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マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。

『やる夫が鎌倉幕府の成立を見るそうです』~“坂東”というフロンティア

2012年01月31日 | その他
【日本史】



▼泳ぐやる夫シアター:やる夫が鎌倉幕府の成立を見るそうです 巻第一

今週の日曜日の夜あたりに、mantrapriさん、哲学さんと『やる夫が鎌倉幕府の成立を見るそうです』のラジオをやる予定です。しかし、この物語は先日、ペトロニウスさんのラジオでも取扱いましたが、非常に膨大なこの物語は、一回の放送で全て語りには……いや、仮に語りたい所だけ抽出しても、語り切るのは難しいのですよね。そこで、先にブログ上に僕の話の前提~背景~となる部分、だけでも記事に書き起こしておこうと思います。
『やる夫が鎌倉幕府の成立を見るそうです』は、源平の合戦~鎌倉時代成立期を駆け抜け、そしてやがて室町幕府を開く宿命を持った“足利一族”の頭領・足利義兼~義氏の視点から描かれる、源頼朝、北条政子を中心とした鎌倉幕府に到る者たちの壮大な群像絵巻をやる夫キャラクターたちで描いている『物語』です。

■中世を一つなぎにする物語

まず、僕がこの物語に感動というか“感謝”している部分は、どうも一般的(?)なものとはどうも微妙にズレがあるらしい…という事を打ち合わせしていて気づいたのですが(汗)僕はこの物語を通して“僕の中の日本史”を南北朝~室町時代から、鎌倉時代を、繋いで一続きにしてもらったという面の感謝が非常に大きいのですよね。
それは『風雲児たち』(作・みなもと太郎)を読んで「幕末」を「関ヶ原の戦い」からはじめる事によって、江戸時代を一つの視点で描いてもらった感覚に近いものがあります。
僕が歴史を学んだ時、まあ元々、織田信長や豊臣秀吉が活躍する「戦国時代」が好きだったという事がありますが、そこを調べて行くと「応仁の乱」と言うものに辿り着く。「応仁の乱」からさらに遡ると「足利義教の武断」を経て「足利義満の武断」に辿り着く。「足利義満の武断」からさらに遡ると「観応の擾乱」、「南北朝時代」、そして「建武の新政」、「鎌倉幕府の崩壊」に辿り着きます。
そうやって「ああ、歴史というのはずっとずっと連綿とつながっているんだなあ…」と実感するに到るのですが、そこから先…というのが僕には無かった。…「元寇」によって鎌倉幕府が弱体化して?それによって後醍醐天皇による天皇家復権の活動が?…う~ん?くらいの感じでしょうかね。

しかし『やる夫が鎌倉幕府~』を読むと実感できるのですが、そもそも北条氏は鎌倉幕府の執権という、当時の最大勢力/最大武力を持つ集団の筆頭には、確かになったのだけど、そこに到るまでに流した血と火種は、ずっとそのまま残ってしまっていた。
また、鎌倉幕府は確かに当時の最大勢力で、そこを支配すると言う事は、日本全体の支配者になる事を意味する……という言い方もできますが、実際は、日本国内の権力は一元的に統一されておらず、鎌倉幕府に未加盟の武家も(特に西国には)存在し、反旗を翻される存在は~そもそも反旗というか、仕えてすらいないから反乱ですらない者たちから戦争を仕掛けられる状況は~残ったままだった事が分かります。

『やる夫が鎌倉幕府~』は、この時代の一番の歴史資料である『吾妻鑑』について、批判的な視点で語っている面が大きい物語です。しかし批判しながらも別の~鎌倉府のナンバー2であったろうと作者が語る~足利氏という一族の視点を提示する事によって歴史の再構築を行い、それにより鎌倉時代黎明期の情景が鮮やかに再現されて行く所に感動を覚えさせられます。
正にそこ。『吾妻鑑』の最大の目的であったろう「執権北条氏の一強」とでも言うような歴史イメージ~おそらく学校で普通に習う鎌倉時代のイメージだと思いますが~からだと、あまりに多くの事が見えなくなっている、そこを質される事になります。

※あ、ここで一つ茶々を入れますが、この物語はあくまでフィクションで、そこで描写されるものを歴史的事実として捉えるのは危険というか、あまり歴史の学習として正しい姿ではありません。しかし、読めば分かりますが、この作者さんは相当な歴史知識の持ち主で、普通に専門家じゃないかとも思うんですが、そのまま後学に耐えうる資料を提示してくれます。その上で、個々の出来事はギャグとパロディによって成り立っているので、これをそのまま飲み込むような人は、そもそも、この物語を読めないだろうという、非常に絶妙のバランスによって描かれているんですよね。

