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文理両道

専門は電気工学。経営学、経済学、内部監査等にも詳しい。
90以上の資格試験に合格。
執筆依頼、献本等歓迎。

書評:チャレンジする地方鉄道―乗って見て聞いた「地域の足」はこう守る

2015-11-17 06:47:57 | 書評:ビジネス
チャレンジする地方鉄道―乗って見て聞いた「地域の足」はこう守る (交通新聞社新書)
クリエーター情報なし
交通新聞社


 関東への一極集中が続く中で、地方は人口が減り、学校も統廃合が続いて、ローカル線の経営環境はどんどん苦しくなってきている。黙っていても人が乗ってくれる都市部の鉄道とは違い、生き残りのために、ローカル線では様々な取り組みが行われているのをご存じだろうか。「チャレンジする地方鉄道―乗って見て聞いた「地域の足」はこう守る」(堀内重人:交通新聞社)は、全国14のローカル線を取り上げ、その生き残り戦略を紹介したものだ。

 ローカル線といえども、その一義的意義は、地域の生活路線だというところにある。たとえ、列車ダイヤが1日に数本しか無いようなローカル線でも、それがなくては困る人がいるのだ。しかし、地方では、とても地元からの運賃収入では、路線を維持していけないという現実がある。だから、ローカル線の経営主体は、収入を増やすための様々な活動を行わなくてはならないのだ。例えば、イベントを仕掛けて観光客を誘致したり、そのローカル線ならではの物販を行ったりするといったようなことはまだ序の口。枕木やつり革のオーナー制度を取り入れたり、駅名などのネーミングライツ権の販売をといった色々なアイディアで収入を増やそうと努力をしているのである。

 またローカル線は、旧国鉄から切り離された第三セクター形態のものも多い。第三セクターでは、地元自治体の役人が経営者についている例が多いが、お役人では柔軟な発想ができないとして、民間から社長を公募したところもあるという。お役人は柔軟な発想ができないというのは、定説のようになっているが、これが正しいとすれば、通常の行政事務を行っていくうえでも、困ったことだ。もちろん、鉄道経営に限らず、できる人を連れてくるというのは当然のことだし、そうしなければならない。

 鉄道会社の負担を減らすためにインフラ部分は地方自治体が持ち、鉄道会社は、列車の運行に専念するという上下分離方式を取り入れているところもある。関係自治体の負担は増えるが、地域の足を守るためにはこれもひとつの手段だと思う。

 私が大学を卒業して就職してからでも、中国地方では多くのローカル線が廃線になった。一度失われた鉄道は、よほどのことがなければ再建されない。しかし本書を読めば、その一方で、様々な知恵を絞って生き残っているローカル線も沢山あることも分かる。そんな頑張っているローカル線にエールを送りたくなってくる一冊だ。

☆☆☆☆

※本記事は、書評専門の拙ブログ、「風竜胆の書評」に掲載したものです。
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山茶花の垣根

2015-11-16 20:41:23 | 旅行:山口県


 上の写真は、帰省した折に見かけた、山茶花の生垣とでも言えば良いのだろうか。生垣なら、土地を囲っているはずだが、ここには、この一面しかなかったように記憶している。まあ、最近の私の記憶は、あてにはならないのだが(笑)。


 だんだん花が少なくなるこの季節に、これだけ咲いているというのは、なかなか情緒があってよい。花の色も、あまり見かけたことはないものだったので、思わず写真を撮ってしまった。


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またしても寺の跡取り息子の話(思い出シリーズ35)

2015-11-16 12:22:47 | 思い出シリーズ
 またしても、幼馴染の寺の跡取り息子の話である。

 大学時代、幼馴染である寺の跡取り息子が、僧侶になる勉強をするために、京都にある仏教系の大学に通っていたことは、既に書いた通りだ。

 時々会っていたが、人の顔を見ると、いつも女の子の話しかされた記憶しかない。いかにも自分が、もてもてのような感じでしゃべっていたのだが、そのわりには、いつも、合コン、合ハイ(合ハイとは、女子大の女の子たちと一緒に行う「合同ハイキング」のこと。昔は、健全な男子大学生は、こんなことでもしないと、女子と知り合う機会がなかったのだ。合コンは、昔は大学生限定で使われていたと思うが、最近はもっと幅広く使われているようだ。しかし、合ハイってどうなんだろう。今でもうやっているのだろうか)やろうと、人にけしかけてくる。そんなにもてているのなら、合コン、合ハイなんて必要ないだろうと思うのだが。もう一回念押しすると、彼は寺の跡跡取り息子である。立派な坊さんになるために、わざわざ京都の大学まで、勉強をしに来ていたのである。

