曲学阿世:真実を追求し、虚実の世間に迎合するようなことはしたくない。

真実を曲解し不正な情報によって世間の人々にこびへつらい、世間にとり入れられるような、ことはしたくない。

日航ジャンボ機墜落事件炭化遺体と軍用燃料

2017年08月17日 18時26分54秒 | 政治経済、社会・哲学、ビジネス、

                                

 

「                               植草一秀の『知られざる真実』」

                                      2017/08/17

              日航ジャンボ機墜落事件炭化遺体と軍用燃料

                     第1822号

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『日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』
(河出書房新社・最新刊)
https://goo.gl/auvNJY

「日航機墜落事故 米軍幻の救出劇 (米軍パイロットの証言)」
https://www.youtube.com/watch?v=65krBx_Bblg

「日本航空123便墜落事故を検証する」
http://www.link-21.com/JAL123/index.html

などの情報を総合すると、1985年8月12日に発生した日航ジャンボ機1
23便墜落事件の全体像がかなりはっきりと浮かび上がってくる。

元日航客室乗務員の青山透子さんが123便墜落で犠牲になられた方の33回
忌に合わせて、この8月に刊行された上記新著

『日航123便墜落の新事実』
https://goo.gl/auvNJY

には、タイトルにもあるように、墜落に関する新事実が散りばめられている。

ジャンボ機が墜落した直後、長野県南佐久郡川上村に在住する中嶋初女さんと
いう女性が、午後7時05分に、長野県南佐久郡臼田警察署に、墜落現場の正
確な情報を伝えていた。

「NHKスペシャル 日航ジャンボ機事故 空白の16時間 ~“墜落の夜”30年
目の真実~」(2015年8月1日放送)

https://www.youtube.com/watch?v=uq2GkTouyCE

1時間22分20秒以降の部分

また、米空軍の輸送機U130パイロット、マイケル・アントヌッチ中尉が重
大な証言を公表した。

「当機は、陽が長くなった夏の夕日が沈みかけていたころ、機首を北北西に進
路を取った。午後7時15分、航空機関士が1万フィート付近で雲の下に煙のよう
なものが見えるのを発見したので、ゆっくり左に旋回し、そちらへ方向を向け
た。御巣鷹山の周辺はとても起伏が多かった。地表からおよそ2000フィートま
で降下する許可を得た。墜落機残骸を発見したのは、あたりはだんだんと暗く
なり始めていた時だった。山の斜面は大規模な森林火災となり、黒煙が上が
り、空を覆っていた。時刻は7時20分だった。」



米軍輸送機は午後7時20分に墜落現場を確認している。

そして、この輸送機が米軍の救援ヘリを視認したのが午後8時50分。

ヘリは地上に救援隊員を降下させようとしたが、横田基地から「直ちに基地へ
帰還せよ」との命令が下された。

救援ヘリは救助続行を希望したが、横田基地は機関命令を下した。

米軍輸送機は午後9時20分に日本の自衛隊機が現地に到着したのを確認して
帰還した。

上記2015年8月15日放送のNHKスペシャルは、墜落当日夜にヘリコプ
ターで墜落現場を視認した自衛隊パイロットの証言も収録している。

https://www.youtube.com/watch?v=uq2GkTouyCE

(31分05秒以降の部分)

