18.放生池
カフェの定休日に静岡に出張する仕事は、食品会社の開発部の嘱託というかたちで、図
書の整理をしたり新商品の開発の手伝いをしたりしていた。この会社とのおつきあいは十
年以上にもなり、頼まれた仕事ではなく、私の方からお願いしてもらった仕事だった。
カフェで使うジャムも、私の考えた配合と手順に基づいて、この会社の真空窯で製造して
もらっていた。その後はカフェで作るようになったが、最初に工場で作ったジャムの仕入
れ代金は、分割でもまだ続いていた。正確にいえばかなり残って遅れていた。その分嘱託
の給料から差し引かれて、私の収入はないに等しかった。
代金を払えないほどのジャムを作ったのには訳がある。オリジナルのジャムが少しは人
に知られるようになった時、大手の通販会社から、是非うちで扱いたいが、ついては量が
まとまって必要になるので多数製造してくれと言ってきた。春ジャムの季節が来て、担当
者に連絡をすると、自分は退職することになったので、あとのことはわからないと言う。
初めての授業料は高くついた。
カフェの定休日は、朝五時に起きて京都発六時五十分の新幹線に乗る。静岡で在来線に
乗り換えて清水に着くまで、片道三時間をかけての通勤になる。
京都に越す前、私の京都熱を煽ったものの一つにNHK のドラマ「京ふたり」があった。
ラストは主人公が京都に住んだまま、東京の旅行代理店に新幹線で毎日通勤するという設
定だった。時代の先端を行くような贅沢な通勤に、私もそんなことをしてみたいと思った。
だが実際自分が始めてみると、京都から遠ざかる距離に比例して店や猫のみや子にかかる
心配が膨らんでいく。すし詰めの満員電車に立って通勤するのに比べて、超特急の座席に
腰掛けて通勤する方が楽に見えて、実は慣れてくると座席が窮屈に感じられ、三時間同じ
姿勢でいることにくたびれ、新幹線特有のにおいや換気の悪さに、不快な時間を過ごすこ
とになっていた。
それでも店と住まいの往復以外には身動きの取れない私にとっては、新幹線の窓から見
る山や畑は、唯一季節の移り変わりを知る景色でもあった。
田圃のあぜ道に、九月の一ヶ月どこかには咲いている燃えるような彼岸花。東海の町並
みの遠くに蜃気楼にように浮かぶ、雪を被ったアルプスの頂。終りかけの菜の花畑の黄色
と紫の蓮華草の畑に麦秋の始まった赤い畑がまじわる季節には、トリコロールに彩られる
湖国の平野。
京都駅の跨線橋や豊橋の川沿いで高貴な青紫の花を輝かせる桐の大樹。浜名湖周辺の沼
沢に開く早朝の蓮の花。
蓮は京都でも天龍寺の放生池に咲いている頃だ。嵐山にはもう何度もいっているのに、
天龍寺の蓮はまだ見たことがない。蓮は早朝に咲くので、店が終ってからでは見に行けな
い。定休日には静岡の仕事がある。
静岡に行く日に、嵐山で蓮の花を見てから京都駅に行く手を考えた。嵐山にはJR嵯峨
嵐山駅がある。そこから乗れば店から嵐山までの出費で済み、朝一番の新幹線にも間に合
う。
七月の朝、まだ薄暗い中を起きて二条経由で嵐山に着いた。意外にも朝六時の天龍寺の
境内には近所の人か、観光で泊まっている人か、何人も散策の人がいる。
境内も、目指す放生池までは自由に出入りができる。池が目に入る前から、歩く方向に
蓮が咲いていることは、三脚を持った人に会わなくても知ることができた。蓮は開くとき
にポンと音がするというが、それではない。自然に生える草の花らしい心地よい香りが漂
ってきたからだ。世にある香料や市販の香水とは別の、清しい菊にも似た哲学的な香り。
蓮は朝の冷気の中、すくっと伸びた茎の上に鮮やかな花冠を載せて、時折夏の朝風に音
もなく揺らぎ、泥土の上に極楽浄土を出現させていた。来てよかった。