そもそも、教科書の年表を見ていると江戸時代が“ミラクルピース”と言われる奇跡の時代だったなんて言っても「鎌倉幕府だって、室町幕府だって100年かそこいらくらいはピースだったんじゃないの?」というイメージを持つ人も多いのではないかと想像します。
しかし、実情を言えば日本史の、律令制度が崩壊した“中世”において、徳川幕府による幕藩体制が確立されるまでは、極端に言いますが、この国が一つの権力の元、一元的な支配体制が布かれた事は一度たりともないないと言ってもいい程、力の均衡による戦雲が立ち込め、人々は長い長い長い長い擾乱の日々を生き抜いてきたと言う事です。
なぜ、それ程長いこと擾乱の時が収まらなかったのか?それは正に日本史のキモという気がしますが……う~ん(汗)ここまでに、けっこう文字数使っちゃってますねえ(汗)日本史全体の話が長引いてしまっているので、ちょっと一旦、鎌倉幕府成立に到る話に戻ろうと思います。

■“坂東”というフロンティア

この長い長い擾乱の物語の、そのはじまりを考える時、坂東(関東平野)という土地を抜きにしては考えられないと思います。「墾田永年私財法」による荘園の台頭と班田制の崩壊、それに伴う律令制度による朝廷の中央集権体制の弱体化、その中で、「武士の出現」に伴って、朝廷の影響力の薄い独自の勢力として力を持ってきたのが坂東でした。

源平合戦を見ると分かる事ですが、この頃、坂東連合軍を率いた源頼朝は、平家追討の院宣を受けて、壇ノ浦まで平家を追い詰めてこれを討滅しています。途中、現地の勢力の支援があったとは言え、基本的に関東から出発した軍隊が、日本の西の端まで到達しそこで決戦を交える程の継戦能力が、既にあった事を表しています。
これってつまり坂東は中央軍としての武力を既に有しており、事があれば、日本のほぼ全域にその中央軍を派遣して討滅できる事を意味します。つまり、単純に武力においては、日本の支配者の名乗りをあげてよい程の勢力を獲得していると言えます。
日本地図を持っている人、あるいは頭の中で描ける人は、すぐに分かると思います。当時、日本の中心は畿内(関西)だったワケですが、土地のポテンシャルにおいては関東は全く引けをとっていない事、というよりむしろ順調に開拓が進んで行けば、いずれ坂東は畿内を凌駕する“国”になるであろう事は自明だと思います。

ここらへん西洋の「新大陸発見」と開拓移民から独立戦争までの流れをイメージすると、この“坂東”という土地の意味が見えて来るのではないかと思うんですよね。いや、僕はアメリカ独立運動の事などはよく知らないので、大雑把な符合になりますが。古代の日本人は、坂東という“新大陸”を発見し、朝廷の支配の届かぬ(届きづらい)その土地にこぞって出立し、植民と開拓を始め、人間の数を爆発的に増やし拡散させていった。
そうして、現地の治安の維持という問題において、ほとんど全くあてにできない朝廷を無視して、彼らは独自の武装をし近隣から襲いくる無法狼藉を防ごうとした。それが(↑)上の画像にある坂東武士団のはじまりになって行くワケです。

「坂東は日本人のフロンティア」であり、ある意味、法の届かぬ無法地帯で、自分の身は自分で守らざるを得なかった。それによって自分らの自立に対して何の恩恵もない朝廷に対する帰属意識は必然的に薄れていった、その経緯が分かると、日本史の中世のはじまりと、そして鎌倉幕府の目指したものが見えてくるはずです。
そんな中で正にフロンティア的な出来事として先住民を僻地に追いやる「前九年の役」、「後三年の役」があるのでしょう。これはアメリカ新大陸的に言えば、騎兵隊vs先住民と言ったようなイメージを持つ方が、一般に理解しやすいのではないかと思います(我ながら大雑把な語りですが)。

その先住民を追いやる戦いにおいて、直属の上司だったのが河内源氏の頼義、義家といったメンツだった。これが「源氏は武家の棟梁」という伝説というか、妙な決まりというか、坂東武者たちの心に刻まれたものになって行っているはずです。
「戦場でお世話になった上司」というのは、単なる身分や制度上の上司を超えた情と言うか忠誠心が自然と生まれるのでしょう。それが勝った戦、生き残った戦ならなおの事(平将門の血脈がこういった持ち上げ方をされてないのは結局負け戦だったからだろうか?)。気分の良くない人もいるかもしれませんが、異民族との戦いによって得た、同族の連帯感というのも、大きな作用を持っているように思います。これは、西国の海に勢力を持ち、貿易で力をつけた平忠盛→清盛から連なる平家一門には無いアドバンテージだったはずです。

これらの条件が坂東に鎌倉幕府の胎動を促して行きます。…もしこれに源頼朝という要素が入らなかったら、あるいは源氏の伝説がなかったら、どうなっていたか?事の当否は分かりませんが、おそらく坂東が大和朝廷の中央集権体制からの離脱を試みるのは必然で、その際は「坂東合衆国」のような様相を呈していたかもしれません。


……う~ん、時間切れ(汗)やっぱり書き切れませんね。もう幾つか書きたい項目があるのですが、また改めて書き足せられればと思います。とりあえず、走り書きまで。

『風雲児たち』小栗上野介キター!(゜∀゜)

