Potential of aromatherapy

aromatherapy and golf and movie

振り返り シーズン3

2011年12月31日 | 雑記


桜は咲きますね。
さてシーズン3.

久し振りの病棟は、俗に言う「浦島太郎」でした。
師長でしたので、不安がいっぱいです。
スタッフの仕事もよく理解できないのに、務まるのかな?と思い
一緒に当直しました。

リハビリテーション病棟は、看護と介護の狭間で揺れ動きながらも
何かしら障害をもったままこれから生きていく患者さんが多く、私たち
専門職ではなく、家族介護にゆだねなければならない部分が多くなります。

脳梗塞で上手に食べられない、歩けない、お風呂に入れない、買い物に行かれない、
できないことが多くなったことで、生活と家族の様子が激変します。
ご飯も水っぽいものが飲み込めなくなるため、食事指導から始まります。
常に45名が入院していて、半分が整形外科の患者さんです。
一日のほとんどが食事と排泄のケアです。

朝食前の歯磨き、洗顔、トイレ誘導、食堂への誘導、食事介助、食後の歯磨き
入れ歯の手入れ、おむつ交換、日中は体を綺麗にするべくタオルでふくとか
入浴介助とか、リハビリテーションのお迎え、送り、退院指導、整形の患者さんの
ギプスの巻きなおし、傷の手当、喉に管の入った人の器械による吸引・・・・・

こんな中、知り合いが事故で植物状態のまま転院してきました。

そこから、「あきらめない看護」「日常生活の援助の重要さ」を学びました。
常に患者さん、あるいは家族の方々から学びます。
植物状態で、気管切開、胃に穴をあけて栄養剤を流し込むという毎日に
何か変化を・・・リハビリテーションはもちろんのこと、音楽、トランポリン
アロマなど多くのアプローチをしていきました。

たったひとさじを呑み込むことができた瞬間は、忘れられません。
そこから徐々に目覚しく回復していきました。
お母さんは「どうしても回復して欲しい、この子はいつか一人で生きて
いかなければならないんです。自立できるように、必ずいつか。」
毎日お母さんが来院し、私も毎日話をしました。

今日はベッドをあげてみた、手で丸を作ったからわかるに違いない
車椅子に乗れた、もっともっと食事ができた、喉の管が抜けた、そしたら
そしたら「声がでた」。みんなで泣いて喜びました。

車椅子レベルでまずまず。これで退院しましょう、という矢先・・・・・・
お母さんのがんが見つかりました。お母さんは私によく話していました。
「師長さんが緩和ケアを作るんでしょ。私は何か合ったら絶対そこに入りたいわ。
そのときは宜しくね。お花もたくさん植えましょ。がんになったら、何も治療
するつもりはないもの」
ところが「まだまだ死ねないから、治療にかけてみます。今私は死ねない。」

辛い科学療法が始まりました。

そのことと反比例するようにどんどん驚異的な回復をしていきました。
「おかあさん あいたい あいしてるよ」と文字も書けるようになりました。
そして、歩けました。
歩けるようになってからは、まだまだ危険だったので私が毎日手を繋いで院内を
歩いていました。
ずっとオムツだったけれども、頑張りました。

お母さんの具合も悪いので、やっと退院してみました。
その1週間後、お母さんは具合が悪くなり入院してしまいました。
「師長さん、どうやら わたし、悪いみたい、よろしくね、ほんとに。
でも、師長さんの緩和ケア病棟には間に合わないみたい・・・・・・」
数日後、帰らぬ人となりました。

私は連絡を貰うようにしていたので、電話をもらい早朝にかけつけました。
彼は、「どうしちゃったの?死んだの? なんで泣いてるの?」と私に
訊くばかりでした。「悲しいことなんだよ、とっても」

彼は30代でしたが、高次脳機能障害となっていました。

人間の生きる可能性、生き延びる可能性、この絶え間ないケアは1年続き
彼は退院したのです。
今では公共の交通機関にも乗れます。

いろんなところに発表して、看護の可能性、あきらめないことの大切さを
伝えることができました。
リハビリテーションの楽しさを感じた矢先に、外科病棟へ異動になりました。

