相、文相を務めた父橋本龍伍の死後、その地盤を継いだ形で、1963年に衆議院議員に当選する。


 それからは、持ち前の政治感覚の鋭利さで自民党で頭角を現す。1978年には、大平正芳(おおひらまさよし)内閣で厚相として初入閣する。
 さらに、運輸相、自民党幹事長、蔵相、党政調会長、通産相などを務める。中曽根康弘(なかそねやすひろ)内閣の運輸相として、国鉄分割民営化に邁進する。当時の中曽根首相は、アメリカのレーガン大統領にも似て、労働運動潰しを重要視していたのであろう。


 1995年には、通産相として日米自動車交渉にあたる。と、こうしてみると、彼は、保守の中では、実務派の部類なのであろう。


 1996年には、首相となる。同年9月衆議院を解散、10月の小選挙区比例代表並立制に臨む。この総選挙で自民党は大勝し、11月首相に第二次橋本内閣を発足させる。


 1997年9月に第二次改造内閣が発足するも、1998年の参院選惨敗により、同年7月に辞任する。


 それからも、2000年の第二次森喜朗(もりよしろう)改造内閣では、行政改革担当相、沖縄開発庁長官を務める。同年には、小渕派()を引き継ぎ橋本派を、立ち上げる。


 2001年には、自民党総裁選に立候補し、小泉純一郎に敗れる。2004年、日本歯科医師連盟から橋本派への不正献金問題の責任を受け、同派閥の会長を辞任し、2005年8月、総選挙に立候補しないと発表する。その幕引きは、時折マスコミに見せる静かなダンディーさながらに、大方爽やかであったのではないだろうか。

(続く)

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572◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、田渕節也)

2021-06-23 21:12:39 | Weblog
572◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、田渕節也)

 田渕節也(たぶちせつや、1937~2006)は、実業家だ。
 苫田郡神庭村(現在の津山市)とあるも、実は大邱生まれ。旧制中学まで大邱で育ち、旧制高校は松江、大学は京都のため岡山に住んだことはない(日本経済新聞、2007年11月4日、「私の履歴書」)という。

 その京都大学法学部を卒業して、1947年野村證券に入る。主に営業畑を歩む。

 1978年には、社長に就任するという、トントン拍子で出世の階段を上がっていく。

 それからは、国際部門を飛躍的に伸ばし、世界有数の証券会社に押し上げたというのだが、きれい事だけではなかった筈だ。


 それというのも、1985年に、社長の座を田淵義久に譲り会長になるも、その後も会長として「院政」のように経営に携わっていたようなのだ。


 1990年12月には、経団連副会長に就任する。日本資本主義を支える一角としての証券業界、そこを地盤にしたのはいうまでもあるまい。


 1991年には、損失補てん問題や暴力団との取引が発覚する。前者というのは、いわゆる「損して得とれ」というか、国会で証人喚問を受けた時に、その体質が露となる。つまるところ、責任を取って会長職を辞任し相談役に退く。経団連副会長も、解任される。


 それでも、粘りを発揮して、1995年には、再び取締役に就任し復権を果す。しかし、1997年総会屋への利益供与が発覚し、すべての役職から退く。
 その仕事人生についての評価では、「功罪相半ば」というのか多数なようだが、もう少し具体的に述べたらよいのではないか。

 つまるところ、証券業界の不祥事の根っこには、国民のための経済に欠けるところが多々あり、そのことを無視してかれらが自分たち本位に金儲けに突っ走ったところが、もっと明らかにされて然るべきであったろう。
 もちろん、彼だけが責められる話でないことは、当時の政財官の大方が、どこを向いて仕事なりをしていたのか、その流れの全体が歴史の中に正しく位置付けられるべきであろう。
 
(続く)

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575◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、星野仙一)

2021-06-23 19:34:57 | Weblog
575『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、星野仙一)

