Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

THE 125TH ANNIVERSARY GALA (Sun, Mar 15, 2009) 後編

2009-03-15 | メトロポリタン・オペラ
中編より続く>

疲れている暇はなし!フィニッシュに向けて猛ダッシュです。

ヴェルディ 『シモン・ボッカネグラ』より
この作品のアメリカ初演はメトでしたが、意外に遅くて、1932年1月28日。
(S,Cはその初演時のプロダクションより。Sはカミーロ・パッラヴィチーニのデザイン。)

 ”どうして一人離れて~娘よ、その名を呼ぶだけで胸が躍る 
Dinne, perche in quest'eremo...Figlia, a tal nome io palpito"
   Placido Domingo / Angela Gheorghiu



今回のガラではプッチーニ、ワーグナー、そしてヴェルディを二本歌うドミンゴ。
どの演目でもきちんと自分のものにしているのは感嘆します。
ただし、来シーズンは、この『シモン・~』のシモン役で、
バリトン・ロールを全幕で歌うことが話題となっているドミンゴですが、
どんなに彼の歌声にはバリトン的な響きがある、と感じさせられても、
やっぱり彼はバリトンではなく、まぎれもないテノールである、
そんな考えれば当たり前な事実を再確認させられたのがこの演目でした。
テノールにしてはどしーっと重く、渋さを感じる声をしている彼ですが、
こうしてバリトン向けに書かれた役で聴くと、本来のバリトン歌手によって歌われる歌唱との比較から、
逆にいつもより声が明るく、軽くなったように錯覚するほどです。
来シーズンの全幕上演では、そのテノール的な声で歌われるこの役を
観客側が好きになれるか否かで、若干評価はわかれるのかもしれません。
しかし、役作りの上手さは言わずもがな。
ゲオルギューと父娘というシチュエーションも全く無理なく、リアルです。
ゲオルギューは、しばしば所在無げな手の使い方や、逆に妙なオーバーアクティングなどで、
演技の面の不足が指摘されることがありますが(言っているのはお前だろう!と
私に人差し指を差し向けられる方もいらっしゃいましょうし、その通りでもあるのですが、
私だけではなく、批評家筋からもそういう批判が出ているのを目にします。)
今日のこの役での、上品で、かわいらしさを残した役作りは非常に良かったと思います。
高音もものすごく通っていましたし、やっぱり相手がハンプソン(メトの2006年シーズンの全幕公演)でなく、
ドミンゴだと、力が入るってものなのでしょう。
繰り返しになりますが、これこそがドミンゴ・マジック。
彼の歌だけでなく、共演者からも最高の歌が出てくるという、
一石二鳥、三鳥(入る数字は共演者数次第。)の魔法なのです。


ワーグナー 『ジークフリート』より
アメリカでリング・サイクルが初めて上演されたのはもちろんメトで、1889年3月のこと。
(Cは、ヴォイトのそれは、その1889年のプロダクションでリリ・レーマンが着用したものがモデル。)

 ”私は永遠でした、今も永遠です Ewig war ich"
   Ben Heppner / Deborah Voigt



減量に成功してからのヴォイトは声量に以前のウェイトがなくなり、
歌唱のスケールが小さくなった、と評する人が多く、私も、ここ数年の彼女の歌唱、
特に声のスケールの大きさが要され、彼女が従来得意としてきた役、
たとえば、昨シーズンの『ワルキューレ』のジークリンデや、『トリスタンとイゾルデ』のイゾルデなどを聴くに、
同意せざるを得ないな、、と思い始めていたところだったのですが、
今日のこの演目、彼女のワーグナー歌唱でも最高のものが飛び出しました。
ここ数年では聴いたこともない豊かな声量で、オケの大音量をものともせずオペラハウスを制圧し、
”ワーグナーはこうでないと!”とわくわくさせてくれました。
彼女のこの豊かな声量のせいで、ベン・ヘップナーの声が蚊のなくような声に聴こえたほどです。
ヘップナーも決して不調ではなかったのに、、。
まあ、それくらいヴォイトが会心の出来だったということです。
ヘップナーに関しては、喉の不調が突然の腰砕けを誘発することもあって、
今日も何かをやらかすんじゃないか、とどきどきしながら見守っていましたが、無事に切り抜けてくれました。
ヴォイトはこれが突破口になって、これから先の全幕公演で迫力のある歌唱を聴かせてくれればいいな、と思います。
ちなみに絵のように見える上の写真は、実際の舞台写真で、真ん中にいるのがヴォイトとヘップナーです。

ここから3つは、プッチーニの作品からのテノール・アリア三点セット。
いずれも現行(ただし『トスカ』に関しては、来シーズンの新演出によって
お釈迦になってしまうことが決定しています)のゼッフィレッリのプロダクションより、
彼自身のセットのデザイン画や衣装デザインが参考にされ、プロジェクターでもそれらの一部が紹介されました。

プッチーニ 『ラ・ボエーム』より

 ”冷たい手を Che gelida manina"
   Joseph Calleja
2006年シーズンの『リゴレット』でのマントヴァ公の歌唱が良く、
歌い方に若干癖があるものの、私は決して嫌いではないカレイヤなんですが、
この”冷たい手を”はいけてないですねー。
後に続くデッセイの『椿姫』の一幕からの抜粋で、舞台袖からアルフレードのフレーズを歌ったのが
カレイヤで(フル稼働!)、こういうアルフレードやマントヴァみたいな、
ヴェルディ作品の軽めの役はすごくいいのですが、、。
そういえば、同じヴェルディでも、『マクベス』のマクダフの歌唱は、印象が薄かった。
このブログでの以前の議論の流れから参考までに書いておくと、
このアリアをきちんと正調で歌ってくれてもいたのですが、(なので最高音は正真正銘のハイCでした。
ガラでこのアリアを歌うのだから、当たり前といえば当たり前ですが、最近のトレンドでは、
平気な顔して半音下げで歌う人が出てきても驚きませんよ、私はもう。)
むしろ、彼のこのアリアでの欠点は、高音とかそういったことでは全くなく
(それはむしろ安定していて危なげなし。)、
フレージングの色気のなさ、これに尽きると思います。
続いていく音に滑らかさがなく、個々の音がブツ切れ状態で提示されているような印象を持ちました。
それから彼の声質なんでしょうか?のほほんとしたボンのような役は上手いんですが、
ロドルフォみたいな貧乏人にはカラーがそぐっていない気もします。
アリア後の拍手、劇場は盛り上がってましたが(アリア自体の魅力、知名度もありますから)、
期待値が高かっただけに、いまいち盛り上がれないMadokakipなのでした。

プッチーニ 『トスカ』より

 ”星は光りぬ E lucevan le stelle"
   Aleksandrs Antonenko
現在『ルサルカ』に出演中で、そちらでも好評を得ているアントネンコですが、
私は正直彼の歌声には全く魅力を感じません。
『ルサルカ』の王子役について、ヘップナーに似た不自然な発声の仕方等、
こてんぱんに書いている私ですが、この”星を光りぬ”を聴いても、
やっぱりその印象は変わらないどころか、一層その思いを強くしたくらいです。
彼の歌声に混じる”無理矢理さ”、これが聴いていて、実に私を落ち着かなくさせます。
このアリアについても、”抜く”表現が一切なく、ただただいっぱいいっぱいに声を張り上げるだけ。
声量と表面的には男らしく聴こえる響きのせいで、劇場は大喝采でしたが、
こういう歌唱には、やる気のない拍手を送るのが精一杯の私です。

 プッチーニ 『トゥーランドット』より

 ”誰も寝てはならぬ Nessun dorma"
   Marcello Giordani



”もう、やだあ。”
ジョルダーニが舞台に出てきて、目を覆いたくなりました。
なぜって、コレッリばりに毛皮の帽子を被っているんですもの、、。
毛皮の帽子の着こなしで私が許せるのは、こちらの記事で紹介した、コレッリだけなのに!!!
そして、曲が始まり、いきなり、Nessun dorma, nessun dormaの、二度目の低音域でのnessun dormaに大ずっこけ。
だって、声が”全く”出ていないんですから。
彼はこのレンジ、低すぎて声が出ないんですね。じゃあ、なんで歌うんだよーっ!!!!
高音の方はなんとか切り抜けていましたが、オペラというのは、
単純に高い音が出るか、という問題と同等かもしくはそれ以上に、声の質感が大事にされる中にあって、
全く、この役に必要なクオリティが彼の声にはないと思いました。
さらに、これはもう彼についてはずっと長らく続いている問題ですが、
声についてまわるざらつき感と、強引に声を絞り出しているのがあまりにあからさまな様子に、
聴いているこっちが歌に集中できないくらい、気になります。
しかも、三点セットでこれまでに登場したカレイヤやアントネンコに混じると、
生涯教育のために高校に復学してきたおやじさんのような疲れた雰囲気が漂ってます。
実際の年齢ではもっともっと上のドミンゴの舞台プレゼンスには、
一本ぴしーっと筋が通っているのに、これはどうしたことでしょう?