2011年11月29日 | マンガ


コミック乱で連載中の『風雲児たち 幕末編』(作・みなもと太郎)で、井伊直弼の“運命の日”のカウントダウンが進む中(進んだり、戻ったりする中(´・ω・`))いよいよ、小栗上野介が登場。…いや、まだ、顔とかキャラクターとか決まってないみたいですね?今から楽しみです。
『風雲児たち』はギャグマンガの大家・みなもと太郎先生が渾身の筆致で送る“幕末もの”マンガ……幕末の物語を描くのに“関ヶ原の戦い”からはじまり、その後もいつまで経っても幕末にならない、気がつくと30巻に至り、連載誌を変えて、ようやく今、幕末をやっているという冗談のような連載ですが…。笑いあり、涙ありの、掛け値なしの傑作名作マンガです。

『風雲児たち』を読むようになって、あらためて幕末について調べたりしたんですが、その中で、この人は知りましたね(名前は以前から聞いた事はあったんですが)。バキバキの幕臣なんで(バキバキ?)、維新三傑とか、あるいは新選組とか、龍馬とか、幕末の“定番”の人からは、なかなか接続がない人じゃないでしょうか。(勝海舟とかはどうだったんだろう?)でも、すごい人です。幕末にはぐれた孤高の士のような風格すらあります。
しかし、この小栗上野介の事、あるいは阿部正弘の事、あるいは川路聖謨の事など幕府の士の事を調べて行くと、一般に流布するような佐幕=「時代が見えなかった者」、薩長=「時代に先んじた者」、という“史観”は、とても疑問になってきます。
反射炉建設、海軍操練所、造船所建設、使節団の派遣、明治の“未来”につながる多くは幕府の主導で行われている。対して倒幕を果たした薩長は“未来”に対してどれだけの事をしていたか?…というか、あの当時、世界に立ち向かえるだけの何か?をやる事ができたのは“徳川幕府”しかなかったと言ってもいいんですよね。「そんなの当たり前じゃん」と思う人もいるかもしれませんが、とにかくそうだった。
薩摩の島津斉彬は“それ”をしていたと言えそうです。しかし、それも老中・阿部正弘との協力体制でのものであるし、彼が早逝して島津久光に変わった時、どれほどの事を続けていたかは、かなり疑問です。あと、鍋島藩。うん、まあ、ここは…まあ、うん。(´・ω・`)引きこもっちゃうのはどうかな?くらい?

僕は今、幕府寄りに歴史を読み進めようとしているので、そこは注意して欲しいですが……徳川幕府の官僚たちは阿部正弘も、江川太郎左衛門も、川路聖謨も、そして小栗上野介も出来うる限りの“外国”との戦いと、そして“未来”への布石を打ってきたのだと思うんです。
いや、その戦いっぷりは、その清国をも下す列強に対するちっぽけな島国の成果としては、考えうる最上に近いものとさえ言ってもいいように思えるのですが、「倒幕(革命)!!倒幕(革命)!!とにかく倒幕(革命)!!」とがなりたてていた血気盛んな闘士たちによって、その成果の多くは奪われ、そして彼らは、それらが自分の手柄であるかのように歴史を語り継いだ……そういう面はなかったか?とは思ってしまう。

以前、『まどか☆マギカ』に引っ掛けて“幕末”を語ったりしましたが、今、述べたような感覚で書き綴っていますね。(↓)

▼togetter:『魔法少女まどかマギカ』風?に戊辰戦争時の日仏交渉を演じてみる

しかし、なら「幕府のまま」でよかったか?熱狂の渦に巻き込まれること無く、事態を冷静に察し「幕府はできるだけの事をしているじゃん!」と。そう評価して、すごすごと引き下がり、主導は彼らに任せ、協力は惜しまず、徳川幕府のまま世界に乗り出して行くのが一番“安全”だったのか?…僕は、そうも思えない。
上手く、説明できませんが、人間には、というより“人間たち”には、何かスイッチが切り替わる“儀式”が必要な時があり、この時はパックス・トクガワーナという“日常”の延長の窓枠から世界を観続けてはダメな時だったのではないかと。そんな気はします。

ここらへん、人類学者・フレイザーの『王殺し』という話を思い出すんですけどね。未開社会において見られる「宇宙の秩序を司る祭祀としての王が、その力を失った時、王は殺害され新たな王を擁立して秩序を回復させる」という“儀式”で、それはヨーロッパの市民革命や、清教徒革命においても見られる“儀式”…という事らしいですが。
…そういうものを、この維新回天にも感じます。「なぜ、徳川幕府が滅びる必要があったのか?」は僕の今後のちょっとしたテーマですね。実は彼らからは、そういう『王殺し』すらも推して引き受けているような……そんな潔さ、美しさすら感じる事もあるんです。
小栗上野介が『風雲児たち』において、どれくらいの扱いになるんかは分かりませんが、期待しています。



…あ、あと12月4日から『坂の上の雲』の第三部が始まるよ!(`・ω・´)19:30からだね!!