 星野仙一(ほしのせんいち、1947~2018)は、プロ野球選手・監督だ。そして、さながら、プロ野球のキラキラ「星」でもあるだろう。
 倉敷市の生まれ。いつの頃からか、野球を楽しみ、目指す。県立倉敷商業高等学校の時には、皆とともに甲子園を目指すが、出場は叶わなかったという。
 明治大学を経て 1968年のドラフト 1位で中日ドラゴンズに入団する。

 そのうちに、打者に向かっていく闘志あふれる姿が、「ケンカ投法」で有名となる。それでいて、変幻自在な、根性を見せるかのような投球が光る。強いて比較するなら、往年の阪神の、「ダイナミック投法」で知られる村山選手などと比べられるのではないだろうか。
 1974年には、「宿敵」巨人の 10連覇を阻み,セントラルリーグ(セ・リーグ)でチームを 20年ぶりの優勝に導く。個人としても、初代最多セーブ賞と沢村賞をダブル受賞する。

 1982年に現役を引退する。通算 500試合に登板し 146勝 121敗 34セーブにて、防御率 3.60という。

 1987年には、中日ドラゴンズ監督になる。選手のときに劣らず、判定に不服の時は、何やら叫んで、ベンチを飛び出す。いやあ、圧巻である。
 自分のチームの正統性を1988年と 1999年にセ・リーグで優勝する。その後に阪神タイガースの監督となり、2003年に優勝を果たす。史上初めてセ・リーグ 2球団を優勝へ導く。


 2008年には、北京オリンピック競技大会に日本代表監督として出場するも 、4位に終わる。 2011年には、東北楽天ゴールデンイーグルス監督を務めており、2年後の 2013年にパシフィックリーグで優勝、その後日本シリーズで巨人を破り、球団初かつ自身にとっても選手・監督を通じて初の日本一となる。

 未来を担う若い人達を、常になにがしか意識してのような立ち居振舞いがあり、また、熱血にしてどこか紳士的でもあり、不思議だ。生まれ故郷には「星野仙一記念館」が建てられるなど、兎に角、話題性に富んだ人物であろう。



(続く)

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新11の2『岡山の今昔』邪馬台国と吉備(大和説、北九州説以外の説) 

2021-06-23 09:59:05 | Weblog
11の2『岡山の今昔』邪馬台国と吉備(大和説、北九州説以外の説) 

 前置きとして、まずは、在りしその頃の国際関係の一端を振り返ってみよう。改めていうならば、239年(景初3年)に、卑弥呼の使者が帯方郡に来る。この頃、現時点での多数説でいうと、倭国内で前方後円墳の築造が始まった模様である。ちなみに、大和の箸墓古墳に関しては、残存炭素測定の方法により、一説には、3世紀後半の築造ではないかと考えられている。

 240年(正始元年)には、帯方郡の使者が倭国に来る。243年(同4年)には、卑弥呼の使者が再度、朝貢してくる。
 245年(同6年)には、魏が倭国に軍旗を下賜する。かの「倭人伝」(書き下し文)でいうと、「正始6年(245年)、皇帝(斉王)は、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜するよう詔した」となっている。
 246年(同7年)には、卑弥呼が狗奴国と交戦のあったことを報告する。同年、帯方郡の使者が派遣される。248年(同9年)に卑弥呼が死ぬと、「倭国」では内乱が起き、壱与が即位するまで続く。

 このように、少なくとも239年から248年までの「倭国」(中国から見たこの「ウー」という呼び方は、当時の邪馬台国連合なりの全体を指している)においては、邪馬台国を中心として連合したり、その結束力が弱体化して部族国家の間で争うことになったりしていた。すなわち、当時の日本人列島では、数十との部族国家が緩い形で大方連合志向で並立していたのではないだろうか。

 もう一つ踏まえておきたいのは、「倭人伝」に記されている「伊都国」(その位置について、大方の専門家の見解が一致している)から「邪馬台国」(「女王国」とも)までの行程の解釈だろう。