しかし、ある作品やアリアを歌える歌手がいないなら、無理に歌うことない!というのが私の持論で、
”誰も寝てはならぬ”は素晴らしいアリアなだけに、人気もあるし、こういう場に
盛り込みたくなるメトの気持ちもわからないではないですが、
こんなのはこのアリアに対する冒涜です!!!
しかし、来シーズンの演目表とキャストを取り出してみると、
『トゥーランドット』に予定されているカラフ役は、
このジョルダーニ(まじかよ、、)、ポッレッタ、リチトラ、ウェッブとなっていて、
暗澹とした気分になります。
むしろ、これがメト・デビューとなる(ゆえに未聴の)ポッレッタあたりが
ダーク・ホースであってくれることを期待しています。
(ヴァージニア・オペラの『トスカ』の抜粋のYou Tubeではほんの少ししか聴けませんが、
それに限っていうと、なかなかの男前声です。)
このガラに行かれた方は、どうぞ、You Tube(コレッリの歌に関しては、
Corelli, Nessun dormaなどで検索すれば出てくるでしょう。)なり、
お手持ちのCDなりで、お耳直しされてください。
このジョルダーニの歌で、私から拍手を求めるなんて、ありえないことです。

と、本当はプッチーニの作品が大好きである私が大盛り上がりしている筈の場所で、
とんでもない仕打ちを受けてしまったので、すっかり盛り下がってしまいました。
しかし、気を取り直して、次!

 ヴェルディ 『椿姫』より
(Cは、ジョネル・ヨルグレスコが1935年のプロダクションのためにデザイン、
1937年にはビドゥ・サヤーオが着用したものがモデルとなっています。)

 ”ああ、そはかの人か~花より花へ E strano!...Ah, fors'e lui...Sempre libera"
   Natalie Dessay / Joseph Calleja



この『椿姫』一幕からの抜粋で、一番印象に残ったのは舞台袖から歌う
アルフレード役のカレイヤの声だと言ったら、叱られるでしょうか?
品性があって、舞台袖であっても、ものすごくフレージングに細かい神経を使っていて、
素晴らしい歌唱だったと思います。
私は常日頃から、NYタイムズの音楽評のピントのぼけぶり、正々堂々とした間違いっぷりに、
湯気を立てている読者の一人ですが、そのNYタイムズのオペラ関係の評で
ずっとバンを張っているのが、トマシーニという人です。
彼は、ものすごく知識も豊富で、本当は公正な判断も出来る人だと私は思っているのですが、
個人的なお付き合いでもあるんでしょうか?
レヴァインと決まった一部の歌手への賛美が目に余るほどで、
それがしばしば、結果として記事をゆがめる結果となっていると感じます。
最近、NYタイムズでは大幅な人員削減があり、音楽評を担当するスタッフもカットされたりしたので、
さすがにこれはまずい、と感じたか、最近では若干それが修整され、
きちんとした公正な評が出てくることが多くはなりましたが。
今回のガラの評も、このトマシーニ氏が手がけていて、その中には、
このデッセイの歌について、”ドラマの面でも、歌の面でも、うっとりさせられるほど素晴らしかった”
と書いていますが、私は全く賛同しません。
まず、声については、特に今シーズンの『夢遊病の女』でもずっとその傾向が続いており、
心配しているのですが、高音域が空虚で、最高音では本当に絞り出さないと出てこない、という感じ。
彼女はもともとその傾向がありますが、ここまで行くと、辛いものがあります。
しかもヴィオレッタは、どんな男性でも買えるような安い売春婦とは違って、
ライフ・スタイル的には、半分社交界に足をつっこんだ高級娼婦なんであり、
その意味では、絶対に、一般女子には手も届かぬようなカリスマ性が必要なんですが、
デッセイのヴィオレッタには、それが残念ながら、ない。
彼女のヴィオレッタは普通の女の子の域を出ていないように私は感じます。
最後のオプショナルの高音を成功させた後(これに挑戦してくれるソプラノが
最近少ないので、その点ではエキサイティングではありましたが)、
デッセイが客に背を向け、片手を空にかざすと、いきなり、後ろにあったシャンデリアが爆発!
、、、、、、。
一体、どういう意味なんでしょう?それくらい、ヴィオレッタの恋心が燃え上がっている、ってこと??
このラス・ヴェガスも真っ青な、チージー(安っぽい)な演出には、鳥肌が立ちました。

ヴェルディ 『オテッロ』より
(1909年の演出から、ヴィットリオ・ロータ、マリオ・サラ、アンジェロ・パッラヴィチーニの
Sと、カランバによるCをリメイク。)

 ”何も恐れることはない Niun mi tema"
   Placido Domingo


(ガラの衣装合わせでオテロの衣装を身につけるドミンゴ)

ずっと彼が当たり役としてきた役なので、素晴らしい結果になるとは想像していましたが。
舞台が転換して、すでに絞殺された後のデスデモーナ(歌はないので、
ダンサーの方と思われます)がベッドに横たわっているおどろおどろしい場面からスタート。
実際の全幕公演では周りに人がいる状況で歌われるこの最後のシーンですが、
あえて、脇の登場人物を舞台にのせず、ドミンゴだけに仕切らせたのは大正解。
舞台にいるのは(死体以外)彼一人なのに、まるで、全幕の公演では一緒に舞台に立っているはずの、
部下やエミリアたちの様子が浮かび上がってくるような、完全なる”ドラマ”に昇華していました。
トマシーニ氏、ドラマ的に素晴らしい、というのは、こういうのを言うんではないでしょうか?
自分の命を絶って、床に崩れ落ちた後、立ち上がっては盛大な止まらぬ拍手が舞台の効果を半減すると思ったのか、
床に身を投げ出したまま、舞台を暗転させたのが一層効果的でした。
なので、客が彼を大喝采するチャンスはここではなし。
まるで、このシーンだけで、全幕を観たかのような、すごい歌唱でした。

コルンゴルト 『死の都』より
(Cは、アメリカ初演となったメトの1921年11月19日の公演で、マリア・イェリッツァが着用したのと同じデザイン。)

 ”私に残された幸せは(マリエッタの歌) Gluck, das mir verblieb"
   Renee Fleming



人気レパートリーではスタイル感のない歌を披露することがままあるフレミング。
そのあたりの自覚があってか、最近、ガラでは、どこでそんな歌拾ってきたの?という、
ややマイナーなアリアを披露することも。今日もそんなパターン。
これなら、他の歌手と不必要に比較されずに済みますしね。フレミング、冴えてます。
しかし、結果から言うと、この選曲は大正解。
レパートリーによっては、異常に気になる彼女のエキセントリックな発声や歌唱ですが、
今日は実際にエキセントリックさが薄かったのか、曲との相性か、全く気になりませんでした。
高音の扱いも非常に繊細で、彼女から聴ける歌唱の中では最良のグループに入るものが聴けましたので満足。

ワーグナー 『ラインの黄金』より
(Cは1889年の演出より)

 ”城へと橋は架かりました~夕べの空は陽に映えて
 Zur Burg fuhrt die Brucke...Abendlich strahlt der Sonne Auge"
   James Morris replacing Rene Pape / Yvonne Naef / Garrett Sorenson / Kim Gegley
   Kate Lindsey / Tamara Mumford / Lisette Oropesa
いよいよトリの演目。しかし、パペがいない上に、代役のモリスが好調ではなく、
彼以外に舞台にいる歌手たちの顔ぶれがやや地味だったために、
若干尻すぼみな印象に終わってしまったのは残念。
とはいえ、モリスの衰えは、『ドン・カルロ』に比べると、こちらの作品の方が目立たなかったので、
彼を今年のリング・サイクルで聴く予定である私はちょっぴり慰められました。