店が大変な時に、時間もないのに、嵐山までくることはないと言えるのは、次の年があ
る人だろう。いつの頃からか、私は毎日心に貯めるものが増えないといられなくなってい
る。そのお勤めを果たさないのはいけないことで、お勤めに励むのは良いことと思うよう
になっている。何が心に貯められるものかは人それぞれである。
池の前で深呼吸をしてから、嵯峨嵐山駅まで走った。嵯峨線のホームには、通勤の人が
もう電車をまっている。線路脇の家には、芙蓉の花が開いて、夏色を誇示していた。
夏はいつまで続くのだろう。店の三階に越してからは、夜はエアコンのある二階まで蒲
団を運び、ござを敷いて寝ている。築年不詳の建物からは目に見えないダニが湧き出して、
朝起きると体中に赤い斑点が出来ていた。日中は両腕しか出さないけれど、風呂屋に行け
ばダニに刺された跡を人目にさらすことになる。かゆみもひどく、刺された跡は一向に消
えない。風呂屋に来ている人の中に、私がカフェをやっていると知っている人はいないこ
とを祈った。
ダニに刺されたかゆみも赤みも薄らいだ頃、静岡の食品会社から電話がかかってきた。
「上の方の会議で、石井さんの勤務はあと一ヶ月ということになりまして」
もとより会社が私を必要として始まった仕事ではない。京都から静岡までの交通費だけ
でも大きい金額だ。五年間の定収入は有難かった。それだけに店の仕入れに繰り入れてき
た給料がなくなった痛手は大きい。
亀岡市での仕事の帰りにゆみこさん夫婦がカフェに寄ってくれることになった。ゆみこ
さん夫妻は自治体の指導や講演をする仕事をしている。
「まり子さんのお蔭でますます京都が好きになるから、なるべくこっち方面の仕事を引き
受けているの」
カフェの客の中に乳母車に赤ん坊を乗せた夫婦が、ぐずる子供にてこずっているのをみ
つけたゆみこさんは、あやしながら夫婦に話しかけている。私には思いつかない行為であ
る。しかしこれが客商売の基本なのだろう。私が客だったら、店の人には食べ物を出した
ら忘れられたい。本を読もうと、物を落とそうと、放っていてもらった方が寛げる。次に
来たときは顔を覚えていてもらいたくない。だが、おそらく一般的には構ってもらうのを
喜ぶ人の方が多いのだろう。商売は、統計的に多い人を相手にしなければいけないという
ことか。少数派のための店は存在できないのだろうか。
ゆみこさんたちの宿は嵐山のホテルだった。紅葉見物などする余裕のない私は、これを
チャンスとほんの少しでも目の楽しみになるようホテルまで付いて行くことにした。店は
ギャルソンにまかせて。
JR嵯峨嵐山駅を下りてから、ぞろぞろと道いっぱいに埋まる人ごみを避けて、JRの
線路の上にまたがる歩道橋に夫妻を案内した。これは以前バスで嵐山から町中へ戻るとき
に高架車道からみつけたポイントである。遠く東方に大文字が見えることに気付き、車道
に並行する歩道なら景色がいいだろうと推したのだった。
歩道橋は住宅街から住宅街をつなぐ形で線路を跨ぎ、地元の人しか利用することはなさ
そうだった。西を望めば嵐山の紅葉を誰にも邪魔されずに三人で楽しめる、絶好の場所だ
った。
ゆみこさんは私が取材記事を書くこともあろうかと、ホテルのベッドルームまで案内し
てくれた。私も前に泊まったことのあるホテルではあったが、その時は和室だったので、
洋間の設備は見ていなかった。
ゆみこさんたちが荷物を置くと、三人で中庭でお茶を飲んだ。
「今は苦しくても、まり子さんは一国一城の主なのよ。それにカフェは文化を伝える仕事
なのだから」
だから続けなくてはいけない、と励ますゆみこさんの言葉だった。だから続けられると
いうのならどんなに楽だろう。意味がないから続けられないのではない。事は私の辞める
