はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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卒・修論の指導に追われる時期だったため、やむなく間があきました。
気持ちを新たに、社会批評風な記述から再開します。
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05-11-30分のタイトル:『定義の曖昧な言葉に気をつけよう』の(短い)記述の中で、「国」という言葉が、ずるがしこくご都合主義的に意味を変えて使われることを示唆した。

しかし、最近、大学の学科内の小会議に出ている際に、大学人までもが、「国」と同様にご都合主義的に意味を捻じ曲げ、ある用語を使う姿を見て、とても情けなくなった。

”社会”がそのある用語だ。この語、特にそれを使った「社会のため」という表現には、水戸の老公の印籠のごとく、大学人の口をつぐませる絶大な効果がある。

いわく、
「大学は、社会が求める人材を送り出さねばならない.」
「社会から見て本学がどう評価されるかが重要だ.」

この場合の社会とは何か。社会科学の社会か。社会主義の社会か。「企業の社会的責任」というときの社会か。違う。単に、生産業における会社組織を指しているのだ。

いくら新自由主義がはびこる時代とは言え、一応は社会科学系の教養科目も学んだはずの大学人が、”社会=生産業者”などという短絡思考(あるいは洗脳?)に陥っている姿には、唖然とする他はない。

確かに、社会という言葉は、いろいろな切り口で扱われる言葉である。それは構わない。数学用語のように定義を一意的にすべきだとは言わない。しかし、社会の構成を考えるときは、いずれの切り口から見るときでも、対立する等価要素を同時に含めて考えねばならない。〔男-女〕、〔資本家-労働者〕、〔生産者-消費者〕、〔短期的要素-長期的要素〕などだ。こういう、対比構造は、一方が強いから他方を軽視してよいというようなものでは決してない。どちらか一方だけでは、社会が根本的に成り立たないからだ。(社会科の勉強とは、こういうことを理解するためのものではないのか...)

あえて極端なところを言えば、悪どい為政者や、欲深い資本家に、易々とそそのかされることのない知的な洞察力を国民につけさせることも、高等教育機関の重要な社会的責務である。

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