はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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本稿は、
2006年7月23日:力の感覚について -力は感じとれるのか-
2006年8月1日:力の感覚について -力は感じとれるのか-(2)
の続きにあたるものです。
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「力」概念に対する人の素朴な認識は、「動かそうとする意図や行為」に近いものであることを述べた。これは、「力」を引き起こす起源の側に、主観をおいて(あるいは仮に移して)考えるということでもある。そう思って、人が体感する「力」とは何かを再考すると、あらためて納得できることも多い。

整形外科で受けた首牽引のリハビリの話に戻ると、人は、無意識的に、首を牽引する機械の側に立って、その機械の行為(動作と言った方が自然だが)としての引っ張り上げる力をイメージしているのである。もちろん、そこでは、機械と治療される自分との相互関係があるので、「その機械の行為の影響を受ける私」のように感じとる微妙な心理が介在する結果として、「機械がもたらすによって自分が上に引き上げられている.」と判断するに至るのだろう。

人が認識する「力」というのは、このように、複雑、、というか、社会性をもつ人間ならではの高度な思考に根ざしているものと考えなければならない。私は、以前に何かの原稿で、”人は太古の昔より体感としての「力」を知っていたであろうが、、”のように書いたことがある。しかし、どうやらこの表現は適切ではなかった。視・聴・味・嗅・触覚などの一環のようには、人は「力」を感じることはない。力の認識というのは、もっとずっと高度な次元でなされるものであった。

一方、Newtonは、「力(force)」を意味づけるにあたって、(上に述べてきたような)人が認識する「力」から完全に解き放たれた思考法を採用し、圧倒的なブレークスルーを成し遂げた。このことの詳述が本稿の主旨ではないので一文で記述しよう。

Newtonの発想:『物体が慣性運動から外れた運動をするならば、それは'力'というものがその物体に作用している結果だと考えよう.力の原因や起源が何であるかはとりあえず問う必要はない.』

このような発想が、(ブレークスルーを導く)「客観性」「定量性」「純粋化」のためにどうしても必要であったのだ。

Newtonが、自身が初めて基礎づけた"力"の概念を表す語として、既に(複雑ながらも)一定の意味を有していた「力(force)」という単語を当てたのは、ある意味、意地の悪いことであった(同じようなことは、「観測者」という言葉を使ったEinsteinにも言える)。もしかすると、概念に「客観性」「定量性」「純粋性」をもたせることの重要性と意味を人々にあえて投げかけるという意図があったのかも知れない。

いずれにしても、力学を生徒に教えることの最大の意義は、このような、用語と概念の意味を根本から考えることの重要性と効用を伝えることにあると言ってよい。ところが、国際的に定評ある教科書の中にも、人が先入観としてもっている日常用語的な「力」のイメージからの連想に頼った説明を多用する例を少なからず見かける。言語論理的な思考を発達させつつある生徒に対して、親切どころか、混乱を助長させる可能性があることを認識すべきである。

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