止めないの意志の上には載っていない。止めざるをえない状況になるかもしれないという
私の意志の届かないところにある。
京都でフランス文化を伝えるというのが、最初にカフェを作った目標ではなかったにし
ろ、フランス文化とまではいかなくても、一つの趣味ぐらいは伝えている自覚はある。
京都ではなぜかフランス料理が食べたくなる。昼の簡単な、予約もしないでふらりと入
れる店で、あまり凝らない、フランス人なら誰でも知っているような定番の料理を食べた
くなる。それが昼休みのない朝から晩まで同じメニューでやっている店なら尚よい。私の
カフェではそうしたものを実現したいと思っていた。
嵐山のホテルのテラスは紅葉狩りの客で埋まり、席が空くのを待っている人がいた。店
が気になっていた私は、ゆみこさんの夫がタバコを一本吸ったところで退出した。
十月十一月は観光シーズンというのにカフェの売上げは土日でも二万程度、平日は一万
にも届かない。前年の半分になっていた。気持ちの救いはRive Droite だけが不景気なの
ではなく、京都全体が沈下しているところだった。
新聞を開くと、毎日それなりに名前の知られた会社が倒産している。錦市場で見た、閉
まった板戸の上にべたべた貼られた貸し金業者の脅迫めいた悪態を書いた紙が忘れられな
い。あんな町中の往来の多い店でも夜逃げをする時代なのだと、自分への言い訳をしてい
た。
「ところで、日本にゃもうお客ちゅうもんは、おらんごとなったんじゃなかろうか」
由布院の友人の深見氏の著書には、旅館の創成期の先代の言葉が出てくる。そんな時代
もあった旅館が、いまでは日本を代表する観光旅館の一つになっている。
この言葉を繰り返し思い出しては笑い、励みにしてきた。この言葉を純粋に笑いだけで
思い出せる時は、いつか来るだろうか。
(文中一部仮名)
カフェの定休日に静岡に出張する仕事は、食品会社の開発部の嘱託というかたちで、図
書の整理をしたり新商品の開発の手伝いをしたりしていた。この会社とのおつきあいは十
年以上にもなり、頼まれた仕事ではなく、私の方からお願いしてもらった仕事だった。
カフェで使うジャムも、私の考えた配合と手順に基づいて、この会社の真空窯で製造して
もらっていた。その後はカフェで作るようになったが、最初に工場で作ったジャムの仕入
れ代金は、分割でもまだ続いていた。正確にいえばかなり残って遅れていた。その分嘱託
の給料から差し引かれて、私の収入はないに等しかった。
代金を払えないほどのジャムを作ったのには訳がある。オリジナルのジャムが少しは人
に知られるようになった時、大手の通販会社から、是非うちで扱いたいが、ついては量が
まとまって必要になるので多数製造してくれと言ってきた。春ジャムの季節が来て、担当
者に連絡をすると、自分は退職することになったので、あとのことはわからないと言う。
初めての授業料は高くついた。
カフェの定休日は、朝五時に起きて京都発六時五十分の新幹線に乗る。静岡で在来線に
乗り換えて清水に着くまで、片道三時間をかけての通勤になる。
京都に越す前、私の京都熱を煽ったものの一つにNHK のドラマ「京ふたり」があった。
ラストは主人公が京都に住んだまま、東京の旅行代理店に新幹線で毎日通勤するという設
定だった。時代の先端を行くような贅沢な通勤に、私もそんなことをしてみたいと思った。
だが実際自分が始めてみると、京都から遠ざかる距離に比例して店や猫のみや子にかかる
心配が膨らんでいく。すし詰めの満員電車に立って通勤するのに比べて、超特急の座席に
腰掛けて通勤する方が楽に見えて、実は慣れてくると座席が窮屈に感じられ、三時間同じ
