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令和・古典オリンピック

令和改元を期して、『日本の著名古典』の現代語訳著書を、ここに一挙公開!! 『中村マジック ここにあり!!』

歴史編(15)木幡の上を

2009年07月23日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月3日】


青旗あをはたの 木幡こはたうへを かよふとは
        目には見れども ただに逢はぬかも




倭姫王やまとのひめみこ(後の倭大后やまとのおおきさき)は 
天智天皇の病床にいた 

わたしは 天涯孤独てんがいこどくであった
父も 兄弟たちも 母の顔さえ 覚えていない 
そんな私を 育てくれた 今は亡き 皇極こうぎょく女帝
あの方が られればこその 私
あの方の お力添えで 皇后の身に 
もっとも 天智帝の おきさきでは 血筋は通っていたけれど
でも なんという 運命の皮肉 
天涯孤独の 私にしたのは ここにられるかた
古人大兄皇子ふるひとのおおえのおうじ 弟たちを手に掛け 母は自害

でも今は このかたの 回復が ただ一つの願い

あまの原 振りけ見れば 大君おほきみの 御寿みいのちは長く あまらしたり
《空見たら 広がりずうっと 続いてる まだ安心や あんたの命》 
                         ―倭大后やまとのおおきさき―(巻二・一四七)

天智の回復は 捗々はかばかしくない
倭姫王やまとのひめみこは 許波多こはた神社に詣でる
皇極女帝勅願社での 平癒祈願へいゆきがん・・・
ふと仰ぐ 木幡こはた山 立ちのぼる雲に 天智の面影
青旗あをはたの 木幡こはたうへを かよふとは 目には見れども ただに逢はぬかも
木幡山こはたやま あんたの霊魂みたま ただようて 見えてるけども もうわれへん》
                         ―倭大后やまとのおおきさき―(巻二・一四八)


とうとう お亡くなりに なられた 
わたしには 忘れようとて 忘れられないおかた

人はよし 思ひむとも 玉蔓たまかづら 影に見えつつ 忘らえぬかも
ほかの人 忘れてもえ うちだけは まぶた浮かんで 忘れられへん》
                         ―倭大后やまとのおおきさき―(巻二・一四九)

夕べ 倭姫王やまとのひめみこは 湖畔にいた 
鯨魚いなさ取り 淡海あふみの海を 沖けて ぎ来る船 附きて 漕ぎ来る船
 沖つかい いたくなねそ つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の つまの 思ふ鳥たつ

《琵琶湖をとおる 沖の船 岸辺漕いでく そこの船 どっちも ばしゃばしゃ がんとき あの人の 好きやった(霊魂たましい宿ってる)鳥 飛び立つやんか》
                         ―倭大后やまとのおおきさき―(巻二・一五三)

岸に寄る 波の音 しみじみと 倭姫王やまとのひめみこの胸に迫る

歴史編(16)去き別れなむ

2009年07月22日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月4日】

やすみしし わご大君の かしこきや 御陵みはか仕ふる 山科の 鏡の山に
 よるはも のことごと 昼はも 日のことごと のみを 泣きつつありてや
  百磯城ももしきの 大宮人は き別れなむ

【山科の鏡山陵とも呼ばれる天智天皇陵】

稀代きだいの英雄 ここに 死す
時に 天智十年(671)十二月三日 

大化の改新の口火を切り 
孝徳・斉明朝 皇太子として 実権を掌握しょうあく
豪族による合議体制から 天皇中心政治への道筋 
内憂外患ないゆうがいかんの日々
白村江はくすきのえの大敗
これを 機に 近江大津へ 遷都 
天智天皇として即位 
即位後五年 
四十六年の生涯であった 
弟 大海人皇子おおあまおうじとの 確執
大海人おおあまが 吉野に隠遁いんとんしたのは 二か月前
大友皇子に 後をたくしたものの
不安に駆られた 臨終であったろう 

額田王は ありし日々を 思い描いていた 
大王おおきみとの 日々は わたしの生きた 日々
歌が いつも あった 

宇治の仮廬かりほ
熟田津にきたつの船出
三輪山との別れ 
蒲生野がもうのの薬狩り
春秋競いのうたげ
もう すだれに吹く風を 待つこともないのだ

かからむの おもひ知りせば 大御船おおみふね 泊てしとまりに しめはましを
《こうなんの 分かってたなら あんたる 場所に標縄しめなわ 張っといたのに》 (悪霊入らんように)
                         ―額田王ぬかたのおほきみ―(巻二・一五一)

