【掲載日:平成23年5月10日】
物部の 八十氏人も 吉野川
絶ゆることなく 仕へつつ見む
帝の詔書に 精神の高揚覚えた 家持
湧き上がる制作意欲は
次々と 長歌の群れを生む
〔いまは ここ越にこうして
役目果たしに 勤しみおるが
やがてのこと 帰京がなれば
帝による 吉野行幸の 従駕もあろう
その折には 従駕歌 詠わねば〕
高御座 天の日嗣と 天の下 知らしめしける 皇祖の 神の命の
畏くも 始め給ひて 貴くも 定め給へる み吉野の この大宮に あり通ひ 見し給ふらし
《天治む 日の神継いで この国を お治めされた ご先祖が
始めなさって 造られた このみ吉野の 大宮に 天皇様が 通われて ご覧なされる ここの宮》
物部の 八十伴の男も 己が負へる 己が名負ひて 大君の 任けのまにまに
この川の 絶ゆることなく この山の いや継ぎ継ぎに かくしこそ 仕へ奉らめ いや遠長に
《お仕え申す 我々も それぞれ自負の 家名以ち 天皇様に 従って
この川の様に 有り続け 山の峰々 続く様に 仕え続け様 ずうっとずっと》
―大伴家持―〔巻十八・四〇九八〕
古を 思ほすらしも 我が大君 吉野の宮を あり通ひ見す
《その昔 偲ばれ居るか 大君は 吉野の宮に お通いなさる》
―大伴家持―〔巻十八・四〇九九〕
物部の 八十氏人も 吉野川 絶ゆることなく 仕へつつ見む
《大勢の 仕えの人も 吉野川 従い続け 見続けするで》
―大伴家持―〔巻十八・四一〇〇〕
【五月十二日】
〔聖武帝が 最後に吉野へ行かれたは
確か 天平八年〔736〕
あれから 十三年 早いものだ
わしは 内舎人にも なって居らなんだ
藤原四卿の疫病死 橘諸兄 様左大臣
広嗣が乱
関東行幸 恭仁京 紫香楽 いろいろあった
その後の 朝廷は ごたごた続き・・・
ああ 昔の 君臣和しての 行幸宴
今一度 叶わぬものか〕
皇親穏健派 家持 思いに沈む
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後 天平勝宝二年〔750〕十月
河辺東人から 入手の 天平八年吉野行幸時歌
朝霧の たなびく田居に 鳴く雁を 留み得むかも 我がやどの萩
《庭萩よ 朝霧靡く 田ぁで鳴く 雁の去くんを 留められんかな》
―光明皇后―〔巻十九・四二二四〕