風雲児たち 幕末編 19 (SPコミックス)
みなもと 太郎
リイド社

魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その4)

2010年07月05日 | 思考の遊び(準備)
【情報圧縮論】【脱英雄譚】

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/9463c36296d822054b9ae5a6abd241d7

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/a5d7d212f714fa3587721b5cefaf7230

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その3)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/77c8668529ca2b47cda018dfbaaf85f2

(↑)前回の続きです。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」目次】
http://maouyusya2828.web.fc2.com/menu.html

http://maouyusya2828.web.fc2.com/

(※既読者向けです)

自分で読み直したのですが、なんかも~。分かんないですね(汗)え~っとガイドすると、『英雄譚』の構造と『情報圧縮論』の話を並行して進めているので、今、どこの話をしているのか不明瞭になっている気がします。順番としては『情報圧縮論』の分解材料として今回、『英雄譚』の構造(そして脱・英雄譚に至るモノ)を選んでいる状態で、そもそも、その素材の『英雄譚』ってどういうもの?という話になっている感じです。

他の諸々の分かりづらさは……すんません、ほんと、もう、すんません。…とにかく続けます。

■『情報圧縮』の無い作品



まず『情報圧縮論』の補足として、『情報圧縮論』が適用されないタイプの作品、『風雲児たち』(作・みなとも太郎)を上げておきたいです。1979年から連載が開始されて、未だに未完のこの『物語』は、幕末~維新回天を主題にしながら、その時代をおよそ300年遡った関ヶ原の合戦から物語を始まりました。そのまま幕藩体制誕生の物語が進み会津藩が誕生した所で、ようやく本題の幕末に“跳ぶ”かと思いきや、今度は『解体新書』の杉田玄白、前野良沢から当時の幕府(日本)における、西洋との関わり方の経緯から切々と描き始めるという。そして現在(2010年)、ようやくハリスと日米修好通商条約を結んだところ!という、空前のスケールで描かれている歴史大河マンガです。

『物語』というのは『面白く』無いところは端折ったり、割愛したりして『面白さ』の結晶になるようにして作られて行くのが基本(?)の作劇というものだと思いますが、これはその歴史に『詰まらない』所なんて無い!総ての物語がつながって端折れるような所なんて、本当は無いんだ!と力説して、その圧倒的な『面白さ』でそれを納得させている。それは『圧縮』しない事の凄みが描かれているって事です。(厳密に言えば原初的な情報圧縮技法(省略法)は当然取り入れられていますが、大意において…という意味ですね)

ただ、これは『情報圧縮論』の当初のまとめから言っているように莫大な才能と経験を必要とする事です。一見正攻法に観えるこのやり方での到達をまざまざと魅せられてしまうと、何か微妙に『受け手』の文脈を読むリテラシーに依存しているような『情報圧縮論』の方法は、かなりあほらしいものに観えてしまのも無理からぬ事とも思うんですけどね。え~…まあ、こちらはこちらで別の価値があると思って話を進めています。

※あと『情報圧縮論』に入る時期の、ある種の臨界点の作品として士郎正宗先生の一連の作品を上げておきたいです。コマ外にメモ書きを相当詰め込んでいたあれですが…wいや、こっちの話はまた長くなるし、まとまって無いので別の機会としますが。まあメモ書き程度で。


■『英雄譚』の引力

【フランス】御旗のもとに【シャルル・ド・ゴール】

神話に彩られたレジスタンスと自由フランス、しかし当時のフランス本土はヴィシー対独傀儡政権とドイツ軍の支配下にあり、実際のところ、レジスタンスに加わった者はフランス国民全体からすれば少数派であった。
現在フランス史学会ではレジスタンス神話の克服が進められ、闇の部分であった対独協力の歴史に重点がおかれている。しかし、対独協力もまた、国民全体からすれば少数派であっただろう。

ヴィシー政府・ペタン元帥「一握りの『英雄』と、一握りの『悪党』で、全てを語りうると考えるとき、歴史は『光』と『闇』の愚劣な『物語』に堕してしまうだろう…」

(最初、コメント外し推奨)また、“英雄譚”が持つ引力(?)のようなものの一例として一本動画を上げます。この『御旗のもとに』という動画は、『サクラ大戦3』のテーマ曲と、第二次世界大戦時における自由フランスの指導者・ジャルル=ド=ゴールの戦いをまとめたもので、youtubeやニコニコ動画が発足する以前、個々人がフラッシュ動画を作って自分のサイトなどにアップロードしていた時のもので、2ch世界史板のコテハン・ナポレオンさんが作成したものです。

動画の間奏で、上記した引用文が添えられるんですが、歴史を学ぶ人らしい一文だと思います。世界の在り様に明確な善も悪もなく、その単純な理解のままにとどまる事は愚劣な物語に堕してしまうだろう……と、ここでは言われていますが、まあ『物語』を愉しむ事はまた別物ですけど、世界の認識としては非常に危ういものであるとは言えると思えます。