これで、全予定演目終了。
ジュディ・オングも真っ青の衣装を着た、天井から吊られた天使三人が
コンフェティを撒くなか、(またまたベガスのショー並みの悪趣味全開で私は泡を吹くかと思いました。)
全登場歌手が一人ずつ、舞台挨拶に出てきました。
この順番が結構微妙で、メトの苦労がしのばれます。
中ほどあたりに登場したクウィーチェンが遠慮して、列の端のほうに移動していく様子がかわいらしかったです。
まだまだ、自分は下っ端!という自覚があるんですね。謙虚な人です。
それに比べて、ゲオルギューの威光に傘を着て、ど真ん中に、ドミンゴと一緒に
陣取っているアラーニャ。この勘違いさが、私をいらだたせます。(↓ 証拠写真)



この後、N子さんKさんご夫妻と合流し、私の連れと4人でオペラハウスの近くでディナーを。
私の座っていたボックス席からほとんど真向かいのボックスにお座りになっていたお二人に、
”プッチーニの三点セットは不満でいらっしゃるんだな、とすぐにわかりました。”
と看破され、びっくり仰天。
やる気のない拍手のせいで何もかもお見通しだったようです。
舞台だけでなく、私の反応まで詳しく観察されていたBraviなお二人なのでした。
良い音楽と食事に、楽しいおしゃべり、最高の一日の締めくくりとなりました。


The 125th Anniversary Gala
And Celebration of Placido Domingo's 40 Years at the Met

(スタッフ・リストは字数制限のため省略いたします。前の記事をご参照ください。)

*** 125周年記念ガラ The 125th Anniversary Gala ***

THE 125TH ANNIVERSARY GALA (Sun, Mar 15, 2009) 中編

2009-03-15 | メトロポリタン・オペラ
前編より続く>

ヴェルディ 『リゴレット』より
(Sは、1951年のハーバート・グラフのプロダクションから、ユージン・バーマンがデザインしたもの。
Cは、1903年にエンリーコ・カルーソが着用したものと同じデザイン。)

 ”風の中の羽根のように(女心の唄) La donna e mobile"
   Juan Diego Florez



今日のガラの中でも、舞台に現れた瞬間、(歌う前から)観客から拍手が巻き起こったのは、
このフローレスとドミンゴくらいではなかったでしょうか?
『リゴレット』のマントヴァ公については、ついぞメトの舞台で歌う機会がないままに、
本人の弁によれば、”少なくともしばらくは歌うことがないと思う”と、
ほぼ役を封印するつもりであるような発言がありましたので、
彼の魅力を最大に引き出すレパートリーは他にあるとはいえ、
”女心の歌”を聴けるという意味では、貴重な機会となりました。
同役を歌うのを止めてしまう理由としては、重さではなく、
曲で必要とされる音域のせいだ、と説明していたフローレス。
確かに、この役をメインの持ち役にするであろうテノールが歌うそれに比べると、
逆に高音がやすやすと出すぎて、カタルシスがない、という面はあります。
また、重さについては、マントヴァ公がソロで歌う部分はオケがそれほど分厚くないので、
問題ではない、と語っていたフローレスですが、
声を聴くのに差し障りがあるような大問題はないですが、やはり、観客が通常この役に期待する
重さのレベルに比べると、”軽い”といわざるをえないでしょう。
ただし、彼の持ち味が最大に引き出される曲ではなかったとしても、
本人がきちんとスコアを勉強し、極めて丁寧に歌っていることは伝わってくる歌で、
フローレスらしいマントヴァではあったと思います。
最後のpensierのerを特大の大のばしにして(オケの最後の音が鳴り終わっても、
まだ伸びてました。)会場を沸かせたフローレス。
通常の全幕公演では、彼が得意としているレパートリーのせいもありますが、
通常よりも、音を増やしたり、音を高くしたりして難度をあげるのは聴いたことがありますが、
(というか、彼はそういう離れ業をしょっちゅうやってます。)
音伸ばしで湧かせた、というのはちょっと記憶にないので、新鮮でした。
ヴェルディ作品ならでは!ガラにはこういう遊び心はとってもいいと思います。
彼は、今日登場した歌手の中でも、もはや別格のオーラが漂いはじめています。


ヴェルディ 『ドン・カルロ』より
(Sは、1950年のマーガレット・ウェブスターのプロダクションから、ロルフ・ジェラールのもの。
Cは、そのプロダクションで、チェーザレ・シエピが着用したもののリデザイン。)

 ”もう彼女は私を愛していない~一人寂しく眠ろう Ella giammai m'amo"
   James Morris
この曲こそパペが歌うのかと思っていたのですが、最初からモリスが予定されていたようです。
彼は2006年シーズンの『マイスタージンガー』、その直後のパーク・コンサートの『ファウスト』
2007年シーズンの『ワルキューレ』あたりでは、衰えを感じるとはいえ、まだしばらくは歌えるだろう、と思っていたのですが、
今シーズンの『オネーギン』のグレーミンで信じられないほどよれよれな歌唱になっていて、
それこそ加速度という意味ではレイミーよりも高ピッチのものすごい勢いで、
声の老化現象がすすんでいるように思いました。
そして、残念ながらそれを確認することになってしまったのが、今日のこの曲。
フィリッポが枯れているほうがいいと言ったって、ここまで枯れてるのは問題。
すでに、声のコントロールが隅々まで及ばなくなっていて、
そのために、声が腰砕けをおこしそうになったり、細部の詰めがゆるい。
むしろ、高音に抜けてしまった方が、まだコントロールが効いているような気がしました。
彼の声域内での中低音の崩壊が激しいです。見た目や立派なたたずまい
(背が高くて、がっちりとしているけど太っていなくて、やっぱり素敵!)に、
加わった年輪は、ビジュアル的にはフィリッポにぴったりなだけに、いかにも残念。


R.シュトラウス 『ばらの騎士』より
1913年12月9日に、アメリカ初演をメトで迎えた作品。
(S,Cともに、そのアメリカ初演の際のプロダクションからで、
それぞれハンス・カウツキー、アルフレッド・ローラーのデザインが参考にされた。)

 ”私が誓ったことは Hab' mir's gelobt"
   Deborah Voigt / Susanne Mentzer / Lisette Oropesa
年齢による歌唱の衰退という、『ドン・カルロ』のようなパターンを除き、
今日最大の珍品は、この『ばらの騎士』からの三重唱。
レヴァインが途中で気合が入りまくり、
”うりゃーっ!”という声が指揮台から聴こえてきてびっくりしましたが、
この三人の組み合わせに最初から問題があったと思います。
まず、ヴォイトはマルシャリンには、声が強すぎ。
この役には、ただ高音が出るだけではなくて、”楽に”高音が出ているように聴こえることが大前提で、
それでこそ、このマルシャリンという大人の女性を描ききれるというものです。
高音が来るたびに、まるでワーグナーの作品かのように絶叫するヴォイト。
決して、『ばらの騎士』を全幕で歌おうなんて、妙な考えを起こさぬようお願いしたい。
そして、そんな彼女の横で、オクタヴィアンを歌うメンツァーの声はかき消されっぱなし。
一方、ゾフィーを歌ったオロペーザ。
彼女は本来はこんなガラに出てくるようなキャリアのある人ではないので、
歌がまだまだ稚拙。一生懸命声を張り上げて歌っているだけ、という印象。
彼女も割ときんきんした強い高音なので、ヴォイトとバッティングして、うるさいよ、もうっ!!って感じでした。
音がたくさん載っているこういう曲こそ、一人一人が繊細に歌わなければいけないのです。
オケも、サマーズが演奏した仰天するくらいひどかった『サロメ』に比べると、
まだレヴァインの方がましで、R.シュトラウスの作品が大好きである私は、
メトがシュトラウスの作品を上手く演奏できないというような悪夢のようなことは
信じたくない気持ちで一杯なのですが、
歌手側の問題と同様に、オケも全パートがいきみすぎなような気がしました。
音の渦の中から美しさがむらむらむらーっと立ち上がってくるのがこの曲なんですが、
残念ながら、混沌のままで終わってしまったような印象です。
しかし、そういえば、この曲では、もともと、ゾフィーをデッセイが歌う予定だったはずなんですが、、。
ま、彼女が入ったところで、珍品に仕上がったことには変わりないでしょう。

モーツァルト 『ドン・ジョヴァンニ』より
(Cは、エツィオ・ピンツァが着用したもののリメイク。)

