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この桜井邦朋氏は、日本の大学や大学教授について、非常に鋭い眼光をもって批判してきた一人者です。
批判するのみならず、教授たるものはどういう姿勢でいるべきかをきちんと身をもって体現してきた人でもあります。
その内容については、私自身非常に感服のいくものであり、賛同できるからこそこの著者の本を何冊も買って読んでしまった大学時代を思い出しました。
大学教授の研究怠惰、研究内容の空虚さ、大学の人事の在り方…etcどれもその内容は私自身の不満内容とほぼ一致していて同情の寄せれる内容でした。
その内容を吟味すると、桜井氏の言葉によれば、「研究とは終わりなき前進であり、ライフワークとは進歩のレポートとでもいうべき、研究論文の積み重ねから生れ出てくるもので、一生の最後に何か屹立した仕事が1つだけ作られるということではない」ということです。
そうですね。
教授の研究とは普段の積み重ねであり、普段から何も出ていない教授は仕事をしていない、ということですね。
確かに、論文や本を出していない教授の講義を聴いても、やはり同じことの繰り返しであり、聴いていてつまらなくなりますね。
普段から論文や本を出しているべきでありということで、桜井氏はいろんな本を出し、研究論文を普段から出していました。
自分のモラルを実際に体現していた、ということで立派だと思いました。
大学の講義で毎回研究の成果を話していて新鮮味のある講義してくれる教授と、毎回毎回同じことばかり言っている教授と、の差はどこにあるのか?という疑問にぶち当たると思いますが、やはり双方の世界観にある気がします。
そこで思い起こされるのは、アメリカの哲学者のウィリアムジェイムズの言葉です。
ウィリアムジェイムズ
ウィリアムジェイムズによれば、
「この世は2つのタイプの人間がいて、1つは、この世界を多元的に捉える人。この人は、リンゴもいいし、蜜柑もいいし、バナナもまずくはないし、パイナップルも結構だ。
その間に序列をつけるわけではないし関係をつけるのでもない。
いろんなものが並列状態にある、というふうに捉える立場の人。
もう1つは、この世界は最後は1つの絶対的な価値に収斂していって、その体系の中に諸々のモノがちりばめられている、というふうに捉える立場の人。
この2パターンに分かれる。
後者の方が圧倒的に多い。」
ということです。
大学の講義で毎回研究の成果を話していて新鮮味のある講義してくれる教授は、この世の中を多元的にとらえることができるからいろんな物事を非常な好奇心をもって研究していくことができるのでしょう。
しかし毎回毎回同じことしか言っていない教授は、この世界は絶対的な価値に収斂していく、という世界観でいるために、わざわざことの詳細について研究していく必要はない、という考えでいるのですから、研究が大事なのですよと言ってもきかないでしょう(笑)。
こういう世界観の教授は、ほとんど本を出しません。
論文も書きません。
たとえ本を出しても1冊くらいで(笑)。
しかも複数の本を出しても、本の最初から最後まで同じようなことしか書いていないのです(笑)。
こういう世界観でいる教授のみならず、大学生のほとんどもそういう世界観でいるのですから、こういう教授のほうが人気があるのです(笑)。
受講する人が多いのです。
私の在学時代から、大学の改革の必要性は叫ばれていましたが、それでも日本の大学の改革が遅々として進まないのは、こういう世界観でいる生徒がほとんどであるからにほかなりません。
逆に毎回研究成果を講義してくれる教授のはたいてい人気がない。
毎回違うことを講義されるので、ノートをきちんととっていないと年末試験には困るからです。
大学の教授の質を上げようと思ったら、研究をさぼっている教授の講義を受けない人が大勢出てくればいいのです。
しかし学生のほとんどはそういう教授のほうが都合がいいですから、多くの人が受講するのです。
需要と供給の法則と同じです。
美味しくない店が淘汰されるには、その店に来ない人が大勢出てくれば自然とその店はつぶれます。
