<中編より続く>
疲れている暇はなし!フィニッシュに向けて猛ダッシュです。
ヴェルディ 『シモン・ボッカネグラ』より
この作品のアメリカ初演はメトでしたが、意外に遅くて、1932年1月28日。
(S,Cはその初演時のプロダクションより。Sはカミーロ・パッラヴィチーニのデザイン。)
”どうして一人離れて~娘よ、その名を呼ぶだけで胸が躍る
Dinne, perche in quest'eremo...Figlia, a tal nome io palpito"
Placido Domingo / Angela Gheorghiu
今回のガラではプッチーニ、ワーグナー、そしてヴェルディを二本歌うドミンゴ。
どの演目でもきちんと自分のものにしているのは感嘆します。
ただし、来シーズンは、この『シモン・~』のシモン役で、
バリトン・ロールを全幕で歌うことが話題となっているドミンゴですが、
どんなに彼の歌声にはバリトン的な響きがある、と感じさせられても、
やっぱり彼はバリトンではなく、まぎれもないテノールである、
そんな考えれば当たり前な事実を再確認させられたのがこの演目でした。
テノールにしてはどしーっと重く、渋さを感じる声をしている彼ですが、
こうしてバリトン向けに書かれた役で聴くと、本来のバリトン歌手によって歌われる歌唱との比較から、
逆にいつもより声が明るく、軽くなったように錯覚するほどです。
来シーズンの全幕上演では、そのテノール的な声で歌われるこの役を
観客側が好きになれるか否かで、若干評価はわかれるのかもしれません。
しかし、役作りの上手さは言わずもがな。
ゲオルギューと父娘というシチュエーションも全く無理なく、リアルです。
ゲオルギューは、しばしば所在無げな手の使い方や、逆に妙なオーバーアクティングなどで、
演技の面の不足が指摘されることがありますが(言っているのはお前だろう!と
私に人差し指を差し向けられる方もいらっしゃいましょうし、その通りでもあるのですが、
私だけではなく、批評家筋からもそういう批判が出ているのを目にします。)
今日のこの役での、上品で、かわいらしさを残した役作りは非常に良かったと思います。
高音もものすごく通っていましたし、やっぱり相手がハンプソン(メトの2006年シーズンの全幕公演)でなく、
ドミンゴだと、力が入るってものなのでしょう。
繰り返しになりますが、これこそがドミンゴ・マジック。
彼の歌だけでなく、共演者からも最高の歌が出てくるという、
一石二鳥、三鳥(入る数字は共演者数次第。)の魔法なのです。
ワーグナー 『ジークフリート』より
アメリカでリング・サイクルが初めて上演されたのはもちろんメトで、1889年3月のこと。
(Cは、ヴォイトのそれは、その1889年のプロダクションでリリ・レーマンが着用したものがモデル。)
”私は永遠でした、今も永遠です Ewig war ich"
Ben Heppner / Deborah Voigt
減量に成功してからのヴォイトは声量に以前のウェイトがなくなり、
歌唱のスケールが小さくなった、と評する人が多く、私も、ここ数年の彼女の歌唱、
特に声のスケールの大きさが要され、彼女が従来得意としてきた役、
たとえば、昨シーズンの『ワルキューレ』のジークリンデや、『トリスタンとイゾルデ』のイゾルデなどを聴くに、
同意せざるを得ないな、、と思い始めていたところだったのですが、
今日のこの演目、彼女のワーグナー歌唱でも最高のものが飛び出しました。
ここ数年では聴いたこともない豊かな声量で、オケの大音量をものともせずオペラハウスを制圧し、
”ワーグナーはこうでないと!”とわくわくさせてくれました。
彼女のこの豊かな声量のせいで、ベン・ヘップナーの声が蚊のなくような声に聴こえたほどです。
ヘップナーも決して不調ではなかったのに、、。
まあ、それくらいヴォイトが会心の出来だったということです。
ヘップナーに関しては、喉の不調が突然の腰砕けを誘発することもあって、
今日も何かをやらかすんじゃないか、とどきどきしながら見守っていましたが、無事に切り抜けてくれました。
ヴォイトはこれが突破口になって、これから先の全幕公演で迫力のある歌唱を聴かせてくれればいいな、と思います。
ちなみに絵のように見える上の写真は、実際の舞台写真で、真ん中にいるのがヴォイトとヘップナーです。
ここから3つは、プッチーニの作品からのテノール・アリア三点セット。
いずれも現行(ただし『トスカ』に関しては、来シーズンの新演出によって
お釈迦になってしまうことが決定しています)のゼッフィレッリのプロダクションより、
