<本前編より続く>
我々観客がインターミッションでトリヴィアを読んだり、インタビューを見ているうちに、
蝶々さんの家では三年が経ってしまったという設定の第二幕。
この蝶々さんのやる気のなさはどうでしょう!!幕が開いていきなりごろ寝ですよ!ごろ寝!!
実際のところは、彼女は戻ってこないピンカートンのことを思ってアンニュイになっているのでした。
そしてスズキは、上の写真に写っている肖像画(誰の?!)をこのすぐ後売ってしまいます。
それほど、二人の生活は窮状に陥っているということです。
少しこの写真では見えにくいですが、壁にはびっしりとイラスト入りの半紙が貼られていますが、
”an old man 年とった男”というような文字が見られ、さながら、英和の単語帳です。
蝶々さんが本気でピンカートンとコミュニケートしようとし、またいつの日か
アメリカに行くことを夢見ていることがわかります。
スズキ役のカオがインターミッションで話していたとおり、ニ幕からは本当に
エモーショナルな場面と音楽が続くうえ、ラセットの歌がさらに良くなっていくところ。
その日暮らしのような貧乏さの上に、すでにピンカートンが二度と戻ってこないのではないか、と、
感じて泣き崩れるスズキに、”お聞きなさいよ!彼は絶対に帰ってくるんだから!!”と
蝶々さんが歌うあまりにも有名な”ある晴れた日に Un bel di ”。
お客さんの中にはこのアリアを聴いたことがあっても、こういうくだりでこの曲が入ってくると
いうことを知らなかった方もいたようで、会場からは、”あら!”という声も聞かれました。
SFO(サン・フランシスコ・オペラ)のウェブサイトで公開されていたこのアリアの
抜粋をPCで聴いたときには、少しラセットの声が軽く聴こえるような気がしたのですが、
映画館の中では、オペラハウスで聴くときに近い、どしっとした歌声になっていました。
さて、この公演でキャスト上一番弱かったのはカオのスズキかもしれません。
歌はそう悪くはありませんが、スズキをどういう人物像にしたいのか伝わってこない。
彼女はインタビューの中で、彼女がいかに蝶々さんに忠実で優しいか、ということを言っていましたが、
私の基準からすると、彼女のスズキはあまりに優雅さに欠ける。
ラセットの動きが非常に綺麗なので、どうしてこんな女主人にこんなお下劣な女中がくっついているのか?
と問いたくなるほど。
後に続くシーンで例を挙げるなら、例えば、ゴローが、父親なしで生まれた子は
アメリカでだって仲間はずれだ!というような陰口を叩いて、蝶々さんとスズキを怒らせるシーンでは、
まるで非行少女のようにゴローにけりを入れて、私を震え上がらせましたし、
ピンカートンの船が入港したのを喜んで花を撒くシーンでは、
突然きゃぴきゃぴ喜んだかと思うと、まるで子供がバケツから
水を撒いているような品のなさで籠から花をばらまき、
横ではらはら~っと優雅に花びらを撒いているラセットとはあまりに対照的。
はっきり言って、この方はスズキとはどんな人物か、全く理解していないばかりか、
蝶々さんとの舞台所作上のコンビネーションも上手くとれていない。猛省を促します。
見た目がアジアっぽい、という理由だけでキャスティングされるべきではない、
大事な役なのに。スズキは。
一方で、全く名前を聞いたことがなかったのですが、シャープレスを演じたパウエルは、
少なくともこの役で見る・聴く限り、安定した歌唱と卓越した演技力で、なかなか魅了されました。
私が今までみたシャープレスが、比較的、渋い大人のおじさま系の役作りの人が多かったせいもあり、
パウエルが一幕で現われ、ピンカートンとの会話を始めたときには、
”なんだ?!このちゃらちゃらしたおやじは!?”と不安が募りましたが、
どうして、どうして、彼のシャープレスはこれはこれで非常に良く練れていると思います。
彼自身の、少し長めで、下手をするとやや俗っぽくなりがちな顔の雰囲気(またまた失礼なことを、、)
を上手く利用しているな、と思いました。
つまり、彼のシャープレスは、良識のある、思いやり深い紳士、というよりは、
彼自身、過去にいろんな遊びも経験し、世慣れた部分のある”昔は遊び人”系おやじなのです。
しかし、遊びにはきちんと遊びのルールがある、ということを知っているおやじ。
だから、一幕でシャープレスがピンカートンをたしなめるとき、
それは、女遊びをするな、と言っているのではない。相手を見てしろよ、と言っているのです。
だから、シャープレスの歌う、”蝶々さんの声を聞いたが、
あれは自分がこれから結婚する相手を信じている人間の声だった”とピンカートンを戒める言葉が胸にしみる。
良識からでしか物が言えない人に言われると、ふーん、としか思えないことが、
人生経験豊かな人に言われると、重みが生まれるのと同様に。
だから、彼が、ピンカートンとの間に子供が生まれていたことを
蝶々さんに打ち明けられるときの、彼の動揺ぶり、、。これもまた心を打ちます。
こんなことは、彼の遊びのルール・ブックには絶対にありえないこと、
この時、彼はそれまでやや及び腰だった姿勢をあらため、
きちんとピンカートンと蝶々さんの間に入ってあげよう、と決意するのです。
人物描写という観点からだけで言うと、今まで見たシャープレスの中で、彼は
トップクラスに入る出来でした。
ラセット、パウエル、この二人が非常に演技が上手いため、
シャープレスがゴローと一緒になって蝶々さんがヤマドリと結婚してくれたら、、と願うシーン、
シャープレスがピンカートンから言付かった手紙を蝶々さんに読むシーン、
続いてシャープレスが、”もし、このままピンカートンが帰ってこなかったらどうしますか?”