 ”酒がまわったら(シャンパンの歌) Fin ch'han dal vino"
   Mariusz Kwiecien
ルチーチとならび、現役のバリトンの中では好きで、大期待しているクウィーチェンなんですが、
これはちときつかったか?
まだこの曲一曲で観客を興奮の坩堝に叩き込むほどのカリスマはないですし、
歌いまわしも荒い気がしたのは、レヴァインの猛スピード演奏のせいでしょうか?
ずっと、特にヴェルディとかワーグナー作品なんかでは、ゆったりのったりと演奏することの多かったレヴァインが、
最近、薬でラリってでもいるのかと思うくらい、激早な演奏を繰り出すときがあって、
その毒牙にかかってしまったのかもしれません。可哀想なマリウス、、。
ドン・ジョヴァンニの女性陥落好きのキャラにかけて、
背景に過去の歴史的な女性歌手の写真が18枚並びましたが、
アリアが終わって、クウィーチェンが客席に背を向け、写真に投げキスを送ると、
真ん中にあったマリア・カラスの写真がウィンクを返すようなCGが採用され、客席を沸かせました。
それにしても、彼の持ち味が完全には出なかったのが返す返すも残念。


ワーグナー 『パルシファル』より
バイロイト音楽祭以外で、演奏会形式でなく、きちんとこの作品を舞台にかけた初めての劇場が
メトでした。時は1903年12月24日。
(S,Cもその時のものに基づく。)

 ”哀しや、哀しや、この身の上!~願いをかなえる武器はただ一つ
 Ja, Wehe! Wehe!...Nur eine Waffe taugt"
   Placido Domingo / Thomas Hampson
オペラ好きになってからも、何年もの間、どうしてもイタリアもののようにワーグナーの作品に
入り込むことが出来なかったこの私に、ワーグナー作品への道を開いてくれたのがこの『パルシファル』で、
今でも、一番好きなワーグナーの作品は、リングでも、トリスタンでもなく、この『パルシファル』です。
しかし、私のそんな特別な思いがあるからだけではなく、最高に素晴らしかった今日のこの演目。
聴いているうちに涙が出てしまいました。
ドミンゴが舞台に現れるまで、合唱陣の前に立ち、一人で歌うアンフォルタス役のバリトン。
素晴らしい!!!
抑えた中にほとばしる感情が溢れています。
しかし、誰なんだろう?このバリトン。
あまりにアンフォルタスしていて、どの歌手だか全くわからないんですけど。
普通は、舞台に出てきて声さえ発してくれれば、どの歌手だかすぐわかるので、
プレイビルのキャスト表なんて、ほとんど見ていなかったのですが、
気になって、気になって、そっと膝においてあったプレイビルを見ると、
”アンフォルタス トーマス・ハンプソン”の文字。
きゃあああああああっっっっ!!!
危うく大声をあげそうになるところでした。
しかし、そう言われてじっと舞台に目をこらしても、これがあの俺様ハンプソンだとは絶対に信じられない!
完全に自分を捨て、役になりきってます。
本当に、あなた、ハンプソンよね?!と舞台に降りていって、肩を掴んでゆさぶりたい衝動にかられた位に。
声も良く出ていれば、歌も本当に丁寧。こんな歌、あなた、歌えたの?!
そして、聖なる槍を持って現れるドミンゴ。
もうただでさえ、この世のものでないような曲なのに、この二人が、本当に天上の音楽ともいえる
歌唱を聴かせてくれるもので、私は、このキャストで、『パルシファル』全幕を観たい!!と、
身悶えするような思いでした。
そうだ!素晴らしいクンドリを歌うマイヤーもせっかく揃っているんだから、彼女もキャストに入れて。
それにしても、後半の『シモン・ボッカネグラ』ででも言えることですが、
ドミンゴが舞台に立つと、同じ舞台に立っている他の歌手からも最高の歌が引き出されるような気がします。
誰がトーマス・ハンプソンから、あの俺様な空気を拭いさることができると予想したでしょう。さすが、ドミンゴ様。
今日のハンプソンの歌は”謙虚”という文字がぴったりでした。
鳩が舞い降りてきたときには、涙が溢れて来て、ガラではなく、全幕の最後を鑑賞しているような気持ちでした。
(ちなみにセットも、今日のガラの中ではかなり豪華でした。)
間違いなく、今日最高のパフォーマンスは、歌唱、オケ、合唱全ての面で、この『パルシファル』です。

ここでインターミッション。いつもは、一人で劇場に来て、一人で鑑賞して、
一人でブログに思いのたけをぶちまける!という、”寂しい人”している私ですが、
今日は我が家の犬のちびこい方(私の旧友は、私がアラーニャ嫌いなのを知っていて、
あえて彼に”アラーニャ二号”という源氏名をつけた。もちろん、一号は、兄貴の方。)のお世話を
長い間してくださり、二号の命の恩人である、N子さんとKさんのご夫妻と合流。
別の方のご意見を聞くのは本当に楽しい!
しかも、とてもよくご覧になり、よく耳を傾けられているうえに、
今日のプログラムや出演予定者までもよく予習されていて、
Madokakip、ご意見をチョロまかして、ここに書いてしまいたいくらいでした。
あっという間に時間が経ってしまいましたが、終演後にディナーをご一緒する約束をして、
後半のプログラムにむけ座席に帰還。いよいよ、後半のスタートです!


 モーツァルト 『魔笛』より 序曲
序曲が演奏されている間、前編でもふれた、メトのシンボルの一つである、
マルク・シャガールの絵”音楽の勝利”を使い、デッサンから、
段々絵の具が着色されていく過程をCGにしたものが、舞台上のスクリーンに映しだされました。
『ドン・ジョヴァンニ』に続いて、ラリるレヴァイン。
猛烈な速さで演奏されるこの序曲を、生き生きしている、ととるか、”病的だ、、”と感じるかは、観客次第。
私は、もちろん、、、ですよ。
しかし、こう見ると、レヴァインはモーツァルトで激早になりがち、ということなのか、。
壊れてしまったマリウスとは対照的に、オケは、よくついて行きました。

 プッチーニ 『ジャンニ・スキッキ』より
『ジャンニ・スキッキ』が含まれるプッチーニの『三部作』は、1918年12月14日に、
メトで世界初演を迎えました。

 ”私のお父さん O mio babbino caro "
   Maija Kovalevska
ドミンゴで資金を潤沢に使用したらば、どこかでセーブせねば。
というわけで、『アイーダ』のグレギーナ&ブライス組に続いて、安くあげられた組のコヴァレフスカ。
意味なく、暖炉やソファが動きだし、彼女の歌に聞き惚れている、という様子なんですが、
(スタッフが絵に書かれた家具を持って、右に左になびいている。)
寒すぎる!!こんなの、私が卒業した小学校の学芸会でも見れないくらいのしょぼさですよ!!
そして、これを”かわい~い!”と思うのか、なんなのか、観客にはうふふ、と笑っている人まで。
私、今、この瞬間の、オペラハウスの様子がすんごく、怖いんですが。
大体、このアリアに一体家具が何の関係があるのか?!
コヴァレフスカは、今シーズンの『ラ・ボエーム』で、少し声や歌い方に柔軟性が出てきたかな、と思ったのですが、
やっぱり駄目ですねー。声がかちかち。どうして彼女はこうも声が硬く聴こえるのでしょう?
高音も絶叫モードです。
このアリアは、もっと柔らかさを持って歌ってほしい。
それこそ、彼女の歌の先生、ミレッラ・フレーニのように。

チャイコフスキー 『スペードの女王』より
1910年3月5日に、メトでアメリカ初演。
(Cは、その時に着用された、E.S.フライジンガーがデザインしたものの再現。)