自衛隊は現地に2機目のヘリコプターを13日午前零時36分に入間基地から
派遣している。

機長の金子正博氏は、このフライト墜落現場を上空から確認したことを証言し
ている。

同時に、陸上からは長野県警の大澤忠興氏がぶどう峠から航空自衛隊ヘリコプ
ターが墜落現場を上空から確認し、サーチライトを当てている場面を正確に伝
えていた。

航空自衛隊の金子正博氏が墜落現場の報告の際に、地上の警察照明の位置を

「北北西30度4マイル」

と伝えるべきところ、

「北北東30度3マイル」

と誤って伝えたとNHK報道は伝えるが、にわかに信じ難い話である。



自衛隊は墜落後、午前零時36分にかけて、二度にわたって墜落現場を空から
確認している。

米軍は墜落から20分後には墜落現場を確認している。

当局が墜落現場を特定できなかったというのは、完全なフェイク=虚偽情報で
ある。

実際に救援活動が始まったのは翌日13日の午前7時以降である。

この間に一体何があったのか。

そして、なぜ、早期の救援活動が行われなかったのか。

きわめて深刻で深い闇がある。

その闇の正体を多くの探求者が、すでに探り当てているのである。

青山氏の著書はきわめて重大な事実をも発掘している。

群馬県警察本部発行の昭和六十年十月号『上毛警友』冊子が日航機墜落事故特
集号となっており、その122ページに

「日航機大惨事災害派遣に参加して」

と題する自衛隊第十二偵察隊一等陸曹M・K氏の手記が掲載されている。

このなかに次の記述がある。

「八月十二日私は、実家に不幸があり吾妻郡東村に帰省していた。午後六時四
十分頃、突如として、実家の上空を航空自衛隊のファントム二機が低空飛行し
ていった。その飛行が通常とは違う感じがした。「何か事故でもあったのだろ
うか」と兄と話をした。午後七時二十分頃、臨時ニュースで日航機の行方不明
を知った。」

つまり、この日の夕刻午後6時四十分頃に群馬県上空を自衛隊のファントム2
機が飛行していたのである。

同時に青山氏はもうひとつの重要な目撃証言を掲載している。

8月12日午後6時30分頃に、静岡県藤枝市の上空を日航ジャンボ機が傾き
ながら飛行し、その約5分後にファントム2機が日航機の後を追うように北の
方向に飛び去ったのを目撃した人物が紹介されている。

日航ジャンボ機が尾翼を失い、この日航ジャンボ機を追尾するように自衛隊
ファントム2機が追尾するという事実が存在した可能性が極めて高いのであ
る。



日航ジャンボ123便の機長である高浜雅己氏は、異常音が発生した直後に
「スコーク77」を発信している。

同時に発した言葉が「オレンジエア」である。

この間に副操縦士が「これ見てくださいよ」と述べている。

その後機関士が「オレンジエア」と発している。

https://www.youtube.com/watch?v=amA1rwyiuAY

ジャンボ機最後尾56G席に搭乗していた小川哲氏が撮影した写真には、ジャ
ンボ機に接近する飛行物体が映し出されていた。

その飛行物体を専門家が解析すると、円錐または円筒状の物体でオレンジ色の
色味を帯びているもの、さらに飛行機の方向に接近しているものであるとの結
果が得られたという。



コックピットはこの飛行物体を視認しており、衝撃音があったのち、直ちに
「スコーク77」を発信し、その原因について

「オレンジエア」

と表現したのだと思われる。

「日本航空123便墜落事故を検証する」
http://www.link-21.com/JAL123/index.html

は、すべての状況からひとつの推論を提示している。

http://www.link-21.com/JAL123/022.html

「123便に衝突したのはファイヤー・ビーとチャカ2」

分析は次のように記している。

「事故当日、事故現場の相模湾では、相模湾内で護衛艦「まつゆき」が試験航
行していた。すでに指摘されているように、誘導レーダーの実験演習が行われ
ていて、123便の衝突したのは実証実験中の誘導ミサイルと考えることは自然
である。

ネット上での説は、無人標的機のファイア・ビーが犯人であるとしているが、
ボイスレコーダーに衝撃音が2度あることから、無人標的機のファイア・ビー
とそれを追尾していた誘導ミサイルのチャカ2が連続して123便に衝突した
と考えるべきである。」

「日本航空123便は、離陸から12分後の18時24分、相模湾上空を巡航高度の
7,200mを南西方向に機首を向けて上昇していた。

同時刻に、誘導ミサイルの実証実験をしていた護衛艦「まつゆき」から発射さ
れた。

無人標的機のファイア・ビーとそれを追尾する模擬誘導ミサイルのチャカ2
は、高度7000m付近を南東方向の縦に並んで水平飛行していた。

南東に向けて水平飛行していた「ファイア・ビー」と「チャカ2 」は、南西
に向けて上昇中の日本航空123便クロスするように衝突。

先頭を飛んでいた「ファイア・ビー」は、123便の胴体の中央下部に、「ファ
イア・ビー」を追尾していた「チャカ2 」は、1一秒遅れて水平尾翼に衝突
した。

この時の衝撃音が、18時24分35秒と36秒の衝撃音。

日本航空123便は、胴体中央下部への衝突で油圧系統が損傷。さらに、車輪格
納扉が落下もしくは開放され、機内は着陸警報が一秒間鳴り、同時に急減圧に
よる白い霧が発生し酸素マスクが自動降下した。