今年も本当にお世話になりました。よいお年を。

振り返り シーズン2

2011年12月30日 | 雑記


こんなくしゅくしゅな蕾も。



こんなんなるんです。

訪問看護は看護の黄金時代だったのですが・・・・・・・・・・・・・。
順調に仕事をしている私には、また新たな展開が。

2カ月断り続けましたが、やむなく病院の、しかも外来へ。
5人のスタッフの管理から、50名のスタッフを抱えることになり
さすがに、「はげ」ができました(笑)
カルテのめくりすぎで、手首は腱鞘炎になりました。
前日に翌日の予約患者のカルテに、医師が開け易いように
検査結果ページ、カルテ記載ページなどに棒をはさみます。
長い間の立位で、踵が痛くなり、横になっても痛くて痛くて
リウマチになったのかと思いました。

 これで身長が縮んだ?

外来患者数が1000人近くで、患者さんたちは2時間待ち、採血している隣で
心臓マッサージをしているような外来でした。
勤務表作成は苦労しました。
皮膚科に何人、曜日によっては違って、医師によって配属する看護師も違えて
休みも保障して、外科は何人、耳鼻科、眼科、小児科、内科、外科、整形、
婦人科・・・・・・誰をどこにするか、当直はどうするか、よくやれたと
思います。

外来部門を外部化することになり、それとともに紙カルテから電子カルテへの
移行で、一大イベントとなりました。
システムの選択、中身の検討、様々なテンプレートの作成、運用のマニュアル作成、
医師の入力マニュアルの作成・・・・・
電子カルテの導入とともに、退職者もありました。
 パソコンを閉じるのに「終わるのに、なんでスタートなの?」
素朴な疑問・・・の連続。

そして、満月の夜の大所帯の引越しが繰り広げられました。

新しい外来は、システムがダウンすることもたまにありましたが
そんなに大混乱にならなかったと記憶しています。
大雨の中、向かいの病院に入院患者さんを連れて行くときには
ストレッチャーにシートをかけて、傘をさして移動することもあり
入院が本当に大変でした。

待ち時間も長く、怒鳴っている患者さんには謝り、薬が足りなかった患者さんにも
謝り、いつまで待たせるんだーー!!と怒鳴る患者さんにも謝り、
謝っていることも多かった外来でした。

外来が何とかやっていた頃、「外来の多くの患者さんが癒されてない」と思い
かねてより懸案事項であったアロマテラピーの扉を開けました。
学校に通い、試験を受け、インストラクター取得し、アロマ外来も始めました。

外来の医師にもハーブティーを提供し、さらなる発展を・・・・・
という矢先に、また元の病院(向かいにあるだけですが)の今度は病棟に移るように
命令がありました。
これには多くのスタッフが反対し、署名活動がおこり異動はなくなりません
でしたが、1ヵ月遅れました。

振り返り シーズン1

2011年12月29日 | 雑記
1984年 私は今の法人に就職しました。新卒は4人でした。



学生の頃から実習したり、多くの医師や看護師に会って、
看護を大事にする、患者さんを大事にするところだったので
教務の反対を押し切って就職しました。
それから27年と8ヶ月。
看護人生まっしぐらでした。

外科病棟で新人時代を過ごし、まだ付き添いさんがいたので
付き添いさんにばかにされながら、泣きながら過ごしました。
隣の病棟はまだ開いていなかったのですが、8人ぐらい入院している患者さんの
ナースコールに走りました。

そこから整形外科病棟、内科病棟を経験し、看護師を集める「看護学生対策室」
に配属になりました。それまで自分の異動の希望はありません。

1991年ごろのことでしょうか。

看護学生、高校生、時々医学生と多くの学生に会いに行きました。
日本全国飛び回り、訪れたことのない県はあまりありません。
セミナーの企画、実習の企画、合宿など多くのことに取り組みました。
雪の美唄、旭川、灰のふる鹿児島、指宿、はじからはじまで。
その時高校生だった人たちが、今は看護師になっています。
一緒に働いています。
その時看護学生だった人たちは、今でも年賀状のやりとりをしています。
もうずっと年賀状のやりとりを続けています。
福岡に引越していても、滋賀にも、京都にも、神戸にも、栃木にも
いわきにも、私が出会って熱く看護を語った人たちがいます。