しかし、毎回毎回同じようなことしか言っていない教授をくびにしようという学生が大勢出て、受講しない人だらけになってくれば自然とその教授は退任するしかなくなりますが、そういうことまで考えている学生はいないでしょう、ほとんど。
ですから難しい問題なのです。
文系の大学では、だいたい1つの講義につき2000~3000円ものお金がかかるのですね。
理系ではもっとお金がかかりますから、もっとその額は大きくなるでしょう。
しかし、1講義につき、その講義の先生が2000~3000円のお金を受け取っているかといえばそんなことはなく、大学での研究費や先生方の退職金等に充てられていることは間違いありません。
しかしこれだけ多額のお金を収めていながらも、多くの学生は講義にほとんど出ません。
ということは、親御さんが出してくれた大学へのお金のほとんどは、学生が元を取ることなく、大学が儲けて研究費等に充てられていることになります。
ということは、研究によって作られて市場に出た製品は、大学が研究費に充てたお金と製品に乗せられて消費者が払ったコスト料金で賄われたことになりますから、大学に子供を行かせた親御さんたちは、二重にお金を払っていることになります。
二重の献金をしたことになります。
この内奥を知った大学生は、親御さんの苦労を知り、元を取ろうと頑張って大学での授業は全部出て、図書館を利用して、その他ネットを利用して、あらんかぎりの勉強をすべきでしょう。
さらに桜井氏は言います。
「教育とは、本来、学ぶ人々に思考力を養い、独自の創造的能力を植え付けることを目的とした事業です。 教育に当たって大事なことはそのような努力を各人が始めたくなるようなきっかけを与えることにある。 教授たちの生きざま、物の考え方、見方などを彼らが学び取ることが大事なのではないか。」
これも難しい問題ですね。
単なる知識を得るためではないのが教育である、ということですが、私も非常に賛同します。
しかし、そのような教授がいるいないにかかわらず、講義に出る人は少ないのです。
たとえレベルの高い大学でも。
東京大学に通っていた知り合いに聞くと、東大でも年末の試験間には、友人のノートをコピーするための行列が長く出来るそうです(笑)。
私は全部に出ていましたから、コピー機の前に並んだことはありません。
そういうから私は偉い!などとは言いませんが(笑)、やはり創造性を学ぶためにはやはり講義に出る必要があるのです。
その教授の講義の中での雑談の中でこそ、学び取る機会も大いにあるわけです。
そのことを心に留めておいてもらいたいな、と思います。
昔からいわれていたことで久しいのは、日本には専門バカが多い、ということですね。
自分の専門とする分野についてはすごく知っているけれども、少しでもその枠を外れたものについては全然わからないし、興味関心もないということですね。
そのことについて桜井氏も危惧しているのです。
そういう教授はたいして論文や本で業績を上げることなく終わります。
いろんな分野に関心を広げて研究している教授はやはり論文や本で業績を上げているのです。
桜井氏曰く、
「真の専門家とは、いろいろな分野にわたり優れた知識、見識を持ち、その中のある特定の分野で特に優れている人のことです。」
このように桜井氏が、危惧する理由もわからないではないです。
好奇心が旺盛な人かどうかはその人の価値観による、としか言いようがありません。
好奇心が旺盛な人はいつの世でもいます。
好奇心が専門分野にしかない人もいつの世にでもいます。
ですからそこはそれほど危惧すべきなのかなあという気がしますが、桜井氏の危惧は留めておいたほうがいいでしょう。
また、桜井氏は、「いろいろな分野に等しく関心を持ち、その中で自分の目下の専門分野を選択していけることが大事」であるとして、大学受験の際に、18歳かそこらで、学問について何も知らない人に、「○○学部○学科受験」という受験の仕方をさせるのは誤りである、ということを言っています。
でもそこもそれほど論争になりえない事柄ですね。
そうならないための緩和なのか、大学1年では専門教育は3教科くらいで、あとはほとんど一般教養ですね?