鏡山の麓  
服喪ふくもの人々が 去っていく
やすみしし わご大君の かしこきや 御陵みはか仕ふる 山科の 鏡の山に
 よるはも のことごと 昼はも 日のことごと のみを 泣きつつありてや
  百磯城ももしきの 大宮人は き別れなむ

天皇すめらみことの 墓守りと 鏡の山に 集まって 夜昼なしに 泣きつづけ
 終わってしもて みんなぬ 散り散ち ぢりなって 帰ってく》
                         ―額田王ぬかたのおほきみ―(巻二・一五五)

人々の 去るのを見届け 額田王おおきみは 静かに 鏡山を後にする
その後 額田王おおきみの行方は 定かでない

(この後 万葉集に留める 額田王ぬかたのおおきみの歌は 一首を数えるのみ)


<天智天皇陵>へ


歴史編(17)耳我の嶺に

2009年07月21日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月6日】


み吉野の 耳我みみがみね
     時くぞ 雪は降りける
          間くぞ 雨は降りける
      その雪の 時無きがごと
           その雨の なきがごと
       くまもおちず
            思ひつつぞし その山道を


【吉野山から龍門岳を望む―この道大海人皇子も歩いたか】



「虎に翼を付けてはなてり」
世人せじんの うわさは かしましい

天智十年(671)十月十七日 
近江大津宮おうみおおつのみや
大海人皇子おおあまおうじは 天智の病床にいた
「後事を なんじに託したい」
手を取る 天智の声は 弱い 
皇子おうじは 見る
うつろろな目に光る 一瞬の怜悧れいり

退出 すぐさまの 仏殿での剃髪ていはつ
二日後 近江を 発つ 
目指すは 吉野 
旧都 飛鳥を抜け 山越えの 吉野こう
追われる気が 足を 急がせる 
僧衣を 引きちぎる 寒風 
つづら折りの 険路  
しぐれが やがて雪に 

み吉野の 耳我みみがみね
     時くぞ 雪は降りける
          間くぞ 雨は降りける
      その雪の 時無きがごと
           その雨の なきがごと
       くまもおちず
            思ひつつぞし その山道を

耳我みみがの嶺を 越える時
     つぎつぎに降る 雪や雨 
             行っても行っても けわし道
      先の見えへん のがれ旅
           あの嶺越えて 今がある》 
                         ―天武天皇―(巻一・二五)

浄御原宮きよみはらのみや 冬
真神まがみの原の 彼方かなた
吉野の山は 雪雲におおわれている
見やる 天武の眼に 雪降る耳我みみがの嶺 


歴史編(18)不破山越えて

2009年07月20日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月7日】

・・・ 真木まき立つ 不破ふは山越えて 高麗剣こまつるぎ 和射見わざみが原の 
                    行宮かりみやに 天降あもいまして・・・

【関ヶ原(わざみが原)を一望】



高市皇子たけちのみこの挽歌を」と 命ぜられた人麻呂
想起するのは 壬申の乱 
かけまくも ゆゆしきかも はまくも あやにかしこき 明日香の 真神まがみが原に 
ひさかたの 天御門あま みかどを かしこくも 定めたまひて かむさぶと 磐隠いはがくります 
やすみしし わご大君の

《言葉にするのは はばかられもし おそれも多いが 真神まがみの原に 
都造られ やがてのことに お隠れなされた 天武のみかど
きこしめす 背面そともの国の 真木まき立つ 不破ふは山越えて 高麗剣こまつるぎ 和射見わざみが原の 
行宮かりみやに 天降あもいまして
 
《都の北の 不破山ふわやま越えて 和射見わざみが原に 陣敷きまして》
あめの下 をさめ給ひ す国を 定めたまふと とりが鳴く 吾妻あづまの国の 
御軍士みいくさを し給ひて
ちはやぶる 人をやはせと 服従まつろはぬ 国を治めと 皇子みこながら よさし給へば

《天下しずめて 泰平たいへい得んと あずまの国から 軍隊集め 
そむきの心 改めさせろ 逆賊討てとの 命令下す》
大御身おほみみ大刀たち取りかし 大御手おほみてに 弓取り持たし 御軍士みいくさを あどもひたまひ
大刀かたないて 弓取り持って 全軍指揮する 高市皇子たけちのおおじ
ととのふる つづみの音は いかづちの おとと聞くまで 吹きせる 
小角くだおとも あた見たる とらゆると 諸人もろひとの おぴゆるまでに

《並ぶ太鼓は 雷みたい 響く笛の 敵見てうなる 虎の吼声こえかと 怖気おじけを誘う》
ささげたる はたなびきは 冬ごもり 春さり来れば 野ごとに きてある火の 
風のむた なびくがごとく