という言葉を発して蝶々さんを悲しませるシーン、
蝶々さんに子供が生まれていたことをシャープレスが知るシーン、
そして、シャープレスが蝶々さんに子供のことをピンカートンに伝えることを約束するまで、と、
とにかくものすごいテンションの高さで、気が付くと私の頬にも涙が伝っているのでした。
いや、頬の涙をハンカチで拭っている私などはかわいいもので、
例のオペラヘッドのおばさまが座っている方向(そして、その方向にはおばさましかいない)からは、
嗚咽の声が聞こえ、やがておんおんというすごい泣き声に変わっていったのでした。
しかし、ここで泣くのはまだ早い!
シャープレスが去った後、船の入港を知らせる大砲の音が聴こえて一瞬舞台が静まり返るところからは、
観客(たった10人ですが)も息を呑んで食い入るように画面を見ています。
ピンカートンの船?!とはやる心を抑えて望遠鏡をとるも、
手が震えて位置を定めることが出来ない蝶々さんの様子が、ラセットってば、
歌も演技も心憎いくらい上手い。
そして、ラセット自身も歌っていて一番ここが好き!と断言する、
Trionfa il mio amor!
la mia fe'trionfa intera
ei torna e m'ama
(私の愛の勝利、私の愛と信じる心が勝ったのよ!
あの人は戻ってきた。
そして、私を愛している!)
”もうっ!!”
私はこの一言しか言えません。それくらい素晴らしい。
こういう一瞬のために私たちはオペラハウスに行くのだ、ということを思い出させてくれます。
しかし、全体的にSFOのお客さんは上品な感じがします。
メトの昨年の10/27の公演では、ちょうどサブスクリプションの日にあたっていたので、
周りがオペラヘッドの巣となっていたせいもあってか、彼女がe m'amaを歌い終わると、
轟音のような拍手が出ていましたが(みんな泣いているので声は出せない)、
しかし、このSFOの公演では静かに皆さん聴いておられます。
それぞれのオペラハウスのカラーってあるのだなあ、と実感。
続いてやさぐれスズキと蝶々さんの花の二重唱。ここでの乱暴なスズキの花撒きは先述の通り。
しかし、二人の声の相性は悪くありません。
いや、これで声の相性が悪かったら、カオのスズキにはほとんど何も残りませんから、
がんばってもらわないと。
さて、ピンカートンが来るのは今か、今かと待ちながら身繕いをする蝶々さん。
鏡に写った自分の姿を眺めて思わず、”なんて自分は歳をとってしまったか、、”と
呆然とする蝶々さんの様子が悲しい。
スズキ、蝶々さんの子供と障子の側にたってじっとピンカートンの来訪を待ちわびます。
このプロダクションでは下のようにスクリーンに影絵で大写しになる軍艦が。
その大きさが舞台におおいかぶさるように巨大で、またその黒さが不気味でもあり、
この巨大な軍艦に象徴される威圧的なまでの強さこそ、蝶々さんがアメリカに対して
自分がはみだしてしまった日本という国から救ってくれるのでは?と期待する理由になっていたものであり、
しかし同時に、それは救ってくれるどころか、彼女の運命もろとも破壊してしまう存在になり始めていて、
その瞬間がひたひたと迫っていることをシンボライズしていて、なかなか効果的。
この三人が立った姿のまま、ハミング・コーラスへ。
新国立劇場の栗山昌良さん系の演出です。
栗山さんの演出の素晴らしかったところは、とにかくこの3人を完全にストップモーションにして、
そのまま通常第三幕と言われているシーンまで突入し、朝が明けて、初めて彼らが動き始めるようにした点。
見ている観衆は、”なんでこんなに長いんだよー!”と痺れを切らしそうになるのですが、
それこそまさに栗山さんの思う壷。
実際にはこの後に続くハミング・コーラスを経て朝焼けに至るまではそう長くはないのに、
この静止状態を置くことによって、異様に時間が長く感じられるのですが、
それは、まさに蝶々さんがピンカートンを待ちわびて死ぬほど時の歩みが遅く感じられた気持ちと
シンクロしているのです。
この演出では、ほとんどそれと同じ手法を踏襲しながらも、失敗を犯してしまったのは、
バックの色が段々夜の闇の色に変わっていくに応じて、灯篭を用意するために、
スズキを舞台で横に歩かせた点。
明かりを灯すことで夜になったことを強調したかったんでしょうが、ここは
3人ともじっとしていてほしかった、、。
今日の指揮はラニクルズ。テンポ設定も適切だし、指揮そのものは良かったと思うのですが、
彼の指揮の良さを十全に引き出すには少しオケの力量が不足しているか?