彼自身のセットのデザイン画や衣装デザインが参考にされ、プロジェクターでもそれらの一部が紹介されました。
プッチーニ 『ラ・ボエーム』より
”冷たい手を Che gelida manina"
Joseph Calleja
2006年シーズンの『リゴレット』でのマントヴァ公の歌唱が良く、
歌い方に若干癖があるものの、私は決して嫌いではないカレイヤなんですが、
この”冷たい手を”はいけてないですねー。
後に続くデッセイの『椿姫』の一幕からの抜粋で、舞台袖からアルフレードのフレーズを歌ったのが
カレイヤで(フル稼働!)、こういうアルフレードやマントヴァみたいな、
ヴェルディ作品の軽めの役はすごくいいのですが、、。
そういえば、同じヴェルディでも、『マクベス』のマクダフの歌唱は、印象が薄かった。
このブログでの以前の議論の流れから参考までに書いておくと、
このアリアをきちんと正調で歌ってくれてもいたのですが、(なので最高音は正真正銘のハイCでした。
ガラでこのアリアを歌うのだから、当たり前といえば当たり前ですが、最近のトレンドでは、
平気な顔して半音下げで歌う人が出てきても驚きませんよ、私はもう。)
むしろ、彼のこのアリアでの欠点は、高音とかそういったことでは全くなく
(それはむしろ安定していて危なげなし。)、
フレージングの色気のなさ、これに尽きると思います。
続いていく音に滑らかさがなく、個々の音がブツ切れ状態で提示されているような印象を持ちました。
それから彼の声質なんでしょうか?のほほんとしたボンのような役は上手いんですが、
ロドルフォみたいな貧乏人にはカラーがそぐっていない気もします。
アリア後の拍手、劇場は盛り上がってましたが(アリア自体の魅力、知名度もありますから)、
期待値が高かっただけに、いまいち盛り上がれないMadokakipなのでした。
プッチーニ 『トスカ』より
”星は光りぬ E lucevan le stelle"
Aleksandrs Antonenko
現在『ルサルカ』に出演中で、そちらでも好評を得ているアントネンコですが、
私は正直彼の歌声には全く魅力を感じません。
『ルサルカ』の王子役について、ヘップナーに似た不自然な発声の仕方等、
こてんぱんに書いている私ですが、この”星を光りぬ”を聴いても、
やっぱりその印象は変わらないどころか、一層その思いを強くしたくらいです。
彼の歌声に混じる”無理矢理さ”、これが聴いていて、実に私を落ち着かなくさせます。
このアリアについても、”抜く”表現が一切なく、ただただいっぱいいっぱいに声を張り上げるだけ。
声量と表面的には男らしく聴こえる響きのせいで、劇場は大喝采でしたが、
こういう歌唱には、やる気のない拍手を送るのが精一杯の私です。
プッチーニ 『トゥーランドット』より
”誰も寝てはならぬ Nessun dorma"
Marcello Giordani
”もう、やだあ。”
ジョルダーニが舞台に出てきて、目を覆いたくなりました。
なぜって、コレッリばりに毛皮の帽子を被っているんですもの、、。
毛皮の帽子の着こなしで私が許せるのは、こちらの記事で紹介した、コレッリだけなのに!!!
そして、曲が始まり、いきなり、Nessun dorma, nessun dormaの、二度目の低音域でのnessun dormaに大ずっこけ。
だって、声が”全く”出ていないんですから。
彼はこのレンジ、低すぎて声が出ないんですね。じゃあ、なんで歌うんだよーっ!!!!
高音の方はなんとか切り抜けていましたが、オペラというのは、
単純に高い音が出るか、という問題と同等かもしくはそれ以上に、声の質感が大事にされる中にあって、
全く、この役に必要なクオリティが彼の声にはないと思いました。
さらに、これはもう彼についてはずっと長らく続いている問題ですが、
声についてまわるざらつき感と、強引に声を絞り出しているのがあまりにあからさまな様子に、
聴いているこっちが歌に集中できないくらい、気になります。
しかも、三点セットでこれまでに登場したカレイヤやアントネンコに混じると、
生涯教育のために高校に復学してきたおやじさんのような疲れた雰囲気が漂ってます。
実際の年齢ではもっともっと上のドミンゴの舞台プレゼンスには、
一本ぴしーっと筋が通っているのに、これはどうしたことでしょう?
しかし、ある作品やアリアを歌える歌手がいないなら、無理に歌うことない!というのが私の持論で、
”誰も寝てはならぬ”は素晴らしいアリアなだけに、人気もあるし、こういう場に
盛り込みたくなるメトの気持ちもわからないではないですが、
こんなのはこのアリアに対する冒涜です!!!