姿勢でいることにくたびれ、新幹線特有のにおいや換気の悪さに、不快な時間を過ごすこ
とになっていた。
それでも店と住まいの往復以外には身動きの取れない私にとっては、新幹線の窓から見
る山や畑は、唯一季節の移り変わりを知る景色でもあった。
田圃のあぜ道に、九月の一ヶ月どこかには咲いている燃えるような彼岸花。東海の町並
みの遠くに蜃気楼にように浮かぶ、雪を被ったアルプスの頂。終りかけの菜の花畑の黄色
と紫の蓮華草の畑に麦秋の始まった赤い畑がまじわる季節には、トリコロールに彩られる
湖国の平野。
京都駅の跨線橋や豊橋の川沿いで高貴な青紫の花を輝かせる桐の大樹。浜名湖周辺の沼
沢に開く早朝の蓮の花。
蓮は京都でも天龍寺の放生池に咲いている頃だ。嵐山にはもう何度もいっているのに、
天龍寺の蓮はまだ見たことがない。蓮は早朝に咲くので、店が終ってからでは見に行けな
い。定休日には静岡の仕事がある。
静岡に行く日に、嵐山で蓮の花を見てから京都駅に行く手を考えた。嵐山にはJR嵯峨
嵐山駅がある。そこから乗れば店から嵐山までの出費で済み、朝一番の新幹線にも間に合
う。
七月の朝、まだ薄暗い中を起きて二条経由で嵐山に着いた。意外にも朝六時の天龍寺の
境内には近所の人か、観光で泊まっている人か、何人も散策の人がいる。
境内も、目指す放生池までは自由に出入りができる。池が目に入る前から、歩く方向に
蓮が咲いていることは、三脚を持った人に会わなくても知ることができた。蓮は開くとき
にポンと音がするというが、それではない。自然に生える草の花らしい心地よい香りが漂
ってきたからだ。世にある香料や市販の香水とは別の、清しい菊にも似た哲学的な香り。
蓮は朝の冷気の中、すくっと伸びた茎の上に鮮やかな花冠を載せて、時折夏の朝風に音
もなく揺らぎ、泥土の上に極楽浄土を出現させていた。来てよかった。
店が大変な時に、時間もないのに、嵐山までくることはないと言えるのは、次の年があ
る人だろう。いつの頃からか、私は毎日心に貯めるものが増えないといられなくなってい
る。そのお勤めを果たさないのはいけないことで、お勤めに励むのは良いことと思うよう
になっている。何が心に貯められるものかは人それぞれである。
池の前で深呼吸をしてから、嵯峨嵐山駅まで走った。嵯峨線のホームには、通勤の人が
もう電車をまっている。線路脇の家には、芙蓉の花が開いて、夏色を誇示していた。
夏はいつまで続くのだろう。店の三階に越してからは、夜はエアコンのある二階まで蒲
団を運び、ござを敷いて寝ている。築年不詳の建物からは目に見えないダニが湧き出して、
朝起きると体中に赤い斑点が出来ていた。日中は両腕しか出さないけれど、風呂屋に行け
ばダニに刺された跡を人目にさらすことになる。かゆみもひどく、刺された跡は一向に消
えない。風呂屋に来ている人の中に、私がカフェをやっていると知っている人はいないこ
とを祈った。
ダニに刺されたかゆみも赤みも薄らいだ頃、静岡の食品会社から電話がかかってきた。
「上の方の会議で、石井さんの勤務はあと一ヶ月ということになりまして」
もとより会社が私を必要として始まった仕事ではない。京都から静岡までの交通費だけ
でも大きい金額だ。五年間の定収入は有難かった。それだけに店の仕入れに繰り入れてき
た給料がなくなった痛手は大きい。
亀岡市での仕事の帰りにゆみこさん夫婦がカフェに寄ってくれることになった。ゆみこ
さん夫妻は自治体の指導や講演をする仕事をしている。
「まり子さんのお蔭でますます京都が好きになるから、なるべくこっち方面の仕事を引き
受けているの」
カフェの客の中に乳母車に赤ん坊を乗せた夫婦が、ぐずる子供にてこずっているのをみ
つけたゆみこさんは、あやしながら夫婦に話しかけている。私には思いつかない行為であ