 ”あなたを愛しています Ya vas lyublyu"
   Dmitri Hvorostovsky
ロシアもので来てくれましたね!これは嬉しい!!
そういえば、彼も登場した瞬間に客席から拍手が巻き上がった歌手の一人。
『トロヴァトーレ』のルーナでは、声の重心が下がる場面が多くて、ひやひやさせられるところもありましたが、
この曲では中盤に一度だけ、音がサギー(重心が下がり気味)になった以外は、
その点で気になる部分はありませんでした。
端正な歌唱で、声もよく出ていたと思います。
(アリア単位では、彼は十分にメトのような大箱でも届く声量を持っているとは思います。)
今シーズンの『スペードの女王』でのストヤノフの歌唱に不満が残ったので、
この曲も、ホロストフスキーがこんな小さな役(エレツキー)で全幕に出演することは今後まずないでしょうから、
フローレスのマントヴァと並び、希少価値あり、◎な選曲でした。
観客からの大歓声に、『トロヴァトーレ』の時に続き、
またしても、にっかにかの満面の笑みのホロストフスキー。
私は、昨シーズンまで、彼の舞台挨拶といえば、ぶすーっとした、
”なんか、今日、機嫌悪いですか?”という感じのものしか記憶にないので、
このキャラ・チェンジに戸惑ってます。
きんきらの豪華な衣装、似合ってました。

(冒頭の写真はNYのローカル局、NY1で放映された
『ファウスト』のマルグリートの衣装合わせを行うラドヴァノフスキーと、
今回のガラの衣装担当キャサリーン・ズーバー。)


後編に続く>

The 125th Anniversary Gala
And Celebration of Placido Domingo's 40 Years at the Met

Conductor: James Levine
Director: Phelim McDermott
Associate director & set designer: Julian Crouch
Costume design: Catherine Zuber
Lighting design: Peter Mumford
Video design: Leo Warner & Mark Grimmer for Fifty Nine Productions Ltd.
Sound design: Scott Lehrer
Chorus master: Donald Palumbo
Grand Tier SB 35 Front
ON

*** 125周年記念ガラ The 125th Anniversary Gala ***

THE 125TH ANNIVERSARY GALA (Sun, Mar 15, 2009) 前編

2009-03-15 | メトロポリタン・オペラ
準備編から続く>

そんな風に青筋を立てながら準備をしている最中に友人から電話があって、
”ルネ・パペが降板。”とのこと。
まじかよー!!
ボリスはどうなる?
それから、トリの『ラインの黄金』のヴォータンはどうする?
しかし、私の準備の手を止めるわけには行かないので、
やっとの思いで”代わりは誰?”とだけ聞くと、その答えが、
”トーマス・ハンプソン。”
、、、、、、ひゅるるるる~。
しかし、ちょっと待って下さいよ。
ハンプソンはバリトンだし。
ボリスとか、ヴォータンとか、歌えないし。
ってことは演目ごと変更か?と思うと、ますます暗澹とした気分になってきました。
また彼の、俺様な歌をたっぷり聴かされるのか、と。

オペラハウスに到着すると、ここ最近では、見た事がないほど、
多くのチケット希望者が外に溢れていました。
華やかさでは似た雰囲気のものに、オープニング・ナイトがありますが、
しかし、オープニング・ナイトではこういう光景は(少なくともここまでの希望者の多さは)まず見かけません。

これはオープニング・ナイトがやや社交イベントと化していて、
そういう場が苦手なオペラヘッズは遠慮したり敬遠してしまうのと、
また、例年は今年のオープニング・ナイトのフレミングによるガラのような形式ではなく、
その後に一般のランで引き続き上演される全幕ものが舞台にあげられることが多いので、
同じキャストを後の公演でも観れるので、そういった人はそちらに流れてしまう、ということなどが考えられます。
しかし、今日のこのガラのような面子が、こんな数で、一夜にして揃うのは、メトでもそう頻繁にはないこと。
社交イベントには全く興味がないと思しき激しいオペラヘッズたちが、
正々堂々と、全くの普段着で、”チケット求む!”の紙を掲げ、目を血走らせているのも、当たり前といえば当たり前です。

ほとんど開演ぎりぎりでオペラハウスに入ると、
もらったプレイビルからぴらぴらしている紙片。これだなー、ルネのキャンセル通知は!
さあ、ハンプソンが何を歌うか見てやる!とページを開けば、そこには、
”病欠のパペに変わって、ジョン・トムリンソンがボリスを歌い、
ジェームズ・モリスがヴォータンを歌います。
また、モリスが当初歌う予定だったメフィストフェレスの黄金の子牛の歌は、
ジョン・レリエーが変わりに歌います。”の文字が。

ん、、?トーマス・ハンプソンのことなんて、どこにも書いてないんですけど。
しかし、よーく見ると、ジョン・トムリンソンと、トーマス・ハンプソン、、。
確かに、なんとなーくですが、名前の感じが似てる。
私の友人も、私と同様、全くハンプソンのことがぴんと来ない、というか、
はっきり言って苦手に思っている人なので、
トムリンソンでも、ハンプソンでもどうでもええわ!ってことだったのでしょう。
いいんですよ。そんなもんです、ハンプソンは。
(まあ、間違えられたトムリンソンは迷惑でしょうが。)

従来、メトのガラといえば、これだけ歌われる演目、アリアの数が多い場合、
数種の演目の固定したセットを次々と用い、
そこに、歌手たちが自前のドレスやタキシードを着て現れる、というのが一般的なパターンでしたが、
今回は、プロジェクターやアンプを通した効果音でプログラムをつなぎながら、
非常に簡素なものではありますが、時にはそのプロジェクターの助けも借りながら、
過去の舞台にインスピレーションを受けた、それぞれの場、アリアを想定したセットが組まれていました。
ゆるい構成ではありますが、今日のガラ全体については、
天使(ジュディ・オングの衣装を借りた蝶に見えなくもない)が
観客をショーにいざなう、というような大きなストーリーがあって、
最初と最後をはじめとする要所に彼らが登場。
各演目の前には、その演目がメトで初演された当時のキャスト表(新聞か何かでの告知か、
プレイビルのいずれかだと思われます)が、
また、『魔笛』序曲が演奏される間に、メトのシンボルの一つでもある、
シャガールの絵が段々ペイントされていくアニメーションなどが
プロジェクターに写されたりして、楽しめました。
(ちなみにそのシャガールの絵を銀行の担保に入れることをメトが考えているらしいことが、
少し前のNYタイムズに掲載されていました。そんなに現金の調達に困っているのか?!)

また、衣装に関しては、今日登場する歌手全員のために、
歌唱予定の作品それぞれにあわせたものを準備をしたようで、
ほとんど全てが、過去のプロダクションで着用されたものにインスピレーションを受けた
(おそらく、全くそのままではないが、大体のデザインは守られている、という意味だと思われます。)
ものとなっています。
各演目名の後の()内で、それぞれがどのプロダクションに基づいているか、表記します。
Sはセット、Cはコスチューム(衣装)を意味します。


 グノー 『ファウスト』
メトはここから始まった!といえる演目でガラはスタート。
ブロードウェイ39丁目の旧メトで、1883年10月22日、初年の、オープニング・ナイトの舞台にかかった
記念すべき演目が、グノーの『ファウスト』なのです。
(S、Cともに、その1883年シーズンのもの。)

 合唱 ”ワインでもビールでも Vin ou biere”
   Metropolitan Opera Chorus
今日は全プログラムをレヴァインが指揮したわけですが、ガラ系のイベントで、
これほどまでに彼の指揮の求心力の弱さを感じたのは初めてです。
以前は、特にガラなどの特別な場では、彼がぴしーっとオケを統制し、緊張感を生み出していて、
それがオケから、気迫のこもった音を引き出す理由にもなっていたのですが、
(音楽性がどうの、という話は別の次元の話になりますが、
まずは丁寧かつ気合の入った演奏であったことは、DVD化されている昔のガラの様子などからもわかります。)
しかし、今日は、体調が思わしくないんでしょうか?その指の先まで神経が行き届いた感じがありません。
結果として、オケの演奏も、いつになくバラバラな感じがしましたし、
それはこの曲で、合唱が全くオケとシンクロしていなかったことでも明らかだったように思います。

 ”黄金の子牛の歌 Le veau d'or"
   John Relyea replacing James Morris



今シーズンの『ファウストの劫罰』のメフィストフェレスの印象がまだ強烈なジョン・レリエーが、
先に説明したような事情により、グノーの『ファウスト』のメフィストフェレスとして登場。
また赤い衣装ですね。そして、相変わらずそれが似合ってしまってます。
ただ、声は、彼が絶好調な時は、もっとぱりっとクリスプで、深い声なんですが、
今日の彼は本領発揮とまでは行っていなかったように思います。
この役はまだ全幕では歌ったことがないんでしょうか?
あの『劫罰』のときの、迷いなきデモーニッシュな感じと比べると、
こちらのメフィストフェレスは少しキャラクターが薄かった気もします。
まだ役として、発展途上なのかもしれません。