 さて、この寺の息子、ある時、ちょっと来て手伝って欲しいことがあると電話をかけてきた。行ってみると、食事をおごるから、卒論を手伝ってくれと言う頼み。いったい何をすれば良いのかと思ったら、いきなり浄土真宗関係の書籍を渡され、使えそうなところを抜き出してまとめてくれとのこと。皆さんはもう知っていると思うが、私の専攻は電気工学である。いくらありがたい親鸞様のお言葉でも、そうすぐに、内容が頭の中にすうっと入ってくるわけがない。そのうえ、彼が、どんな論旨で論文を書くつもりかも分からないのである。(多分、本人も何も考えてなかったと思うが。)

 それでも、まあ、適当に書いて渡したが、後でしっかりカップラーメン1杯おごってもらった(これが約束の食事だそうだ)。私も本当に人がいい。その2年後には、彼の弟の卒論も、同じように手伝うはめになろうとは、その時点では知る由も無かったが・・・。

 その後、彼がどのような卒論を仕上げたかは知らないが、ともあれ、その彼も、いまは立派な?住職になっている。

※本記事は、2006.02.15付で、「時空の流離人」に掲載したものに加除修正を行ったものです。


○関連過去記事
警察に捕まったヤツをもらい下げに行った話(思い出シリーズ34)

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書評:この方法で生きのびよ! ―沈む船から脱出できる5つのルール

2015-11-15 09:34:38 | 書評:ビジネス
この方法で生きのびよ! ―沈む船から脱出できる5つのルール
クリエーター情報なし
経済界


 帯に、<社会からの「切り捨て」に遭わないために>と銘打った、「この方法で生きのびよ! ―沈む船から脱出できる5つのルール」(鈴木博毅;経済界)。

 一読して感じたのは、書かれていることの視点が定まっていないなということ。「はじめに」の部分には、<「5つの恐ろしい氷山」がいま、あなたの船に近づいている>(p4)と書かれている。ここで、「船」とは、自分たちが属している組織やビジネスの枠組みのことで、「氷山」とは、パラダイム・シフトを起こすような、大きな変化のことだ。本書では、この「5つの氷山」として、「代替」、「新芽」、「非常識」、「拡散」、「増殖」を挙げている。

 「はじめに」を読む限りは、自分たちの企業が、「5つの氷山」に例えられる、外部環境からくる脅威にどう対応していくのかという、防衛の視点から書かれているように思える。しかし、本文を読むと、全体的には、むしろ、攻めの視点の方が強く感じられる。

 確かに、「代替」の章については、レコードがCDにとって代わられたように、いつ自分たちのビジネスに代わるものが現れるかもしれないという脅威があることは分かる。だが、「新芽」の章は、絶望的な状況からでも立ち直る、レジリアンスの重要性について、日本の敗戦時の状況などを例に語っているものだ。これを、迫り来る「氷山」だと言われると、かなり違和感を感じる。この章は、むしろ、「氷山」とぶつかった後にどうするかを述べているようだ。

 残りの章についても、自分たちにこのような脅威が近づいているという視点での書き方ではなく、変化の時代である現代においては、こんな心構えでビジネスをやっていかなければならないというような内容だ。「氷山」がどんな脅威をもたらすのかは分かり難く、どう対応していけば良いのかも明確ではないように感じる。そして、「拡散」と「増殖」の違いは、何度読んでも、理解できなかった。著者も書くことに困ったのか、「増殖」に関する章では、やたらと、ウィルスのたとえ話が多く、ビジネスとの関係が分かり難い。いっそここは、「拡散・増殖」という項目でひとくくりにして、氷山の数としては、4つでも良かったのではないかと思う。まさか、縁起の悪い「4」を嫌って、無理に5つにしたのではないとは思うが。