同時に製作者のナポレオンさんは、そうエクスキューズした上でド=ゴールを目一杯英雄として描いているのですよね。もう、ほんとに、リミッターが振りきれるくらいにw
それが『光』と『闇』の愚劣な『物語』だったとしても、僕はそれで得られる感動を僕は“本物”だと思っているし、これを在り様のままに、加工なしに、一握りのレジスタンスと、一握りの対独協力者と、そして大勢のそうでない人々を均一に描いたとしても、この感動まで持ってゆくのは、相当な困難がともなうと思うんです。現実の理性に基づく世界への接し方の学習は他の領域にお任せするとして、僕は“この感動を維持したまま”如何に、世界の在り様への接続性を高めてゆくか?という試みに興味があるんです。

そして『魔王x勇者』の『物語』を考えたとき「魔王と勇者が延々と争い合って行くこの物語の先を見よう。行こう」という示唆はいったい何を意味するのかと言えば、正にこの『光と闇の愚劣な物語』(この言い回し、好きじゃないんですけどねえ……まあ、ペタン元帥からしてみればそう言わざるを得ないよなあ)から脱しよう!そういう世界の“割り振り方”をやめて次の景色に行こう!という事なんだと思います。

…………………でも!それでも!『英雄譚』の引力は働くよね?というのが、今、僕がしている指摘なんですけどねw

また“子供じゃないんだから”止めようという行為は「や~めた!」の一言で終わるものではない。今まで『英雄譚』で世界を語ったなら幕引きにもその責任がともなう……という事でもあります。この『物語』で祭壇が二度現われるのは、それらの意味を内包した上で在るもののはずなんです。

■歴史の圧縮
勇者「そう考えれば……。さっきよりは無理じゃない気がしてきた」
魔王「であろう?」

勇者「そうだな。俺たちの代で全部やらなくても良いんだ」
魔王「なにをいうか。見届けるまでは……」

メイド長「まおー様」
魔王「あっ……」

勇者「……」
魔王「……」

勇者「まぁ、うん。とにかく随分目の前が開けたぜっ!」
魔王「……」

勇者「なんてツラしてんだよ。忽鄰塔を乗り切らなきゃ
 どっちみち明日も明後日もないんだぞっ。
 そのみっつの氏族を切り崩す準備はあるんだろうな?」

(「魔王『この我のものとなれ、勇者よ』勇者『断る!』」6スレ目より、フォント拡大部加工)

さてようやく『魔王x勇者』の話に戻ります。…このシーンすごく好きなんですよねえ。(=´ω`=)その覚悟に泣ける。…敢えて説明すると『丘の向こうを見る物語』は、本来は自分たちの代~少なくとも勇者(人間)の寿命では~辿り着けないその道の途中で終わる事があり得る物語である事を示しているんですよね。それは、真っ当に、捻りなく“歴史に接続”をすれば、たとえば上記した『風雲児たち』の世界へと入って行く事を意味しています。



それは、たとえば、外国の侵略に備える事を称えながら、彼の生きた時代では本格的な“来寇”は起こらず。単なる奇人、幕政批判の人として弾圧されて死んでいった林子平の物語のようになってくる。非常に乱暴は評価ですが、敢えて言えばエンターテイメントとして、彼の物語にはクライマックスは無いんですよね。彼が行った事の意味は、その死後数十年経ってはじめて発揮されて行きます。(←あれ?『魔王x勇者』の話に戻っていない)
こう言うクライマックスが来なかった人の物語というのは、たとえば“主人公の父の物語”とか“先祖の物語”とかで省略されたりするんですけどね。後から語るなんて手法を避けて、律儀に、この詰まらない報われない物語から(プロローグ的に終わらせず)しっかり始めようとすると、大抵、強い指示に変えられなくって、その物語は途中で終わっていったりします。

その一つの退避のかたち…というか『魔王x勇者』の特徴として、『物語』としての……分かりやすさというか、象徴性というか、一人の主人公の『物語』として成し遂げられるのカタルシスの選択として“外なる図書館”が登場しますね。この『物語』のチートwを集約したようなガジェットです。この物語の展開させる原動力となる、魔王の知識や先見性はこの図書館を立脚点としている面が大きい。
馬鈴薯の栽培、黒色火薬から銃器の発明、種痘による天然痘の予防など、総て完全に…とは言わないまでも“図書館”に拠る展開と言えます。そして、それらの展開の連続した投入によって『魔王x勇者』の物語は歴史的な圧縮が起こり「欧州の十字軍遠征の時代から第一次世界大戦あたりまでの歴史的経緯を1ストーリーで描き切っている」…という評価を得るに至っています。