ささげる旗は 真紅になびき 風にはためく 野を焼くほのお
取り持てる 弓弭ゆはずさわき み雪降る 冬の林に 飃風つむじかも い巻き渡ると 
思ふまで きのかしこ

《弓のつる鳴り 冬吹く旋風つむじ 耳に恐れの 渦巻きわたる》 
引きはなつ 矢のしげけく 大雪の 乱れてきたれ 服従まつろはず 立ち向かひしも 
露霜つゆしもの なばぬべく 行く鳥の あらそふはし

《放つ矢しげく 吹雪のごとく あだなす敵は 意気消え果てて 慌てふためき  争い逃げる》
渡会わたらひの いつきの宮ゆ 神風かむかぜに い吹きまどはし 天雲あまくもを 日の目も見せず 
常闇とこやみに おほひ給ひて 定めてし 瑞穂みづほの国を

《伊勢の神風 呼び寄せ吹かせ 天雲あまぐも起こして 太陽隠し 
敵を闇へと ほうむり去って 平和に戻した 瑞穂みずほの国を》
神ながら 太敷ふとしきまして やすみしし わご大君おほきみの 天の下 まをし給へば 
万代よろづよに しかもあらむと 木綿花ゆふはなの 栄ゆる時に ・・・

《治めなさって 引き継ぎ行けば 今のさかえは 万代よろずよまでに 続かんものと 思えはしたが》
                         ―柿本人麻呂―(巻二・一九九前半)
                              〈「舎人はまとふ」に続く〉

<わざみが原・不破の関>へ


歴史編(19)伊良虞の島の

2009年07月19日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月8日】


うつせみの 命を惜しみ 浪にぬれ
           伊良虞いらごの島の 玉藻刈り

【寂しげに波寄せる伊良湖岬―遠景は神島】


「お前さま 一人者ひとりものかい 自分で 藻刈もかりなど 召使めしつかいにでも させれば いものを」
「よしなよ あの人は 何も 答えなさらん 都のながされびと らしい」
夕日が 伊勢の海の方に 沈む 
浜を 引き上げる 海女あまの影は 小さくなる
背を伸ばし おぼろな目で 神島を見ている 麻続王おみのおおきみ
「口は わざわいの元・・・」

あれは 壬申のいくさ三年みとせ後 であったろうか
大友皇子の子 葛野王かどののおうを お見かけし 思わず『こんな 幼気いたいけない子が 苦労するとは』と つぶやいてしまった
それが 天武天皇すめらみことの耳へと入り 流罪
雪深い 因幡いなばであった
因幡は よかった 
国庁があり 役所勤めに 友がいた 
不自由ではあったが 食うには困らなかった 
すぐにでも 許されて と思っていたが 配流はいる
常陸ひたちの 板来いたこ
潮風の 強いところであったが 
なんと言っても 鹿島神宮さまのお膝もと 豊かな土地柄とあって なに不自由ない 暮らしであった 
親しくなった 神官に 流罪の経緯いきさつを聞かれ
葛野王かどののおうが 可哀相と 言っただけじゃ』
と らしてしまった・・・

ここ 伊良虞いらごは なにもない
るのは 田作たづくり民と 網人あみひと海女あま
地は痩せ ロクな作物さくもつは取れない
外海そとうみだけに りょうもままならない
あるのは 打ち寄せる 藻だけ 
これを るしかないのだ

いまでは ならいとなった 苫屋とまやでの寝起き
これだけはと 身につけている 筆を取る 
(今日の 海女あまの声 歌にするか)
打つを 麻続王をみのおほきみ 海人あまとなれや 伊良虞いらごの島の 玉藻たまもります
粗末衣ぼろ着てる 麻続王おみのおおきみ 漁師あまやろか 伊良湖の岸で ってはる》
                         ―麻続王をみのおほきみを見た人―(巻一・二三)
(答えて やらねば なあ) 
うつせみの 命を惜しみ 浪にぬれ 伊良虞いらごの島の 玉藻刈り
仕様しょうなしに 伊良湖の島で 波に濡れ 藻ぉうんは 死にとないから》
                             ―麻続王をみのおほきみ―(巻一・二四)