 ”宝石の歌 O Dieu! que de bijoux...Ah! je ris de me voir"
   Angela Gheorghiu
かれこれ10年以上前になる日本公演の『カルメン』のミカエラ役のブロンドの鬘が気に入らない、と、
わがままを言って前支配人のヴォルピ氏を怒らせたのも今は昔。
ミカエラの鬘より、もっと似合っていないプラチナ・ブロンドの
おばさんパーマのような変てこりんな鬘にも文句を言わずちょこんと頭にのせて登場したゲオルギュー。
今日は彼女は高音の伸びが非常に良く、最近の中では最も好調な日の一つだったように思います。


 ”早く!早く! Alerte! alerte!...Anges purs"
   Sondra Radvanovsky / Roberto Alagna / John Relyea
アラーニャとゲオルギューの夫婦コンビは基本(『つばめ』以外は)ご勘弁!と思っている私なので、
アラーニャの、このラドヴァノフスキーとのコンビはいいかな、と思ったのですが、
どうやら少し無理があったようです。
アラーニャの割と線の細い声は、終始、ラドヴァノフスキーの大きな声の比較対照となってしまい、気の毒。
本来、このあたりのフランスものはアラーニャの歌唱が割と光るレパートリーなのに、、。
ラドヴァノフスキーは、この瓦も破る大声のせいで、逆にキャリア的に損をしているのではないかという気がします。
それこそ、デル・モナコのような声量の持ち主でないと、彼女には太刀打ちできないでしょう。
今、そういうテノールは実に少なく、彼女が全体のアンサンブルをぶち壊しにしてしまうことにもなりかねません。
全幕でキャスティングするのが、非常に難しい人だと感じます。
レリエーすら、影が薄く、何か、”マルグリートがとてもうるさい『ファウスト』”を聴いた感じでした。
もうちょっと優しいたおやかな『ファウスト』が聴きたい。

プッチーニ 『西部の娘』より
1910年12月10日にメトが世界初演の場所となったこの作品。
今回のガラは、ドミンゴのメト・デビュー40周年を記念したガラでもあるからか、
他の演目のセットがあくまで旧演出の雰囲気を残しているだけなのに対し、
こちらは豪華に、ほとんど忠実に再現されていたものの一つ。
(S、Cともに、その初演時のベラスコによるプロダクション。)



 ”やがて来る自由の日 Ch'ella mi creda"
   Placido Domingo
ドミンゴの現在の歌を、”過去のテノールのそれ”呼ばわりする輩は、
この歌唱を聴いてから、出直して来い!と言いたくなります。
細部にまで神経のこもった素晴らしい歌。
老人がフィギュア・スケートの世界大会に登場し、スピードでは上回る若者出場者と、
芸術性を武器に、首位を争っているような感じといいましょうか。
いや、はっきり言って、今日ガラに登場したテノールで、
彼とそういった意味で張り合っている若者出場者の例としてあげられるのはフローレスぐらいで、
(全然違うタイプの歌手ではありますが)
フローレス以外のテノールでは勝負にすらなっていないと言っても良いくらいです。
半分、自分が主役でもあるこの機会はすごく本人にとっても大事だったのでしょう。
その大事なときに、こうしてきちんと絶好調なところに自分のコンディションを持ってこれること自体もすごすぎます。
とにかく、彼が登場した演目は全て、全幕を見たくなった。
彼のようなピカ級の歌手と、そうでない歌手の差はそこにあるんだと思います。
高音も、まっすぐに飛んできていたし(ワブリングはほとんど感じられない。)、
声量も今日は全く問題がなく、観音様を見るように、思わず手を合わせてしまう私でした。
ああ、合掌。


ヴェルディ 『アイーダ』より
ここで安くメトにあげられた、グレギーナとブライスよ、怒れ!
というわけで、セットらしいセットはなし。
(S,なし。Cは1908-9年シーズンにエマ・イームズとルイズ・ホーマーによって着用されたものの復元。)

 ”静かになさい!アイーダが私たちの方にやって来ます Silenzio! Aida verso noi s'avanza!...Fu la sorte"
   Maria Guleghina / Stephanie Blythe
1908-9年という時代がなせるわざか、このエジプトやエチオピアに関する
勘違いなファッションにはちょっとひきました。
特にグレギーナが着用している虹のような布は一体何、、?
当時、アメリカの劇場がアフリカ文化に対して持っていた理解はこんなものか、とちょっと仰天です。
現在のプロダクション(来シーズンのHDに予定されています!)に感謝の念が湧いてきました。
いつもは、私の連れに、肩の肉の豊かさを理由に、アメフの選手呼ばわりされている
マリア・グレギーナですが(自家製の肩パッドに見えるらしい)、
そんな彼女も、ブライスの横に立つと、ものすごく小さく見えるから、あら不思議。
ブライスは、普段、たっぷりした衣装を着ることが多いので、ここまでとは思わなかったのですが、
ほんと、でかい!!!
でも、私は歌手については、歌さえよければ、巨体でも全然OKなので、ノー問題。
で、彼女は、私は才能豊かで、これからさらなる飛躍が期待できるメゾだと思ってはいるのですが、
このアムネリスはまだまだ”研究中””勉強中”の文字がちらちらしました。
フレージングに曖昧なところが散見されましたし、ある意味、魅力と背中合わせになっている、
彼女の少し下がりがちな声(しかし決して音が外れているわけではない)が、この役ではやや鈍重に感じます。
この役に関しては、もっと上に声をひっぱりあげることを心がけた方がいいかも。
もともと、メトでアムネリス!といえば、のザジックの歌と比べると、
高音でのキレは太刀打ちできないので、さらに研究を重ね、彼女の持ち味を高めていくことが大事です。
まだ、その、彼女の”これ!”というものが見えていないような感じのする歌唱でした。
それと、もっともっとこの役は、オケを聴いて遠慮しながら歌うのではなく、
自分がオケをひっぱるくらいに、”私はこう歌う!”というような、
確固としたフレージングや音の長さ(細かい意味での)への自信が必要だと思います。この役での彼女は遠慮しすぎ!
確か、近いうちにメトでこの役に挑戦するはずだと記憶しているので、それまでに彼女の確固としたアムネリスを
作り上げてくれることを期待しています。
一方、グレギーナは、逆にこれまで十分なアイーダ役での実演経験があるからか、
ずっとこなれている感じで、最近の彼女にしては高音も安定していましたし、悪くない歌唱だったと思います。


ムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』より
1913年3月19日、メトでアメリカ初演。
(Cのみ、その1913年のイワン・ビリビンの演出から。)

 ”ボリスの死 Death of Boris(Proshchai, moi sin, umirayu!)"
   John Tomlinson replacing Rene Pape / Jesse Burnside Murray
事前にプレイビルに目を通す習慣のない人は、
”なんかパペ、急に老けて、かつ、体が水気を失って、かすかすになってない?、、”と思わされる
ハンプソン、じゃなかった、トムリンソンの登場。
パペの若くて勢いのある声に比べると、おそらく歳はずっと上であるトムリンソンのそれは枯れ気味。
だけれども、その枯れが決して不利だけに終わらない演目というのが、
オペラにはあって、このボリスはその一つでしょう。(他には『ドン・カルロ』のフィリッポなんかもそう。)
声の深さも今一歩、という感じで、飛び切りの歌唱、というのにはちょっと躊躇しますが、
演技が割合に達者で、観客を最後までひきつけていたのは賞賛に値します。


ヴェルディ 『ナブッコ』より
(Cは、2001年のプロダクションから、アンドレアン・ネオフィトゥによるデザインのもの。)

 ”行け、わが想いよ、金色の翼に乗って Va, pensiero"
   Metropolitan Opera Chorus
オペラ、特にイタリアものが好きなら、この曲は絶対好きなはず!の定番メニュー。
絶対に一緒に歌いだす人がまわりにいるのもこの曲。
そういえば、昨夏のパーク・コンサートでも演奏したばかりでした。
しかし、今日の演奏、『ファウスト』からの合唱とほとんど同じ理由で、
私は、ゲオルギューのまぶだち指揮者マリンが引っ張ったパーク・コンサートの時の方が
ずっと出来が良かったと感じました。
せっかくの曲が、エッジを欠いたまったりした演奏のせいで台無しだったと思います。