 その中でも、伊都国から東南に行って奴国に至るのに要すのが百里とあって、そこには2万余戸が有るという その次の行程というのは、こうである。

 「東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家」
 「東行、不弥国に至る。百里。官は多摸と曰い、副は卑奴母離と曰う。千余家有り。」
 (奴国から)東に行き不弥国に至る。百里。官はタボといい、副官はヒドボリという。千余りの家がある。

 「南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸」
 「南、投馬国に至る。水行二十日。官は弥弥と曰い、副は弥弥那利と曰う。五万余戸ばかり。」
 「(不弥国から)南、投馬国に至る。水行二十日。官はビビといい、副はビビダリという。およそ五万余戸。」

 「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸
 「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮と曰う。七万余戸ばかり。」
 「(投馬国から)南、邪馬壱国に至る。女王の都である。水行十日、陸行ひと月。官にイシバ(イキマ)がある。次はビバショウ(ミマショウ)といい、次はビバクワクシ(ミマカクキ)といい、次はドカテイ(ナカテイ)という。およそ七万余戸ばかり。」(以上、「三国志」魏書巻三十・東夷伝・「三国志」魏書巻三十・東夷伝・倭人の条(通称は「魏志倭人伝」))

 これらを含めて踏まえて、といったらいいのだろうか。ちなみに、邪馬台国が大和の地にあったとする説に従うと、投馬国辺りが吉備国であったということになるのかもしれない。それと、今度は大和説(狭義では、大和の地に勃興した政権をいい、他の地域から移ったとのではない)、北九州説いずれにもつかないとする立場もあり得て、実は邪馬台国そのものが吉備にあったのだという説とがあるようだ。

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 それでは、なぜ吉備説(狭義)、もしくは吉備東遷説でなれればならないかという理由付けなのだが、これまた、前項で紹介した大和説、北九州説同様に、誰もが納得せざるを得ないような決め手となるものは、残念ながら見あたらない。強いてその近辺となりそうなものを拾うと、前方後円墳墓の前期といえそうな墳墓の形態的特徴、及び特殊な土器がこの地において、全国に突出して出土していることであろう。しかして、後者については、別のところでこう紹介しておいた。

 「(前略)そして、この倉敷にある墳丘墓の発掘(岡山大学が中心、1976~1989)を行ったところ、様々な土器類が供献されていることが判明した。
 その中には、大型の壺や器台が含まれていた。それらの壺や器台は、特殊壷形土器・特殊器台形土器(略して、「特殊壷・特殊器台」とも)と呼ばれる。
 これらのうち特殊器台は、器高が70~80センチメートル程もあるものが少なくない。さらに、大型のものでは1メートルを越えるものもあるという。また、器体の胴部は文様帯と間帯からなり、文様帯には綾杉文や斜格などが刻まれている。そのかなりに、極めて精密に紋様が施されているのには、おそらくこれらが、埋葬するにあたり祭礼を行う時に用いられたのではないか。そして、そのあと一緒に埋められたのではないか、と考えられている。
 このような特珠壷・特殊器台は、一部を除いたはとんどが、吉備地方の同時期の遺跡からかなりの数が出土しており、これらの全体がこの地に特有のものであるといって差し支えない。
 次に紹介するのは、宮山墳丘墓という、総社市の山懐近くにあり、その案内板には、こうある。
「県指定史跡宮山墳墓群 昭和39年5月6日指定 
 およそ1700年前の弥生時代から古墳時代の初め頃の墳墓遺跡です。全長38メートルの墳丘墓と、箱式石棺墓・土棺墓・壺棺墓などで。、される『むらの共同墓地』です。東端に位置する墳丘墓は、盛土でつくられた径23メートル、高さ3メートルの円丘部と、削り出して作った低い方形部をもち、全体として前方後円墳状の平面形をしています。
 この墳丘墓には石が葺かれ、特殊器がたてられていました。円丘部の中央には、円礫や割石を用いた竪穴式石室があり、鏡・銅鏃・ガラス小玉・鉄剣・鉄鏃などが副葬されていました。(中略)このような埋葬施設の規模や構造、副葬品の相違は、当時の社会にすでに支配する者とされる者の差をうかがわせるもので、やがて首長が卓越した存在として村人に君臨し、巨大な古墳を造営する時代の歩みを示しています。」」