この“図書館”というガジェットそのものを『情報圧縮体』というつもりはないです。しかし、『物語』を圧縮して語ろうとして出てきたアイデア……いや『物語』を『面白く』しようとして、出されたアイデアが、結果として『圧縮』を呼んでいるという順番が正確でしょうが、結果として1ストーリーにまとめる力を持った。
それがなければ、あるいは「風雲児たち」のような展開に突入して、そしてみなもと先生程の才能がなければ冗長極まりない大河『物語』になったかもしれない事態が回避されている事~歴史性を保ちつつ圧縮されている事~を指摘しておきたい。
実際に勇者自身から「俺たちの代で全部やらなくても良いんだ」というセリフが引き出されている。その視点は確保されているんですよ。

これねえ……僕も、遂に説明される事がなかった“図書館”の話については、すご~く!いつまで~も!気になっちゃうんですよねw(いや!説明が欲しいわけじゃないですwそこは自分で想像するから!w)また、僕としては、まあ、大した指摘じゃないと思うんですけど、“図書館”というチートを利用する事によって「そういうチートがあるから(本当はそのチートがない)“世界の在り様”の接続が不十分だ」という~僕の英雄譚から世界の在り様への接続を果たしているという評価に反論する~指摘も生み得るんですよね。

しかし、そこはもう上に上げた『御旗のもとに』の説明通りで。「魔王x勇者」の『先の物語』としての到達点は『英雄譚』からの脱出であるという観点から、この話をしているのですが、物語構造のメタな部分として、やはり『英雄譚』の引力は受けて行くんですよね。その力場はかなり強い。また、そうでないと『面白さ』の維持は大変難しものだった…と言えると思います。

たとえば日本神話にあるヤマトタケルの『物語』なんかは、時代も違う複数の反大和王権勢力の討伐の経緯を一人の主人公に集約して描かれたものという説(解釈?)などがあるように、歴史という長大な人間の物語を描こうとして、一人の人間の物語を描く時間でそれが完結するようにまとめるのは、正に“英雄譚”の生成そのものなんですが『物語』がシンプルであろうとした時に、そこに回帰してゆく力場のような物は感じられると思います。……感じられますよね?(汗)

“外なる図書館”の導入はこれらのバランスをとって『物語』を紡いでゆく回答として白眉のものに思えます。…単純にオーバーテクノロジーを引っ張り込むというアイデア自体はいくらでも散見されるわけですが、この場合、それを“どういう意味で描くか?”という選択の話になるかと思います。

■『情報圧縮』の顕現

光の精霊「やっぱり。ダメでした……。
 竜王の時も死導の時も。憎魔の時さえも。
 結局は思い出してはくれなかった。
 それでも……良いです。
 彼を裏切ったわたしには、
 あなたに何かを要求する権利なんて
 最初から何一つ有りはしないのだから……」

勇者「そうかなー」
魔王「そんなことはない」

光の精霊「え?」

勇者「裏切ってなんかいないだろう」
魔王「まったくだ」

光の精霊「え? え?」

勇者「まぁ。光の精霊は少しとろいからなぁ」
魔王「そんな感じだ。それにしたって、長すぎる誤解だ」

(「魔王『この我のものとなれ、勇者よ』勇者『断る!』」13スレ目より)

もう一つ、僕が『魔王x勇者』で注目している設定に、光の精霊によって救済された世界で、“勇者(光)”と“魔王(闇)”の物語は延々と繰り返されていた…というものがあります。直接的にはこの設定が“二度目の『祭壇』”を呼び込んでいるワケなんですけどね。

というより、僕は『魔王x勇者』に感動して、こうも長々と益体もない文章を書き続けているのは、(↓)下の『先の物語という意味』の記事にある事の方が先で。まず『魔王x勇者』の外にある……いわゆる近代の“子供向け”の英雄譚たちが繰り返し戦い、『祭壇』に至り、しかし悩み続けるに留めるような…そういう回答で多くの物語が終わってしまう事に対して『臨界突破』を仕掛けている作品である事に「おおっ」と思ったからなんですね。それは最初の『祭壇』である魔王と勇者の対話によって描かれ、はじめられている。
それの回答として……たとえば「馬鈴薯を栽培しよう!」というような答えの示す手順に「おおっ」と思い。それらを1ストーリーとしてまとめ上げる過程に、僕が以前から悶々と頭の中で考えていた『情報圧縮論』の具体例が様々な箇所で見出されたので、こっち『情報圧縮論から観える構造』を書いている…という順番です。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/74eed63271d173e9d4dd2c8facb30615

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/463b4de3919163ad00aa98250584512b

詳しくは(↑)の文を読んで欲しいのですが、僕はこの『魔王x勇者』外の近代の子供向け英雄譚…というものを、大体、『宇宙戦艦ヤマト』~『海のトリトン』~『ガンダム00』~『コードギアス反逆のルルーシュ』といったレンジで語っているのですが、僕はこれらの文脈を知らなければ『魔王x勇者』という物語を楽しめないと言うつもりはありません。こういう“流れ”のようなものを体感する『愉しさ』を知って欲しくはありますけどね。