しかし、来シーズンの演目表とキャストを取り出してみると、
『トゥーランドット』に予定されているカラフ役は、
このジョルダーニ(まじかよ、、)、ポッレッタ、リチトラ、ウェッブとなっていて、
暗澹とした気分になります。
むしろ、これがメト・デビューとなる(ゆえに未聴の)ポッレッタあたりが
ダーク・ホースであってくれることを期待しています。
(ヴァージニア・オペラの『トスカ』の抜粋のYou Tubeではほんの少ししか聴けませんが、
それに限っていうと、なかなかの男前声です。)
このガラに行かれた方は、どうぞ、You Tube(コレッリの歌に関しては、
Corelli, Nessun dormaなどで検索すれば出てくるでしょう。)なり、
お手持ちのCDなりで、お耳直しされてください。
このジョルダーニの歌で、私から拍手を求めるなんて、ありえないことです。
と、本当はプッチーニの作品が大好きである私が大盛り上がりしている筈の場所で、
とんでもない仕打ちを受けてしまったので、すっかり盛り下がってしまいました。
しかし、気を取り直して、次!
ヴェルディ 『椿姫』より
(Cは、ジョネル・ヨルグレスコが1935年のプロダクションのためにデザイン、
1937年にはビドゥ・サヤーオが着用したものがモデルとなっています。)
”ああ、そはかの人か~花より花へ E strano!...Ah, fors'e lui...Sempre libera"
Natalie Dessay / Joseph Calleja
この『椿姫』一幕からの抜粋で、一番印象に残ったのは舞台袖から歌う
アルフレード役のカレイヤの声だと言ったら、叱られるでしょうか?
品性があって、舞台袖であっても、ものすごくフレージングに細かい神経を使っていて、
素晴らしい歌唱だったと思います。
私は常日頃から、NYタイムズの音楽評のピントのぼけぶり、正々堂々とした間違いっぷりに、
湯気を立てている読者の一人ですが、そのNYタイムズのオペラ関係の評で
ずっとバンを張っているのが、トマシーニという人です。
彼は、ものすごく知識も豊富で、本当は公正な判断も出来る人だと私は思っているのですが、
個人的なお付き合いでもあるんでしょうか?
レヴァインと決まった一部の歌手への賛美が目に余るほどで、
それがしばしば、結果として記事をゆがめる結果となっていると感じます。
最近、NYタイムズでは大幅な人員削減があり、音楽評を担当するスタッフもカットされたりしたので、
さすがにこれはまずい、と感じたか、最近では若干それが修整され、
きちんとした公正な評が出てくることが多くはなりましたが。
今回のガラの評も、このトマシーニ氏が手がけていて、その中には、
このデッセイの歌について、”ドラマの面でも、歌の面でも、うっとりさせられるほど素晴らしかった”
と書いていますが、私は全く賛同しません。
まず、声については、特に今シーズンの『夢遊病の女』でもずっとその傾向が続いており、
心配しているのですが、高音域が空虚で、最高音では本当に絞り出さないと出てこない、という感じ。
彼女はもともとその傾向がありますが、ここまで行くと、辛いものがあります。
しかもヴィオレッタは、どんな男性でも買えるような安い売春婦とは違って、
ライフ・スタイル的には、半分社交界に足をつっこんだ高級娼婦なんであり、
その意味では、絶対に、一般女子には手も届かぬようなカリスマ性が必要なんですが、
デッセイのヴィオレッタには、それが残念ながら、ない。
彼女のヴィオレッタは普通の女の子の域を出ていないように私は感じます。
最後のオプショナルの高音を成功させた後(これに挑戦してくれるソプラノが
最近少ないので、その点ではエキサイティングではありましたが)、
デッセイが客に背を向け、片手を空にかざすと、いきなり、後ろにあったシャンデリアが爆発!
、、、、、、。
一体、どういう意味なんでしょう?それくらい、ヴィオレッタの恋心が燃え上がっている、ってこと??
