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キャラ配置/ユニットが回る

2008年06月06日 | 物語愉楽論
前回の「キャラが回る」の項で、キャラを「立てる」事と、キャラを「回す」事の違いを説いた。キャラを「立て」て「回す」というのは相応の技量と経験、そして才能を必要とするのは間違いないんだけど、実は比較的、楽な方法で「キャラを立てる」事に成功する方法があります……パクる以外の方法でwちょっと思いついた所を2パターンほど挙げてみようと思います。

例1.真面目生徒ばかりの超進学校にド派手な学生服に身を包んだ見るからに不良の男が転校してくる。
例2.学校崩壊を起している暴力問題児ばかりが集まる学校に見るからにひ弱な真面目生徒が転校してくる。

…え~~~っと…先に言っておきますが、たとえにつっこまないようにね!しなびたアイデアだとか!!木を見るんじゃない!森だ!森を観るんだ!!…えっと、賢明な方なら上の2例で僕が何を言いたいのかは察して貰えると思います。要するにこれは「立てる」は「立てる」でも、キャラを「引き立てる」という方法(メソッド)なんです!!回りとの対比によりキャラクター性を明確にするというものですね。先ほどの例とは逆にたとえば、不良ばかり登場する作品の中で不良がいても、キャラは「立ち」ません。何かもう一味、アイデアを必要とするでしょう。…しかし、不良が全くいない中で、不良が一人混じっているというのは、そのステータスだけで、キャラ「立ち」になるワケです。

ただ、このキャラ「立ち」は前回の「キャラが回る」で話したような作品自体を特徴付ける→オリジナリティを出す、ようなキャラ「立ち」とは違うものです。あくまで作品内においてキャラクターたちを特徴付けるものですね。(…ここらへんの用法を凡て一まとめで「キャラを立てる」と言っているのだから……それは、ある程度、言葉を分ける必要があるよなあって思ってしまう)同時にこれらの対比方法は使い古された方法論なので、何か思いついたとしても、長いフィクションの歴史において、結局、大概の面では既存のどれかの作品に該当してしまうので新味が出せるかどうかははなはだ疑問です。しかし、志向としては「素材」から思考を練り上げているので、パクリからは一応逃れているはずで、たまたま長い歴史の中で棒に当ってしまうだけで本質的にはオリジナルと考える事もできるかもしれません。まあ、本論は作劇論ではないのでここらへんの課題は流してwまた別の機会に回しますが…。

分析評価的な観点から見た時、上の例1、例2は「キャラクターの造形法」というよりは、かなり「ストーリーの造形法」の領域の話になっている事は留意して欲しいです。もう少し分解して言うと、対比を利用してキャラクターを錬成するやり方は一見、キャラクターを造形しているのですが、既にストーリーを「先に」決めて、然るべきキャラクターを当てはめて行く作業をする事との差は、もうほとんど無いわけです。ここらへんの境界の曖昧さが何を意味するかというと、「キャラを立てる」、「キャラを回す」と並行して「ストリーを立てる」、「ストリーを回す」って考え方も存在するって話になってきます(当たり前か?)。「キャラ」の話の時と同じように「ストリーの立ちに意識をとられ過ぎて、回らない設定にしてしまった」なんて話もあるはずwまあ、実動作するのは「キャラ」なんで、あんまりこっち側への言及は少ないですが。(キャラが回っているけど、ストリーが回っていないと明示できる状況はかなり希少のはず)

これについては「フィクションの構造」の項で、キャラクターとストーリーを分けて論じているますが「物語(作品)」が形成される過程において本来的には不可分のもので、境界線が引けるような代物ではないんですよね。ただ傾向としてキャラクターを主体に考えているフェーズとストーリーを主体に考えているフェーズはありますし、「物語」を分析評価するにあたって、より分析しやすいピース、咀嚼しやすいピースに分ける行為の基礎としてキャラクターとストーリーという考え方がある…って話になります(分析評価側からは)。
……なんかどうでもいい脱線をしているような気がしないでもないですが(汗)物語を分析するにあたってキャラクターとストーリーに大別する仕組みを認識しておくと、その後の思考を進めるにあたっても、良いことがある日もいつかは……あるかも知れる事はない?かもね?みたいな事を考えて筆の勢いに任せて書いておきます。