1993年 出産とともに学生対策を退き、産休に入りました。
 (妊娠中に自動車教習所に通い、一ヶ月で免許を取りました。)
この人生で最も長く仕事をしなかった時期です。
1994年 育児休暇を少しとって、希望していた訪問看護課に。
訪問看護は看護の楽園でした。

子供をおぶって訪問看護したこともあります。
24時間対応していたので、ポケベルを持っていました。
携帯電話があれば、本当に良かったのに。

たった一人でおばあちゃんを看取ったこともありますし、
訪問したら洗濯機の下敷きになっていたのを発見したことも。
お風呂介助で患者さんがひっくり返ったことも。
床ずれを治して嬉しかったこと、桜の花を見て楽しかったこと、
患者さんとの散歩。
私がくるためん、暖房をつけて待っててくれた人。
美味しいお茶を買って待っててくれた人。
でっかい天丼を用意してくれる家族。

 「あんたの顔見たら、血圧も下がるんやで」と笑った顔。

広告の裏に最後の力を振り絞って書いた

 「来世も君と」と奥様に残したこと。

私の黄金時代でした。

病院からの訪問看護から訪問看護ステーションを立ち上げ、看護の独立です。
看護をして、お金を貰うということです。
予算作成、銀行への入金、保険請求、ケアマネジャーの試験、介護保険の
開始など、怒涛の日々でした。
教科書を書き、県内の訪問看護ステーション連絡会を立ち上げ、さて
ますますの発展を・・・・・という矢先に病院への異動を命ぜられました。

続きはシーズン2で。

カナダからのお便り

2011年12月28日 | 雑記
カナダの緩和ケア病棟で働いているかたから、コメントがありました。

「業務命令ですか、悲しいですね。長くそれも育ててきたぶしょには愛着があるもの。。。
カナダにきてから業務命令ではなく自分の意思で移動するシステムに驚きました。
でも働きたいところで働くほうが効率も上がるし離職も防げるし、とメリットを
知ると日本のシステムに疑問を持ちましたよ。」

そうですね。

離職の一番の理由は「やりがいのなさ」と、会議で貰った資料に書かれてありました。
看護師は真面目なんだな~としみじみ思いました。
退職する人があとをたたないというのは、何か原因があるのか
それとも様々な理由がたまたま重なっただけなのか
考えて悩んでいる人がたくさんいらっしゃいますね。

楽しい仲間とうどんすき

2011年12月27日 | 雑記
美々卯 京橋店に行ってました。

忘年会です。うどんは美味しいです。



わくわく。



お店の人が鍋奉行です。



ハマグリとか湯葉とか、野菜、鶏肉などたくさん入っています。
うどんも最初から入っています。



これは生きているので、箱に入ってやってきます。
動きます・・・・・・・・・びっくりするほど。
ひどいと思いながら大事に頂きました。

今年のまとめ、来年への抱負など多くを話し合って、あっという間の時間です。
今年も終わります。
私の長い間の仕事も終焉を迎えます。もうすぐ・・・・・・・・・・・。

Count down

2011年12月26日 | 雑記
私が今の病棟に通うのも、残すところ2週間もないです。
あっという間でした、
今年ももうすぐ終わります。今は落ち着いていますけれども
これからどうなることやら。

業務命令で緩和ケア病棟は去ることになりました・
それももうすぐです。






Merry Chirtmas

2011年12月25日 | 雑記
我が家のNew years partyでもあります。
子供は年末は友人の別荘にスキーに行ってしまうし、私は仕事。

今日はパーティにしました。



材料を朝から調達しました。
タリーズで珈琲を飲みながら、買い物です。



ブイヤベースを作りました。
ミカンの皮と月桂樹の葉とかブーケガルニ、にんにくなどを使ってスープも。
海老とはまぐりと鱈を入れました。



そしてご飯物はパエリアです。
ブイヤベースと似ていますが、まよしとして。
こちらはチキンを使いました。



美味しくできましたわ。





資生堂パーラーで買ったケーキ。甘いです。
うーーーん。6500円もしたケーキでした。



こんな甘いケーキを、シャラマンの『デビル』を観ながら食べました。
これから『スーパー8』を観ます。
昨日も『モーテル』みて、恐がりました。恐かったです。とっても。


