26日夕方、外を見ると雨雲の境目がくっきり。
晴れているのは川崎港方面です。
撮ったあと強い雨が降り始め、ゴロゴロと雷の音も聞こえました。
ここ数年、局地的に猛烈な雨が突然降ることが多くなりました。
「弁当忘れても傘忘れるな。」日本海側の金沢市にいたときに身にしみていた言葉ですが、
太平洋側でも当てはまるようになってきました。
晴れているのは川崎港方面です。
撮ったあと強い雨が降り始め、ゴロゴロと雷の音も聞こえました。
ここ数年、局地的に猛烈な雨が突然降ることが多くなりました。
「弁当忘れても傘忘れるな。」日本海側の金沢市にいたときに身にしみていた言葉ですが、
太平洋側でも当てはまるようになってきました。
川崎市川崎区の桜川公園に保存されている川崎市電の車両。
1944(昭和19)年から1969(昭和44)年まで川崎市民や工場通勤客に利用されていたそうです。
この702型市電は1922(大正11)年に製造されたもので、東京都で運行されていました。
戦後1947(昭和22)年に川崎市が払い下げてもらい、206号として運行。
その後木造部分を鋼板化して702型となりました。
4年前には市電の中を見学出来たのですが、今回見に行ったら金網があって入ることができませんでした。
桜川公園は広い公園です。こうしてみるとのどかな自然いっぱいな公園に見えますね。
実際はすぐ近くに高速道路と幹線道路が走っているのであまり空気はよくありません。
1944(昭和19)年から1969(昭和44)年まで川崎市民や工場通勤客に利用されていたそうです。
この702型市電は1922(大正11)年に製造されたもので、東京都で運行されていました。
戦後1947(昭和22)年に川崎市が払い下げてもらい、206号として運行。
その後木造部分を鋼板化して702型となりました。
4年前には市電の中を見学出来たのですが、今回見に行ったら金網があって入ることができませんでした。
桜川公園は広い公園です。こうしてみるとのどかな自然いっぱいな公園に見えますね。
実際はすぐ近くに高速道路と幹線道路が走っているのであまり空気はよくありません。
東京の国立競技場。「聖地」と呼ばれる場所。
ここは1964年の東京オリンピックのメインスタジアム。そのエンブレムがあります。
初めて国立競技場に入りました。
20日国立競技場でのJ1第22節の試合観戦です。浦和レッズはアウェイでした。
代々木や新宿の高層ビルが良く見えます。
バックスタンド中央最上段にある聖火台です。
メインスタンド後方の壁には大きな壁画。
力士の元祖の野見宿禰(のみのすくね)像と勝利の女神像(ギリシャ神話のニケの像)。
アウェイゴール裏の最上段からみたピッチ。
前後の席の間が狭いです。椅子は背もたれがありません。
座席数は少なく、傾斜も大きい。古さを感じます。トイレも少なかったです。
ビッグユニフォームが出ました。
この日は国立競技場を楽しんだということにしたいと思います(泣)。
ここは1964年の東京オリンピックのメインスタジアム。そのエンブレムがあります。
初めて国立競技場に入りました。
20日国立競技場でのJ1第22節の試合観戦です。浦和レッズはアウェイでした。
代々木や新宿の高層ビルが良く見えます。
バックスタンド中央最上段にある聖火台です。
メインスタンド後方の壁には大きな壁画。
力士の元祖の野見宿禰(のみのすくね)像と勝利の女神像(ギリシャ神話のニケの像)。
アウェイゴール裏の最上段からみたピッチ。
前後の席の間が狭いです。椅子は背もたれがありません。
座席数は少なく、傾斜も大きい。古さを感じます。トイレも少なかったです。
ビッグユニフォームが出ました。
この日は国立競技場を楽しんだということにしたいと思います(泣)。
4年前に偶然通りかかったことがある、小さな小さなお稲荷さん。
また出会うことができました。住宅と住宅の間にあります。
文政時代(1820年頃)に建立されたもので、岩瀬家代々で守っていると書いてあります。
このあたりは四谷上町(よつやかみちょう)といいます。
江戸時代にこのあたりが4軒の家で開墾され、「四ツ家」から「四谷」に転じたと言われています。
1936(昭和11)年に四谷上町と四谷下町に分かれました。
岩瀬家はこの四軒のうちの一軒なのだと思います。
きちんとお供え物もしてあり、数年前と変わらず存在していてうれしかったです。
また出会うことができました。住宅と住宅の間にあります。
文政時代(1820年頃)に建立されたもので、岩瀬家代々で守っていると書いてあります。
このあたりは四谷上町(よつやかみちょう)といいます。
江戸時代にこのあたりが4軒の家で開墾され、「四ツ家」から「四谷」に転じたと言われています。
1936(昭和11)年に四谷上町と四谷下町に分かれました。
岩瀬家はこの四軒のうちの一軒なのだと思います。
きちんとお供え物もしてあり、数年前と変わらず存在していてうれしかったです。