る。しかしこれが客商売の基本なのだろう。私が客だったら、店の人には食べ物を出した
ら忘れられたい。本を読もうと、物を落とそうと、放っていてもらった方が寛げる。次に
来たときは顔を覚えていてもらいたくない。だが、おそらく一般的には構ってもらうのを
喜ぶ人の方が多いのだろう。商売は、統計的に多い人を相手にしなければいけないという
ことか。少数派のための店は存在できないのだろうか。
ゆみこさんたちの宿は嵐山のホテルだった。紅葉見物などする余裕のない私は、これを
チャンスとほんの少しでも目の楽しみになるようホテルまで付いて行くことにした。店は
ギャルソンにまかせて。
JR嵯峨嵐山駅を下りてから、ぞろぞろと道いっぱいに埋まる人ごみを避けて、JRの
線路の上にまたがる歩道橋に夫妻を案内した。これは以前バスで嵐山から町中へ戻るとき
に高架車道からみつけたポイントである。遠く東方に大文字が見えることに気付き、車道
に並行する歩道なら景色がいいだろうと推したのだった。
歩道橋は住宅街から住宅街をつなぐ形で線路を跨ぎ、地元の人しか利用することはなさ
そうだった。西を望めば嵐山の紅葉を誰にも邪魔されずに三人で楽しめる、絶好の場所だ
った。
ゆみこさんは私が取材記事を書くこともあろうかと、ホテルのベッドルームまで案内し
てくれた。私も前に泊まったことのあるホテルではあったが、その時は和室だったので、
洋間の設備は見ていなかった。
ゆみこさんたちが荷物を置くと、三人で中庭でお茶を飲んだ。
「今は苦しくても、まり子さんは一国一城の主なのよ。それにカフェは文化を伝える仕事
なのだから」
だから続けなくてはいけない、と励ますゆみこさんの言葉だった。だから続けられると
いうのならどんなに楽だろう。意味がないから続けられないのではない。事は私の辞める
止めないの意志の上には載っていない。止めざるをえない状況になるかもしれないという
私の意志の届かないところにある。
京都でフランス文化を伝えるというのが、最初にカフェを作った目標ではなかったにし
ろ、フランス文化とまではいかなくても、一つの趣味ぐらいは伝えている自覚はある。
京都ではなぜかフランス料理が食べたくなる。昼の簡単な、予約もしないでふらりと入
れる店で、あまり凝らない、フランス人なら誰でも知っているような定番の料理を食べた
くなる。それが昼休みのない朝から晩まで同じメニューでやっている店なら尚よい。私の
カフェではそうしたものを実現したいと思っていた。
嵐山のホテルのテラスは紅葉狩りの客で埋まり、席が空くのを待っている人がいた。店
が気になっていた私は、ゆみこさんの夫がタバコを一本吸ったところで退出した。
十月十一月は観光シーズンというのにカフェの売上げは土日でも二万程度、平日は一万
にも届かない。前年の半分になっていた。気持ちの救いはRive Droite だけが不景気なの
ではなく、京都全体が沈下しているところだった。
新聞を開くと、毎日それなりに名前の知られた会社が倒産している。錦市場で見た、閉
まった板戸の上にべたべた貼られた貸し金業者の脅迫めいた悪態を書いた紙が忘れられな
い。あんな町中の往来の多い店でも夜逃げをする時代なのだと、自分への言い訳をしてい
た。
「ところで、日本にゃもうお客ちゅうもんは、おらんごとなったんじゃなかろうか」
由布院の友人の深見氏の著書には、旅館の創成期の先代の言葉が出てくる。そんな時代
もあった旅館が、いまでは日本を代表する観光旅館の一つになっている。
この言葉を繰り返し思い出しては笑い、励みにしてきた。この言葉を純粋に笑いだけで
思い出せる時は、いつか来るだろうか。
(文中一部仮名)