各セクションで部分的に粗雑な演奏があるのが少し気になりました。
同じラニクルズが指揮したメトの『ピーター・グライムズ』のオケの演奏が素晴らしかったことを考えると、
メト・オケの方が一回り実力があるのかな、という気がします。
もちろん、SFOに関して一回きりの演奏を聴いて判断するのはフェアではありませんが。
そして合唱。これは新しいコーラス・マスターになってから、
ものすごく実力をつけ始めているメトとかなり差が開いているように思います。
SFOの合唱、がんばりましょう。
また、このハミング・コーラスに関しては、私の好みからすると、少し音が大きすぎた。
私は、ここは、柔らかく、柔らかく演奏してもらうのが好みなので、
かなり力強く飛び出してくるハミングに、”ちょっと何なの?この無粋な音楽は、、。”
と引いてしまいました。
さて、このハミング・コーラスが終わったので、余韻にひたりながらも、
また蝶々夫人のトリヴィアを勉強するインターミッションかな?と思っていたら、
何とそのまま通常第三幕と数えられる幕に突入!!!
(ただSFOの資料では、全ニ幕ということになっていて、ここは幕ではなく、
次の”場”という扱いになっているようです。)
やるじゃないですか!!SFO!!!
メトではここでいつもインターミッションが入ってしまうので、
(それは現在のミンゲラ氏の演出でも、以前の演出でもそうだった)
これには私は大感激!!
そう!絶対にこうでなければなりません!!!
感激で胸が打ち震えている私に、その後SFOが氷水をふっかけてくるとは誰が予想だにしたでしょうか??
だって、せっかく舞台では、朝が明けていく音楽をバックに、
三人がじっと障子のそばで控えているというのに、あろうことか、
何と、映画のスクリーンでのみ(よって映像編集により)、
今までの思い出の場面のフラッシュバックが、次々と写し出され始めたではありませんか!!!
しかも、スローモーション&霞がかかったような画面に修正して、、。
私はこれを見たとき、その場でぶっ倒れるかと思いました。
一体、この映像を編集した責任者は、いや、SFOは何を考えているんでしょうか?!
これではせっかくの演出家の意図が台無し、、。
ホールマーク・チャンネル(*誕生日などのカードの製造販売でお馴染みのHallmark社が
ケーブルTVで保有しているチャンネル。ださいソープオペラまがいのテレビ映画が次々と放送される。)
もびっくりのこの安っぽい映像編集・・。ありえない。
だいたいロン・ダニエルズという演出家のこのプロダクション、
少し練れていない個所もありますが、演出の全体の方向としては決して悪くない。
例えば、ゴロー、ヤマドリ、シャープレスが何とか蝶々さんを助けようとしている、
その心理も比較的うまく描けているし、
この第三幕突入作戦をとったということだけでも、私としては頭に月桂冠をのせてあげたい位なのに、
このべたな映像編集が一瞬にしてこの演出の良い個所に土足であがって泥を塗りまくったのでした。
これは演出家がかわいそすぎます。
せっかく浸っていた感動の嵐が、一瞬にしてさーっと引く思いがしました。
ずっと静止画面のような舞台だから観客が退屈すると思ったのか?
観客を舐めんなよ!です。
さて、気を取り直して。なぜなら、ここからのラセットは独壇場だから。
罪の意識(何をいまさら、、)で蝶々さんに合わせる顔もないピンカートンに変わって、
彼女に子供はアメリカに引き取って育てることを伝えようとするシャープレスと
ケイト=ピンカートンのアメリカ人の正妻。
もちろん蝶々夫人は長崎に残って。
ここでのシャープレス役のパウエルの苦渋の表情も上手いです。
ケイトに”彼に愛されてあなたは世界で一番しあわせな女性だ”と蝶々夫人が歌う個所。
ここは歌われ方ではちょっと怖い感じもするのですが(蝶々さんの恨み、いやみ、ともとられかねない。)、
ラセットのそれは心底から羨ましがって、蝶々さんが最後に見せる少女らしさのようなものも感じさせて、
また涙。斜めうしろ45度(オペラヘッドのおばさんがいるあたり)からも、再び嗚咽の声が。
子供は、ピンカートンが自分で引き取りに来たら、手放しましょう、という蝶々さん。
もちろん、彼女の心はもう自害を決めています。
父親が切腹に使用した刀を捧げ持ち、”名誉をもって生きれぬものは、名誉を持って死ぬべし。”
と呟くように歌う蝶々さん。
とここで、白人とアジア人カップルの女性の方がおもむろに立ち上がり、
足早に映写室を退室。ええっ?!こんな大事なシーンで?!