 もうひとつ、そもそも、本書の内容は、企業に関してなのだろうか。それとも、個人に関してなのだろうか。副題には、<沈む船から脱出できる5つのルール>とあるが、脱出するなら個人のことのように思える。しかし、内容の方は、企業が、迫りくる「氷山」の海の中で、どう対応していくべきかというようなことが中心なのではないか。

 思うに、「氷山」という例えを使ったのが悪かったのではないか。「レッド・オーシャン」を抜けて、「ブルー・オーシャン」に至る航路を切り開いていくためのフレームワークということなら、参考になるようなことも多いと思うのだから。

☆☆☆

※本記事は、書評専門の拙ブログ、「風竜胆の書評」に掲載したものです。

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書評:べっぴんぢごく

2015-11-14 20:19:07 | 書評:小説(ミステリー・ホラー)
べっぴんぢごく (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社


 岡山を舞台にした淫靡でホラーな話を書かせたら、この人の右に出る者はいないだろうという、岩井志麻子の「べっぴんぢごく」(新潮社)。私など、岡山というと、「晴れの国」という明るいイメージがあるのだが、確かに北部は中国山脈が深く、明治、大正のころだったら、こう言ったどろどろとした話の舞台に相応しい雰囲気だったのかもしれない。

 この作品は、女6代の100年以上にもわたる、忌まわしくも淫靡な運命を描いた作品である。幕開けは明治30年代の岡山の寒村。作品全体を通しての主人公であるシヲは、乞食の娘として放浪の生活を送っていた。ところが、この地で母を殺され、村一番の分限者の家に下女として引きとられる。だが、心に病を持っていたその家の娘が死んだため、養女として過ごすことになった。

 シヲは禍々しいまでの美貌を備えていたが、その娘のふみ枝は、牛蛙と渾名されるほどの醜女だった。しかし、ふみ枝の産んだ小夜子は、シヲゆずりの美貌を受け継いでいた。以下、冬子、未央子、亜矢と続くが、なぜか、シヲの子孫は、美女と醜女が交互に出現する。

 シヲの誕生自体も業にまみれたものだった。そのためか、シヲにはこの世の住人ではない者たちがつきまとう。シヲ自身は、自分の業をよく認識しており、子孫たちに比べれば、平穏な人生を過ごす。しかし、子孫たちは、奔放だったり、嫉妬深かったりと、それぞれの女の業にまみれた人生だった。

 物語のそこかしこに死霊たちも登場するが、それ自体は別に恐ろしいものとして描かれてはいない。描かれているのは、因果の糸で操られるような女系6代の女たちの哀しさだ。グロテスクとも言える女たちの性と業を描きながら、それを独特の筆致で、単なる官能小説ではなく、見事な文学作品として仕上げている。まさに岩井志麻子の真骨頂発揮といったところだろう。

 美しいが、どこか耽美な香りのする少女を描いた表紙イラストも素晴らしく、この作品の雰囲気を盛り上げてくれる。

☆☆☆☆

※本記事は、2012年02月11日付で、拙ブログ「風竜胆の書評」に掲載したものです。

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ビジネスリーダー育成セミナー:MBAが変える世界

2015-11-14 16:17:01 | セミナー、講演会他






 今日は、朝から、かなり強い雨が降っていたが、県立広島大学が主催する「ビジネスリーダー育成セミナー」というのを聴講に、県民文化センター内にあるサテライトキャンパスひろしままで出かけてきた。これは、日本でもかなり知られるようになったMBAについて、色々な面から紹介するというものであり、今回は、「MBAが変える社会」というテーマでの講演だ。講師は、アクシアムの渡邊光章さん。

 MBAがどんなところで求められているか、県立広島大のMBAコースでは、自分のクラスではこういう風にしたいというような話だった。

 一つ記憶に残ったのは、トップに近いような求人は、公募マーケットには出てこないということ。人事にまかせたらつぶされるので、トップが、スカウトマーケットに依頼してスカウトするのだそうだ。だから、公募市場では、そういった求人は、隠れて見えない。