しかし 伊良虞は いところだ
なにしろ 温かい 
天気も それに 人も・・・ 



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歴史編(20)常処女にて

2009年07月18日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月9日】

山振やまぶきの 立ちよそひたる 山清水やましみづ
          みに行かめど 道の知らなく

【河の上の ゆつ磐群<津市一志町波瀬>】


十市皇女とおちのひめみこ 悲しい運命さだめ皇女ひめであった

大海人皇子おおあまおうじ額田王ぬかたのおおきみとの間に生まれた
壬申の乱 
父は 夫大友皇子おうじを死に追いやり
母は 夫の父 天智の御陵ごりょうまもりの後 音信はない
近江朝瓦解がかいの後 父天武のいる浄御原きよみはら
異母弟おとうと 高市皇子たけちのみこのもとに 身を寄せていた
姉を憐れむ 高市との仲は むつまじい

天武四年(675)春二月 
伊勢参宮の途中 ここ波多はたの横山
皇女ひめさま 大きな岩が ほれ ここにも あそこにも」
吹黄刀自ふきのとじは 輿こしにのる皇女ひめみこに 声をかける
波瀬はせ川の河原 嵐の時にでも上流から押し流されて来たか 大岩のむれ
「なんと 神々こうごうしいこと」
河のの ゆつ岩群いはむらに 草さず 常にもがもな 常処女とこをとめにて
《川の岩 草も生えんと 変わりない 姫さんあんたも 変わらずって》
                          ―吹黄刀自ふきのとじ―(巻一・二二)
悲しい境遇の十市皇女 そのつつがなきを大岩に託す 吹黄刀自ふきのとじ

三年後 天武七年(668)四月 
十市皇女を襲う 突然の死 
既にとつぎ 子までなした身に
処女おとめであるべき 斎宮いつきのみやに との話
斎宮となる出立しゅったつの まさにその時の死
親密を加える 高市との仲 
高市の後ろ盾を除く策略 かとの疑念ぎねん
自ら選びし死か・・・ 

山振やまぶきの 立ちよそひたる 山清水やましみづ みに行かめど 道の知らなく
《山吹の 花咲く清水 かえり水 みたいけども 道わかからへん》
                         ―高市皇子―(巻二・一五八)

(守って やれなかった・・・) 
高市の胸に広がる 悔みの思い 



<波多の横山>へ


歴史編(21)吉野よく見よ

2009年07月17日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月10日】

【犬養孝揮毫歌碑―近鉄吉野駅駅前】

き人の
  よしとよく見て 
    よしと言いし 
      吉野よく見よ 
        良き人よく見 


天武天皇は ご満悦であった 
六皇子 打ち揃っての 吉野行幸みゆきである
高市皇子たけちのみこ 
草壁皇子くさかべおうじ 
大津皇子おおつのみこ 
忍壁皇子おさかべのみこ 
河島皇子かわしまのみこ 
志貴皇子しきのみこ
鵜野皇后の同行もある 

壬申の乱(672)を制し  
天皇絶対王権の確立をめざし 
それの基礎固めとしての 親族会盟 

過ぐる 天智十年(671) 
天智帝の 後継要請を拒否 吉野へと逃れた日々 
雪に降られ 雨に濡れて 
道なき道をたどりつつ 隠れ至った ここ吉野 
宮滝の 渦巻く淵 吹きすさぶ あらし風
苦難の日々の 吉野 

あれから 八年 
いま 吉野は 安寧あんねいの地として ここにある
山陰やまかげの木々は 青く涼しげであり
宮滝のとどろきさえ わが世を讃えるかのようだ

盟約めいやくを果たした 天武
六皇子を ふところに抱かえ 得意げにうた
き人の
  よしとよく見て 
    よしと言いし 
      吉野よく見よ 
        良き人よく見 

          ―天武天皇―(巻一・二七)
《よろし人(わしが) 
   よう(状況)見てからに 
     よし(出陣)言うた 
       よしの  
         よう見い(覚えとくんや) 
           よろし人(わしを) 
             よう見(見習うんや)》 

吉野盟約ののち
草壁・大津の関係に きしみが・・・



<吉野行>へ


歴史編(22)大雪降れり

2009年07月16日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月11日】

わが里に 大雪降れり 大原の  りにし里に 降らまくはのち


【大原の里 中央の森:大伴夫人(鎌足生母)墓 後方:多武峰】


朝夕の冷え込みが  
冬の訪れを告げていた 
香久山の もみじも 散りはて 
連れ呼ぶ鹿の声も  
山の冷気に吸い込まれていく 
(この分だと 今宵は  
 白いものがやってくるかな) 
天皇てんのう天武は 
夕飼ゆうげの酒のさめを 少しく覚えた

