モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番/第18番
ピアノ・指揮:ダニエル・バレンボイム
管弦楽:イギリス室内管弦楽団
LP:東芝EMI EAC‐70235
モーツァルトのピアノ協奏曲第24番は、1786年に作曲された短調のピアノ協奏曲であり、短調のピアノ協奏曲は、ほかに第20番とこの曲の2曲だけである。悲劇性を持った情熱的な作品で、ベートーヴェン的な作品と称される場合もある。一方、ピアノ協奏曲第18番は、1784年に作曲された曲。1785年にモーツァルト自身がこのピアノ協奏曲を演奏し、この演奏会には、息子の様子を見にウィーンに来ていた父レオポルトに加え、皇帝ヨーゼフ2世も臨席しており、その出来栄えを絶賛したという。このLPレコードで、ピアノ独奏および指揮を行っているのがアルゼンチン出身でその後イスラエルに移住したダニエル・バレンボイム(1942年生まれ)である。1952年に、バレンボイムはピアニストとして、ウィーンとローマにおいてヨーロッパ・デビューを果たす。その後世界各地でピアノ演奏会を開催し注目を浴びる。ピアニストとしての名声を確固たるものとした後に、1966年からイギリス室内管弦楽団とモーツァルトの交響曲録音を開始し、指揮者デビューを果たす。1970年代からは、指揮者としての本格的な活動を開始し、1975年から1989年まではパリ管弦楽団音楽監督として活動する。1991年より2006年までシカゴ交響楽団音楽監督を務めた。1981年にはバイロイト音楽祭に初めて招かれ、以後継続的にバイロイトで指揮を執った。2012年からは、スカラ座の音楽監督を務めている。このLPレコードのモーツァルト:ピアノ協奏曲第24番でのダニエル・バレンボイムのピアノ演奏および指揮は、如何にもバレンボイムらしい、丸みを持った優雅な雰囲気を醸し出した演奏内容に大きな特徴を持つ。この曲は、短調であるため、他の多くの演奏が悲劇的な要素をことさら強調する。バレンボイムは、そのようなことに一向に構わず、ゆったりとマイペースで厳かに曲を進行させていく。ピアノタッチは粒が揃い、限りなく美しい。それらがいずれも力強く、男性的美感が全体を覆い尽くす。この結果、一般的言われるこの協奏曲の悲劇性が陰をひそめ、代わりにいつものモーツァルト特有な快活な雰囲気が顔を覗かせる。全体としては、がっちりとした構成感が実に見事であり、聴き応えは十分。一方、モーツァルト:ピアノ協奏曲第18番の演奏は、感性にぴたりと合うのか、実に生き生きと演奏している印象が非常に強く残る。バレンボイムのピアノは、相変わらず粒がそろって美しいが、それに加えイギリス室内管弦楽団の伸び伸びとした演奏が見事であり、理想的なモーツァルトのピアノ協奏曲の世界を描き切っている。(LPC)
モーツァルト:ピアノ協奏曲第9番「ジュノーム」K.271
ピアノソナタ第10番K.330
ピアノ:クララ・ハスキル
指揮:パウル・ザッヒャー
管弦楽:ウィーン交響楽団
録音:1954年10月8日~10日(K.271)/1954年5月5日~6日(K.330)
発売:1975年
LP:日本フォノグラム(フィリップスレコード) PC‐1527
このLPレコードでモーツァルトのピアノ協奏曲とピアノソナタを演奏しているのはモーツァルと弾きとして一世を風靡したクララ・ハスキル(1895年―1960年)である。ハスキルは、ルーマニアの首都ブカレスト出身。1906年パリ音楽院に入学し、翌年からアルフレッド・コルトーのマスタークラスで学ぶ。15歳の時、同音楽院を一等で卒業した後、ヨーロッパ各国での演奏活動を行うようになる。第1次世界大戦後は、イザイ、エネスコ、カザルスなど名演奏家たちと共演し、その音楽性を磨き上げて行った。そして1936年にスイスの市民権を得て、レマン湖畔のヴヴィエに定住する。しかし、この時、大脳にできた腫瘍が原因で激しい頭痛に悩まされることになる。早速、脳手術が行われ、ハスキルは奇跡の再起を果たす。第2次世界大戦後は、ヨーロッパ各国で演奏活動を行うと同時に、現在われわれが聴くことのできる数々の名盤を数多く録音する。1953年からは、名ヴァイオリニストのアルテュール・グリュミオーとのソナタ演奏を毎年行うようになる。しかし、グリュミオーとのジョイントリサイタルのため、パリからブリュッセルに到着したハスキルは、列車から降りたプラットホームで倒れ、心臓麻痺で急逝してしまう。ハスキルは、何と言ってもモーツァルトの演奏にかけては、彼女の右に出る者はいなかった。その演奏は、デリカシーに富み、人間味あふれるもので、さらに内面的な深さを兼ね備えたもので、美しさに溢れていた。決して技巧に走ることなく、憂いのある魅惑的な音づくりに専念した演奏内容であった。