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★クラシック音楽LPレコードファン倶楽部(LPC)★ クラシック音楽研究者 蔵 志津久

嘗てのクラシック音楽の名演奏家達の貴重な演奏がぎっしりと収録されたLPレコードから私の愛聴盤を紹介します。

◇クラシック音楽LP◇ホロヴィッツ&トスカニーニ指揮NBC交響楽団のチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番(ライブ録音盤)

2023-05-29 09:57:05 | 協奏曲(ピアノ)

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番

ピアノ:ウラディミール・ホロヴィッツ

指揮:アルトゥーロ・トスカニーニ

管弦楽:NBC交響楽団

録音:1943年4月25日、米国ニューヨーク、カーネギー・ホール(ライヴ録音)

発売:1977年

LP:RVC(RCAコーポレーション)

 チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番は、過去から現在まで数えられないほどの多くの録音があるが、このLPレコードほど感情の激しい演奏の録音は、現在に至るまで私はあまり聴いたことがない。これは1943年4月25日、米国ニューヨークのカーネギー・ホールでのライヴ録音であるから、スタジオ録音と比べ迫力の点で自ずと違う。ホロヴィッツ(1903年―1989年)は数多くの録音を残しているがライヴ録音は少ない。しかし、チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番はもう1枚、1941年のライヴ録音盤が遺されている。トスカニーニ指揮NBC交響楽団が伴奏をしているが、トスカニーニが伴奏の指揮を執ることは現役時代ほとんどなかったようで、この意味からもこのLPレコードは貴重な録音なのである。ホロヴィッツはトスカニーニの娘婿なので特別なケースだったのであろう。このLPレコードでは全曲にわたって緊張感が持続する。ホロヴィッツのこのピアノ演奏は、第1楽章を弾く時などは、何かものに憑かれたように、力の限りを尽くして極限にまでその曲想を押し広げ、「チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番ってこんなにも激しい曲だったのだ」と聴くものに強く印象付ける。第2楽章は、さすがに少し大人しさを演出するが、その技巧の並外れた才能には脱帽せざるを得ない。鍵盤の上を指が流れるように行き来する様が髣髴としてくる。第3楽章は、また第1楽章の激情が戻ってくるが、そこにはもう力だけの世界から脱却して、もう一段高いところから見下ろすような余裕も一部感じられ、結果として第1楽章~第3楽章を通して、巧みな演出効果が生かされているのだ。ホロヴィッツはただ単に力だけで弾き通すピアニストではなく、エンターテインメントの才能にも恵まれたピアニストであることがこの録音から聴き取れる。指揮をしているのが、ホロヴィッツからすると義理の父に当るトスカニーニ(1867年―1957年)である。現役時代あまり協奏曲の伴奏をしなかったトスカニーニは、ホロヴィッツだけは例外だったようである。ある意味ではトスカニーニとホロヴィッツの音楽性には共通点があったとも言えるのかもしれない。このLPレコードでトスカニーニは、いつもの輪郭のはっきりした力強い指揮ぶりを発揮し、ホロヴィッツのピアノ演奏のきらびやかさを数倍高めることに成功している。これほどの名コンビはあまりいない、という思いを深くする録音ではある。(LPC)


◇クラシック音楽LP◇バレンボイム&イギリス室内管弦楽団のモーツァルト:ピアノ協奏曲第22番/ピアノと管弦楽のためのロンドK.382

2023-05-15 09:48:17 | 協奏曲(ピアノ)

 

