まるで演歌のような「新宿という町」という解説板。
川崎市川崎区本町交差点に建っています。しんじゅくではなく「しんしゅく」です。
「東海道の他の宿場より遅れてつくられた川崎宿」なので新宿、宿を設ける際に新たにできた町並みを呼んで新宿、らしいです。
同じ場所に「稲荷横丁」の文字。
新宿にあった「馬の水飲み場」から稲荷社の前を通る道が「稲荷横丁」と呼ばれていたとのこと。
裏手にある「川崎稲荷社」。創建は不明。現在の社殿、鳥居は1951(昭和26)年頃に再建されました。
8代将軍徳川吉宗が紀州から江戸城入りの際にこの稲荷社地で休息したと伝えられています。
暴れん坊将軍ですね。
大きな木が生い茂っていました。
川崎市川崎区本町交差点に建っています。しんじゅくではなく「しんしゅく」です。
「東海道の他の宿場より遅れてつくられた川崎宿」なので新宿、宿を設ける際に新たにできた町並みを呼んで新宿、らしいです。
同じ場所に「稲荷横丁」の文字。
新宿にあった「馬の水飲み場」から稲荷社の前を通る道が「稲荷横丁」と呼ばれていたとのこと。
裏手にある「川崎稲荷社」。創建は不明。現在の社殿、鳥居は1951(昭和26)年頃に再建されました。
8代将軍徳川吉宗が紀州から江戸城入りの際にこの稲荷社地で休息したと伝えられています。
暴れん坊将軍ですね。
大きな木が生い茂っていました。
1128(大治3)年に建立された川崎大師の境内にある遍路大師尊像。
東海道の近くということもあり、信仰と行楽をかねる川崎大師への参詣は江戸時代初期からたいへん盛んだったそうです。
同じく境内にある「弘法大師道標」は、江戸からの参詣客のために1663(寛文3)年に建てられました。
「従是弘法大師江之道」(これより弘法大師への道)と刻まれています。
もともとは川崎宿の茶屋万年屋の脇、東海道から大師道への分岐点に建てられていましたが、戦後川崎大師(平間寺)境内に移されました。
多摩川にかかる六郷橋のたもとは、かつて万年横丁と呼ばれていました。
大師に参拝する人で賑わったそうです。
国道15号(第1京浜)を越えたこのあたりに「万年屋」、その脇に「弘法大師道標」がありました。
多摩川の流路がたびたび変わったため、「万年屋」の跡地については特定できないとのこと。
東海道の川崎宿の家並みが並んでいた場所。
旅籠62軒をはじめ下駄屋、鍛冶屋、髪結床など368軒が並んでいて万年横丁と呼ばれていました。
東海道の近くということもあり、信仰と行楽をかねる川崎大師への参詣は江戸時代初期からたいへん盛んだったそうです。
同じく境内にある「弘法大師道標」は、江戸からの参詣客のために1663(寛文3)年に建てられました。
「従是弘法大師江之道」(これより弘法大師への道)と刻まれています。
もともとは川崎宿の茶屋万年屋の脇、東海道から大師道への分岐点に建てられていましたが、戦後川崎大師(平間寺)境内に移されました。
多摩川にかかる六郷橋のたもとは、かつて万年横丁と呼ばれていました。
大師に参拝する人で賑わったそうです。
国道15号(第1京浜)を越えたこのあたりに「万年屋」、その脇に「弘法大師道標」がありました。
多摩川の流路がたびたび変わったため、「万年屋」の跡地については特定できないとのこと。
東海道の川崎宿の家並みが並んでいた場所。
旅籠62軒をはじめ下駄屋、鍛冶屋、髪結床など368軒が並んでいて万年横丁と呼ばれていました。
川崎市の川崎大師の境内にある「つるの池」に久しぶりに行ってみたら朱い橋がかかっていました。
「やすらぎ橋」です。5月に造営されていました。知らなかった。
渡った側からみた風景。
橋の工事のときにつるの池の中を整備したとのことで、以前よりコイが泳ぐ姿をはっきりと見ることが出来ます。
あれ?ツルの形をした噴水近くにいたはずのカメの姿が見当たりません。
3年前に見たときの写真です。
どっさりいたカメ。どこに行っちゃったんだろう。
「やすらぎ橋」です。5月に造営されていました。知らなかった。
渡った側からみた風景。
橋の工事のときにつるの池の中を整備したとのことで、以前よりコイが泳ぐ姿をはっきりと見ることが出来ます。
あれ?ツルの形をした噴水近くにいたはずのカメの姿が見当たりません。
3年前に見たときの写真です。
どっさりいたカメ。どこに行っちゃったんだろう。