一秒後に「チャカ2 」は、水平尾翼に衝突して垂直尾翼が落下。水平尾翼
が、進行方向に対して機尾が九の字の跳ね返り、さらに右舷に傾いた。以降、
123便は、直進の際に、機首が上を向きながら右へ傾くようになる。」



極めて説得力のある推論であると言える。

こうなると、ファントム2機が追尾したことも理解できる。

政府、あるいは自衛隊が事実発覚を恐れたとすれば、現場検証が行われる前
に、証拠物を隠滅すること、別の墜落原因を捏造することなどが必要になる。

墜落原因とされた圧力隔壁は現場からそのまま搬出されなかった。

自衛隊が日米合同の事故調査委員が来る前日の8月15日に大型電動カッター
で5分割にしてしまったのである。

最重要の事故原因検証の証拠物を自衛隊が破壊したのである。



生存者である日航CAだった落合由美氏は、

「墜落の直後に、「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。ひとりでは
なく、何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全
体からです。

「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。」

「救助ヘリコプターが上空で回っているのがわかった。手を振ったが気付いて
くれなかった。自分の周りでは数人の子どもたちの声が聞こえたがそのうち聞
こえなくなった」

と証言している。

墜落直後には多数の乗客が生存していた。

しかし、救援活動は行われなかった。

救援活動に着手しようとした米軍ヘリは、横田基地の命令で強制帰還させられ
ている。

そして、自衛隊ヘリコプターは墜落直後に2度も墜落現場を確認しながら救援
活動を行わなかった。

さらに、米軍に救援要請もしなかったのである。



そして、より恐ろしい仮説が存在する。

青山氏の新著137ページ以降に記述されている

「ガソリンとタールの臭いが物語る炭化遺体と遺品」

である。

乗員4名と乗客1名の司法解剖を担当した群馬大学医学部の古川研教授が、

「(機体)前部の遺体には損壊や焼損が目立ち、衝撃のすさまじさと主翼の燃
料タンクの火災の影響を受け、焼損遺体の中には部位も判然としないものがあ
り、通常の家屋火災現場の焼死体をもう一度焼損したように見えた(略)」と
記述しているのである。

青山氏が元自衛隊関係者、軍事評論家、大学の研究者に質問して得られた結果
からは、次のような証言が得られている。

質問 ガソリンとタールの臭いが充満し、長時間燃える物質、その結果、人間
の体が炭のようになる状態のものは何か。

答え ガソリンとタールを混ぜて作ったゲル状燃料である。

質問 これはどこで手に入るのか。

答え 一般にはない。軍用の武器である。

質問 それはどこにあるのか。

答え 陸上自衛隊普通科歩兵、化学防護武器隊で、相馬原普通科部隊にもある
可能性が高い。

相馬原普通科部隊とは、群馬県北群馬郡榛東村に所在する部隊のことである。



安易な推察や断定はするべきでないことがらであるが、恐るべき真相が隠され
ている可能性を否定はできないのである。

松本清張氏が「日本の黒い霧」によって多くのことがらを闇から現実に引き戻
された。

私も「平成の黒い霧」を告発し続けてきたが、「日航ジャンボ機墜落事件」も
また、決して迷宮に送り込んではならぬ重大事案である可能性が極めて高いも
のであると考える。

 


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〇 時局妙観 (民進党内の「小沢アレルギー」を考える!)  

2017年08月17日 17時25分13秒 | 政治経済、社会・哲学、ビジネス、

 イメージ 1

◎「日本一新運動」の原点―383

            日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

〇 時局妙観
(民進党内の「小沢アレルギー」を考える!)  

 総辞職すべき「安倍内閣」が、内閣改造で支持率急減に歯止め
をかけた。本来ならば、安倍政権を追い込んだと評価されるべき
民進党の蓮舫代表と野田幹事長が共に辞職を表明した。理由は、
「党内をまとめることができなかった責任」という「締まらない」
話だ。内外で緊急問題が山積する中、国会議員だけの選挙でも代
表選を行い早急に執行部を構成して諸課題に対処すべきなのだが、
代表・幹事長が居座るように、代表選挙を仕切るべくして暗躍し
ているようだ。これは民主党時代からの伝統で、彼らの病根は見
えるところでは公平さを装いながら、裏では犯罪的行為で不正を
行ってきた。
 平成22年秋の「菅対小沢」代表選挙で話題となったからご記
憶の方も多いだろう。その根っ子に安倍政権の「虚言と隠蔽政治」
を批判できない体質がある。早急に、辞意を表明した蓮舫・野田
両氏が関わらない機関をつくって代表選挙を管理していくべきだ。