このLPレコードにおいてのピアノ協奏曲第9番「ジュノーム」第1楽章のハスキルの演奏は、そのピアノタッチから流れ出る音が、あたかも粒のそろった宝石を思わせるように、限りなく美しいものに仕上がっている。フランスからやって来た女流ピアニストのジュノームの演奏姿をモーツァルトが見て、その印象をこの曲に仕上げたという経緯が、その曲調からはっきりと掴み取ることができる。あたかもハスキル自身ががジュノームになり切っているかのような演奏内容でもある。そして第2楽章での憂いを含んだ表現は、ハスキルでなくては到底なし得ない奥深さを持っている。モーツアルトの翳りのある曲想の表現力にかけては、現在に至るまでハスキルを超えるピアニストは一人もいない、そんなことが実感できる演奏内容である。一方、ピアノソナタ第10番のハスキル演奏は、純粋であり、それに加え豊かな情感が溢れこぼれるようであり、聴き終わった時には十分な満足感に浸れる、そんな内容であった。(LPC)
モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番/第23番
ピアノ:クララ・ハスキル
指揮:ベルンハルト・パウムガルトナー(第20番)
パウル・ザッヒャー(第23番)
管弦楽:ウィーン交響楽団
録音:1954年10月11日(第20番)/1954年10月8~10日(第23番)
LP:日本フォノグラム(フォンタナ・レコード) FG-211
モーツァルトは、生涯で27曲のピアノ協奏曲を作曲した。ただし、第7番は3台のピアノ、第10番は2台のピアノのための協奏曲である。このLPレコードには、この中から第20番と第23番の2曲が、往年の名ピアニストのクララ・ハスキル(1895年―1960年)によって収録されている。第20番が作曲されたのは1785年、モーツァルト29歳の年である。第19番までのピアノ協奏曲は、モーツァルトの独自性は、あまり濃く反映されていないが、この第20番以降は、モーツァルトの個性が存分に盛り込まれた傑作群のピアノ協奏曲が書かれることになる。第20番はこれらの最初の曲といえる。この間の秘密は、作曲した年に起こったことに関連がありそうである。この年、モーツァルトは自宅にハイドンを招き、完成した弦楽四重奏曲集「ハイドン・セット」の演奏会を催した。つまり、これによってハイドンから高度な弦楽四重奏曲の技法の吸収を完全に終え、モーツァルト独自の世界を切り開く素地が完成したのである。この年、ピアノ協奏曲第20番と共に完成した曲には、ピアノ四重奏曲第1番や歌曲「すみれ」などがある。ピアノ協奏曲第23番は、第20番が完成した翌年、1786年、モーツァルト30歳の時の作品だ。この年には、歌劇「フィガロの結婚」が完成し、初演も行われている。ピアノ協奏曲第23番は、第20番に比べ、明るく伸び伸びとした曲想を持っており、どちらかというと、私的な演奏会を想定して作曲したようである。そこには、以前のモーツァルトの作品を一回り大きく飛翔させたようなスケール感が感じられる。このLPレコードでピアノ演奏しているのはルーマニア出身の名ピアニストのクララ・ハスキル。15歳で最優秀賞を得てパリ音楽院を卒業し、ヨーロッパ各地で演奏活動を行う。第二次世界大戦後になって、聴衆から熱狂的に支持され世界的名声を得る。録音を数多く残したため、今でも愛好者は少なくない。現在、その遺功を偲んで世界的音楽コンクール「クララ・ハスキル国際ピアノ・コンクール」がスイスで開かれている。クララ・ハスキルのピアノタッチから紡ぎだされる音は輝きに満ち、純粋で天国的な美しさに覆われている。このLPレコードでの第20番の演奏内容は、ハスキルのほの暗い憂いの表現が、この曲の持つ曲想に、程良くマッチしたものに仕上がっている。第2楽章の憂いを含んだ表現が印象的。一方、第23番の演奏内容は、ハスキルの持つ純粋さが如何なく発揮されており、特に第3楽章の華やかさは秀逸。(LPC)
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」
ピアノソナタ第14番「月光」
ピアノ:ミンドゥル・カッツ
指揮:ジョン・バルビローリ
管弦楽:ハルレ管弦楽団
録音:1959年4月(「皇帝」)
LP:テイチク・レコード