だから、デートには向かない、とワーニングを出したのに、、。
アメリカ人とアジア人の二人の運命ってこうなの?と悲観したのか、
自害シーンが苦手なのか、、。
慌てて追いかける白人の男性、、。かわいそう。これからが見所なのに。
一旦刀を首につきたてたものの、傍らで遊ぶメグ・ライアン似のかわいい男の子の姿に
つい心がくじける蝶々さん。
彼を抱きしめながら歌うアリア”かわいい坊やよ、さようなら Tu, piccolo addio "。
言葉ではこの気持ちは説明できません。
ただただ涙がとめどなく溢れて止まりませんでした。
この曲をこんな歌唱で聴いて、それ以外、何が出来るというのでしょう?
これだけは、ぜひ、彼女の歌をぜひ生の舞台なり映画なりで体験していただくしかありません。
このアリアが始まってすぐ、例の白人の男性がいそいそと、一秒でも見逃すのが
惜しい!といった風情で、映写室に駆け戻ってきたのが印象に残りました。
いやあ、これは見逃したくないでしょう!!
アリアの最後の、”さあ、遊んでおいで”と泣きながら言うのに合わせて、子供に、
母親の死に目を見なくていいよう、白布で目隠しをする蝶々さん。
各演出、各歌手によって自害の仕方も様々で、ここも見所のひとつ。
このアリアの後、歌がなく、オケの演奏をバックにとつとつと演じなければいけないので、
演技力のない人がやると見てられません。
しかし、ラセットなので、そんな心配があるわけがない。
首にさっと刀の切っ先をあてて、そのまま刀を背中に沿って滑らせる方法で、
血らしきものを想起させる小道具は一切なし。
(ちなみにメトのミンゲラ演出版では黒子がさっと長い赤布を広げて、血の流れを描写します。)
すべてはラセットの演技力にかかっていますが、刀が首に入って行くに従って、
観客からも”うわっ!”という呟きが聞こえたほど。
とにかく、死に際までエレガントなのが本当に素晴らしい。
崩れ落ちた蝶々さんの後ろで、鳥居を想起させるバックが赤色に変わって幕。
これも、結局、アメリカにあれだけ心酔し、期待していた蝶々さんも、
最後は日本のスピリットに基づいて死んでいかねばならなかった、と
いうことを表現していると思われ、この演出家は少なくともこの作品の、コアとなっている部分というのを、
本当によく把握していると思います。
最後の舞台挨拶でびっくりしたのが、ピンカートン役のジョヴァノヴィッチが登場した途端、
ブーイングの嵐が出たこと。
実際にオペラハウスにいたわけではないので、本当のところはわかりませんが、
映画館で聴いている限りは素晴らしい出来だったので、ピンカートンという役に対する
ブーイングととるしかないのですが、実際はどうなんでしょう?
オペラハウスで聴いた方に確認してみたいものです。
本人も笑いながら、おいおい!という感じで肩をすくめて見せ、
続いて、喝采の嵐の中登場したラセットは、指をたてて”ちっちっち!”と、
「そういうひどいことを蝶々さんにするからブーイングなのよ!」というジェスチャー。
仮に何かジョヴァノヴィッチの歌に欠点があったとしても、
彼女がこのジェスチャーをしたことで、役に対するブーイングという風に意味合いが転換され、
彼女は本当、こういうところが機転が利くな、と思います。
しかし、このブーイングが本当に役そのものへのブーイングだったとしたら、
これはある意味、ジョヴァノヴィッチに対しての最大の賛辞とも言えるのではないでしょうか?
ブルックリンにまで足を延ばした甲斐大有りの、最大級の賛辞を送りたい公演。
”絶対にDVD化してほしい!!”とSFOのシネマキャストの担当者の方にメールをしておきました。
ただし、”あの変なフラッシュバックはなしでよろしくお願いします。”とも。
メトの来シーズンの『蝶々夫人』のライブ・イン・HD、
ドマスではなく、ラセットに歌わせてほしい、と私が吠えているのは、こんな理由なのです。
Patricia Racette (Cio-Cio-San)
Brandon Jovanovich (Pinkerton)
Stephen Powell (Sharpless)
Zheng Cao (Suzuki)
Matthew O'Neill (Goro)
Eugene Chan (Yamadori)
Raymond Aceto (The Bonze)
Katharine Tier (Kate Pinkerton)
Dylan Hatch ("Trouble", Cio-cio-san's child)
Conductor: Donald Runnicles
Production: Ron Daniels
Performed at the War Memorial Opera House, San Francisco
Cinemacasts viewed at Pavilion Park Slope, Brooklyn, New York
*** プッチーニ 蝶々夫人 Puccini Madama Butterfly ***
我々観客がインターミッションでトリヴィアを読んだり、インタビューを見ているうちに、
蝶々さんの家では三年が経ってしまったという設定の第二幕。
この蝶々さんのやる気のなさはどうでしょう!!幕が開いていきなりごろ寝ですよ!ごろ寝!!