しかし、何が言いたいのかというと、この「光と闇の戦いが繰り返される」という設定そのものが『情報圧縮体』なんですよね。(↑)上の記事で述べている文脈をしなくても『受け手』は擬似的にその文脈を体感できるという……文脈の存在有りきで語って、いささか逆順的ではあるんですが、正に!『情報圧縮論』から観れば!そういう役目を果たしていると言えるんです。この文、そういう話なので(汗)
これを『情報圧縮の顕現』と呼ぶ事にしています。その情報の解凍に予備的な知識は要らず~擬似的、あるいは直感的に~その情報を教授できる…まあ、多くは何らかのキャラ、ギミック、ガジェット、あるいは全体的な設定といった『情報顕現体』に固めるのに、相応のアイデアを必要とする事になりそうですが…。定番化できるものはガンガン流用するといいかもしれませんね。

■少しまとめます。

ちょっと、構成間違えたような気がしないでもないですが……(汗)ここでもう一度(その3)を読み直してもらえるとありがたいです(元々、ここまでをその3にするつもりだった)。
まとめると、繰り返しになりますが、「英雄譚からの世界(の在り様)への接続モデル」という“文脈”があって、『魔王x勇者』は『情報圧縮の顕現』などを利用して、このモデルの全体が『物語』内に収められていると。それは作者がそう意図している…という話ではなくって、『情報圧縮論』の角度からこの『物語』を観ると、そういう構造が観えて来ると。そういう話ですね。
そして、本当の意味で“世界の在り様”への接続を果たすには、英雄譚である事を止める必要がある。「光と闇の愚劣な物語」(繰り返しますが、この言い回しは好きじゃない)で世界を語る事を止めなければならない。しかし、それは「や~めた!」の一言で止められるものではない。
同時に『英雄譚』の引力、英雄譚である事の感動や“伝える力”というものがある。それは“伝える力”としてギリギリまで保持したいもの。それが脱・英雄譚の『物語』という事ですね。そのバランスの中で二度目の『祭壇』は現われる。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その3)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/77c8668529ca2b47cda018dfbaaf85f2





……え~っと(滝汗)。ちょっと時間が限界です。また終われなかった(汗)なんだろう?この読み違え?とまれ、次で本当の本当に終わります。



以前の記事です。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/74eed63271d173e9d4dd2c8facb30615

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/463b4de3919163ad00aa98250584512b

「葉隠」の物語~「風雲児たち幕末編」吉田松陰

2010年02月07日 | マンガ


「風雲児たち幕末編」で吉田松陰が順調に“狂い死に”しようとしています。

井伊直弼の権勢確かな内から、倒幕を謳って幕閣老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。主君である毛利敬親を京都へ拉致して強引に天皇の勅を受けさせ徳川幕府と対峙させようとする。…幕末において長州藩というのは相当“狂っていた”集団だと思うのですが、高杉や、久坂といった名だたる行動派が“どん引き”する程の“狂い”方w
諫める弟子たちへ松陰は言い放つ。「危険が去って後、立ち上がるというのか。功名手柄を立てられる時が来るまで動かんというのか。君たちの腹はわかった。僕は忠義をする積り!だが、諸君は功業をなす積り!なのだな!」と。“やらねばならない事”ってのは、できる、できないんじゃないんだと。成功しなければ意味がないというのなら、100%の保証が無い限り立たないという事で、100%の保証なんて永遠にこないから、それはつまり永遠に立たないという事だと。…まあ、非常に極端なものの考え方ですよね(汗)しかし、順番を前後させて語りましたが、松陰のこの“狂い”方が長州藩の全部に伝播し藩を動かし、倒幕・維新の原動力となった事は多くの人々が認める所でしょう。
誰かが“狂わない”と日本を近代国家に変えて西洋列強に対抗できる体制を作る時間を短縮できなかった。(「風雲児たち」を読んでいる人なら知っているでしょうが、松陰の先生である佐久間象山もまた“狂った計画”を幕府に上奏して、時代を短縮させようとしましたよね)

何でもそうですが“取り返しの利かない決断”というやつは、人の心を躊躇させ理と称して人を楽へ流しますよね。…まあ、これが功名や利益のための決断なら、慎重に慎重を重ねて“時が”来るのを待っているのもいいんじゃないかと思うんですよ。準備を怠らずに。…そうして結局、その“時”が来なかったとしても、まあ、それはそれで悪くない人生というかね。そこを敢えて打って出るのも決断ですが、まあリスクはあるよねと。しかし、それは「できるできない」のタイミングを測る話であって、今、松陰がしている「できるできない」の問題じゃない話とは違う気がします。
むしろ、こういう松陰の生き方を功名・利益の事に当て嵌めて参考にしようとすると、大失敗する気がします。松陰がここで命をかけてやろうとしている“やらねばならない事”ってのはそういうものじゃないんですよね。武士とは言っても身分制度でガチガチに固められた幕末に一人の人間に出来る事なんてたかが知れていて……「だって○○だから、できないんだもん!」と言いたくなったら、現代とは比べものにならないくらいその要素で満ち溢れている世界です。出来ないなんて言い出したら何でも全部できない事にできる!じゃあ、やらないのか!?という事を松陰は問うていて、自らは信じる所を実践しようとしているんですよね。