 確かに、日本の会社で、人事と言う部署は、大抵は保守的で、ろくなことはしない。そのくせ、自分たちの権益を守ることはうまい。会社が生き残りたかったら、まず人事をぶっ潰すことが、その第一歩だというところは、案外多いのではないかと思う。特に、やたらと趣味のように人事制度をいじったりするようなところ、「人材」ではない「人財」だとかといった、やたらと言葉遊びをしたがるくせに、その実、人を「人役」でしか数えないようなところは、要注意だ。


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田舎風景

2015-11-14 11:51:11 | 旅行:山口県


 先般帰省した折の、田舎風景だ。上の写真のように、田んぼはすっかり稲刈りが終わっている。昔は、この後に大麦を植えて、二毛作をしていたものだが、最近はどうなんだろう。




 田んぼ脇の側溝には、なんと浮草が繁殖していた。久しぶりに見たが、この季節まだ元気なんだ。




 そして、いつもの「稲川」風景。昔より、かなり汚くなったが、この川を見ていると、なんとなく落ち着く。

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書評:長く健康でいたければ、「背伸び」をしなさい

2015-11-13 08:03:51 | 書評:学術・教養(人文・社会他)
長く健康でいたければ、「背伸び」をしなさい
クリエーター情報なし
サンマーク出版


 背伸びを、日常生活の中に組み入れれば、健康維持に大いに役立つという、「長く健康でいたければ、「背伸び」をしなさい」(仲野孝明:サンマーク出版)。著者は、三重県四日市市で開業している整体院の4代目だ。

 本書で重要視されているのは、「正しい姿勢」である。姿勢が悪くなれば、背骨や内臓などに歪が生じ、それが様々な症状となって表れるのだ。だから、本書では、「正しい姿勢」の重要性が、繰り返し強調されている。そして、その「正しい姿勢」を手に入れるための手段が「背伸び」という訳だ。そして、本書では、3通りの背伸びについて紹介されている。すなわち

①手を上げない、かんたん背伸び

②腕を伸ばす、しっかり背伸び

③座りながら背伸び

 この3つの背伸びをを、時と場合に応じて、やっていけば良いというのだから簡単だ。「さあっ、やるぞ!」なんて気負う必要は全くない。これなら、仕事をしていても、ちょっとした気分転換替わりにできるだろう。なにより、、お金が1銭もかからないというのが最大の魅力だ。

 本書に述べているように、姿勢が悪ければ、体が歪み、それに伴って様々な症状が現れるということには納得できる。ただ、免疫反応であるアレルギーや、発達障がいの一種であるADHDのようなものまで、間違った姿勢が引き起こす症状に含めているというのは、少し疑問だ。

 しかし、ストレッチが体にいいということを書いた本は、世の中に沢山出回っているし、デスクワークの人は、時々休憩して、体を伸ばしなさいと指導されるのが常だ。だから、背伸びが健康維持に効果的だということは、まず間違いのないところだと思う。この方法を取り入れたとしても、少なくとも損をすることはないと思うので、生活習慣の中に組み込んでみてはどうだろうか。

 最後に、本書には、図がまったくないのが残念だ。言葉で書くだけでなく、実際にイラストや写真を使って示せば、もっと分かりやすくなるのではないだろうか。3種類の背伸び法はもとより、背伸びのコツとされている、「耳の後ろを上に引き上げてるように意識する」といったことなども、言葉で書かれると、なんとなく分かったような分からないような感じなのであるが、図示されれば一目瞭然だろう。

※本記事は、書評専門の拙ブログ、「風竜胆の書評」に掲載したものです。



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日本企業の休暇取得率アップ法

2015-11-12 23:41:30 | オピニオン
 日本の企業では、欧米の企業に比べて、年休消化率が悪いといわれる。欧米では、長期の夏休みをとるのは当然だとも聞くが、日本のサラリーマンは、せいぜいが1週間前後の休みだ。それでは、どうして休みが取れないのか。

 よく言われるように、「休む=悪」という風潮が蔓延しているからだろうか。確かに、ビジネス雑誌の記事やビジネス本などを見ると、「滅私奉公最高!」といった書きぶりのものがほとんどである。