強烈な指摘ではありますが、これも難しい問題です。
これと同じくして、大学の制度についての批判があります。
桜井氏によると、大学教授の間で、討論や対論の場がない、ということですね。
やはり言いたい放題だけで終わっている。
これでは、自分の理論を高めることはできない、ということですね。
教育の技術について、教授間で互いに見学したり研修しあったりすることで互いの技術を高めることができるのですね。
そういう動きが出てくることが望まれます。
また、桜井氏が言うに、「大学における教育で最も大事なことは創造的な物事について考え、問題解決に至る論理的な思考能力を養うことにある。」ということです。
私もそのことについては非常に共感をしていました。
やはり物事は何事も不変でいることはありませんから、必ず問題点が発生する。
その時に解決に至るために必要なのは、論理的な思考でしょう。
問題点を良き方向へもっていく能力=創造力と私が尊敬する加藤秀俊もおっしゃっていましたが、その点でも共通しますね桜井氏と。
しかし、社会に出てわかったのは、こういう創造の場というのは、そんなに多くはないものです。
こうしなさい、と言われてそのままにすればいいですが、本ばかり読んでいると、果たしてこのやり方でいいのだろうか?もっと違ういいやり方があるのではないだろうか?などと考えてしまうのですね(笑)
上役に言われた別のやり方をしていると怒られることがあります(笑)。
逆に頭の柔らかい人は何にも言いませんが。
そういった創造力を発揮する場面は、自分がその場の長になったですね。
その場が現れるまで、やはりそんなに表に出すことなく、鞘に納めておいて、そういう場が現れるまで待つのが賢明でしょう。
また最後に、「何らかの新しい事実の発見や新理論、あるいは新解釈ができたのだとすれば、それは創造的なものだと言っていい。実は、大きいか小さいかの判断は時が審判を下してくれるものだということを私たちは忘れてはなるまい。」と印象的なことを書いておられました。
そうですね、大学で講義される科学とは、良き社会をつくることにあるはずです。
そのためには、問題点を探し,そこから、どのようなことを私たちがすべきかを考え、行動していくことが重要なはずです。
そのためには、今の社会についての状態を無批判になっていないで、常に批判的に見ていかなくてはならないのは言うまでもないでしょう。
批判的になる、というのは厭世的になれとか、人や物事を批判することに生きがいを見出すということではありません。
あくまでも問題点を探すという目的のためです。
そのためには、大学教授は印刷物に対して批判的に読み、問題点を探していこうという気概がないといけないのは言うまでもありません。
たまにというか、かなりの数でいるのですが、自分が読んだ印刷物(本や新聞など)を引用して、「」でくくって、その後に他愛もないコメントを加えているだけの論文を書く教授がいるのです。
そういう論文は、読んでいて非常につまらないのです。
それにそんな論文は科学の発展になんの寄与もできないのです。
そういう「ノリとはさみ」の作業をしている教授はいつの世でもいるものです。
そういう「ノリとはさみ」の作業でできた本は、私はすぐさま読むのをやめて売ってしまいます(笑)!
たとえ東大や一橋大、早稲田大といった一流大学出身の教授でもいるのです。
一流大学出身だからと言って必ずしもいい論文を書くとは限らないのです。
某ビジネスのメルマガで、その著者さんは、
「文章を書くスキルについては、遺伝で8割決まり、 先天的なスキルを生まれ持っていなければ 努力をしても書けるようにはならない。」
書いています。
まさにその通りでしょうか。
このように良き大学や教授を目指すかどうかは、その構成員いかんに依るはずです。
その大学の先生や学生ですね。
大学に行って、良き大学生活を送りたいと考えている学生は、 その教授が論文や本を出しているかどうか?
好奇心が多岐にわたっているかどうか?
その大学のホームページを調べればすぐにわかります。
こういった情報を自ら主体的に取り入れて、行動していくことが大事でしょう。
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