このラス・ヴェガスも真っ青な、チージー(安っぽい)な演出には、鳥肌が立ちました。
ヴェルディ 『オテッロ』より
(1909年の演出から、ヴィットリオ・ロータ、マリオ・サラ、アンジェロ・パッラヴィチーニの
Sと、カランバによるCをリメイク。)
”何も恐れることはない Niun mi tema"
Placido Domingo
(ガラの衣装合わせでオテロの衣装を身につけるドミンゴ)
ずっと彼が当たり役としてきた役なので、素晴らしい結果になるとは想像していましたが。
舞台が転換して、すでに絞殺された後のデスデモーナ(歌はないので、
ダンサーの方と思われます)がベッドに横たわっているおどろおどろしい場面からスタート。
実際の全幕公演では周りに人がいる状況で歌われるこの最後のシーンですが、
あえて、脇の登場人物を舞台にのせず、ドミンゴだけに仕切らせたのは大正解。
舞台にいるのは(死体以外)彼一人なのに、まるで、全幕の公演では一緒に舞台に立っているはずの、
部下やエミリアたちの様子が浮かび上がってくるような、完全なる”ドラマ”に昇華していました。
トマシーニ氏、ドラマ的に素晴らしい、というのは、こういうのを言うんではないでしょうか?
自分の命を絶って、床に崩れ落ちた後、立ち上がっては盛大な止まらぬ拍手が舞台の効果を半減すると思ったのか、
床に身を投げ出したまま、舞台を暗転させたのが一層効果的でした。
なので、客が彼を大喝采するチャンスはここではなし。
まるで、このシーンだけで、全幕を観たかのような、すごい歌唱でした。
コルンゴルト 『死の都』より
(Cは、アメリカ初演となったメトの1921年11月19日の公演で、マリア・イェリッツァが着用したのと同じデザイン。)
”私に残された幸せは(マリエッタの歌) Gluck, das mir verblieb"
Renee Fleming
人気レパートリーではスタイル感のない歌を披露することがままあるフレミング。
そのあたりの自覚があってか、最近、ガラでは、どこでそんな歌拾ってきたの?という、
ややマイナーなアリアを披露することも。今日もそんなパターン。
これなら、他の歌手と不必要に比較されずに済みますしね。フレミング、冴えてます。
しかし、結果から言うと、この選曲は大正解。
レパートリーによっては、異常に気になる彼女のエキセントリックな発声や歌唱ですが、
今日は実際にエキセントリックさが薄かったのか、曲との相性か、全く気になりませんでした。
高音の扱いも非常に繊細で、彼女から聴ける歌唱の中では最良のグループに入るものが聴けましたので満足。
ワーグナー 『ラインの黄金』より
(Cは1889年の演出より)
”城へと橋は架かりました~夕べの空は陽に映えて
Zur Burg fuhrt die Brucke...Abendlich strahlt der Sonne Auge"
James Morris replacing Rene Pape / Yvonne Naef / Garrett Sorenson / Kim Gegley
Kate Lindsey / Tamara Mumford / Lisette Oropesa
いよいよトリの演目。しかし、パペがいない上に、代役のモリスが好調ではなく、
彼以外に舞台にいる歌手たちの顔ぶれがやや地味だったために、
若干尻すぼみな印象に終わってしまったのは残念。
とはいえ、モリスの衰えは、『ドン・カルロ』に比べると、こちらの作品の方が目立たなかったので、
彼を今年のリング・サイクルで聴く予定である私はちょっぴり慰められました。
これで、全予定演目終了。
ジュディ・オングも真っ青の衣装を着た、天井から吊られた天使三人が
コンフェティを撒くなか、(またまたベガスのショー並みの悪趣味全開で私は泡を吹くかと思いました。)
全登場歌手が一人ずつ、舞台挨拶に出てきました。
この順番が結構微妙で、メトの苦労がしのばれます。
中ほどあたりに登場したクウィーチェンが遠慮して、列の端のほうに移動していく様子がかわいらしかったです。
まだまだ、自分は下っ端!という自覚があるんですね。謙虚な人です。
それに比べて、ゲオルギューの威光に傘を着て、ど真ん中に、ドミンゴと一緒に
陣取っているアラーニャ。この勘違いさが、私をいらだたせます。(↓ 証拠写真)
この後、N子さんKさんご夫妻と合流し、私の連れと4人でオペラハウスの近くでディナーを。
私の座っていたボックス席からほとんど真向かいのボックスにお座りになっていたお二人に、
”プッチーニの三点セットは不満でいらっしゃるんだな、とすぐにわかりました。”
と看破され、びっくり仰天。
やる気のない拍手のせいで何もかもお見通しだったようです。
舞台だけでなく、私の反応まで詳しく観察されていたBraviなお二人なのでした。
