11の2『岡山の今昔』邪馬台国と吉備(大和説、北九州説以外の説)
前置きとして、まずは、在りしその頃の国際関係の一端を振り返ってみよう。改めていうならば、239年(景初3年)に、卑弥呼の使者が帯方郡に来る。この頃、現時点での多数説でいうと、倭国内で前方後円墳の築造が始まった模様である。ちなみに、大和の箸墓古墳に関しては、残存炭素測定の方法により、一説には、3世紀後半の築造ではないかと考えられている。
240年(正始元年)には、帯方郡の使者が倭国に来る。243年(同4年)には、卑弥呼の使者が再度、朝貢してくる。
245年(同6年)には、魏が倭国に軍旗を下賜する。かの「倭人伝」(書き下し文)でいうと、「正始6年(245年)、皇帝(斉王)は、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜するよう詔した」となっている。
246年(同7年)には、卑弥呼が狗奴国と交戦のあったことを報告する。同年、帯方郡の使者が派遣される。248年(同9年)に卑弥呼が死ぬと、「倭国」では内乱が起き、壱与が即位するまで続く。
このように、少なくとも239年から248年までの「倭国」(中国から見たこの「ウー」という呼び方は、当時の邪馬台国連合なりの全体を指している)においては、邪馬台国を中心として連合したり、その結束力が弱体化して部族国家の間で争うことになったりしていた。すなわち、当時の日本人列島では、数十との部族国家が緩い形で大方連合志向で並立していたのではないだろうか。
もう一つ踏まえておきたいのは、「倭人伝」に記されている「伊都国」(その位置について、大方の専門家の見解が一致している)から「邪馬台国」(「女王国」とも)までの行程の解釈だろう。
その中でも、伊都国から東南に行って奴国に至るのに要すのが百里とあって、そこには2万余戸が有るという その次の行程というのは、こうである。
「東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家」
「東行、不弥国に至る。百里。官は多摸と曰い、副は卑奴母離と曰う。千余家有り。」
(奴国から)東に行き不弥国に至る。百里。官はタボといい、副官はヒドボリという。千余りの家がある。
「南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸」
「南、投馬国に至る。水行二十日。官は弥弥と曰い、副は弥弥那利と曰う。五万余戸ばかり。」
「(不弥国から)南、投馬国に至る。水行二十日。官はビビといい、副はビビダリという。およそ五万余戸。」
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸
「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮と曰う。七万余戸ばかり。」
「(投馬国から)南、邪馬壱国に至る。女王の都である。水行十日、陸行ひと月。官にイシバ(イキマ)がある。次はビバショウ(ミマショウ)といい、次はビバクワクシ(ミマカクキ)といい、次はドカテイ(ナカテイ)という。およそ七万余戸ばかり。」(以上、「三国志」魏書巻三十・東夷伝・「三国志」魏書巻三十・東夷伝・倭人の条(通称は「魏志倭人伝」))
これらを含めて踏まえて、といったらいいのだろうか。ちなみに、邪馬台国が大和の地にあったとする説に従うと、投馬国辺りが吉備国であったということになるのかもしれない。それと、今度は大和説(狭義では、大和の地に勃興した政権をいい、他の地域から移ったとのではない)、北九州説いずれにもつかないとする立場もあり得て、実は邪馬台国そのものが吉備にあったのだという説とがあるようだ。
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それでは、なぜ吉備説(狭義)、もしくは吉備東遷説でなれればならないかという理由付けなのだが、これまた、前項で紹介した大和説、北九州説同様に、誰もが納得せざるを得ないような決め手となるものは、残念ながら見あたらない。強いてその近辺となりそうなものを拾うと、前方後円墳墓の前期といえそうな墳墓の形態的特徴、及び特殊な土器がこの地において、全国に突出して出土していることであろう。しかして、後者については、別のところでこう紹介しておいた。
「(前略)そして、この倉敷にある墳丘墓の発掘(岡山大学が中心、1976~1989)を行ったところ、様々な土器類が供献されていることが判明した。
その中には、大型の壺や器台が含まれていた。それらの壺や器台は、特殊壷形土器・特殊器台形土器(略して、「特殊壷・特殊器台」とも)と呼ばれる。
これらのうち特殊器台は、器高が70~80センチメートル程もあるものが少なくない。さらに、大型のものでは1メートルを越えるものもあるという。また、器体の胴部は文様帯と間帯からなり、文様帯には綾杉文や斜格などが刻まれている。そのかなりに、極めて精密に紋様が施されているのには、おそらくこれらが、埋葬するにあたり祭礼を行う時に用いられたのではないか。そして、そのあと一緒に埋められたのではないか、と考えられている。