実際のところは、彼女は戻ってこないピンカートンのことを思ってアンニュイになっているのでした。
そしてスズキは、上の写真に写っている肖像画(誰の?!)をこのすぐ後売ってしまいます。
それほど、二人の生活は窮状に陥っているということです。
少しこの写真では見えにくいですが、壁にはびっしりとイラスト入りの半紙が貼られていますが、
”an old man 年とった男”というような文字が見られ、さながら、英和の単語帳です。
蝶々さんが本気でピンカートンとコミュニケートしようとし、またいつの日か
アメリカに行くことを夢見ていることがわかります。
スズキ役のカオがインターミッションで話していたとおり、ニ幕からは本当に
エモーショナルな場面と音楽が続くうえ、ラセットの歌がさらに良くなっていくところ。
その日暮らしのような貧乏さの上に、すでにピンカートンが二度と戻ってこないのではないか、と、
感じて泣き崩れるスズキに、”お聞きなさいよ!彼は絶対に帰ってくるんだから!!”と
蝶々さんが歌うあまりにも有名な”ある晴れた日に Un bel di ”。
お客さんの中にはこのアリアを聴いたことがあっても、こういうくだりでこの曲が入ってくると
いうことを知らなかった方もいたようで、会場からは、”あら!”という声も聞かれました。
SFO(サン・フランシスコ・オペラ)のウェブサイトで公開されていたこのアリアの
抜粋をPCで聴いたときには、少しラセットの声が軽く聴こえるような気がしたのですが、
映画館の中では、オペラハウスで聴くときに近い、どしっとした歌声になっていました。
さて、この公演でキャスト上一番弱かったのはカオのスズキかもしれません。
歌はそう悪くはありませんが、スズキをどういう人物像にしたいのか伝わってこない。
彼女はインタビューの中で、彼女がいかに蝶々さんに忠実で優しいか、ということを言っていましたが、
私の基準からすると、彼女のスズキはあまりに優雅さに欠ける。
ラセットの動きが非常に綺麗なので、どうしてこんな女主人にこんなお下劣な女中がくっついているのか?
と問いたくなるほど。
後に続くシーンで例を挙げるなら、例えば、ゴローが、父親なしで生まれた子は
アメリカでだって仲間はずれだ!というような陰口を叩いて、蝶々さんとスズキを怒らせるシーンでは、
まるで非行少女のようにゴローにけりを入れて、私を震え上がらせましたし、
ピンカートンの船が入港したのを喜んで花を撒くシーンでは、
突然きゃぴきゃぴ喜んだかと思うと、まるで子供がバケツから
水を撒いているような品のなさで籠から花をばらまき、
横ではらはら~っと優雅に花びらを撒いているラセットとはあまりに対照的。
はっきり言って、この方はスズキとはどんな人物か、全く理解していないばかりか、
蝶々さんとの舞台所作上のコンビネーションも上手くとれていない。猛省を促します。
見た目がアジアっぽい、という理由だけでキャスティングされるべきではない、
大事な役なのに。スズキは。
一方で、全く名前を聞いたことがなかったのですが、シャープレスを演じたパウエルは、
少なくともこの役で見る・聴く限り、安定した歌唱と卓越した演技力で、なかなか魅了されました。
私が今までみたシャープレスが、比較的、渋い大人のおじさま系の役作りの人が多かったせいもあり、
パウエルが一幕で現われ、ピンカートンとの会話を始めたときには、
”なんだ?!このちゃらちゃらしたおやじは!?”と不安が募りましたが、
どうして、どうして、彼のシャープレスはこれはこれで非常に良く練れていると思います。
彼自身の、少し長めで、下手をするとやや俗っぽくなりがちな顔の雰囲気(またまた失礼なことを、、)
を上手く利用しているな、と思いました。
つまり、彼のシャープレスは、良識のある、思いやり深い紳士、というよりは、
彼自身、過去にいろんな遊びも経験し、世慣れた部分のある”昔は遊び人”系おやじなのです。
しかし、遊びにはきちんと遊びのルールがある、ということを知っているおやじ。
だから、一幕でシャープレスがピンカートンをたしなめるとき、
それは、女遊びをするな、と言っているのではない。相手を見てしろよ、と言っているのです。
だから、シャープレスの歌う、”蝶々さんの声を聞いたが、
あれは自分がこれから結婚する相手を信じている人間の声だった”とピンカートンを戒める言葉が胸にしみる。
良識からでしか物が言えない人に言われると、ふーん、としか思えないことが、
人生経験豊かな人に言われると、重みが生まれるのと同様に。
だから、彼が、ピンカートンとの間に子供が生まれていたことを
蝶々さんに打ち明けられるときの、彼の動揺ぶり、、。これもまた心を打ちます。
こんなことは、彼の遊びのルール・ブックには絶対にありえないこと、
この時、彼はそれまでやや及び腰だった姿勢をあらため、
きちんとピンカートンと蝶々さんの間に入ってあげよう、と決意するのです。
人物描写という観点からだけで言うと、今まで見たシャープレスの中で、彼は
トップクラスに入る出来でした。
ラセット、パウエル、この二人が非常に演技が上手いため、
シャープレスがゴローと一緒になって蝶々さんがヤマドリと結婚してくれたら、、と願うシーン、
シャープレスがピンカートンから言付かった手紙を蝶々さんに読むシーン、
続いてシャープレスが、”もし、このままピンカートンが帰ってこなかったらどうしますか?”