このLPレコードは、ルーマニア出身で、同郷のクララ・ハスキル(1895年―1960年)やディヌ・リパッティ(1917年―1950年)の後継者と目されれていたが、52歳でこの世を去ってしまったミンドゥル・カッツ(1925年-1978年)の貴重な録音が収められている。クララ・ハスキルやディヌ・リパッティは、現在でもその名がしばしば登場するが、ミンドゥル・カッツは既に忘れつつあるピアニストと言ってもいいかもしれない。しかし、このLPレコードで聴く限り、カッツの演奏は、巨匠を目前にした名ピアニストと言ってもおかしくないくらいの出来映えを見せる。澄み渡った音色は、師リパッティを髣髴とさせるし、何よりも繊細な抒情的表現力は、師をも上回るとも思われる程の演奏を聴かせる。カッツは、ルーマニアの首都ブカレストに生まれる。ブカレスト音楽院で学んだ後、スイスにおいて同郷の名ピアニストのディヌ・リパッティに師事。第2次世界大戦後は、祖国に戻り、演奏会活動のほかにブカレスト音楽院の教授として後進の指導にも当たった。1957年にロンドン・フィルの定期演奏会のソリストとしてデビューし、好評を博し、以後、ハスキル、リパッティの後を継ぐ“ルーマニアの星”としてヨーロッパにおける評価が確立されるに至る。このLPレコードでのカッツの演奏は、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」では、「この曲のもつ気宇壮大さが出されていない」という評価はある一方、少し見方を変えれば、「皇帝」が持つ新しい魅力をカッツが引き出しているとも言える。第1楽章と第3楽章での師リパッティに似た端正な曲の構成力に加え、第2楽章では抒情味たっぷりな「皇帝」が演奏される。「皇帝」は如何にも皇帝らしく堂々と男性的に演奏すべきだ、という考え方もあろうが、「皇帝」のネーミング自体が作曲後に第三者により名づけられてものであり、この曲の本質が皇帝であるということとは別の話。その意味で、このLPレコードでのカッツの「皇帝」の演奏は、この曲に新しい解釈をもたらすものと考えてもいいであろう。そのくらい説得力ある個性豊かな演奏をカッツはここで聴かせる。 ベートーヴェン:ピアノソナタ第14番「月光」の演奏において、カッツは、さらに抒情味豊かな表現力を駆使し、この曲の魅力を余すところなく表現する。ドイツの詩人レルシュタープが「月光」と名付け一躍有名となった曲だが、ベートーヴェンが愛した伯爵令嬢ジュリエッタ・グイチャルディに捧げられていることを考えると、余計カッツの端正な抒情味が光る。(LPC)
ショパン:ピアノ協奏曲第1番
練習曲op.25-5
練習曲op.10-5「黒鍵」
ピアノソナタ第3番
ピアノ:ディヌ・リパッティ
指揮:オットー・アッカーマン
管弦楽:チューリッヒ・トンハレ管弦楽団
録音:1950年2月7日、チューリッヒ、トンハレ(ライヴ録音)
LP:東芝EMI EMI‐60193
今回のLPレコードであるディヌ・リパッティ(1917年―1950年)のピアノ独奏によるショパン:ピアノ協奏曲第1番のライブ録音盤の発売の背景には、いわく因縁がある。きっかけは、あるイギリスのラジオ番組へ次のような投書が寄せられたこと。その投書には「ルーマニアのヴィルトオーゾであった故ディヌ・リパッティの稀な録音の一つとして、10年以上にもわったって発売されているショパンのピアノ協奏曲第1番のレコードは、ポーランドのピアニストのハリーナ・チェルニー=ステファンスカの同じ曲のレコードとまったく同じです」と綴られていたのだ。そのラジオ番組で2つのレコードを聴き比べてみると、まったく同じ録音だということが判明した。リパッティのLPレコードは、1965年にEMIから発売され、一方、チェルニー=ステファンスカのLPレコードの発売は、1950年代のはじめだった。ここまでなら、録音の差し違えということで話は終わってしまうが、事実はそれで終わらなかった。今度は同じ曲のリパッティの新発見の録音テープが出てきたというのだ。この録音テープは、1950年2月7日にスイス放送によって録られたもので、これは同じ日のコンサートでリパッティが弾いた練習曲op.25-5、同練習曲op.10-5「黒鍵」、ピアノソナタ第3番の録音があることから本物と認定され、リパッティ夫人も本物であることを認めたという。リパッティが世を去るのが1950年12月2日(33歳)なので、このLPレコードは最後のライブ録音となった貴重なもの。リパッティのピアノ演奏は、崇高で格調が高く、純粋な美しさに彩られたもので、多くのファンから支持された伝説のピアニスト。その録音は、現在でも多くのリスナーから支持されており、その名は今後も忘れ去られることはないだろうとさえ思われる。この新発見のLPレコードは、リパッティのピアノの音だけは、奇跡ともいえるほど鮮明に録られており、今でもその存在価値は少しも失われないと言っていい。ピアノ協奏曲第1番第1楽章の出だしから、リパッティのピアノタッチは力強く、この10か月後にこの世を去るピアニストの演奏とは到底思えない強靭さを秘めている。流れるようなメロディーを弾くときのリパッティの演奏は、あたかも歌を歌うかのように柔らかな演奏に終始し、ショパン:ピアノ協奏曲第1番の魅力を最大限に引き出すことにものの見事に成功している。特に驚かされるのは、ピアノタッチの透明感ある正確さであり、その一音一音がこぼれんばかりに生命力を秘めていることである。(LPC)