良い音楽と食事に、楽しいおしゃべり、最高の一日の締めくくりとなりました。
The 125th Anniversary Gala
And Celebration of Placido Domingo's 40 Years at the Met
(スタッフ・リストは字数制限のため省略いたします。前の記事をご参照ください。)
*** 125周年記念ガラ The 125th Anniversary Gala ***
疲れている暇はなし!フィニッシュに向けて猛ダッシュです。
ヴェルディ 『シモン・ボッカネグラ』より
この作品のアメリカ初演はメトでしたが、意外に遅くて、1932年1月28日。
(S,Cはその初演時のプロダクションより。Sはカミーロ・パッラヴィチーニのデザイン。)
”どうして一人離れて~娘よ、その名を呼ぶだけで胸が躍る
Dinne, perche in quest'eremo...Figlia, a tal nome io palpito"
Placido Domingo / Angela Gheorghiu
今回のガラではプッチーニ、ワーグナー、そしてヴェルディを二本歌うドミンゴ。
どの演目でもきちんと自分のものにしているのは感嘆します。
ただし、来シーズンは、この『シモン・~』のシモン役で、
バリトン・ロールを全幕で歌うことが話題となっているドミンゴですが、
どんなに彼の歌声にはバリトン的な響きがある、と感じさせられても、
やっぱり彼はバリトンではなく、まぎれもないテノールである、
そんな考えれば当たり前な事実を再確認させられたのがこの演目でした。
テノールにしてはどしーっと重く、渋さを感じる声をしている彼ですが、
こうしてバリトン向けに書かれた役で聴くと、本来のバリトン歌手によって歌われる歌唱との比較から、
逆にいつもより声が明るく、軽くなったように錯覚するほどです。
来シーズンの全幕上演では、そのテノール的な声で歌われるこの役を
観客側が好きになれるか否かで、若干評価はわかれるのかもしれません。
しかし、役作りの上手さは言わずもがな。
ゲオルギューと父娘というシチュエーションも全く無理なく、リアルです。
ゲオルギューは、しばしば所在無げな手の使い方や、逆に妙なオーバーアクティングなどで、
演技の面の不足が指摘されることがありますが(言っているのはお前だろう!と
私に人差し指を差し向けられる方もいらっしゃいましょうし、その通りでもあるのですが、
私だけではなく、批評家筋からもそういう批判が出ているのを目にします。)
今日のこの役での、上品で、かわいらしさを残した役作りは非常に良かったと思います。
高音もものすごく通っていましたし、やっぱり相手がハンプソン(メトの2006年シーズンの全幕公演)でなく、
ドミンゴだと、力が入るってものなのでしょう。
繰り返しになりますが、これこそがドミンゴ・マジック。
彼の歌だけでなく、共演者からも最高の歌が出てくるという、
一石二鳥、三鳥(入る数字は共演者数次第。)の魔法なのです。
ワーグナー 『ジークフリート』より
アメリカでリング・サイクルが初めて上演されたのはもちろんメトで、1889年3月のこと。
(Cは、ヴォイトのそれは、その1889年のプロダクションでリリ・レーマンが着用したものがモデル。)
”私は永遠でした、今も永遠です Ewig war ich"
Ben Heppner / Deborah Voigt
減量に成功してからのヴォイトは声量に以前のウェイトがなくなり、
歌唱のスケールが小さくなった、と評する人が多く、私も、ここ数年の彼女の歌唱、
特に声のスケールの大きさが要され、彼女が従来得意としてきた役、
たとえば、昨シーズンの『ワルキューレ』のジークリンデや、『トリスタンとイゾルデ』のイゾルデなどを聴くに、
同意せざるを得ないな、、と思い始めていたところだったのですが、
今日のこの演目、彼女のワーグナー歌唱でも最高のものが飛び出しました。
ここ数年では聴いたこともない豊かな声量で、オケの大音量をものともせずオペラハウスを制圧し、
”ワーグナーはこうでないと!”とわくわくさせてくれました。
彼女のこの豊かな声量のせいで、ベン・ヘップナーの声が蚊のなくような声に聴こえたほどです。
ヘップナーも決して不調ではなかったのに、、。
まあ、それくらいヴォイトが会心の出来だったということです。
ヘップナーに関しては、喉の不調が突然の腰砕けを誘発することもあって、
今日も何かをやらかすんじゃないか、とどきどきしながら見守っていましたが、無事に切り抜けてくれました。
ヴォイトはこれが突破口になって、これから先の全幕公演で迫力のある歌唱を聴かせてくれればいいな、と思います。
ちなみに絵のように見える上の写真は、実際の舞台写真で、真ん中にいるのがヴォイトとヘップナーです。
ここから3つは、プッチーニの作品からのテノール・アリア三点セット。