 ビゼー 『カルメン』より
(S自体は簡素なものですが、1952年のタイロン・ガスリーのプロダクションから、
ロルフ・ジェラールの手によるセットのデザイン画がプロジェクションで使用されました。
Cは、カルメンの衣装のみ、1935年の公演でローザ・ポンセルが着用したヴァレンティナの衣装をもとに。)

 ”あんたね! 俺だ! C'est toi?...C'est moi...Carmen, il est temps encore"
   Waltraud Meier / Roberto Alagna / Erin Morley / Kate Lindsey
タイのついたドレスと黒い髪をぴっちりとわけた髪型、まるで男装の麗人のような雰囲気でかっこよすぎのマイヤーと、
何となくたたずまいのかっこ悪い男、アラーニャの共演。
しかし、結果は全くの逆。
私は常日頃から、カルメンは、色気べたべたの女性ではなく、むしろ、非常に男性的な女性であると思っていて、
(そう感じ始めるようになってから、これと全く同じことを
カラスがインタビューの中で語っているのを聞いたことがあります。
また、実際、カルメン歌いとして名高かったバルツァの舞台からも、
私は女性特有のむんむんした色気というのを感じたことがありません。)
その意味では、カルメンの、孤独(自由であるということは孤独なのです)、
かつ、凛とした強さをきちんと演技で表現しているという点で、
演技面では、マイヤーのそれは、かなり私の好きなタイプのカルメンなのですが、
いかんせん、声の質と歌い方が、あまりに違和感がありすぎます。
その歌いまわしの妙さ、声の使い方の独自なことは、
ずっと聞いているうちに、『カルメン』ではない作品を聴いているような気がするほどです。
彼女はワーグナーなどの作品では本当に素晴らしい歌手なのですが、
この『カルメン』に関しては、歌唱面では同じレベルの興奮を求められません。
演技が達者なので、ホセに刺し殺されるところなんか、迫力満点でしたが、
全幕でこれを聴くのは辛いです。
(そして、それは、数日後の『カヴァレリア・~』の公演のサントゥッツァ役の歌唱で実証されてしまいます。)
逆に、格好良かった男が格好悪い男に転落していくというホセ役の、
まさに格好悪い方の極地にあたるこの場面を、アラーニャが上手くまとめていました。
マイヤーが相手だと、ラドヴァノフスキーの時のように声が小さく聴こえてしまう錯覚もなし。
ただ、マイヤーがものすごくクールで大人な感じのカルメンなので、
アラーニャとの組み合わせは、少しちぐはぐか?
来シーズンのメトではゲオルギューのカルメン(!)と共演する予定のアラーニャ。
ゲオルギューのカルメンなんて、全然想像できないので、アラーニャとのケミストリーがどうか、
なんてことも予想不可能。実際に観て確かめるしかありません。


中編に続く>


The 125th Anniversary Gala
And Celebration of Placido Domingo's 40 Years at the Met

Conductor: James Levine
Director: Phelim McDermott
Associate director & set designer: Julian Crouch
Costume design: Catherine Zuber
Lighting design: Peter Mumford
Video design: Leo Warner & Mark Grimmer for Fifty Nine Productions Ltd.
Sound design: Scott Lehrer
Chorus master: Donald Palumbo
Grand Tier SB 35 Front
ON

*** 125周年記念ガラ The 125th Anniversary Gala ***

THE 125TH ANNIVERSARY GALA (Sun, Mar 15, 2009) 準備編

2009-03-15 | メトロポリタン・オペラ
125周年記念ガラの日が近づき、てんこ盛りかつ長丁場の予定演目を眺め、
目標とされる寄付金のその多額なことや(ガラのチケット代は通常の座席代に、
寄付金分が加算されたものになっているうえ、さらにそれとはまた別に、
あの手この手の寄付金巻上げ作戦が展開した。)、
ガラに出演予定の歌手全員のために、それぞれ衣装が用意されたらしい事実などを聞くにつけ、
世の中の経済不況が別の世界のことのように思え始めていたところでしたが、
私の銀行口座だけが、まぎれもないこちらの世界のものであることを主張してやまないのでした。

5番街やパーク・アヴェニューに面したドアマン付きの高級アパートメントと違い、
ドレスを着るということが甚だ浮くことを意味する我がアパートメントにあって(大体エレベーターすらない、、。)、
オープニング・ナイト
ではすっかり弱気になってしまった私ですが、
この125周年記念ガラこそは、キャブに乗ってしまえばこっちのもの!
ドレスのまま大通りを渡ってキャブを捕まえてみせる!それだけの我慢!とすっかりやる気満々でいたのですが、
メトの2009年シーズンに自分がどれだけ公演を観に行くことになるか概算してみた途端、
ドレスを買っている場合ではない!という事実に改めて衝撃を受ける。

しかしです。こんな大イベントに、いつもと同じワンピでは気分が盛り下がるぅ!!
で、ふと思いついたのが、以前、テレビで見た、この不況の中で注目を浴びているという、
ノリータにある、イヴニング・ドレスのレンタル・サービス。
ウェブで見るとなかなか可愛いデザインのものもあり、レンタル代は3日で150ドルほど。
これなら来年の公演チケットのどれを削ることなくドレスを着れる~!と大喜びで、
ガラ前日の土曜に、ノリータに参上!
外から見ると、普通の洋服屋さんのようなかわいらしい店構えなのですが、
中は基本レンタルのドレスがぎっしり!(一部は購入することも出来ます。)

しかし、です。ことはそう簡単ではなかった、、。
ウェブで見るのと店頭で実物を見るのとは大違いで、
やはりレンタルで何度も着倒され、しかも一回一回クリーニングにかけるからか、
ドレスが非常にくたびれて見えるのと、
こんなに店内にたくさんあるように見えるドレスも、
結局サイズが合うものだけに絞るとそれほど数は多くなく、
またドレスというものは体育の授業のジャージを貸し借りするのとは違って、
きちんと体に合わないと、これほど不細工なことはないわけですが、
レンタルなので、当然お直しは不可。
しかも、ドレスが素敵になればなるほど、レンタル代が150ドルではなく、もっと高い値段がつけられていたり、と、
ちょっとこれって詐欺じゃない?なのでした。
ドレスって、買っても後で置き場所にも困るし、同じものを何回も着るものでもないので、
在庫さえもっとそろえることが出来れば、面白いビジネス・アイディアだとは思うのですが、
今回はご遠慮させていただくことにしました。

今年も髪で遊ぶしかないのか、、と、すっかり落胆して店を出たその時、ふと目の前に飛び込んできたのが、
NYの若手のデザイナーたちが経営しているブティックたち。
もちろん、高級メゾンのような贅沢な生地は使えないので、お値段もずっとリーズナブルですが、
それでいて、デザインの心意気では有名デザイナーに全然負けてません。
そして、その中の一軒で、実に素敵なデザインの、淡いパープル色のドレスを発見!!
”絶対これを明日のガラで着たい!!”と思ったのですが、店のお姉さんに、”お客さんのサイズは
ついこの間売れてしまいました。”と殺生な宣告を受ける。
一旦思い込んだら、滅茶苦茶しつこい私なので、唯一残っていた、
いつもの自分のサイズの2サイズ上のものを強引に売ってもらい、
”何が何でもこれを着てみせますの!!”と店員に大宣言。
さらに、意外と私は用心深いところもあるので、バックアップとして、
もう一着、お直しなしでそのまま着れる黒のドレスも購入。
ああ、若手デザイナーの商品だから、こんな大人買い(っていっても二着だけど。)も出来るのだわ!!