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 次に、青銅器や鉄器については、これまでのところ、有望とみられる遺跡からの出土状況は、それほどではない。それというのは、鉄の場合、この辺りでは数が特に少ない。それと、5世紀後半には、列島でたたらによる製鉄が始まったようなのだが。中でも、吉備での製鉄年代の開始は、現実問題としてどうであったのだろうか。

 参考までに、上相(かみや)遺跡と鍛冶屋逧(かじやさこ)古墳群(現在の美作市勝央町岡山県古代吉備文化財)は、津山盆地の東の端、中国山地から続くなだらかな丘陵上に、隣り合わせで見つかっている。前者はひとかたまりなのだが、後者は中国縦貫道を境に二つに分かれている。
 こちらは、古墳時代後期から飛鳥時代(6世紀後半~7世紀前半)のものと推定されており、その7世紀と見られる地層から、多量の鉄滓(てっさい)といって、たたら製鉄の時に出る鉄のかすが出土しているのみならず、そのすぐ西側で製鉄炉跡が見つかっている。
 これは、鍛冶屋逧古墳群の一角において日常的に製鉄が行われたことを窺わせる。また、この両方の遺跡において刀子(とうす・工具)、鏃(やじり)、馬具など多種の鉄製品見つかっていることから、この地域に埋葬されている人物は、当時の鉄生産者の集落の首長ではないだろうかと推測されているとのことだ(さしあたり文化庁編「発掘された日本列島ー新発見考古速報、2015」共同通信社に、カラー写真入りの解説がある)。

 見られるように、これらの遺跡は、邪馬台国の時代からかなり後にずれてのものであり、当面の話に加えるのは難しいようである。それでも、一方では、弥生時代後期(1~3世紀)に鍛冶工房が急増することを根拠に、列島での製鉄の開始時期を前倒しにする説も、少数ながらあるという。

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 これらを受けて、それでは、これら学説が林立している状況をなるべく収束に導き、この列島の古代史を世界水準へとしていくには、一体どうしたらよいのだろうか。
 それには、やはり、これまで大王なり天皇なりの陵墓と目されている遺跡を、現代世界で行われているような科学的な見地から、発掘ないし再発掘することではないだろうか。少なくとも、そのことで得られる有益な情報が何かしらあると信じたい。
 しかして、その際には、幾つもの歴史観が平行して語られるべきであろうし、その辺り、例えば次のような見方が提出されているのが、参考になるのではないだろうか。


○「仁徳天皇の実在性も、聖帝とされる事蹟(じせき)の評価もその事蹟が「陵墓」に反映することも、そもそも古墳時代の「陵墓」の存在自体も、いずれも現代の科学において、証明されたことはありません。」(今尾文昭・基調講演「陵墓限定公開」40年と現状から考える」、「陵墓限定公開40周年記念シンポジウム実行委員会「文化財としての「陵墓」と世界遺産」新泉社、2020)


○「仁徳天皇陵というのは漢風諡号の「仁徳天皇」と倭の王墓との結合であって、そうした歴史認識は、天皇制が巨大であった、律令国家の形成期と、それから1889年に秩序ができた近代の二つの産物に過ぎないものです。」(高木博志「近代天皇制と陵墓」、「陵墓限定公開40周年記念シンポジウム実行委員会「文化財としての「陵墓」と世界遺産」新泉社、2020)

(続く)

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