 さて、蓮舫・野田執行部が退陣理由とする「党内をまとめるこ
とができなかった」とは何のことだろうか。私の見方は「次の総
選挙での四野党協力で〝共産党アレルギー〟と〝小沢アレルギー〟
にどう対応するか」で、党内をまとめることができない、という
ことである。ところで、このふたつのアレルギーで「共産党アレ
ルギー」の方は問題が少ない。共産党排除は「新軍事資本主義マ
フィア」の影響を受けている幹部に多く、一般の国会議員は総選
挙での〝当選担保〟というリアリズムを考えると、いざとなれば
話はつく。問題は「小沢アレルギー」の方だ。四野党協力で政権
交代を実現するためには、生まれ変わる民進と自由・社民、そし
て市民組織で新党をつくり、共産党と小選挙区での協力体制をつ
くることがベストであることは選挙の常識だ。少なくとも民進・
自由・社民などで「オリーブの木」をつくり、小選挙区での協力
体制をつくることだ。
 この四野党協力の仕組みをつくれる政治家として、国民の多く
は小沢自由党代表しかいないと理解しており、そのことについて
は共産党も社民党も異存はない。民進党内に小沢代表による調整
に強く反対する輩がいることが問題である。漏れ聞くところによ
れば野田代表と枝野氏(代表選候補予定者)だ。そしてその影響
を受けている連中だ。大事なことはその理由や背景である。これ
まで種々議論されてきたが、私は、これまで民主党や民進党を指
導してきた「学識経験者」に原因があると最近思うようになった。

(山口二郎法政大学教授の論調に見る問題点)
 山口教授とは北海道大学教授時代に、放送大学を担当しており、
私が政治改革のひとつの教材として使われたことがあり、その時
から知り合いである。彼と宮本太郎氏で討論した『日本の政治を
変える』―これまでとこれから―(岩波書店平成27年版)が参
考になると思い、読んでみて驚いた。
 そこには看過できない事実の誤認と誤解があり、これらが「小
沢アレルギー」の背景になっていると確信した。間違いは多数あ
るが、重要な二点に絞って報告しておく。

1)小沢一郎らが政治的生き残りを賭けて政治改革のシナリオを
つくったのは、スキャンダルの温床であった人たちがそれを逆手
にとって生き残りを賭けたのだ(宮本氏)。山口氏は「そうです
ね」と同調(同書21頁)。
 田中派・竹下派がスキャンダルの温床であったことは事実だが、
小沢氏についてはマスコミの捏造。国民のため真摯に政治改革に
臨んだことは、衆議院事務局で協力していた私が証明できる。
四野党協力を纏めねばならない時代の要請に、指導すべき立場に
ある人物がこんな発想では何とも・・・。

2)細川連立政権の崩壊は、小沢氏が朝鮮半島危機に対応するた
め「集団的自衛権」の行使に踏み出すことに、社会党側が反発し
た等(40頁)。

 小沢氏の構想は国連の「集団安全保障」に自衛隊とは別組織で、
国連の指示で行動すること。所謂「集団的自衛権の行使容認」と
はまったく別の発想であったが、この二つの概念を区別できない
政治家や有識者が多数いた。土井社会党委員長はこれを理解して
いた。湾岸紛争の「国連協力合意」協議で土井委員長は合意原案
を作成中の私にメモを届け、「これなら党内を説得する」とのこ
とだったが、不調となった。
 この他に山口教授は「自社さ政権」の成立に尽力し、ブレーン
として活躍したことを自画・自賛している。この自社さ政権が、
日本のデモクラシーの発展を妨げたことについて、是非とも論争
してみたい。

〇 国会つれづれ  12
(河野一郎死去の後始末に扱き使われた顛末)