で、本題。今のように「物語」全体からキャラクターの在り方を決めて行くやり方を僕は「キャラ配置」と呼んで評価分析の対象としています。個々のキャラクターたちが個々で、どういった性格や特徴付けを与えられているか?を分析し、ボトムアップに「世界観」を仮組みして行くやり方とは、逆の方法になりますね。
例1、例2は物語と主人公キャラが直結的に対比されていますが、それはたとえ話を簡潔に述べるための方策で、実際に物語を編む段になれば登場キャラ同士の関係性の対比が複雑に絡む内容に必然的に移行して行きます。…「キャラ配置」の事を考え出すと「物語」を「愉しむ」行為が一段促進されますw何しろ「キャラ」と「ストリー」を分析して、制作者のテーマにアタリをつける。その上で、そのキャラクターのいる意味を考える。「なぜ、そのキャラがそこにいるのか分らないキャラ」なんて出てきた日にはちょっとそたミステリーですよ?w情報不足が前提の連載作品のライブを「愉しんでいる」時などは特に、恒常的にこういったネタが散りばめられて、脳ミソをフル回転させてくれるワケですw

「キャラ配置」の話は、そのまま「構造評価」の話に直結して行きますの。「キャラが回る」でチラっと述べた「シャフト」なんて考え方も「キャラ配置」的、「構造評価」的、キャラクター分析用語ですね。(「トルク」の方はスタンド・アローンなものかな?)そこらへんの要項はまた「構造評価」について話す時に回すとして、最近ちょっと考えているのは「キャラ配置」をもっと局所的に見る視点で「ユニット」という考え方を思考しています。
これは最近「漫研」のチャットで「情報圧縮論」に繋げる形で、取り沙汰され始めているんだけど、少し基本に立返る形で地味~に、認識を深めて行くところから行こうかと思っています。

この場合「ユニット」って「タイムボカンシリーズ」の三悪人や、「ゴレンジャー」の五人の事を指すわけですけど……明らかに提示された「ユニット」以外でも、ある関係性を「ユニット」と評価して分析してみる……こういう視点をとりあえず考えています。「ユニット」に関する簡素な分類や法則がみつかるのが理想なんですが……まあ、それはちょっと遠いでしょうね。
ただ、それとは別に…………三悪人とかゴレンジャーって個々のキャラもかなり立っていますよねwその上で「ユニット」としての回りも良く設計されているもんだから相乗効果でワケが分らないくらいの「立ち」を発揮しているワケですが、逆に、キャラは「立っている」けど、ユニットは「回らない」状況ってのはあるだろうなと。さらにキャラは「立っていない」けど、ユニットは「回る」状況とか。キャラが「回って」いて、ユニットが「回らない」って状況は……有りませんね、その逆も。「回る」というのはかなり総括的な評価と言えそうです。ただし、以前は回っていたキャラがユニットを形成した時から回らなくなる…という時系列的な「変化」は発生するんでしょうね。

キャラが「立ってない」けど、ユニットが「立っている」状況ってのはあるのでしょうか?……これは「ゴレンジャー」後に30年続いた「戦隊シリーズ」からなにか引用できるかもしれないと思っています。というのは「ゴレンジャー」のあの五人の構成は相当完成されていて、時に三人組という事があっても「ユニット」を組む事がこのシリーズの最大条件となりました。それゆえ多少無理くりな取り合わせも含めた「ユニット」が様々に考案されてきた経緯があります。……その中には個々のキャラとしてはありきたりだけど「ユニット」としては面白い、と言えるものもあったように思います。…まあ、そういうのも含めて「回ってる」と評してしまえばいいのかもしれませんけどね。ここらへんは思考を要しますね。

まあ以前からキャラを「ユニット(グループ)」でまとめて評価する事はしていましたし、実際の作業そのものは「構造評価」の時とそれほど変わらないでしょうけど「ユニットが立つ」、「ユニットが回る」という視点で(キャラとストリーの中間的に考える事もできるかも?)考える事で何か観えてくるものがあるかもしれません。
……このネタはここまで何で、また別の機会に…とか言えないんですが、まあ、言いたいことが溜まったら、またまとめて書くかもしれませんw


キャラが回る
フィクションの構造

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