そのままその足で、いつもお世話になっている近所のテイラーへ。
ここは、ウェディングおよびイヴニングのドレスのお直しを得意としているお店で、
地元の人が色んなドレスを持ち込み、ところせましとドレスの展覧会になっています。
とても若いエレンちゃんという東欧系の女の子が、お針子さん兼経営者として切り盛りしているのですが、
彼女の才覚は、狭苦しい試着室で採寸するのではなく、ものすごい大鏡の前で、
客にあたかもどこかの有名メゾンでドレスを仕立ててもらっているような気分にさせるところ。
お直しの寸法をとる為にパープルのドレスを着て大鏡の前に出ると、
エレンちゃんが、何度も頷きながら、”これは素敵なドレスだわ!”と絶賛。
ホント、これで値段を知ったら、あなた、さらに卒倒するわよ!と心の中で呟く。
結局、丈は後でも靴に合わせて詰められるし、そのまま着れなくもないので、
脇の詰めだけで大丈夫なことになりました。
”で、いつまでに入用?”といわれたので、”明日。”と言ってみたら、
案の定、”無理無理”と笑われてしまいました。
というわけで、今回のガラは黒のドレスに決定。

そして、ガラ当日。
昨日購入したドレスがなかったら、もともと手持ちの洋服で行く予定だったので、
髪のセットは欠かせません。
今シーズンのオープニング・ナイトでお世話になったお兄さんは、
手早いわ、技術は確かだわ、センスはいいわ、で、ものすごく気に入ってしまったので、
週の頭にそのお兄さんを指名してサロンに電話すると、
”彼は日曜はお休みなんですよー。”、、、、がーん、、、、
”でも、他にもup-doを出来るものはおりますよ。”と、ある女性の名前を挙げられた。
まあ、大きいサロンはこうして代打の人がちゃんといるところがいいところだな、と、
大変な事件が近づいていることに気付かないMadokakipは、呑気にも、
”では、その方でお願いします。”と言ってしまったのです。

サロンにドレスを着ていくわけにはいかないので、ドレスをカメラにおさめ持参。
そして、担当者が登場して私は固まりました。
中国人の女性だ、、。
言っておきますが、私は”中国人”が嫌いなわけではありません。
お友達にも、昔の同僚にも中国人の方がいましたし、
行きつけのチャイナ・タウンの中華料理屋のスタッフの方にもいつも良くしていただいています。
しかし、”中国人のヘア・スタイリスト”は別問題。
なぜなら、私は、NYに来たばかりの頃、どうしても髪型をその日に変えたくなって、
道端のヘアサロンに入るという最大の間違いを犯し、
中国人系のスタイリストばかりのそのお店で出来上がった頭は、
”一体いつの時代ですか?”というようなもの。
かつ、かけたパーマが収集がつかなくなったか(日本人のスタイリストさんに比べて、
実に技術がなかったゆえ、、。)、ブロードライをしてくれ、と言っているのに、
これで帰ってください、と濡れ頭で店から無理矢理追い出された恐ろしい経験があるのです。
あの事件以来、信頼できない人には絶対髪を触らせるな!がモットーで、
特にカットとかパーマと言った長期にわたってその効果が持続するものは、
今定期的にお願いしている、日本人のスタイリストの女性(技術、センスともに◎)以外、
絶対にさわらせないことにしているほどです。

ああ、あの濡れ頭の記憶が蘇って来た、、。
まさかね、、ここは一応ちゃんとしたサロンなんだし、と気を取り直し、
黒のドレスの写真を見せながら、このドレスには長い髪も合うと思うので、
上を少しアップにしつつ、下は残してゆるやかにウェーブを、、などと注文を出していたら、
”OK,OK"とすっかりわかっている風で、安心。

そしていよいよスタイリング開始。
あれ?ものすごい細かいこてで巻いてますが、何でだろう、、?
前のお兄さんはup-doでも、大きなロッドのカーラーを使っていたのに、、。
いつの間にか頭には、『キャンディ・キャンディ』のイライザも泣いて逃げ出すほどの
縦巻きロールが無数に、、。一体何する気?!
でも、こういうときは途中でちゃちゃをいれず、スタイリストを信頼しなくちゃいけない。

そして、縦ロールが完成すると、あろうことか、猛烈なヘア・スプレーの嵐。
ふわふわのゆるやかウェーブって言ったのに、固めてどうする?!
しかも、このスタイリスト、全然神経が細かい人でないのか、こてのコードが私の顔を撫でようが、
スプレーが頂いているお水のグラスに噴霧状態になっていようがお構いなし。

髪がばしばしに固まって、かつそれを櫛でといてほぐしてしまったので、
メドゥーサのような頭になっている私が、自分の姿を鏡に見て呆然、顔から血の気を失っていると、



なんと、とどめに、櫛を髪の根元に入れてごしごし、、、逆毛立ててます!!
誰かもう止めてくれーっ!!

そして出来上がった髪は、まるで、80年代のパンクバンドの姉さんがこれからライブに行くか、
はたまた同じく80年代のファッション・ショーに出てくるモデル。
はっきり言って、この2009年という現代においては、
ファッション・ショーでもこんなアンナチュラルな頭でランウェイに出てくるモデル、いません!!
もしかしたら昔、上海の仮装パーティーあたりでこんな頭でドレスを着ている人はいたかもしれないけれども、、。
そして、とどめに、そのスタイリストのお姉さんが一言。
”髪っていうのはやっぱり楽しくなきゃ!!”
、、、この人と組まされたのがそもそもの間違いだった。
そして、ふと気付いたのでした。
最初のコンサルテーションで、このお姉さんに、
”どういう場所に出かけるんですか?”と聞かれていない、ということを。
オープニング・ナイトの時のお兄さんはそれを真っ先に聞いてくれたのに。
多分、黒いドレスだけ見て、ゴス・パーティーにでも行くと思ったに違いない。
メトにこんな頭でいけるはずがないじゃないのよーっ!!!

もう怒る気も失せ、いや、もしかしたら、私が思っているほどおかしくないのかも、、などと、
考えれば考えるほどわからなくなって来たので、
我が家に一旦戻るキャブの中で、連れに電話をして、泣きつく。
”じゃ、携帯で写真を撮って送って。正面とサイドと。正直に意見を言ってあげるから。”と言われ、
言われたとおりにキャブの中で、この奇妙な頭を撮影し、送信すると、すぐに電話があって、
”うーん、これセットした人、この間の男の人?なんか、今回は君の個性を掴み損ねてるね。”
そこで、”違うの!この間の人じゃないの!今回は中国系の女性だったのよー。”と泣くと、
”それは奇遇。だって、なんだか、別の文化の、別の価値観では、
これがシック、と思われないこともないような髪型だな、と思ってたんだ。”
ということは、ここアメリカもしくは日本など先進国の、現代の価値観では、
シックではないってことですね?
要は、やや微妙に昔(80年代)の、中国してるってことですね!!
だって、確かに、この髪型をしていると、自分が自分でなくなったというのか、
日本人のアイデンティティを失ったような、妙な気分ですもん。

連れの正直なコメントへのあまりのショックにそのままキャブで気を失いそうになりましたが、
メトに向かわなければならない時間まであと1時間。なんとかしなければ!!

帰宅して速攻バス・ルームに向かい、ピンを外して、自分なりにアレンジが出来ないか、色々模索。
だめだ。逆毛とスプレーがあまりにがっちりとしていて、どんなアレンジも受け付けない。
きーっ!!!!!!
そして、気がついたら、熱湯を出して、髪を洗ってしまってました。
時間までに髪を乾かすためには迷っている暇はないのです!!!
セット代がまさに水の泡となって流れていく~。
だけど、あんな自分らしくない髪型で私の大切な聖地、メトには行けません!

スプレーのごわごわ感を全て洗い流し、ウェーブも何もないけれど、とにかく丁寧に乾かす!
日本人は髪が綺麗なんだから、その素材感で勝負!という風に作戦を大転換。
なんとか時間ぎりぎりで間に合い、すっきりした気分でガラに臨めました。

”中国人スタイリストによる悪夢”シリーズに新しい章が加わったわけですが、
彼らの多くは、シンディとかキャサリンとか、英語名を通称としている場合があって、
サロンなどでも予約の際は名前だけで呼ばれることが多く、まぎらわしいのですが、
今後は新しい人にお願いする場合、苗字もきちんと確認する、というステップを加えたいと思います。
私個人の意見では、美容師さんは、日本人か、
アメリカ人ならゲイの男性(←神経が細かく、センスの良い人が多い。)が一番。
次のオープニング・ナイトは、またあのお兄さんに今から予約を入れておかなきゃ。

いよいよ、続く前編では歌についての感想に入ります!

The 125th Anniversary Gala
And Celebration of Placido Domingo's 40 Years at the Met

Conductor: James Levine
Director: Phelim McDermott
Associate director & set designer: Julian Crouch
Costume design: Catherine Zuber
Lighting design: Peter Mumford
Video design: Leo Warner & Mark Grimmer for Fifty Nine Productions Ltd.
Sound design: Scott Lehrer
Chorus master: Donald Palumbo
Grand Tier SB 35 Front
ON

*** 125周年記念ガラ The 125th Anniversary Gala ***