いずれも現行(ただし『トスカ』に関しては、来シーズンの新演出によって
お釈迦になってしまうことが決定しています)のゼッフィレッリのプロダクションより、
彼自身のセットのデザイン画や衣装デザインが参考にされ、プロジェクターでもそれらの一部が紹介されました。
プッチーニ 『ラ・ボエーム』より
”冷たい手を Che gelida manina"
Joseph Calleja
2006年シーズンの『リゴレット』でのマントヴァ公の歌唱が良く、
歌い方に若干癖があるものの、私は決して嫌いではないカレイヤなんですが、
この”冷たい手を”はいけてないですねー。
後に続くデッセイの『椿姫』の一幕からの抜粋で、舞台袖からアルフレードのフレーズを歌ったのが
カレイヤで(フル稼働!)、こういうアルフレードやマントヴァみたいな、
ヴェルディ作品の軽めの役はすごくいいのですが、、。
そういえば、同じヴェルディでも、『マクベス』のマクダフの歌唱は、印象が薄かった。
このブログでの以前の議論の流れから参考までに書いておくと、
このアリアをきちんと正調で歌ってくれてもいたのですが、(なので最高音は正真正銘のハイCでした。
ガラでこのアリアを歌うのだから、当たり前といえば当たり前ですが、最近のトレンドでは、
平気な顔して半音下げで歌う人が出てきても驚きませんよ、私はもう。)
むしろ、彼のこのアリアでの欠点は、高音とかそういったことでは全くなく
(それはむしろ安定していて危なげなし。)、
フレージングの色気のなさ、これに尽きると思います。
続いていく音に滑らかさがなく、個々の音がブツ切れ状態で提示されているような印象を持ちました。
それから彼の声質なんでしょうか?のほほんとしたボンのような役は上手いんですが、
ロドルフォみたいな貧乏人にはカラーがそぐっていない気もします。
アリア後の拍手、劇場は盛り上がってましたが(アリア自体の魅力、知名度もありますから)、
期待値が高かっただけに、いまいち盛り上がれないMadokakipなのでした。
プッチーニ 『トスカ』より
”星は光りぬ E lucevan le stelle"
Aleksandrs Antonenko
現在『ルサルカ』に出演中で、そちらでも好評を得ているアントネンコですが、
私は正直彼の歌声には全く魅力を感じません。
『ルサルカ』の王子役について、ヘップナーに似た不自然な発声の仕方等、
こてんぱんに書いている私ですが、この”星を光りぬ”を聴いても、
やっぱりその印象は変わらないどころか、一層その思いを強くしたくらいです。
彼の歌声に混じる”無理矢理さ”、これが聴いていて、実に私を落ち着かなくさせます。
このアリアについても、”抜く”表現が一切なく、ただただいっぱいいっぱいに声を張り上げるだけ。
声量と表面的には男らしく聴こえる響きのせいで、劇場は大喝采でしたが、
こういう歌唱には、やる気のない拍手を送るのが精一杯の私です。
プッチーニ 『トゥーランドット』より
”誰も寝てはならぬ Nessun dorma"
Marcello Giordani
”もう、やだあ。”
ジョルダーニが舞台に出てきて、目を覆いたくなりました。
なぜって、コレッリばりに毛皮の帽子を被っているんですもの、、。
毛皮の帽子の着こなしで私が許せるのは、こちらの記事で紹介した、コレッリだけなのに!!!
そして、曲が始まり、いきなり、Nessun dorma, nessun dormaの、二度目の低音域でのnessun dormaに大ずっこけ。
だって、声が”全く”出ていないんですから。
彼はこのレンジ、低すぎて声が出ないんですね。じゃあ、なんで歌うんだよーっ!!!!
高音の方はなんとか切り抜けていましたが、オペラというのは、
単純に高い音が出るか、という問題と同等かもしくはそれ以上に、声の質感が大事にされる中にあって、
全く、この役に必要なクオリティが彼の声にはないと思いました。
さらに、これはもう彼についてはずっと長らく続いている問題ですが、
声についてまわるざらつき感と、強引に声を絞り出しているのがあまりにあからさまな様子に、
聴いているこっちが歌に集中できないくらい、気になります。
しかも、三点セットでこれまでに登場したカレイヤやアントネンコに混じると、
生涯教育のために高校に復学してきたおやじさんのような疲れた雰囲気が漂ってます。
実際の年齢ではもっともっと上のドミンゴの舞台プレゼンスには、
一本ぴしーっと筋が通っているのに、これはどうしたことでしょう?
しかし、ある作品やアリアを歌える歌手がいないなら、無理に歌うことない!というのが私の持論で、
”誰も寝てはならぬ”は素晴らしいアリアなだけに、人気もあるし、こういう場に
盛り込みたくなるメトの気持ちもわからないではないですが、
こんなのはこのアリアに対する冒涜です!!!