という言葉を発して蝶々さんを悲しませるシーン、
蝶々さんに子供が生まれていたことをシャープレスが知るシーン、
そして、シャープレスが蝶々さんに子供のことをピンカートンに伝えることを約束するまで、と、
とにかくものすごいテンションの高さで、気が付くと私の頬にも涙が伝っているのでした。
いや、頬の涙をハンカチで拭っている私などはかわいいもので、
例のオペラヘッドのおばさまが座っている方向(そして、その方向にはおばさましかいない)からは、
嗚咽の声が聞こえ、やがておんおんというすごい泣き声に変わっていったのでした。
しかし、ここで泣くのはまだ早い!
シャープレスが去った後、船の入港を知らせる大砲の音が聴こえて一瞬舞台が静まり返るところからは、
観客(たった10人ですが)も息を呑んで食い入るように画面を見ています。
ピンカートンの船?!とはやる心を抑えて望遠鏡をとるも、
手が震えて位置を定めることが出来ない蝶々さんの様子が、ラセットってば、
歌も演技も心憎いくらい上手い。
そして、ラセット自身も歌っていて一番ここが好き!と断言する、
Trionfa il mio amor!
la mia fe'trionfa intera
ei torna e m'ama
(私の愛の勝利、私の愛と信じる心が勝ったのよ!
あの人は戻ってきた。
そして、私を愛している!)
”もうっ!!”
私はこの一言しか言えません。それくらい素晴らしい。
こういう一瞬のために私たちはオペラハウスに行くのだ、ということを思い出させてくれます。
しかし、全体的にSFOのお客さんは上品な感じがします。
メトの昨年の10/27の公演では、ちょうどサブスクリプションの日にあたっていたので、
周りがオペラヘッドの巣となっていたせいもあってか、彼女がe m'amaを歌い終わると、
轟音のような拍手が出ていましたが(みんな泣いているので声は出せない)、
しかし、このSFOの公演では静かに皆さん聴いておられます。
それぞれのオペラハウスのカラーってあるのだなあ、と実感。
続いてやさぐれスズキと蝶々さんの花の二重唱。ここでの乱暴なスズキの花撒きは先述の通り。
しかし、二人の声の相性は悪くありません。
いや、これで声の相性が悪かったら、カオのスズキにはほとんど何も残りませんから、
がんばってもらわないと。
さて、ピンカートンが来るのは今か、今かと待ちながら身繕いをする蝶々さん。
鏡に写った自分の姿を眺めて思わず、”なんて自分は歳をとってしまったか、、”と
呆然とする蝶々さんの様子が悲しい。
スズキ、蝶々さんの子供と障子の側にたってじっとピンカートンの来訪を待ちわびます。
このプロダクションでは下のようにスクリーンに影絵で大写しになる軍艦が。
その大きさが舞台におおいかぶさるように巨大で、またその黒さが不気味でもあり、
この巨大な軍艦に象徴される威圧的なまでの強さこそ、蝶々さんがアメリカに対して
自分がはみだしてしまった日本という国から救ってくれるのでは?と期待する理由になっていたものであり、
しかし同時に、それは救ってくれるどころか、彼女の運命もろとも破壊してしまう存在になり始めていて、
その瞬間がひたひたと迫っていることをシンボライズしていて、なかなか効果的。
この三人が立った姿のまま、ハミング・コーラスへ。
新国立劇場の栗山昌良さん系の演出です。
栗山さんの演出の素晴らしかったところは、とにかくこの3人を完全にストップモーションにして、
そのまま通常第三幕と言われているシーンまで突入し、朝が明けて、初めて彼らが動き始めるようにした点。
見ている観衆は、”なんでこんなに長いんだよー!”と痺れを切らしそうになるのですが、
それこそまさに栗山さんの思う壷。
実際にはこの後に続くハミング・コーラスを経て朝焼けに至るまではそう長くはないのに、
この静止状態を置くことによって、異様に時間が長く感じられるのですが、
それは、まさに蝶々さんがピンカートンを待ちわびて死ぬほど時の歩みが遅く感じられた気持ちと
シンクロしているのです。
この演出では、ほとんどそれと同じ手法を踏襲しながらも、失敗を犯してしまったのは、
バックの色が段々夜の闇の色に変わっていくに応じて、灯篭を用意するために、
スズキを舞台で横に歩かせた点。
明かりを灯すことで夜になったことを強調したかったんでしょうが、ここは
3人ともじっとしていてほしかった、、。
今日の指揮はラニクルズ。テンポ設定も適切だし、指揮そのものは良かったと思うのですが、
彼の指揮の良さを十全に引き出すには少しオケの力量が不足しているか?