 とにかく会社のために働くことが第一とされ、家庭は二の次。だから、単身赴任などというものが異常に多い。しかし、最近の会社は、昔と違って、最後まで面倒など見てくれはしない。どうして、そんな会社のために滅私奉公をせねばならぬのか。

 そうはいっても、日本人は、他人の目を気にする。特に上司や同僚の目を。自分が休めば、周りに迷惑がかかるとか、あいつは、休んでばかりいると思われるとか。しかし、休めない体制になっているのなら、それは、会社が、労働者の当然の権利を妨げるような体制を敷いているということだろう。日本の企業は、ほぼ例外なく、この意味でブラックなのである。

 この風潮を変えようと思えば、有給休暇を消化できないような企業には、ペナルティを課したり、余った休暇の買い上げを法制化するといったことが必要だろう。日本人は、お上が動かないと何もできないだけでなく、同じ労働者間で足の引っ張り合いをする。仮に、休暇の消化率が100%の会社があったとしたら、自分たちの会社をそのようにしようとするのではなく、その会社の労働条件を非難するのが関の山だろう。本当に救い難い。

 もちろん、一番いいのは、社会全体が、ワーク・ライフバランスということに重きを置くようになることなのだが。
 
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書評:神隠しと日本人

2015-11-12 12:25:57 | 書評:学術・教養(人文・社会他)
神隠しと日本人 (角川ソフィア文庫)
クリエーター情報なし
角川書店


 人が突然いなくなるという、現代では単に「失踪事件」と呼ばれるような出来事。少し前の時代までは、人ならざる者により異界へ連れて行かれたのだと考えられ、「神隠し」と呼ばれた。もちろん、そのような考え方は、近代合理性とは相容れないものであり、現代ではこの言葉は死語となってしまったかのように思える。この「神隠し」を民俗学的な視点から解き明かそうとしたものが本書、「神隠しと日本人」(小松和彦:角川書店)である。

 「神隠し」を行う者は、「隠し神」と呼ばれ、それは天狗だったり、狐だったり、鬼だったりする。面白いことに、それぞれに目的が違うらしい。天狗は特に目的もなく人を連れまわすため、狐は人を化かすため、そして鬼は人を食うためと考えられていたそうだ。しかし、この「神隠し」の主体、今の感覚では、どれをとっても、「神」などではなく、「妖」と言う概念のなかに含まれそうである。一神教の世界なら、間違いなく「悪魔」の方に分類される者たちだろう。このあたりは、「神」と「人」と「妖」の境界があいまいな我が国の民俗文化の特徴のようで、極めて興味深い。

 著者は、「神隠し」には4つのパターンがあると述べている。まず失踪者が無事に発見される場合でこれは本人が失踪中のことを覚えている場合と覚えていない場合の2つに分けられる。3つめは、行方不明のまま発見されない場合。そして4つ目は、死体となって発見される場合である。本書は、色々な文献に記されている「神隠し」の物語を取り上げ、その後ろに潜んでいるものについて考察を加えながら、最後に現代的視点から、「神隠し」を覆っているヴェールを引きはがす。

 ヴェールをはがして見た「神隠し」は、自発的な失踪だったり、誘拐事件や殺人事件だったり自殺だったりと、人間社会のどろどろとした真相を私たちに見せつける。著者は<神隠しとは、こうした実世界の様々な現実をおおい隠すために作りだされ用いられた言葉であり観念だったように思われる>と述べている。「神隠し」は、失踪事件に対する解釈であり納得であり言い訳であったのだ。それは、現実の過酷さを和らげる緩衝装置の役割を果たしていたのだろう。かっての民俗社会自体が、「神隠し」というものを必要としていたのだ。

 近代合理性だけに支配される世の中は味気ない。著者は最後の方で、<現代こそ実は「神隠し」のような社会装置が必要なのではないか>と括っている。しかし、「神隠し」に代るようなものを現代社会に見出すことができるのだろうか。

☆☆☆☆

※本記事は、2012年05月02日付で、書評専門の拙ブログ「風竜胆の書評」に掲載したものです。
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