モーツァルト:ピアノ協奏曲第22番K.482
         ピアノと管弦楽のためのロンドK.382

指揮&ピアノ:ダニエル・バレンボイム

管弦楽:イギリス室内管弦楽団

録音:1971年11月25日~26日、英国、アビイ・ロードスタジオ

発売:1973年

LP:東芝EMI EAA‐80099

 アルゼンチン出身(現在の国籍はイスラエル)のダニエル・バレンボイム(1942年生まれ)は、最近は指揮者としての活躍が目立つが、もともとはピアニスト。1952年にピアニストとしてヨーロッパデビューを果たした以後、世界各国でピアニストとしての名声を高めることになる。そして、1966年からイギリス室内管弦楽団とモーツァルトの交響曲録音を開始して、指揮者デビューを果した。そして、1975年から1989年までパリ管弦楽団音楽監督に就任したのに続き、シカゴ交響楽団音楽監督、ベルリン国立歌劇場音楽総監督、ミラノ・スカラ座音楽監督に就任し、今度は世界的指揮者としての名声を不動にして行くのである。2009年に続き2014年のウィーンのニューイヤーコンサートにも登場し、テレビを通じて全世界に指揮者としての晴れの姿をアピールしたことはまだ記憶に新しい。イギリス室内管弦楽団とは、1966年からコンビを組んでいるので、このLPレコードは、コンビを組んで5年目であり、互いの気心が充分浸透している時期の録音だけに、演奏内容は充実している。モーツァルトのピアノ協奏曲第22番K.482は、第23番とセットで書かれ、1785年に完成ししている。それらは共にオーボエが省かれてクラリネットが使用されるなど、編成的にも新しい試みが見られる。全部で3つの楽章からなる。前2作の第20番、第21番に比べれば知名度は落ちるものの、オペラ序曲のような祝祭的な華やかさと共に穏やかな落ち着きをもつ魅力的な作品となっている。もう一つの曲であるピアノと管弦楽のためのロンドK.382は、モーツアルトが、1782年3月3日に開催された音楽会で、8年も前に作曲されたピアノ協奏曲K.175を取り上げたが、この時終楽章を、このロンドに代えて演奏したところ大変好評を受けたので、以後、このロンドが独立して演奏されるようになった。変奏曲形式でロンドの性質を持つ陽気で愛らしい主題と7つの変奏曲の後、カデンツをはさんで、冒頭主題を素材としコーダで曲が終了する。このLPレコードでは、バレンボイムがピアノを弾きながら指揮をするスタイルをとっているために、ピアノと管弦楽の調和がずば抜けて優れていることが大きな特徴となっている。バレンボイムのピアノ演奏は、輪郭のはっきりとした力強さに満ちていると同時に、モーツァルトらしい流麗さも合わせ持っている点が高く評価されよう。現代に我々にも強くアピールするモーツァルト演奏と言える。(LPC)


◇クラシック音楽LP◇リパッティのグリーク:ピアノ協奏曲/シューマン:ピアノ協奏曲

2023-04-10 09:41:00 | 協奏曲(ピアノ)


グリーク:ピアノ協奏曲
シューマン:ピアノ協奏曲

ピアノ:ディヌ・リパッティ

指揮:アルチェロ・ガリエラ(グリーク)/ヘルベルト・フォン・カラヤン(シューマン)