しかし、そうやって松陰の熱に浮かされて行く長州藩で、一人浮いているというか……「んなこたぁねえんだよ!!皆、死んでもいいで死んじまって!何が何でも絶対に生き延びてやるってヤツがいなかったら!誰がそれを成すんだよ!!」って、まるっきり正反対の思考で生きて行く桂小五郎と、松陰がつるんでいるんですから歴史は「面白い」!!w

さて、タイトルの話に入りますがw「武士道とは死ぬことと見つけたり」って一文が有名な「葉隠」の思想というのがあります。吉田松陰という人は「葉隠」思想を最も体現した歴史上の人物の一人だと思っています。(と言いつつ松陰が「葉隠」を読んだかどうかは知らないんですけど……読んでてもおかしくない気もしますが…)「葉隠」というのは戦中の滅びの思想のベースとなったように扱われたりして、かなり毀誉褒貶のある書物だと思うんですが、僕はあれは現代の価値観で観れば危険な書物であり危険な思想だと思います。それは同時に吉田松陰という人も危険人物って話でもあります。…もっとも、平和な時代であれば彼は単なる“恐ろしく熱心な教育者”としてその生涯を終えたのではないかと思いますけどね。吉田松陰を単に危険人物という評で片付けられないように、「葉隠」もまた「死」を謳うからと言って危険思想で片付けられないとは思います。でも、まあ現代で考えればその一面を持っていないとは僕は言えないですねw
その一方で「葉隠」は「鍋島論語」と言われるくらい(?)世間知と分別を弁える言葉も同時に綴られてもいるんですね。…ちょっと僕の解釈で大雑把に述べると「葉隠」には大体次の二つの事が書いてある。

1.死ね。(´・ω・`)

2.分別をつけろ。(´・ω・`)

……ちょっとわざと乱暴な言い方していますけどね(汗)「死ぬことと見つけたり」なんて修飾した言葉だと何か別の意味にとられそうな気がしてw要するに武士は何かあった時は迷わず「死ね」と。それが武士の武士たる基盤なんだという話だと受け取っています。ここらへんを指して「葉隠」は当時の武士道としても過激な方、なんて言われたりもしているみたいですが。まあ、非常に直截的に述べただけで大意においては多くの(?)武士道に共通する部分だと思います。しかし、同時にこの頃既に天下は泰平であり、何かあった時のその“何か”が極少になっている。勿論、たとえ平和でも武士は「死ね」を忘れてはいけない。…でも、平時には平時の分別があって、自ら殊更に“何か”を起こす必要はない。…という事で2の「分別をつける」話が出てくる。実際、「葉隠」の内容の大半は世間話と分別をつける話で構成されていて、多くの人の印象に残る「死ぬ」話はそうは出てきません。

で、この1と2の思考は、まるっきり矛盾した考え方に見えるものだから、解釈する人の中には1の「死ね」をかなり薄めて「死ぬ気になにかをしろ」とか、そういう話に収斂してしまって(実際、そう取れる章もある)「死ね」というのは2の「分別をつける」範囲内の話…つまり「死ぬ気でやれ」といった程度の事で、「葉隠」は決して危険な思想書じゃないんだよ…といった論旨を組む人もいます。まあ、それはそれで解釈として通るのですが、僕はそれは現代価値に流用できるようにリライトした面が強い解釈であって、あの時代の武士と武士道を仰ぎ見る人たちの観ていたものを読み取れる観方ではないように思います。あるいは、この「死ぬ」思想が現代の価値観にそぐわない、必要ないものであるなら「葉隠」も特に読まなくていい危険な書物なんでしょう。それぐらい当時の武士に特化した書物って事でもありますね。



ただ、本当は1と2が矛盾した思考であるからこそ、その思想には価値があるというか。単なる理屈では通らない矛盾した思考を両立させなくてはならない、その上で様々な“取り返しの利かない判断”をしていかなくてはならない、見逃してはならない。そこに“武士道”というものの緊張感が見える気がします。
吉田松陰の書いた文章を読むと、非常に明晰な頭脳の持ち主であった事が分ります。また、非常に冷静に“狂っている”自分の行動の在り方を見つめている事が分ったりもします。つまり、松陰は大いに“分別”を持っていた事は間違いないんです。じゃあ、狂いながら松陰は一体、何を観ていたのでしょう?
幕末ってのは非常に血なまぐさくって、相当狂っている時代でもあったと思います。その原点の一つは松陰の“狂い”にあると思う。しかし、今、僕は「狂ってる、狂ってる」変に繰り返し述べていますが、単に狂っていた…だけでは、幕末・維新の「物語」は生まれてこないと思っている。そこは一筋光明を通す「繋がって行く物語」があったからこそ、この物語があるんだと、そう思って松陰の生き様を眺めています。


風雲児たち 幕末編 16 (SPコミックス)
みなもと 太郎
リイド社

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