はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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「結果の平等でなく機会の平等を」,「平等より競争が活性を招く」などと謳う論調を頻繁に目にするようになった。ここに悪質な言葉の誤魔化しがあることを強く主張したい。

人間社会において、結果についても機会についても、平等などということは絶対にありえない。美醜や、生来の肉体の状況や、親の貧富・家柄などを自分の意思で選ぶことができない以上、「機会均等」は根本的に実現不可能であることに先ず気づくべきだ。

生存競争は生き物の一つの本性だ。何も意識しなくても常に競争は起きている。露骨に言えば、食べ物と異性の奪い合いが、人間を含む生物行動の根本をなしている。

しかし、この競争する生物集団が安定に繁栄するために絶対に必要な条件がある。それが、「必要以上に求めない」という前提だ。実際に、通常の生物集団では、覇者が必要以上に他者を攻撃することはなく、必要十分な食べ物(と異性)を得て、安定化している。

ところが、人間社会においては、「武器の製造」および「資本の集約」という通常の生物界にはない2つの要素を獲得してしまったことによって、欲望と競争の限界の歯止めが無くなってしまった。そのため、欲望と競争に対する、理性による調整が不可欠になった。

結局、競争を前提とした人間社会が繁栄するためには、所得の再分配や社会保障などの平等化の要素を取り入れることが必要だし、また、多様な意見に耳を傾け多様な生き方をそれなりに尊重するという努力を意識的に行なうことが必要なのだ。

社会における「平等」の重要性というのは、平等を実現しようとすることではないし、競争を無くそうとすることでもない。自ずと競争が基調となるが故に、理性による平等性の要素を(強い決意をもって)加えるべきという意味なのだ。「平等ではうまく行かないから競争だ」という論調は、このことの無理解によるか、あるいは分かった上であえて人々を誤解させ、現在立場の強い者の欲望の暴走に対する批判の目を逸らせるための悪質なレトリックと受け取らなければならない。


〔追記〕
上に書いたようなことは、多分、人文・社会科学系の学問の見識のある人にとっては常識的なことだろう。しかし、そのような分野の学者の多くは、今の世相の中で、あまり声を上げているように見えない。私はこれが不思議でならない。メディアのフィルターで阻止されているのか、あるいは、学者自身が、人文・社会科学を実効性の無い論文のネタぐらいにしか思っていなかったということなのか。

〔追記2〕
日曜のTV番組:サンデープロジェクトは最近おかしくなってきている。06.1.15の放送の中で、前原民主党代表に対するコメンテーター(たしか松原何某教授)の質問は次のようなものだった。「せっかく結果平等から機会平等へシフトしたのに、もとに戻すようなことをするのか.」
本稿で述べたように”結果平等”,”機会平等”は、実体が曖昧な煙巻き用語だ。したがって、上の質問に対しては、誰もまともに答えることはできない。2CHの書き込みと同レベルの質問だった。

〔追記3〕
さらにたちの悪い言葉の誤魔化しに「努力が報われる社会」というのがある(つい最近の日経新聞のコラムでも見かけた)。努力が報われるのは良いことに決まっている。したがって、誤魔化してでもこの言葉に結びつければ、反論を封じることができるのだ。

さて、この誤魔化しで使われる「努力」というのは、現在の勝者あるいは勝ちに近い有利な立場にいる人が欲望に駆られて目指している偏狭な努力の意味であって、通常一般の努力の意味とは全く違うことに注意しよう。平たく言えば、自分のやっていることは今以上に報われたいが、別の価値観に根ざす努力は認めたくないということなのだ。

難病に立ち向かって生きる努力をしている人にできるだけの幸福を与えようとか、イラクで誘拐される危険をおかしてまで人道活動をしようとした努力を認めようなどという意識は、これっぽっちも含まれていないことに気をつけよう。

→この追記3については、後日、別稿:「「努力が報われる社会」に騙されるな」にまとめている。

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