小此木啓吾 『「ケイタイ、ネット人間」の精神分析』

2015-10-03 01:17:56 | 現代社会

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かねてから小此木啓吾氏は、現代社会はモラトリアム人間の時代であると主張していた。

モラトリアム人間とは、

人間との深いかかわりを避け、いつまでも確固たる自我を確立できないでいる人間のことである。

なるほど深い洞察である。

それが、文明の大勢によってますますその傾向を深めていく、という事態をきっちりと見据えて、その中で現代人はどのようなことをなしていくべきかを模索しているのである。

これまでに、都市化や文明化やオートメーション化の弊害による人間の心の変化を観察してそこからどういう対処法をすべきかを小此木氏は数々の著書で書いてきたが、今回のこの本では、インターネットや携帯電話の生活への浸透によってどのようになるかを詳らかに観察している。

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それは、サイバースペース(仮想現実)が広がり、ひきこもる人や困難に立ち向かっていけない人が増えていくだろうということである。

そして現代のように、都市化が発展すれば、もっとそういった人は増えていくだろうということは想像に難くない。

確かに、こういった現実を見ると、人間の心の危機であるという気がしてくる。

例えば、街を歩いていると待ち合い時間に携帯電話とにらめっこして、会話がなく1人の世界に閉じこもる場面が多くなる。

また、喫茶店にいても、親子づれやカップルが同じテーブルに座り、会話をせずにそれぞれが携帯を見ながら会話もしない場面を見たりする。

ネットや携帯がない時代の人間にとっては、非常に不可解な場面であるとしか言いようがない。

一方、村社会においては、こういった社会に出くわすことは稀である。

それぞれの人たちは、数え切れないくらいの多くの友人がいるのがほとんどであるが、都市とくに東京では、友人と呼べる人間が2~3人という人も珍しくはない。

しかも職場がたがえばもう一切の交流をする必要もない。

そして、超高層マンションに住んでいれば、交流もなく、横の家の人間の顔も名も知らない、というパターンも珍しくはない。

危険であると思ったのは、こういうのが「当たり前」となってしまうことである。

こういったことが当たり前になってしまえば、そこで生まれた子供は、「親がそうだから」「周りがそうだから」という動機で、同じような交流の薄い人間関係を再生産し、それが固定化し、それが文化になってしまうということである。

こういう文化が固定してしまわないためには、東京の高層マンションに住まないとか、人とは可能な限り話す機会をもつとか、可能な限り人と話すといったことをしていくことが多くの人間に求められる態度である。

私は、これまでに多くの心理学の本を読んできました。 某心理学の本で学んだことで印象深かったのは、人間には2つのタイプがあって、

 

・1つは、人との心の交流をしていこうとする人

・1つは、人の心に無関心で、人の心を傷つけても、人から嫌われても全然いいという人

 

これを知って、自分のこれからの人間関係の大きな指針になったと思いました。

年齢40や50になっても友人と呼べる人間がいない人、携帯電話をもっていない人がいます。

こういう人は、人とコミュニケーションしていこうという気概が全く感じれないですし、こちらが好意でものを言ったり事をしたりしても、何にも嬉しがりません。

いくら、心を開く努力をしても応えてくれません。

反対に、こちらがへまをしたときだけ罵声を浴びせることしかいいませんし、こちらが良いことをしても決して褒めることをしません。

こういう人がいるのは何故か? ということを必死で考えてきましたが、この本で答えが出ました。

人の心に興味がないんですね!

だから、人の嫌がることを平気でするわけですね。

こういった人に対処するには、「関わらない」ということがベストということですね。

こういった人は会社に必ずいますが、一切話しをしないとか、無視などしていてば会社の運営上支障が出ますから、そういったことはしませんが、仕事に必要以上のことは話さないで、関わらないのがベスト!ということがわかりました。

では、この本の著者である小此木啓吾さんはどちらの人間のタイプなんでしょうか?

もちろん、前者でしょう!

であるからして、こういった弊害ある社会でどういった人間関係を模索していくのが好ましいかを本に書いたのですから。

この本の、161ページにおいて、 「ウォークマンで耳をふさいでいたりするような時にはこちらはとても居心地が悪くなる。こちらだけがニコニコ声をかけることが、かえって不格好で、何やら恥ずかしいような気がしてこちらもつい押し黙ってしまう」 と書いてあることから、それは明らかでしょう。

ではこれからわれわれは、どういった社会をめざすべきなのか?

3つの選択肢がある気がします。

1つは、このような携帯やネットのひろがった社会をかなぐり捨てて、村のような社会をめざす、というもの。

1つは、携帯やネットの広がりを不可避のものとして諦める、というもの。

1つは、現実社会と、携帯やネットの間を行ったり来たりするというもの。

一番現実的なものは、やはり最後者であると思います。

一度それが利用され生活上不可欠のものとなってしまえば、それを無しで済ます社会にすることは不可能だからです。

携帯電話やインターネットは文明の利器として大いにその恩恵に属し、満喫すべきであると正直思います。

「現実の世界にいながら、一方でインターネットを使い楽しむ、この心の働きがインターネット時代にはますます必要である」 と小此木啓吾氏は52ページで述べています。

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しかし、一方でそれにのめり込み過ぎるといろんな弊害が出てきます。

その弊害は、この本のなかにたくさん書いてありますので、それを読んで確認していただき、その弊害が今の生活上にあると知覚したらそれを取り除く行動をしなくてはいけません!

「しかし、現代の日本の家族に求められているのは、ドゥーイング(doing)の心、つまりハッキリとした意志をもった家族としてたがいの役割をきちんと果たすべきであるという緊張を取り戻すことだ」 と興味深いことを述べれらています。

人との心の交流をしていきたいという人はたとえ都会であっても多く存在しています。

実際そういう人に多数会ってきました。

文明の利器の生活上の浸透において、交流が少なくなりそれが文化になってしまうことを私は危惧していますが、小此木氏も含めこういった人がいるからこそもっと増えることを期待して、小此木氏は本を書き、私はこの場でその本を紹介しているのです。

心の交流を求める人が多数いるからこそ、都会が完全に無味乾燥な社会になる、というような悲観はしません。

これからどのような社会を作っていきたいかを模索する上でこの本は指針になるだろうと期待しています。

●この本の購入したいかたは以下から出来ますよ!

  ↓

「ケータイ・ネット人間」の精神分析 (朝日文庫)

■また、参考として以下の本も挙げておきます。

  ↓

家族のなかの孤独―対人関係のメカニズム

 

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