はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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本稿は、
2006年7月23日:力の感覚について -力は感じとれるのか-
の続きにあたるものです。
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「力(force)」という言葉は、Newtonが生まれるよりずっと前から存在していたはずであるし、そうであれば当然、遥か昔から、人は、その「力」の語源となる効果や現象を意識してきたということになる。この場合の「力」の意味が、まさに、予備知識のない初学者がデフォルトで抱いている「力」の素朴な概念のはずであり、教える側がこれをはっきり認識してこそ、はじめて、初学者に対して物理学的な’力’の概念をうまく伝えることができるのではないか、、このような考えが、本稿を書く私のモチベーションになっている。

分析めいた長い説明はやめて(貴重な読者に嫌われそうなので)、結論的なことから書こう。
人が普通に使う「力」の意味は、その効果が発揮される対象を運動の世界に限るとしても、次のどちらかの意に近いものである。

(1)「対象体をある方向に動かそうとする意図(および行為・行動)」

(2)「対象体を目的の方向に動かし得る能力(実力)」

動かす意図をもつ主体は、自己であることもあるし、他者の立場に立つ(あるいは擬人的になぞらえる)ことで、他者や非生物におかれることもある。

例えば、腕相撲で、対戦する両者は、互いに相手の腕を「机に押し付けようとする力を発揮する」のである。そこでは、時間的な経過はそれほど重要ではなく、ましてベクトルとしての加速度などというものはほとんど無縁である。また、対象体が意図する方向に動いてこそ力は意味をもつのであって、力と動きの向きが一致しないのは異常な事ととらえる。これが、一般の人や初学生がもつ「力」の素朴なイメージである。

「物理用語と一般用語の定義が違うのは珍しいことではない!何をごちゃごちゃ言うのだ.」と、いぶかしく思う人もいるだろう。実際、多くの教科書では、このような用語の意味に由来する初学者の戸惑いを、全然考慮しないか、してもせいぜい「日常の言葉とは別物ですよ.」と冷たく突き放すのが通例である。

しかし私は、このような冷たいあしらいには全く賛同しない。言葉を重視するというのは、論理的思考の第一歩である。科学的思考力を自分の力で芽生えさせつつある段階の生徒こそ、このような言葉上の疑問を強く抱き、それに悩むものだ。ただし、優れた数学の力などを使って一気にここを駆け抜ける生徒もいる。それが理想ではある。しかし、そのようなことが可能な生徒は、まさに一握り中の一握りだ。必ずしも秀才ではないが、論理的思考を芽生えさせる力を有する生徒たち、、私は、この生徒の立場を大切にする。(このような人を大切にしないと国民主権の原則が危うくなるとさえ思う.)

さらにまた、「日常のことと一緒にするな.」のような強調ばかりをしていると、「物理とは結局、特殊な(オタクの)世界のものだ.」「試験が終わったら、わけの分からぬ世界からはさっさとオサラバしよう.」などのような意識を学習者に与えてしまう。一貫した理解の爽快さと有益性を伝えるはずの科学が、このような結末に終わって良いはずがない。

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話が少し逸れたようだ。

-----つづく-----

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