各セクションで部分的に粗雑な演奏があるのが少し気になりました。
同じラニクルズが指揮したメトの『ピーター・グライムズ』のオケの演奏が素晴らしかったことを考えると、
メト・オケの方が一回り実力があるのかな、という気がします。
もちろん、SFOに関して一回きりの演奏を聴いて判断するのはフェアではありませんが。
そして合唱。これは新しいコーラス・マスターになってから、
ものすごく実力をつけ始めているメトとかなり差が開いているように思います。
SFOの合唱、がんばりましょう。
また、このハミング・コーラスに関しては、私の好みからすると、少し音が大きすぎた。
私は、ここは、柔らかく、柔らかく演奏してもらうのが好みなので、
かなり力強く飛び出してくるハミングに、”ちょっと何なの?この無粋な音楽は、、。”
と引いてしまいました。
さて、このハミング・コーラスが終わったので、余韻にひたりながらも、
また蝶々夫人のトリヴィアを勉強するインターミッションかな?と思っていたら、
何とそのまま通常第三幕と数えられる幕に突入!!!
(ただSFOの資料では、全ニ幕ということになっていて、ここは幕ではなく、
次の”場”という扱いになっているようです。)
やるじゃないですか!!SFO!!!
メトではここでいつもインターミッションが入ってしまうので、
(それは現在のミンゲラ氏の演出でも、以前の演出でもそうだった)
これには私は大感激!!
そう!絶対にこうでなければなりません!!!
感激で胸が打ち震えている私に、その後SFOが氷水をふっかけてくるとは誰が予想だにしたでしょうか??
だって、せっかく舞台では、朝が明けていく音楽をバックに、
三人がじっと障子のそばで控えているというのに、あろうことか、
何と、映画のスクリーンでのみ(よって映像編集により)、
今までの思い出の場面のフラッシュバックが、次々と写し出され始めたではありませんか!!!
しかも、スローモーション&霞がかかったような画面に修正して、、。
私はこれを見たとき、その場でぶっ倒れるかと思いました。
一体、この映像を編集した責任者は、いや、SFOは何を考えているんでしょうか?!
これではせっかくの演出家の意図が台無し、、。
ホールマーク・チャンネル(*誕生日などのカードの製造販売でお馴染みのHallmark社が
ケーブルTVで保有しているチャンネル。ださいソープオペラまがいのテレビ映画が次々と放送される。)
もびっくりのこの安っぽい映像編集・・。ありえない。
だいたいロン・ダニエルズという演出家のこのプロダクション、
少し練れていない個所もありますが、演出の全体の方向としては決して悪くない。
例えば、ゴロー、ヤマドリ、シャープレスが何とか蝶々さんを助けようとしている、
その心理も比較的うまく描けているし、
この第三幕突入作戦をとったということだけでも、私としては頭に月桂冠をのせてあげたい位なのに、
このべたな映像編集が一瞬にしてこの演出の良い個所に土足であがって泥を塗りまくったのでした。
これは演出家がかわいそすぎます。
せっかく浸っていた感動の嵐が、一瞬にしてさーっと引く思いがしました。
ずっと静止画面のような舞台だから観客が退屈すると思ったのか?
観客を舐めんなよ!です。
さて、気を取り直して。なぜなら、ここからのラセットは独壇場だから。
罪の意識(何をいまさら、、)で蝶々さんに合わせる顔もないピンカートンに変わって、
彼女に子供はアメリカに引き取って育てることを伝えようとするシャープレスと
ケイト=ピンカートンのアメリカ人の正妻。
もちろん蝶々夫人は長崎に残って。
ここでのシャープレス役のパウエルの苦渋の表情も上手いです。
ケイトに”彼に愛されてあなたは世界で一番しあわせな女性だ”と蝶々夫人が歌う個所。
ここは歌われ方ではちょっと怖い感じもするのですが(蝶々さんの恨み、いやみ、ともとられかねない。)、
ラセットのそれは心底から羨ましがって、蝶々さんが最後に見せる少女らしさのようなものも感じさせて、
また涙。斜めうしろ45度(オペラヘッドのおばさんがいるあたり)からも、再び嗚咽の声が。
子供は、ピンカートンが自分で引き取りに来たら、手放しましょう、という蝶々さん。
もちろん、彼女の心はもう自害を決めています。
父親が切腹に使用した刀を捧げ持ち、”名誉をもって生きれぬものは、名誉を持って死ぬべし。”
と呟くように歌う蝶々さん。
とここで、白人とアジア人カップルの女性の方がおもむろに立ち上がり、
足早に映写室を退室。ええっ?!こんな大事なシーンで?!