しかし、来シーズンの演目表とキャストを取り出してみると、
『トゥーランドット』に予定されているカラフ役は、
このジョルダーニ(まじかよ、、)、ポッレッタ、リチトラ、ウェッブとなっていて、
暗澹とした気分になります。
むしろ、これがメト・デビューとなる(ゆえに未聴の)ポッレッタあたりが
ダーク・ホースであってくれることを期待しています。
(ヴァージニア・オペラの『トスカ』の抜粋のYou Tubeではほんの少ししか聴けませんが、
それに限っていうと、なかなかの男前声です。)
このガラに行かれた方は、どうぞ、You Tube(コレッリの歌に関しては、
Corelli, Nessun dormaなどで検索すれば出てくるでしょう。)なり、
お手持ちのCDなりで、お耳直しされてください。
このジョルダーニの歌で、私から拍手を求めるなんて、ありえないことです。
と、本当はプッチーニの作品が大好きである私が大盛り上がりしている筈の場所で、
とんでもない仕打ちを受けてしまったので、すっかり盛り下がってしまいました。
しかし、気を取り直して、次!
ヴェルディ 『椿姫』より
(Cは、ジョネル・ヨルグレスコが1935年のプロダクションのためにデザイン、
1937年にはビドゥ・サヤーオが着用したものがモデルとなっています。)
”ああ、そはかの人か~花より花へ E strano!...Ah, fors'e lui...Sempre libera"
Natalie Dessay / Joseph Calleja
この『椿姫』一幕からの抜粋で、一番印象に残ったのは舞台袖から歌う
アルフレード役のカレイヤの声だと言ったら、叱られるでしょうか?
品性があって、舞台袖であっても、ものすごくフレージングに細かい神経を使っていて、
素晴らしい歌唱だったと思います。
私は常日頃から、NYタイムズの音楽評のピントのぼけぶり、正々堂々とした間違いっぷりに、
湯気を立てている読者の一人ですが、そのNYタイムズのオペラ関係の評で
ずっとバンを張っているのが、トマシーニという人です。
彼は、ものすごく知識も豊富で、本当は公正な判断も出来る人だと私は思っているのですが、
個人的なお付き合いでもあるんでしょうか?
レヴァインと決まった一部の歌手への賛美が目に余るほどで、
それがしばしば、結果として記事をゆがめる結果となっていると感じます。
最近、NYタイムズでは大幅な人員削減があり、音楽評を担当するスタッフもカットされたりしたので、
さすがにこれはまずい、と感じたか、最近では若干それが修整され、
きちんとした公正な評が出てくることが多くはなりましたが。
今回のガラの評も、このトマシーニ氏が手がけていて、その中には、
このデッセイの歌について、”ドラマの面でも、歌の面でも、うっとりさせられるほど素晴らしかった”
と書いていますが、私は全く賛同しません。
まず、声については、特に今シーズンの『夢遊病の女』でもずっとその傾向が続いており、
心配しているのですが、高音域が空虚で、最高音では本当に絞り出さないと出てこない、という感じ。
彼女はもともとその傾向がありますが、ここまで行くと、辛いものがあります。
しかもヴィオレッタは、どんな男性でも買えるような安い売春婦とは違って、
ライフ・スタイル的には、半分社交界に足をつっこんだ高級娼婦なんであり、
その意味では、絶対に、一般女子には手も届かぬようなカリスマ性が必要なんですが、
デッセイのヴィオレッタには、それが残念ながら、ない。
彼女のヴィオレッタは普通の女の子の域を出ていないように私は感じます。
最後のオプショナルの高音を成功させた後(これに挑戦してくれるソプラノが
最近少ないので、その点ではエキサイティングではありましたが)、
デッセイが客に背を向け、片手を空にかざすと、いきなり、後ろにあったシャンデリアが爆発!
、、、、、、。
一体、どういう意味なんでしょう?それくらい、ヴィオレッタの恋心が燃え上がっている、ってこと??
