多摩川の土手。東京側。
サイクリングロードになっています。
久しぶりに走った六郷橋から大師橋の間のサイクリングロード。
半分が歩行者用、半分が自転車用と分かれています。
と思っていたのですが、「サイクリングコース」の文字が消えています。
左側は「歩行者」の文字が残っているのに。いつからだろう?
サイクリングロードは無くなってしまったのでしょうか??
ところどころこのような柵があります。赤いマークは「オートバイ走行禁止」だと思います。
反対側の青いマークは「車椅子」。
どうやら車椅子が通れる分だけ空いているようです。数年前は無かったです。
2008年に多摩川の東京都側(左岸)で羽田から羽村までのおよそ50キロに「たまリバー50キロ」と名付けられたそうですが、それによっていろいろ変わったのでしょうか?
「スピード落とせ!」の看板があるので自転車は通行可能だと思うんですが、、、
サイクリングロードはどこに?
追記
大田区のホームページの「スポーツ施設 サイクリング」の所在地には
本羽田公園から丸子橋緑地 10.7キロメートル
多摩川緑地内 2.5 キロメートル
とあり、載っている写真から想像すると今でもサイクリングしていいようです。
事故防止のためにサイクリングコースの文字を消したのかな?
サイクリングロードになっています。
久しぶりに走った六郷橋から大師橋の間のサイクリングロード。
半分が歩行者用、半分が自転車用と分かれています。
と思っていたのですが、「サイクリングコース」の文字が消えています。
左側は「歩行者」の文字が残っているのに。いつからだろう?
サイクリングロードは無くなってしまったのでしょうか??
ところどころこのような柵があります。赤いマークは「オートバイ走行禁止」だと思います。
反対側の青いマークは「車椅子」。
どうやら車椅子が通れる分だけ空いているようです。数年前は無かったです。
2008年に多摩川の東京都側(左岸)で羽田から羽村までのおよそ50キロに「たまリバー50キロ」と名付けられたそうですが、それによっていろいろ変わったのでしょうか?
「スピード落とせ!」の看板があるので自転車は通行可能だと思うんですが、、、
サイクリングロードはどこに?
追記
大田区のホームページの「スポーツ施設 サイクリング」の所在地には
本羽田公園から丸子橋緑地 10.7キロメートル
多摩川緑地内 2.5 キロメートル
とあり、載っている写真から想像すると今でもサイクリングしていいようです。
事故防止のためにサイクリングコースの文字を消したのかな?
多摩川の左岸(東京側)、河口から約4kmにある六郷水門。
こちらも6年前と変わらず。側面の壁には「金森式鉄筋レンガ」が使われています。
内陸側。
1931(昭和6)年に完成。こちらも「近代土木遺産」に選ばれています。
欄干には旧六郷町の町章。
六郷水門は「六郷用水」の排水口に位置しています。
昭和期、六郷地区の住宅化が進み流出する生活用水が増し、六郷用水の排水と多摩川の浸水被害防止等を目的として造られた六郷水門。
今日では、下水道の完備によってその使命は終わっています。
釣り舟が係留されています。舟だまりはかつて舟運にも利用され雑色(ぞうしき)運河と呼ばれたそうです。
内側から見た水門。多摩川の葦が見えていました。
こちらも6年前と変わらず。側面の壁には「金森式鉄筋レンガ」が使われています。
内陸側。
1931(昭和6)年に完成。こちらも「近代土木遺産」に選ばれています。
欄干には旧六郷町の町章。
六郷水門は「六郷用水」の排水口に位置しています。
昭和期、六郷地区の住宅化が進み流出する生活用水が増し、六郷用水の排水と多摩川の浸水被害防止等を目的として造られた六郷水門。
今日では、下水道の完備によってその使命は終わっています。
釣り舟が係留されています。舟だまりはかつて舟運にも利用され雑色(ぞうしき)運河と呼ばれたそうです。
内側から見た水門。多摩川の葦が見えていました。
6年前に行った、多摩川沿いの川崎河港水門。海から約5kmのところにあります。
先月のテレビで放送されたあと、人が押し掛けていたとか。
川崎区を縦貫する大運河計画の一環として1928(昭和3)年に完成。
が、計画は1943(昭和18)年に中止され水門だけ残りました。
内陸側。
門扉を上下する鎖。以前も扉の位置は同じ。動いていないのかな。
奥に見える赤いのは京浜急行大師線。
タワーの頭頂部には当時の川崎の名産品の梨、ブドウ、桃などをあしらった装飾。果物かごみたい。
3つの線のマークは川崎市の市章。横の窓がしゃれています。
それにしてもずいぶん汚れてきたなぁ。
平成10年度「国の登録有形文化財」、平成19年度「近代化産業遺産」に登録されています。
水門の先にはマンションが建設中。そこはレコード会社の日本コロムビアの本社があったところ。6年前にはまだ会社のネオン塔があったのに。
景色は変わっていくけれど、多摩川の流れは同じようでした。
先月のテレビで放送されたあと、人が押し掛けていたとか。
川崎区を縦貫する大運河計画の一環として1928(昭和3)年に完成。
が、計画は1943(昭和18)年に中止され水門だけ残りました。
内陸側。
門扉を上下する鎖。以前も扉の位置は同じ。動いていないのかな。
奥に見える赤いのは京浜急行大師線。
タワーの頭頂部には当時の川崎の名産品の梨、ブドウ、桃などをあしらった装飾。果物かごみたい。
3つの線のマークは川崎市の市章。横の窓がしゃれています。
それにしてもずいぶん汚れてきたなぁ。
平成10年度「国の登録有形文化財」、平成19年度「近代化産業遺産」に登録されています。
水門の先にはマンションが建設中。そこはレコード会社の日本コロムビアの本社があったところ。6年前にはまだ会社のネオン塔があったのに。
景色は変わっていくけれど、多摩川の流れは同じようでした。
先日、ATMで両替した時に間違えて二千円札に両替してしまいました。
最近めっきり目にしなくなった二千円札。
残念ながら使いづらい二千円札。
お札ができたころ銀行で両替した二千円札が数枚まだ残ってます。
二千円札より五万円札のほうが使えると思うんだけれど。。。
というわけでこの1枚は鉄道の券売機で使ってしまいました。
最近めっきり目にしなくなった二千円札。
残念ながら使いづらい二千円札。
お札ができたころ銀行で両替した二千円札が数枚まだ残ってます。
二千円札より五万円札のほうが使えると思うんだけれど。。。
というわけでこの1枚は鉄道の券売機で使ってしまいました。
外からお囃子が聞こえましたが、あっという間に行ってしまいました。
写せませんでしたが、先頭の人は紙の包みが置いてある三宝を持っていました。
江戸から明治の中頃までは、節分に町を廻り「厄払い」をするのが節分の風物詩だったらしいです。
厄払いをした家々では自分の歳の数と同じ数の豆とお金を包んで渡したといいます。
その名残なのでしょうか?
どこの神社の人たちで何だったのかもわからなかったのですが、このような行事が残っているのはうれしいです。
写せませんでしたが、先頭の人は紙の包みが置いてある三宝を持っていました。
江戸から明治の中頃までは、節分に町を廻り「厄払い」をするのが節分の風物詩だったらしいです。
厄払いをした家々では自分の歳の数と同じ数の豆とお金を包んで渡したといいます。
その名残なのでしょうか?
どこの神社の人たちで何だったのかもわからなかったのですが、このような行事が残っているのはうれしいです。