だから、デートには向かない、とワーニングを出したのに、、。
アメリカ人とアジア人の二人の運命ってこうなの?と悲観したのか、
自害シーンが苦手なのか、、。
慌てて追いかける白人の男性、、。かわいそう。これからが見所なのに。
一旦刀を首につきたてたものの、傍らで遊ぶメグ・ライアン似のかわいい男の子の姿に
つい心がくじける蝶々さん。
彼を抱きしめながら歌うアリア”かわいい坊やよ、さようなら Tu, piccolo addio "。
言葉ではこの気持ちは説明できません。
ただただ涙がとめどなく溢れて止まりませんでした。
この曲をこんな歌唱で聴いて、それ以外、何が出来るというのでしょう?
これだけは、ぜひ、彼女の歌をぜひ生の舞台なり映画なりで体験していただくしかありません。
このアリアが始まってすぐ、例の白人の男性がいそいそと、一秒でも見逃すのが
惜しい!といった風情で、映写室に駆け戻ってきたのが印象に残りました。
いやあ、これは見逃したくないでしょう!!
アリアの最後の、”さあ、遊んでおいで”と泣きながら言うのに合わせて、子供に、
母親の死に目を見なくていいよう、白布で目隠しをする蝶々さん。
各演出、各歌手によって自害の仕方も様々で、ここも見所のひとつ。
このアリアの後、歌がなく、オケの演奏をバックにとつとつと演じなければいけないので、
演技力のない人がやると見てられません。
しかし、ラセットなので、そんな心配があるわけがない。
首にさっと刀の切っ先をあてて、そのまま刀を背中に沿って滑らせる方法で、
血らしきものを想起させる小道具は一切なし。
(ちなみにメトのミンゲラ演出版では黒子がさっと長い赤布を広げて、血の流れを描写します。)
すべてはラセットの演技力にかかっていますが、刀が首に入って行くに従って、
観客からも”うわっ!”という呟きが聞こえたほど。
とにかく、死に際までエレガントなのが本当に素晴らしい。
崩れ落ちた蝶々さんの後ろで、鳥居を想起させるバックが赤色に変わって幕。
これも、結局、アメリカにあれだけ心酔し、期待していた蝶々さんも、
最後は日本のスピリットに基づいて死んでいかねばならなかった、と
いうことを表現していると思われ、この演出家は少なくともこの作品の、コアとなっている部分というのを、
本当によく把握していると思います。
最後の舞台挨拶でびっくりしたのが、ピンカートン役のジョヴァノヴィッチが登場した途端、
ブーイングの嵐が出たこと。
実際にオペラハウスにいたわけではないので、本当のところはわかりませんが、
映画館で聴いている限りは素晴らしい出来だったので、ピンカートンという役に対する
ブーイングととるしかないのですが、実際はどうなんでしょう?
オペラハウスで聴いた方に確認してみたいものです。
本人も笑いながら、おいおい!という感じで肩をすくめて見せ、
続いて、喝采の嵐の中登場したラセットは、指をたてて”ちっちっち!”と、
「そういうひどいことを蝶々さんにするからブーイングなのよ!」というジェスチャー。
仮に何かジョヴァノヴィッチの歌に欠点があったとしても、
彼女がこのジェスチャーをしたことで、役に対するブーイングという風に意味合いが転換され、
彼女は本当、こういうところが機転が利くな、と思います。
しかし、このブーイングが本当に役そのものへのブーイングだったとしたら、
これはある意味、ジョヴァノヴィッチに対しての最大の賛辞とも言えるのではないでしょうか?
ブルックリンにまで足を延ばした甲斐大有りの、最大級の賛辞を送りたい公演。
”絶対にDVD化してほしい!!”とSFOのシネマキャストの担当者の方にメールをしておきました。
ただし、”あの変なフラッシュバックはなしでよろしくお願いします。”とも。
メトの来シーズンの『蝶々夫人』のライブ・イン・HD、
ドマスではなく、ラセットに歌わせてほしい、と私が吠えているのは、こんな理由なのです。
Patricia Racette (Cio-Cio-San)
Brandon Jovanovich (Pinkerton)
Stephen Powell (Sharpless)
Zheng Cao (Suzuki)
Matthew O'Neill (Goro)
Eugene Chan (Yamadori)
Raymond Aceto (The Bonze)
Katharine Tier (Kate Pinkerton)
Dylan Hatch ("Trouble", Cio-cio-san's child)
Conductor: Donald Runnicles
Production: Ron Daniels
Performed at the War Memorial Opera House, San Francisco
Cinemacasts viewed at Pavilion Park Slope, Brooklyn, New York
*** プッチーニ 蝶々夫人 Puccini Madama Butterfly ***