このラス・ヴェガスも真っ青な、チージー(安っぽい)な演出には、鳥肌が立ちました。
ヴェルディ 『オテッロ』より
(1909年の演出から、ヴィットリオ・ロータ、マリオ・サラ、アンジェロ・パッラヴィチーニの
Sと、カランバによるCをリメイク。)
”何も恐れることはない Niun mi tema"
Placido Domingo
(ガラの衣装合わせでオテロの衣装を身につけるドミンゴ)
ずっと彼が当たり役としてきた役なので、素晴らしい結果になるとは想像していましたが。
舞台が転換して、すでに絞殺された後のデスデモーナ(歌はないので、
ダンサーの方と思われます)がベッドに横たわっているおどろおどろしい場面からスタート。
実際の全幕公演では周りに人がいる状況で歌われるこの最後のシーンですが、
あえて、脇の登場人物を舞台にのせず、ドミンゴだけに仕切らせたのは大正解。
舞台にいるのは(死体以外)彼一人なのに、まるで、全幕の公演では一緒に舞台に立っているはずの、
部下やエミリアたちの様子が浮かび上がってくるような、完全なる”ドラマ”に昇華していました。
トマシーニ氏、ドラマ的に素晴らしい、というのは、こういうのを言うんではないでしょうか?
自分の命を絶って、床に崩れ落ちた後、立ち上がっては盛大な止まらぬ拍手が舞台の効果を半減すると思ったのか、
床に身を投げ出したまま、舞台を暗転させたのが一層効果的でした。
なので、客が彼を大喝采するチャンスはここではなし。
まるで、このシーンだけで、全幕を観たかのような、すごい歌唱でした。
コルンゴルト 『死の都』より
(Cは、アメリカ初演となったメトの1921年11月19日の公演で、マリア・イェリッツァが着用したのと同じデザイン。)
”私に残された幸せは(マリエッタの歌) Gluck, das mir verblieb"
Renee Fleming
人気レパートリーではスタイル感のない歌を披露することがままあるフレミング。
そのあたりの自覚があってか、最近、ガラでは、どこでそんな歌拾ってきたの?という、
ややマイナーなアリアを披露することも。今日もそんなパターン。
これなら、他の歌手と不必要に比較されずに済みますしね。フレミング、冴えてます。
しかし、結果から言うと、この選曲は大正解。
レパートリーによっては、異常に気になる彼女のエキセントリックな発声や歌唱ですが、
今日は実際にエキセントリックさが薄かったのか、曲との相性か、全く気になりませんでした。
高音の扱いも非常に繊細で、彼女から聴ける歌唱の中では最良のグループに入るものが聴けましたので満足。
ワーグナー 『ラインの黄金』より
(Cは1889年の演出より)
”城へと橋は架かりました~夕べの空は陽に映えて
Zur Burg fuhrt die Brucke...Abendlich strahlt der Sonne Auge"
James Morris replacing Rene Pape / Yvonne Naef / Garrett Sorenson / Kim Gegley
Kate Lindsey / Tamara Mumford / Lisette Oropesa
いよいよトリの演目。しかし、パペがいない上に、代役のモリスが好調ではなく、
彼以外に舞台にいる歌手たちの顔ぶれがやや地味だったために、
若干尻すぼみな印象に終わってしまったのは残念。
とはいえ、モリスの衰えは、『ドン・カルロ』に比べると、こちらの作品の方が目立たなかったので、
彼を今年のリング・サイクルで聴く予定である私はちょっぴり慰められました。
これで、全予定演目終了。
ジュディ・オングも真っ青の衣装を着た、天井から吊られた天使三人が
コンフェティを撒くなか、(またまたベガスのショー並みの悪趣味全開で私は泡を吹くかと思いました。)
全登場歌手が一人ずつ、舞台挨拶に出てきました。
この順番が結構微妙で、メトの苦労がしのばれます。
中ほどあたりに登場したクウィーチェンが遠慮して、列の端のほうに移動していく様子がかわいらしかったです。
まだまだ、自分は下っ端!という自覚があるんですね。謙虚な人です。
それに比べて、ゲオルギューの威光に傘を着て、ど真ん中に、ドミンゴと一緒に
陣取っているアラーニャ。この勘違いさが、私をいらだたせます。(↓ 証拠写真)
この後、N子さんKさんご夫妻と合流し、私の連れと4人でオペラハウスの近くでディナーを。
私の座っていたボックス席からほとんど真向かいのボックスにお座りになっていたお二人に、
”プッチーニの三点セットは不満でいらっしゃるんだな、とすぐにわかりました。”
と看破され、びっくり仰天。
やる気のない拍手のせいで何もかもお見通しだったようです。
舞台だけでなく、私の反応まで詳しく観察されていたBraviなお二人なのでした。
良い音楽と食事に、楽しいおしゃべり、最高の一日の締めくくりとなりました。
The 125th Anniversary Gala
And Celebration of Placido Domingo's 40 Years at the Met
(スタッフ・リストは字数制限のため省略いたします。前の記事をご参照ください。)
*** 125周年記念ガラ The 125th Anniversary Gala ***