朝 浄御原の宮庭みやにわは 
薄い雪衣ゆきころもをまとっている
(やはり降ったか 
 そうじゃ  
 あやつのところは どうであろう 
 おお いいのを 思いついたぞ  
 筆じゃ 筆をこれへ) 

文使ふみづかいが 
里がえりの藤原夫人ふじはらのぶにんへと 急ぐ
(まあ 朝早いというに  
 天皇から文だわ) 
わが里に 大雪降れり 大原の  りにし里に 降らまくはのち
《わしの里 大雪降った お前る そっちの田舎 まだまだやろな》
                         ―天武天皇―(巻二・一〇三)
(まあ これは  
 これっぽっちの雪を  
 大雪だなんて) 

十町じゅっちょうばかり先の 大原の里 
使いの戻りは すぐであった 
(早速の返し文か  
 さすがに 才けたやつよ 
 なになに) 
わが岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ 
《そらちゃうで うちの神さん 願いして 降らしてもろた 雪のカケラや》
                         ―藤原夫人ふじはらのぶにん―(巻二・一〇四)
(ははは これは 一本取られた  
 わしの負けじゃわい 

雪の庭に  
久方ぶりの朝日が 照り映えていた 


<大原>へ

歴史編(23)われ立ちぬれぬ

2009年07月15日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月13
日】

あしひきの 山のしづくに 妹待つと      

     われ立ちぬれぬ 山のしづくに


【大津皇子墓 二上山雄岳頂上】

(遅いぞ 郎女いらつめ
大津は 待っていた 
(いつも こうだ 
 わしが 待たされる) 
山のを離れた月が 中空なかそらに懸ろうとしている
(来るのか 来ないのか) 
木々の葉は 山の湿りを吸い 露と化し 大津を濡らす 
あしひきの 山のしづくに 妹待つと われ立ちぬれぬ 山のしづくに  
《お前待ち 夜更けの露に 濡れてもた お前待ってて しずくに濡れた》
                         ―大津皇子―(巻二・一〇七)

飛鳥随一の美貌 との誉れ高い 
  石川郎女いしかわのいらつめ
質実剛健 自由闊達 人望豊かな 
  大津皇子おおつのみこ
結ばれるべくしての二人 

大津の歌に 郎女いらつめは応える
われ待つと 君がぬれけむ あしひきの 山のしづくに 成らましものを 
《うち待って あんたが濡れた 山雫やましずく 成りたかったな その山雫やましずく
                         ―石川郎女―(巻二・一〇八)

大津は たかぶりを覚えた
(「わしの肌を濡らした露に 自分の肌も濡らしたかった」と 言うのか 
 あの面差しと同じに 蠱惑的こわくてきな歌)
待ちぼうけの 悔しさはせ 
逢瀬は重なる 

この石川郎女いしかわのいらつめ じつは
政敵 草壁皇子くさかべおうじの思い人でもあった

鵜野讃良うののさららの命を受け
大津の行状を探るは 津守つもりとおる
探索は執拗極め ついに密会現場は押さえられた 
窮地に立つか 大津皇子おおつみこ

大船の 津守のうらに らむとは まさしに知りて わが二人
《見つかんの 分かってたんや 始めから 知ってた上で 二人寝たんや》 
                         ―大津皇子―(巻二・一〇九)

豪胆大津は 揺るぎもせず 



<大津皇子墓>へ

歴史編(24)見し給はまし

2009年07月14日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月14日】

やすみしし わが大君の 夕されば し給ふらし 明けくれば 問ひ給ふらし 
神岳かむおかの 山の黄葉もみぢを 今日もかも 問ひ給はまし 明日もかも し給はまし 
その山を ふりさけ見つつ 夕されば あやに悲しみ  明けくれば うらさび暮し 
荒栲あらたへの 衣の袖は る時もなし
【檜隈大内陵 天武・持統合葬陵】


あぁ なんという 人であったろう 
これほど 強い人が あったであろうか 
沈着 豪気 
それでいて 女人おみなの気も らさない
ここ 飛鳥淨御原宮あすかきよみはらのみやに 大殿おおとのを築き
「神にしあれば」と たたえられた
大王おおきみ中心の 治世を開き 
自らを 天皇すめらみこととされた方

思えば 始まりは 吉野こう であったか
父天智との 確執 亀裂 
われは 夫大海人おおあまを 選んだ
雪降り 寒風吹きすさぶ 道々 
手を携えての 逃避であった 
東国での挙兵を目指し 伊勢 美濃への移動 
背を越す夏草 襲い来る驟雨しゅうう
信じる夫に 付き従っての 行軍 