管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団

録音:1947年9月(グリーク)/1948年(シューマン)、英国アビイ・ロード・スタジオ

LP:東芝EMI EAC‐60108

 このLPレコードは、ルーマニア生まれの不世出の天才ピアニストのディヌ・リパッティ(1917年―1950年)が、まだ体調が良かった頃、英国で録音された貴重な録音である。ディヌ・リパッティは、ルーマニアのブカレストに生まれ、1950年にスイスのジュネーブで僅か33歳でこの世を去った悲運のピアニストであった。1934年の17歳の時、リパッティは、ウィーンの国際コンクールに出場し2位になった。この時、審査員であったコルトーが、リパッティの天分をいち早く見抜き、パリに呼んで教えることになったのである。このこともあり、リパッティは既に30歳にして一流の大家とみなされるに至った。リパッティの演奏の特徴は、透き通るような輝きに満ちたその音色に加え、高度な技術に裏付けられた、確信に満ち、少しの揺るぎない演奏内容が、聴くものすべてのものに深い感動を与える。これは、単に音楽を演奏しているという以上に、深い人間愛がその演奏に込められていることから来るものだと思う。遺されているリパッティの録音は、バッハからショパン、さらにはこのLPレコードのグリーク、シューマンに至るまで、全て強い信念で貫かれており、今聴いても、これほど一本筋が通った演奏をするピアニストは数少ない。同時にその曲への深い愛着が滲む演奏は、そう滅多に聴かれるものではない。グリークのピアノ協奏曲は、1862年、19歳のとき着手されたが、完成したのは、それから6年後の1868年であった。このピアノ協奏曲は、グリークの出世作であると同時に代表作にもなった。リストはこの曲を初見で弾いて、「見事な出来だ」と若いグリークを激励したという。シューマンのピアノ協奏曲は、クララとの結婚生活が始まった頃の最も創作意欲の旺盛な時代の作品。初演は、1845年12月4日にドレスデンで、クララのピアノ演奏で行われた。クララはこのピアノ協奏曲を非常に好んだという。ピアノの機能と音色の変化の美しさを備えたこのピアノ協奏曲を、シューマンの死後クララは演奏会でしばしば取り上げ、それがこの曲が有名となる切っ掛けとなった。ディヌ・リパッティは、グリーク:ピアノ協奏曲では、グリーク特有の北欧の透明感ある音楽が肌に伝わってくる演奏だ。一方、シューマン:ピアノ協奏曲は、シューマン独特のロマンの世界を夢想的に表現し、聴くものを夢のような世界へと導いてくれる。ピアノ協奏曲の名曲中の名曲2曲を収めたこのLPレコードは、永久保存盤そのものと言って過言ではない。(LPC)


◇クラシック音楽LP◇バックハウスとカンテルリ指揮ニューヨーク・フィルのベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番(ライヴ録音)

2022-12-15 10:06:29 | 協奏曲(ピアノ)


ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番

ピアノ:ヴィルヘルム・バックハウス

指揮:グィード・カンテルリ

管弦楽:ニューヨーク・フィルハーモニック

録音:1956年3月18日、ニューヨーク(ライヴ録音)

発売:1980年

LP:キングレコード(Cetra) SLM5012

 ヴィルヘルム・バックハウス(1884年―1969年)は、ドイツ生まれの大ピアニスト。ニックネームは“鍵盤の獅子王”。この名の通り卓越した演奏技法と堂々としたスケールの大きなピアノ演奏は、当時一世を風靡した。ベートーヴェンなどドイツ・オーストリア系の作曲家の作品では、圧倒的名演を聴かせる反面、武骨ともいえるその演奏スタイルが功を奏しない曲もあった。指揮のグィード・カンテルリ(1920年―1956年)は、36歳で飛行機事故で亡くなったイタリア出身の天才指揮者。あのトスカニーニをして「自分と同じような指揮をする」と評さしめたことは有名な話。その類まれなる才気活発な指揮ぶりは、このLPレコードからも聴き取れる。これは、そんな2人が共演したベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番をライヴ録音したLPレコードである。この曲は、ベートーヴェンの協奏曲には珍しく、優雅で、内省的な曲想が特徴で、逆にそれがために根強い人気を誇る作品。バックハウスは、この曲の特徴を最大限に発揮させており、内面から滲み出るような力強いピアノ演奏を聴かせてくれる。宇野功芳氏はこのLPレコードのライナーノートに「彼(ヴィルヘルム・バックハウス)は、ステレオとモノーラルに、それぞれハンス・シュミット=イッセルシュテット、クレメンス・クラウスと組んで同曲をスタジオ録音しているが、今回はライヴだけに、力強い緊迫感や覇気、大ぶりな感情表現や雄々しい羽ばたきといったものが聴かれ、やはり実演は良いなと思う。少なくともぼくはスタジオ録音の2枚よりも、この方を好む」と書いている。ピアノのヴィルヘルム・バックハウスは、ドイツ、ライプツィヒの出身。ライプツィヒ音楽院で学ぶ。1905年「ルビンシュタイン音楽コンクール」ピアノ部門で優勝。1930年スイスのルガーノに移住する。第二次世界大戦後の1954年にアメリカそして日本での演奏会を開催した。一方、指揮者のグィード・カンテルリは、イタリア、ミラノ近郊の街ノヴァラの出身。ミラノ音楽院で学び、23歳で地元ノヴァラの歌劇場の芸術監督に任命される。第二次世界大戦後の1945年、スカラ座で指揮するなど活躍し、当時の指揮界の長老トスカニーニの後継者と目されていた。しかし、1956年11月24日、パリのオルリー空港からニューヨーク行きの航空機が離陸に失敗、カンテルリは帰らぬ人となった。そのカンテルリは、「グィード・カンテルリ国際指揮者コンクール」として今にその名を残す。(LPC)