このような特珠壷・特殊器台は、一部を除いたはとんどが、吉備地方の同時期の遺跡からかなりの数が出土しており、これらの全体がこの地に特有のものであるといって差し支えない。
次に紹介するのは、宮山墳丘墓という、総社市の山懐近くにあり、その案内板には、こうある。
「県指定史跡宮山墳墓群 昭和39年5月6日指定
およそ1700年前の弥生時代から古墳時代の初め頃の墳墓遺跡です。全長38メートルの墳丘墓と、箱式石棺墓・土棺墓・壺棺墓などで。、される『むらの共同墓地』です。東端に位置する墳丘墓は、盛土でつくられた径23メートル、高さ3メートルの円丘部と、削り出して作った低い方形部をもち、全体として前方後円墳状の平面形をしています。
この墳丘墓には石が葺かれ、特殊器がたてられていました。円丘部の中央には、円礫や割石を用いた竪穴式石室があり、鏡・銅鏃・ガラス小玉・鉄剣・鉄鏃などが副葬されていました。(中略)このような埋葬施設の規模や構造、副葬品の相違は、当時の社会にすでに支配する者とされる者の差をうかがわせるもので、やがて首長が卓越した存在として村人に君臨し、巨大な古墳を造営する時代の歩みを示しています。」」
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次に、青銅器や鉄器については、これまでのところ、有望とみられる遺跡からの出土状況は、それほどではない。それというのは、鉄の場合、この辺りでは数が特に少ない。それと、5世紀後半には、列島でたたらによる製鉄が始まったようなのだが。中でも、吉備での製鉄年代の開始は、現実問題としてどうであったのだろうか。
参考までに、上相(かみや)遺跡と鍛冶屋逧(かじやさこ)古墳群(現在の美作市勝央町岡山県古代吉備文化財)は、津山盆地の東の端、中国山地から続くなだらかな丘陵上に、隣り合わせで見つかっている。前者はひとかたまりなのだが、後者は中国縦貫道を境に二つに分かれている。
こちらは、古墳時代後期から飛鳥時代(6世紀後半~7世紀前半)のものと推定されており、その7世紀と見られる地層から、多量の鉄滓(てっさい)といって、たたら製鉄の時に出る鉄のかすが出土しているのみならず、そのすぐ西側で製鉄炉跡が見つかっている。
これは、鍛冶屋逧古墳群の一角において日常的に製鉄が行われたことを窺わせる。また、この両方の遺跡において刀子(とうす・工具)、鏃(やじり)、馬具など多種の鉄製品見つかっていることから、この地域に埋葬されている人物は、当時の鉄生産者の集落の首長ではないだろうかと推測されているとのことだ(さしあたり文化庁編「発掘された日本列島ー新発見考古速報、2015」共同通信社に、カラー写真入りの解説がある)。
見られるように、これらの遺跡は、邪馬台国の時代からかなり後にずれてのものであり、当面の話に加えるのは難しいようである。それでも、一方では、弥生時代後期(1~3世紀)に鍛冶工房が急増することを根拠に、列島での製鉄の開始時期を前倒しにする説も、少数ながらあるという。
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これらを受けて、それでは、これら学説が林立している状況をなるべく収束に導き、この列島の古代史を世界水準へとしていくには、一体どうしたらよいのだろうか。
それには、やはり、これまで大王なり天皇なりの陵墓と目されている遺跡を、現代世界で行われているような科学的な見地から、発掘ないし再発掘することではないだろうか。少なくとも、そのことで得られる有益な情報が何かしらあると信じたい。
しかして、その際には、幾つもの歴史観が平行して語られるべきであろうし、その辺り、例えば次のような見方が提出されているのが、参考になるのではないだろうか。
○「仁徳天皇の実在性も、聖帝とされる事蹟(じせき)の評価もその事蹟が「陵墓」に反映することも、そもそも古墳時代の「陵墓」の存在自体も、いずれも現代の科学において、証明されたことはありません。」(今尾文昭・基調講演「陵墓限定公開」40年と現状から考える」、「陵墓限定公開40周年記念シンポジウム実行委員会「文化財としての「陵墓」と世界遺産」新泉社、2020)
○「仁徳天皇陵というのは漢風諡号の「仁徳天皇」と倭の王墓との結合であって、そうした歴史認識は、天皇制が巨大であった、律令国家の形成期と、それから1889年に秩序ができた近代の二つの産物に過ぎないものです。」(高木博志「近代天皇制と陵墓」、「陵墓限定公開40周年記念シンポジウム実行委員会「文化財としての「陵墓」と世界遺産」新泉社、2020)
(続く)
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