共にめた辛苦しんく それがきずなを強くした

やすみしし わが大君の 夕されば し給ふらし 明けくれば 問ひ給ふらし 
神岳かむおかの 山の黄葉もみぢを 今日もかも 問ひ給はまし 明日もかも し給はまし 
その山を ふりさけ見つつ 夕されば あやに悲しみ  明けくれば うらさび暮し 
荒栲あらたへの 衣の袖は る時もなし

《朝夕に 神岡もみじ 見たい言う 今日のはどやろ 明日あすはどや
 聞いてたあんた もうらん 今日も聞いてや 明日あすも見て
 その山見るたび 悲しいて 思い出すたび さみしゅうて
 涙流れて 止まらへん》 
                         ―持統天皇―(巻二・一五九)

そうも してれぬ
われが 皇后となり 内助しての施政しせい
草壁の手に 天下が 渡るまで 
われが 支えねば

時に 朱鳥元年(686)九月 
天武崩御時 鵜野讃良うのさらら感懐かんかいは 複雑



<檜隈大内陵(1)>へ



<檜隈大内陵(2)>へ

歴史編(25)暁つゆに

2009年07月13日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月15日】

わが背子せこを 大和へると さ夜更けて
                あかときつゆに わが立ち濡れし

二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を 
                いかにか君が 独り越ゆらむ 
【伊勢神宮の神苑】


夕暮れの伊勢路 
早駆けが一騎 風を巻いて過ぎて行く 
馬上のぬしは 大津皇子おおつのみこ
目指すは 男子禁制伊勢の宮 
(わたしは どうすれば よいのだ 
 姉上 お教えください 
 このままでは いずれほうむられます)
皇子は 騎上 姉大伯おおくに問いかける

朱鳥あかみとり元年(686) 
瑞祥ずいしょうの赤い鳥が現れ
天武十五年を改元のその年 
天皇はついに 波乱の生涯を閉じた 
天下分け目 壬申の乱を制し 
天皇絶対政権を確立 
「大君は 神にしあれば」 
と うたわれし大王おおきみの死

後をべるは誰か
群臣の関心は そこに集まっていた 

皇太子の席には 草壁皇子くさかべのみこ
天武の第二皇子 
鵜野讃良うののさららの後ろ盾を得た最有力候補

大津皇子 
いまは亡き大田皇女おおたのひめみこを母に持つ
天武の第三皇子 
幼年より学にたけ 長じては武を好み 
文武の才備えし 質実剛健の皇子 
すでに草壁 皇太子の任にあるも 
天武は 大津に朝政を取らせた 

両者拮抗きっこうの中での 天武の死

夜明け近く 大津は 馬上の人となり 
「姉上 お別れです 
 お教えは身にしみて・・・」 
短い言葉に 精一杯の思いを込めて 
静かに 頭を下げた 
キッと 前を見据える大津 
あるじを乗せたこまは歩を速めて行く

(このまま 帰していいのか・・・) 
わが背子せこを 大和へると さ夜更けて あかときつゆに わが立ち濡れし
《お前だけ 大和帰して 夜明けまで 夜露に濡れて 立ち尽くしてた》 
(政争の一人道ひとりみち 一緒に行ってやりたいが・・・)
二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ 
《二人でも 行きにくい山 どないして お前一人で 越えて行くんか》 
                     ―大伯皇女―(巻二・一〇五、一〇六)

夜を徹して 何を話したのか 姉と弟 
立ち尽くして 弟を思いやる 姉 
大和へと 馬を急がせる 弟 
明日のわが身を知ってか知らずか 



<伊勢神宮>へ

歴史編(26)君もあらなくに

2009年07月12日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月17日】

神風かむかぜの 伊勢の国にも あらましを
           なにしかけむ 君もあらなくに

見まくり わがする君も あらなくに
           なにしかけむ 馬疲るるに

【名張市夏見廃寺の犬養孝揮毫歌碑:歌は[27]記載の”馬酔木”】


伊賀の国 名張郡なばりのこおり夏見なつみの里
丘の上に 秋風を背にたたずむ人がいる 
目は 遥か西 大和の空を望んでいる 
伊勢 斎宮いつきのみやの任をかれ 都へ向かう大伯皇女おおくのひめみこその人であった

天武二年(674) 弟大津と引き裂かれるように 斎宮いつきのみやとして伊勢に下った
大伯おおく 十三歳の時
しかるべき男子おのことの婚姻がなれば 大津皇子の後ろ盾ができる
それを恐れての 鵜野讃良うののさららの進言に 天武が応える形での 宮入り

