鹿や猪なら自分でやっても良いけど牛、馬、豚、緬羊、山羊はダメだそうだ。もっともやって良いと言われて出来るもんでもないけどね。だいたい何処で捌くんだって話もある。ハンターが川で鹿を捌いてる所を見たことがあると言った友達がいたけどそんな所でやって良いのかちと疑問。 鹿肉をヨメが貰ってきた。肉は真っ赤だけど牛肉のとはちょっと色合いが違う。脂身は無かった。貰ったのは初めてではないけどどうやって食べようか迷ったけど焼いたパンが残ってたからシチューにした。 ルーはビーフシチュー用だけど肉が鹿だから deer stew かな。でもこの言い方は違うかなと思って調べてみた。そしたら venison stew という言うみたいだ。deer は鹿で venison は鹿肉。日本語でも肉屋に行って「 牛下さい 」 とは言わないからそれと似たような感じかな。 ところでヨメはこれを食べてても何も言わなかった。違いの分からない女というか何というか。でも 「 分からなかったの? 」 と聞けば 「 分かってたけど言わなかった 」 と言う負けないヨメなのである。それでも 「 あれ? 何時もの肉と違うね、何の肉? 馬肉? 」 と言わなかっただけでも幸いか。 |
今、日本中にクライミングジムの数が350くらいあるそうだ。仲間内だけの非公開ジムなんかも入れると500くらいかもっとあるかも。その中で日本最古のクライミングジムに行ってきた。営業は21世紀になって間もなく終わった正に昭和のジムである。
毎年暮に餅つきに来る友達がここの常連。その人が年が明けたら皆で遊びに行くことになったと教えてくれた。俺もそこの常連だったけど俺が佐久に来るまでは営業していたので俺は運が良かった。そもそもこのジムに通えたことが運が良かった。仮に隣の県に住んでたらここに行くことは無かっただろう。1度くらいは行ったとしても通うことはまず無い。
最古のジムの入り口
出来た当初は少しでも強くなりたいという人が遥か遠方からやってきたそうだ。当時は他に無いから愛知とか東北なんて所から来たそうだ。もっと遠くの人も居たかもしれない。やがて強い人専用ジムとなった。初心者が行くと 「 ここは無理だから… 」 と門前払いされた。そんなシーンを実際見たことがあった。俺が通い始めた頃だと常連は主にジャパンツアー予選通過レベルのクライマー。たまに平山ユージが来たりした。小山田大が来た時は…
ここは平山ユージが世界で戦うために家主などと色々研究する場でもあった。だから他では見たことないようなルーフなどがあった。ところが当時のコンペクライマーはそこでは練習しなかった。というのもジャパンツアーにそんな課題は無かったからだ。彼らは専ら131度の壁で厳しい課題を練習していた。俺は逆で専らルーフで遊ぶことが多かった。131度の課題は厳し過ぎて無理。
そんなジムに何故俺が通ってたのか。俺を知ってる人は 「 門前払いされなかったの? 」 とよく聞いた。よく分からないけど近所に住んでるってことでいわゆる地元枠ってもんかな。以後ドラゴンで最も下手なクライマーとして君臨することとなった。俺が残した物といえばルート図。丸一日かけて書いたけど、それは近所に住んでるから出来ること。
家主は今では身体もやや丸くなったけど相変わらず指は並の人よりは強かった。若い頃は片手小指懸垂が出来たそうだ。そんなのをやろうとしただけでも一種の天才だね。でもイタリアのコンペに招待されて分かったのは 「 そこまでの指の力は要らなかった 」ということ。写真は見た目ありきたりな面一の壁。実際触ってみないとその特徴は分からない。独特なルーフなら見た目で分かるんだけどそこは撮るの忘れてた。
家主恐べし@131度の壁
地図にはまだ存在が記録されていた。Google 恐べし。
毎年暮に餅つきに来る友達がここの常連。その人が年が明けたら皆で遊びに行くことになったと教えてくれた。俺もそこの常連だったけど俺が佐久に来るまでは営業していたので俺は運が良かった。そもそもこのジムに通えたことが運が良かった。仮に隣の県に住んでたらここに行くことは無かっただろう。1度くらいは行ったとしても通うことはまず無い。
出来た当初は少しでも強くなりたいという人が遥か遠方からやってきたそうだ。当時は他に無いから愛知とか東北なんて所から来たそうだ。もっと遠くの人も居たかもしれない。やがて強い人専用ジムとなった。初心者が行くと 「 ここは無理だから… 」 と門前払いされた。そんなシーンを実際見たことがあった。俺が通い始めた頃だと常連は主にジャパンツアー予選通過レベルのクライマー。たまに平山ユージが来たりした。小山田大が来た時は…
「 今日凄い上手い若者が来てるね 」 |
「 知らないの? 」 |
「 ・・・・・ 」 |
「 小山田大だよ 」 |
「 ああ、道理で上手いと思ったよ 」 |
ここは平山ユージが世界で戦うために家主などと色々研究する場でもあった。だから他では見たことないようなルーフなどがあった。ところが当時のコンペクライマーはそこでは練習しなかった。というのもジャパンツアーにそんな課題は無かったからだ。彼らは専ら131度の壁で厳しい課題を練習していた。俺は逆で専らルーフで遊ぶことが多かった。131度の課題は厳し過ぎて無理。
そんなジムに何故俺が通ってたのか。俺を知ってる人は 「 門前払いされなかったの? 」 とよく聞いた。よく分からないけど近所に住んでるってことでいわゆる地元枠ってもんかな。以後ドラゴンで最も下手なクライマーとして君臨することとなった。俺が残した物といえばルート図。丸一日かけて書いたけど、それは近所に住んでるから出来ること。
家主は今では身体もやや丸くなったけど相変わらず指は並の人よりは強かった。若い頃は片手小指懸垂が出来たそうだ。そんなのをやろうとしただけでも一種の天才だね。でもイタリアのコンペに招待されて分かったのは 「 そこまでの指の力は要らなかった 」ということ。写真は見た目ありきたりな面一の壁。実際触ってみないとその特徴は分からない。独特なルーフなら見た目で分かるんだけどそこは撮るの忘れてた。
地図にはまだ存在が記録されていた。Google 恐べし。