“おくりびと”の手によって化粧された妹は、本当に綺麗だった。
何週間ぶりにお風呂に入って(とはいっても、ネットの上に寝たままのシャワーだったけど)、髪を洗ってもらい、ドライヤーをかけて、髪をセット。
ステロイドの影響でムーンフェイスになっていた顔も食べられなくなって痩せてきていたし、黄疸も濃い目のファンデーションで隠され、ピンクの口紅を塗った口元は口角があがり、微笑んでいるようだった。
ダンナさんが、「お母さん、こんな顔していたな」ってポツリ。最後の最後が微笑んでいる顔だったのが、姉として、とても嬉しかった。
ピンクのマニキュアを塗ってもらった手を組み、白装束の上に、しつけがかかったままのグレーの付け下げを掛け、いつもかばんの中の手帳に入れ、病院へも持っていっていた、5,6ヶ月頃の甥っ子を抱くダンナさんの写真と、幼稚園に入る前ぐらいの甥っ子とピンクの訪問着を着た妹の写真を顔の両脇に置いた、お棺の中の妹。
最後のお別れのときは、たくさんの花であの子の周りを飾り立て、顔の横に少しでも綺麗な色の花を置いてやりたくて、花を入れることに夢中になっていた私。蓋がしまらないぐらいのいっぱいの花にうずもれた妹。
病気を抱えながらも、もう少し生きられると、妹自身も回りの者も思っていた。
1/18の44回目の誕生日に合わせてダンナさんが贈った石釜焼きオーブンの箱が封を切らないまま玄関横の間の隅に置かれていた。25年勤めた職場を9月末でやめ、これからは、今までできなかったことをしようと思っていた妹。
亡くなるその直前まで意識がしっかりしていて、自分でペットボトルから水を飲み、点滴の残量や時計を確認し、決して痛いと言わなかった妹。
亡くなる直前の大きく目を見開いた姿を見たのは、私だけだった。。。みんな、病室で居たけれど、息も落ち着いてきたからと安心して、少しだけうたた寝をしていた、明け方5時過ぎ。あっという間の出来事だった。
3年余りお世話になった主治医の先生も髪の後ろをはねらせたまま駆けつけてくれ、5分以上前には息をするのをやめていた妹の脈を取り、「5時25分、ご臨終です」と告げた。
「何も言わんと逝ってしまった」という、ダンナさんに、「まだ、死ぬ気でなかったからやわ」としか言えなかった私。「言ったほうがよかったんやろうか」「いや、言わんほうがよかった。これでよかったと思う」
最後まで弱音をはかず、本心を言わずに、いろんな想いをかかえたまま逝ったのかな。
でも、この最後の入院の時、2月初めに、面会時間も過ぎた夜遅く、仕事を終えた親友が大部屋の妹の所へお見舞いにきてくれていたそう。通夜の日に、「どうしても行っとかないとと思ったんです」って。。いろんな話をできていたんだったら、よかった。苦しくてもメールはしていたようやし。。
妹が(変わった自分を見られたくないからと)あまり会いたがらなかったし、みんなが急に押しかけると気づかれるといけないからと、私の子どもたちもお見舞いを遠慮していたんだけど、妹が亡くなる前日の午後、代休をとっていた長男が、何を思ったか、お見舞いに寄っていた。病室番号を知らないから、適当に3階、4階、5階と行って居ないないから、1階で病室を聞いて、6階へ行ったら、聞いた番号が間違っていて西へ行ってしまい、最期に探し当てた妹の病室。その日の朝から酸素マスクをつけ始め、息が苦しそうだったけど、長男が帰るときにニコッと笑った妹は「いつもの○○子ちゃんやった」って、後から長男がポツリ。生まれた時から6年間ずーっと一緒に過ごしたからね、長男は。。
4世代が住む農家の跡取りへ嫁ぎ、家に居るより仕事へ行くほうがいいと、病気になってからも休暇をもらいながら仕事を続けた妹。跡取り娘のお姑さんは、悪い人ではないんだろうけれど、妹とは合わなかった。。
やさしいダンナさんと可愛い息子には恵まれたけれど、結婚して20年足らず、心から休まる日は少なかったんだろうな、って思う。完璧主義で生真面目。小さい時はいつもにこにこ、おっとりした妹だったんだけどな。
妹が亡くなって、早1ヶ月。来週は、三十五日の法要があります。
もっと歳をとって、子ども達も巣立って暇になったら、いっしょに旅行へ行ったりしたかったなあ。
あの子と二人っきりでどこかへ行ったのって、2,3年前の今頃の季節に、近くの山へハイキングに行っただけかも。その時も、コーヒーを作ってきてくれていたり、準備がよかったなあ。