今 任かれての旅に 希望はなかった
母も 父も そして 
いとしい弟大津も もうこの世の人ではない 

先の天皇 天武がこうじたのが
朱鳥あかみとり元年(686)九月九日
親友河島皇子の密告により 大津は謀反の罪を着せられた 
天智を父に持つ河島にとって 
鵜野・草壁政権で 生きてゆくには 
他に採るべき道はなかったのであろう 
謀反の発覚が 十月二日 
処刑は 翌三日であった 

あわただしくも過ぎ行きし日
かの人の陰謀としか思えぬ展開 

(なぜあの時 伊勢に来た時 
 止めることが出来なかったのか・・・ 
 いいえ 大津は定められた運命に従っただけなのだ) 

神風かむかぜの 伊勢の国にも あらましを なにしかけむ 君もあらなくに
《伊勢の国 ったらよかった 何のため 帰ってきたんか お前らんに》
見まくり わがする君も あらなくに なにしかけむ 馬疲るるに
《逢いたいと 思うお前は らんのに なんで来たんか 馬疲れるに》
                      ―大伯皇女―(巻二・一六三、一六四)

傾く夕日を 受けて 
大伯皇女おおくのひめみこの影が 長く伸びている



歴史編(27)二上山を

2009年07月11日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月18日】

百伝ももづたふ 磐余いはれの池に 鳴く鴨を
          今日のみ見てや 雲隠りなむ 

うつせみの 人にあるわれや 明日よりは 
          二上山ふたかみやまを 弟世いろせとわが見む

磯のうへに ふる馬酔木あしびを 手折たをらめど
          見すべき君が ありと言はなくに 
【残照に染まる二上山】

夕暮れ迫る磐余いわれの池のほとり
岸辺に 馬酔木あしび 
たわわな房 こうべをたれるかに咲かせている
水面みなもを 二羽の鴨が行く
静かに 広がる水輪みなわ

(弟も あの鴨を 見たのだろうか 
 鴨は いい 
 人の世の 定め 知らぬげに) 

百伝ももづたふ 磐余いはれの池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ 
                         ―大津皇子―(巻三・四一六)
磐余池いわれいけ 鳴く鴨見るん 今日だけや 定めやおもて この世を去るか》

(弟の 覚悟は 出来ていたのだ 
 こうして 鴨をいつくしむ歌を 残したのだもの)

大伯皇女おおくのひめみこは 西を見上げる
目にうつる あかねに染まる二上ふたかみの山

(弟は どうして あのお山に 移されたの 
 仏の教えに言う 西方浄土さいほうじょうどを望む 西の山だから?
 祟りを 恐れた あのお方の お知恵?) 

(もう いいの 
 私の心では あのお山は お前 
 いいわね 大津・・・) 
うつせみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山ふたかみやまを 弟世いろせとわが見む
明日あしたから 二上山ふたかみやまを 弟と おもうて暮らそ この世でひとり》
                         ―大伯皇女―(巻二・一六五)
雄岳おだけ雌岳めだけ鞍部くらぶに 赤い日が沈む
墓所はかしょも 朱に染まっているに違いない

大伯皇女 たたずむかたわら 
馬酔木の花が 揺れている 
磯のうへに ふる馬酔木あしびを 手折たをらめど 見すべき君が ありと言はなくに
《岸に咲く 馬酔木あしびの花を りたいと おもても見せる お前は居らん》
                         ―大伯皇女―(巻二・一六六)



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<馬酔木>へ

歴史編(28)仰ぎて待つに

2009年07月10日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月21日】

・・・大船の 思ひたのみて 天つ水 あふぎて待つに 
           いかさまに 思ほしめせか・・・ 

【草壁皇子の眠る岡宮天皇真弓丘陵】


(なんと したことか 
 お前のため どれだけの苦労を 
 他人ひとの眼が なんと言おうと
 十市皇女とおちを 追い詰めて 高市皇子たけちの 皇太子の芽を摘み・・・
 大伯皇女おおくを 伊勢斎宮いつきのみやに・・・
 大津皇子おおつを 亡きものとし・・・
 なんのための 年月・・・) 
持統女帝は 呆然ぼうぜんたる 日々を過ごしていた
時に 持統三年(689)四月 
草壁皇子くさかべのみこ 弱冠二十八歳の 薨去みまかりであった