Christmas eve

2011年12月24日 | 雑記


ミキモトのクリスマスツリーが大きいです。



その下にはこんなツリーが並んで、トナカイもいました。

昨夜のイブイブは美味しいピザを焼いてもらいました。



美味しいピザです。



讃岐牛も頂いて、お腹は一杯でした。

今日は銀座。人がものすごく多く久し振りに驚きました。
以前から買おうかなと思っていたケーキを買いました。
中は企業秘密だそうです。うーーん、ただのショコラじゃないのかも。





途中で横にしたらつぶれます。頑丈な入れ物でした。
途中でハロッズのティータイム。



これで年末年始も頑張って仕事ができます。

自分の看護

2011年12月22日 | 雑記
こんな看護がしたい、あんな看護がしたい、多くの看護師は夢や希望をもって
仕事をしています。
学生の頃を思い出します。

日常生活のケア、心のケア、いろんなケア。

私も縁あって、緩和ケア病棟のケアができてすごく嬉しいです。
病院に来たくてたまりませんでした。

やりがいも感じています。

先日の会議で、「離職の理由の第一位はやりがいがなくったこと」と書いてある
資料を頂きました。まさにそうです。

私のやりがいは緩和ケア病棟です。

未来をつかむ手

2011年12月21日 | 雑記


可愛いベビーの手は、何とも愛しいです。
指をぎゅっと握る瞬間とか、いじらしいです。
生命力を感じますね。

赤ちゃんを見ていると、誰でも欲しくなります。
私も欲しいですが、さすがに孫を待つことにします。

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2011年12月20日 | 洋裁・編み物
私の楽しい時間がここでいつも紹介されています。

今年も終わりに近づいています。
本当に今年が終わりなのか、不思議な気分になります。
空は冬晴れ、乾燥して冷ややかです。

冷静と情熱の間を行ったり来たりしながら、そのうち
情熱も納まるのかもしれません。



赤い旗がたつのか、白いのか。
カウントダウンが始まります。

今年ももうすぐ終わりです

2011年12月14日 | 雑記
年末を迎えるにあたり、考えをまとめたり、新しい行動をうつすことは
よいことだと思います。
まずは、今年の汚れ今年のうちに・・・・です。

体のデトックスもさることながら、心のデトックスも重要です。

一度決めたことも、実行して新しい年を迎えたいです。

年末年始の勤務も大変になります。
20名近くのスタッフのシフトを決めるのは、並ではありませんが
外来の50人のスタッフよりはましです。
あの頃はよくできたな~としみじみ思います。

内科、皮膚科、外科、耳鼻科、眼科、小児科などのシフトを決めていました。
そこに当直をいれます。

皮膚科はこの日は2人じゃ無理、この日は予防接種あるからこれじゃあ足りない、
外科はオペオリあるからこれじゃあ、無理・・・・などなど。
どこにも予備がいないけど、どこから連れてきたらいいのか
私にはさっぱりわかりませんでした。

若いときに、上司が作った勤務表に対して
「この勤務表は萎えます」って、言っている先輩がいて
びっくりしたことを覚えていますが、今も同じようだと
いろんな人が話していました。

そんなこともあって、勤務表を持ち回りで作るということも
していた病棟もありました。
そうすると、自分に有利に作るのじゃなくて、逆です。
自分が犠牲になるようでした。

スタッフは「何も考えないで作るんじゃないの?」とか
意地悪く話していたのを、若いときに聞いたことがありました。
何も考えないわけはありません。
考えても、そうなってしまったということですから
しょうがないこともあります。

全員に満足のいくような勤務表、それがベストセラーで、芥川賞ものでしょうね。
それは私にはけっこう難しかったです。
すごくうまく作れる人もいます。天才です。
私は残念賞はもらえるかと思いますが。

散髪

2011年12月11日 | 雑記
ちょっと久し振りに散髪しました。
さっぱりしました。
これでお正月を乗り切ろうかと思います。

これから年末にかけて忙しくなります。
忘年会とか、何かの会合とか。
友人たちとの会話。

ゴルフ。そしてゴルフ。
お買い物、美味しいお食事。

体は壊さないように過ごしたいものです。