◇クラシック音楽LP◇カザドシュ親子3人によるモーツァルト:3台のピアノのための協奏曲/バッハ:3台のピアノのための協奏曲ほか

2022-12-08 09:42:15 | 協奏曲(ピアノ)


モーツァルト:3台のピアノのための協奏曲
バッハ:3台のピアノのための協奏曲
    イタリア協奏曲

ピアノ:ロベール・カザドシュ
    ギャビー・カザドシュ
    ジャン・カザドシュ

指揮:ユージン・オーマンディ

管弦楽:フィラデルフィア管弦楽団

LP:CBS/SONY 13AC1065

 親子共演の録音はそう珍しくはないが、両親と息子の3人の共演ともなると、あまり聞いたことがない。そのあまりないことがこの録音では、実現しているのである。ロベール、ギャビーカザドシュ夫妻とその息子のジャン・カザドシュの3人が、ピアノの共演をこのLPレコードで行っている。モーツァルト:3台のピアノのための協奏曲は、「ハフナー・セレナード」が書かれた年に作曲された曲で、伯爵夫人と2人の令嬢のために書かれたものである。つまり、素人のために書かれた曲であるので、特に深い内容があるわけではないのであるが、聴いていて思わず微笑ましさを感じるような曲に仕上がっている。そんな曲であるので、親子3人が仲良く弾くにはこれ以上の曲は考えられない。実際、3人は家庭内で互いに親密な会話を交わしているような雰囲気で演奏をしており、親密感が滲み出た演奏内容となっている。バッハ:3台のピアノのための協奏曲は、チェンバロ用に書かれた曲を3人のピアノ演奏で聴くことができるのだが、3人の達者なピアノ演奏が何とも心地良い空間をつくり上げている。ここでも親子という関係が十二分に発揮された、親しげな演奏内容となっている。しかし、その演奏の質自体はというと、単に親密さを上回り、奥行きの深い、説得力のあるものに仕上がっている。一方、バッハ:イタリア協奏曲は、名手ロベール・カサドシュの独奏の名演に酔いしれることが出来る。ロベール・カサドシュ(1899年―1972年)は、パリ出身でパリ音楽院で学ぶ。世界を代表するピアニストとして各国で演奏旅行を行う。作曲家としては7曲の交響曲、3曲のピアノ協奏曲、多数の室内楽曲などがある。初来日は1963年。その時の印象を菅野浩和氏は「音楽性のエッセンスのような、実に風格に満ちた、味わいの尽きない名演奏を聞かせてくれた」とこのLPレコードのライナーノートに書いている。そして、1968年の二度目の来日は、ロベール・カザドシュの独奏に加え、呼び物は、このLPレコードと同じように、夫人と息子を加えた、いわゆる“カサドシュ一家”による3台のピアノによる演奏会であった。そんな、幸福の絶頂にあった“カサドシュ一家”に突如不幸が襲い掛かる。3人で来日した4年後に息子のジャン・カザドシュが交通事故のため不慮の死を遂げる。さらにその8か月後、父親のロベール・カサドシュが亡くなってしまう。このLPレコードの幸福そうな“カサドシュ一家”の写真をを見ていると、この世の儚さが胸に去来するのである。(LPC)