温厚篤実おんこうとくじつ 部下の舎人とねりたちに 慕われしが
母 持統の重く熱い思いを 受け止めるには  あまりにも 気弱であったか 

持統女帝より 挽歌ばんかを託された 柿本人麻呂
その 歌音うたねは 荘重を極めた

天地あめつちの はじめの時 ひさかたの あま河原かはらに 
八百万やほよろづ 千万神ちよろづかみの 神集かむつどひ 集ひいまして 神分かむあがち あがちし時に
 
あまの河原に 世の始め 神々多く 集まって 統治おさめの国の 定めした》
天照あまてらす 日女ひるめみこと あめをば 知らしめすと 
葦原あしはらの 瑞穂みづほの国を 天地の 寄り合ひのきはみ 知らしめす 神のみことと 
天雲あまぐもの 八重かき別けて 神下かむくだし いませまつりし

天国あまくに統治おさめる 天照あまてらす 国の極みの 瑞穂国みずほくに 治め給えと みこさんを 雲かき分けて くだらせる》
高照らす 日の皇子は 飛鳥とぶとりの きよみの宮に かむながら 太敷ふとしきまして 
天皇すめろぎの きます国と 天の原 石門いはとを開き 神あがり あがりいましぬ

みこ子孫そのみこ 天武帝 飛鳥の宮に 国作る 作った天皇おおきみ 身罷みまかって 天の国へと のぼられる》
わごおほきみ 皇子みこみことの 天の下 知らしめしせば 
春花はるはなの たふとからむと 望月もちづきの たたはしけむと 
天の下 四方よもの人の 大船の 思ひたのみて 天つ水 あふぎて待つに 
いかさまに 思ほしめせか 

《天武みかどの その御子おこが 治め給えば この国は 春は花咲き 望月は つベきものと 世の人の 望み頼みて その時が 今に来るかと 思いしに》 
由縁つれもなき 真弓まゆみをかに 宮柱 太敷きいまし 御殿みあらかを 高知りまして 
朝ごとに 御言みこと問はさぬ 日月ひつきの 数多まねくなりぬる 
そこゆゑに 皇子の宮人 行方知らずも 

《縁無き里の 真弓岡まゆみおか 築いた御殿みやは 殯宮あらきみや お言葉なしの 日数ひかず過ぎ 仕える宮人みやびと 途方にくれる》 
                         ―柿本人麻呂―(巻二・一六七)
                         殯宮あらきのみや―埋葬に先立つ新城あらきでの祀り



<佐田の岡>へ

歴史編(29)池に潜かず

2009年07月09日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月22日】

島の宮 まがりの池の 放ちどり 人目に恋ひて 池にかづかず

【草壁皇子の島の宮跡付近の明日香川】


「人麻呂 そちは 噂にたがわぬ 歌
 天の原の 神々の「国分くにわかち」からみ起こし
 天孫降臨のこと 
 浄御原きよみはら天皇すめらみことのこと
 そして わが子 草壁の 治世がなれば 
 春花の都 望月の都と よくぞ めたたえてくれた
 草壁も さぞかし 満足であろう」 

「さて 長歌の後は 反歌はんかじゃ」

持統女帝の うながしに 人麻呂 用意の歌を みあげる
ひさかたの あめ見るごとく あふぎ見し 皇子みこ御門みかどの 荒れまくしも
《慕いつつ 仰いで見てた 皇子みこ御殿みや 人住まへんで 荒れて行くんや》
                         ―柿本人麻呂―(巻二・一六八)
あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 夜渡る月の かくらくしも
《明るうに 日は照るけども 月みたい ひかってられた 皇子みこ見られへん》
                         ―柿本人麻呂―(巻二・一六九)
島の宮 まがりの池の 放ちどり 人目に恋ひて 池にかづかず
皇子みこがいた 宮の池住む 放ち鳥 人恋しいと 水にもぐらん》
                         ―柿本人麻呂―(巻二・一七〇)

殯宮あらきのみや 舎人とねりらのすすり泣きの中 ここ真弓の岡に 人麻呂の声が 流れる 
                    殯宮あらきのみや―埋葬に先立つ新城あら)での祀り

―――――――――――――――――――――

人麻呂は 思っていた 
(なんと 気丈な 
 あれほどに 即位を望まれていた 皇子みこ様を 亡くされ 悲嘆のふちに 沈まれているかと お思いしていたに
 この国は 揺るぎはせぬ このお方が られる限り
 わしも このお方について行けば 歌みとして 名をせられるやもしれぬ)

以後 草壁の遺児 軽皇子かるのみこ(文武天皇)の即位まで 持統帝の治世は続く 
しかし  
持統帝は 異常とも言える数の 吉野への行幸 
いさめを無視しての 伊勢行幸
近江へ 紀伊へ・・・ 

そこには 心 おだやかならない 持統が いたのか



<島の宮>へ