 日韓国会の大混乱で国民から信頼を失ったのは、佐藤栄作首相
だけではなく、国会全体が信頼を失った。園田直を衆議院副議長
に起用した佐藤人事は成功した。当時は平成も30年近く過ぎた
現代と違い、正副議長は自民党が独占し、遣り手の副議長が国会
全体の、事実上の国対委員長のような役割を担っていた。
 第51回通常国会が昭和40年12月20日に召集され、年の
暮に対立法案の「赤字国債特例法」の混乱を避ける合意を与野党
に了承させた園田副議長は翌41年1月4日に「議会制度協議会」
の設置で、本格的国会改革の構想を発表した。さらに「建国記念
日法案」という、野党がこぞって反対する懸案問題も決着させた。
秘書役を務めた私への誤解や悪評も減少し、ほっとしているとこ
ろに持ち込まれたのが前年7月に死去した大物政治家・河野一郎
の後始末であった。
 河野一郎が率いる派閥「春秋会」は政界で「宏池会」(前尾派)
や周山会(佐藤派)に並ぶ影響力をもっていた。本来は中曽根康
弘と森清(千葉県選出)の後継者候補が後始末をすべきだが中曽
根氏は体よく逃げ、森氏は病気のため対応できなかった。結局、
実弟の河野謙三参議院副議長と園田副議長の二人が、宇野宗佑衆
議院議員に手伝ってもらうことで始まった。
 河野氏の残した遺産は当時百億円ともいわれ、女性関係も複雑
で、公にできない利権がらみの関係先が、もつれた凧糸のように
絡み合っていた。私に後始末を手伝えとの要請があったのは河野
氏の同族会社に「東京資材株式会社」があり、ここで親族間のト
ラブルが「背任横領事件」に発展しそうになり、それに対処する
ためであった。園田副議長から「関係者と相談したところ、口の
堅い役人に事務をやってもらおうとなった。弟さんの河野副議長
からも説得してくれとのことだ」といわれ、断れなかった。

「東京資材株式会社」とは、食糧庁が管理する「米穀」を入れる
麻袋を独占的に納入している特種な企業である。河野一郎氏は農
林省の利権で資産や政治資金をつくることで広く知られていた。
当時は「コメ」が配給の時代で、このビジネスは「濡れ手に粟」
ならぬ「濡れ手にコメ」のいわば河野家のトンネル企業であった。
 問題を整理し、話し合いを進めると8億円(現在では約30億
円?)の資金があれば事件にはしないとの見通しがついた。難問
は8億円をどう調達するかということになった。経緯から宇野宗
佑氏が故郷滋賀県の出身で江商の生き残りといわれる大阪の金融
企業「日証」のオーナー・大堀省三氏が拠出する話をつけてきた。
大堀氏は、佐藤首相や中曽根氏ほか、大物政治家に裏・表の資金
を出していることで、その筋の人たちは知っていた。
 問題は大堀氏が出した資金が、政治資金か個人的に貸したのか、
返済すべき資金か否か、まったく不明であった。実際の金の受け
渡しは宇野氏と大堀氏が現金でやったが、連絡や調整は私の担当
だった。大堀氏の気持ちとしては8億円を返してもらうつもりは
ないと、私は理解していた。その理由は「8億円を出したことは、
佐藤首相にも話してある。佐藤政権の安定に役立てばと・・。何
かあれば相談しますよ」と私に話があったからだ。政治的に活用
するつもりで、私が証人のような役回りであった。
 東京資材事件は「地獄の沙汰もカネ次第」のことわざ通り、検
察・警察筋には園田副議長が話をつけ河野一族で刑事事件を準備
していた人たちには、宇野氏が資金で説得し、一件落着となった。
この話には幾つかの後日談がある。まず、大堀氏が出してくれた
資金が残ったのだ。詳細は個人の名誉のためにいわないが、河野・
園田・宇野の3人で3等分した。
 その中で園田副議長の使途の一部に、私が関わったことについ
て報告しておこう。赤坂の花街で若い芸者を「3百万円で身請け」
した。念のために「身請け」を広辞苑で見ると「年季を定めて身
を売った芸妓・娼妓などの身代金を払って、その商売から身をひ
かせること」だ。園田氏は、その女性を勝海舟で知られる赤坂氷
川町のマンションに住まわせることになる。引っ越しの日が決ま
ると「済まないが、彼女と一緒に秋葉原に行って、テレビ・冷蔵
庫・洗濯機などを、新婚さんのようにして買ってきてくれないか」
と私に懇願してくる。私は怒る気にもならず、「いよいよ女好き
の勝海舟の心境ですか」と皮肉を言って園田副議長の愛人と数時
間のデートを楽しんだ。これが半世紀前の日本政治の裏側である。
 河野一郎という政治家を、私は〝亡国の政治家〟と思っている。
後継者の孫・太郎は当時3歳だった。8月3日の内閣改造で安倍
内閣の外務大臣に抜擢されたが、祖父の生き方をどう考えている
のだろうか。                   (続く)