"My Own Country"によって、聖歌隊の一員としてではなく完全なソロ歌手としての道を歩み始めたHarryは、Nadanaiを伴い英国内各地や米国で活発にリサイタルを行うが、この2人の偉大な若い才能が、その間にも着々と進めていたのが、ドイツ語によるシューベルトの歌曲集"Die Schone Mullerin"(美しき水車小屋の娘)全曲録音という歴史的プロジェクトである。そしてそのCDが、ついに今年の6月始めに、Tadpole Music社というイギリスの小さなボーイソプラノ専門レーベルからリリースされた。
http://www.tadpolemusic.com/sever.htm
何をもって歴史的プロジェクトと言うかというと、「美しき水車小屋の娘」がボーイソプラノにより全曲録音されたのが世界的にも音楽史上初めての出来事だったからである。これまで、フィッシャー・ディースカウやペーター・シュライヤーなどテノール/バリトンの巨匠たちが数多く録音してきたこのスタンダードナンバーに、敢えてボーイソプラノが挑戦するというのがどういう意味があるのか、その点を中心に、さっそくHarry とNadanai自身にこのCDについて解説してもらうことにしよう。
以下、
Franz Schubert
Die Schone Mullerin
Harry Sever Boy soprano (= Treble)
Nadanai Laohakunakorn Piano
Programme Notes written by Harry and Nadanai の日本語訳です。
本翻訳をアップすることについて、私はMartin Hough氏(Tadpole Music)および Harryのお母様であるJudy Severさんより許可を頂いています。CD付属のブックレットですので、無断転載は固くお断りします。引用は、このCDを広めることになりますので基本的に歓迎ですが、ただし必ず事前にご一方ください。訳文の作成は入念に行ったつもりですが、私は音楽の専門知識はありませんのでなんらかの不備もあるかと思います。もし何かお気付きの点等ありましたら、何なりとコメント(またはメール)をお送りください。 kurikeinosuke@mail.goo.ne.jp
私の訳文を叩き台にして、さらに良い日本語版解説が出来上がれば幸いです。この録音にかけるHarry(とNadanai)の深い思いを、1人でも多くの日本の皆さんに知ってもらうことが私の願いです。
This translation, of which the copyright is owned by Keiko, has been uploaded with the permission of Martin Hough (Tadpole Music) and Judy Sever. No part may be reproduced without permission of Keiko.
***********
「美しき水車小屋の娘」
詩 ヴィルヘルム・ミュラー (1794~1827)
音楽 フランツ・シューベルト (1797~1828)
「美しき水車小屋の娘」は基本的にロマン派の連作歌曲集である。シューベルトは一般に古典派の作曲家であるとみなされているが、この歌曲集は、単純な古典派の形式とロマン派の激しい感情移入という相矛盾する要素が共存している。このことは、最終曲「小川の子守歌」のような最も単純な有節歌曲においてさえ明らかである。しかし、「美しき水車小屋の娘」が単純であるというのは、表面上であり、根底に流れる筋書き音楽も本質的に複雑である。
物語は、人生の旅に出かけた純真無垢な粉挽き職人の若者が、結局は、報われない恋に悲しく引きずられたまま終わりを迎える。全体を通して、粉挽き職人は自分の感情について聴衆に対して様々な独白を行い、聴衆は、彼が誤った結論に至り自らの命を絶つという極致に達するのを哀れみながら聴くほかはない。テキストではなく音楽自体が、粉挽き職人の感情の説明になっているところが、シューベルトの天才を表すものである。極めて入念に組み立てられた音楽により、感情があからさまに描写されている。いろいろな調の関係によって旅という感覚が音楽の中に表現されているが、最も明白なものは、1曲目の変ロ長調から20曲目のホ長調の間の増4度の跳躍である。また、伴奏が大きな効果を生んでいる。例えば、2曲目「とまれ!」における小川のさざ波を表す十六分音符、そして水車の回転を表す左手の円形の動き・・・。
しかし、「美しき水車小屋の娘」の本質は、人間の感情の一貫性のなさ、および人間のコントロールが及ぶものと及ばない不変のものとの対照にある。物語が完全な絶望に終わらずに済んでいる唯一の理由は、若者が大切にしたものが続いていくことである。彼が命を絶つことにしか安らぎを見出せなかったにしても、娘への愛、そして彼の最も親しい友である小川の悠久の流れは、決して壊れることはない。シューベルト的な陽気で軽快なリズムによる音楽自体は永遠のものであり、一方、粉挽き職人の怒り、嫉妬、そして最終的絶望は、彼の死と共に消え、愛という純粋な感情のみが残される。愛こそがそのようなすべての感情の源であり、不変のものだからである。<1>
シューベルトは「美しき水車小屋の娘」をテノール用として考えていたので、これをトレブルが歌うというのは、物議を醸すに違いない。しかし実際、粉挽き職人は未熟な若者なのであるから、トレブルが歌うことは正しいのである。生気に満ちた興奮の炎が年齢とともに衰えてしまった人間が歌っても、あまり意味がない。粉挽き職人のキャラクターは物語を通してだんだん成長していくが、彼の純真さは最後まで変わらない。しかも、親方の娘に対する彼の妄想、彼女の言葉一つ一つに対する過大解釈、狩人が現れたときの激しい怒り<2>、そしてその後のみじめな末路は、成熟した係わり合いではなく、思春期の一つの破滅の姿を示唆している。したがって、シューベルトの意図からは外れるが、この歌曲集を成長期の少年が歌うというのは、まったく理に適うことなのであり、そのような極端に激しい情緒の変化を最もうまく理解し表現しうるのは少年をおいて他にはいない。
「美しき水車小屋の娘」は人間の感情のあらゆる側面を描いた傑作である。今回の「従来とは異なる」演奏形態については、当然のことながら議論が起こるであろうが、ともかく大切なのは音楽そのものである。この不朽の音楽が、一人の若い歌手のパフォーマンスを通して伝えられるということであり、この音楽を通して歌手自身を伝えることが目的ではない。そうであるからこそ、演奏者と聴衆が一緒に旅をすることができるのである。
2006年3月
Harry Sever
私が「美しき水車小屋の娘」のこの新しい録音のことを皆に話したとき、大人達のリアクションはかなり異様なものであり、当惑が見て取れた。このプロジェクトはちょうど1年前にスタートしたが、その時点ではHarryも私もまださほど円熟していたわけではなかった。ほとんどの人々は、内心この子たちに出来るのか?と思ってはいたものの、頑張りなさいと言ってくれた(頭から、ばかげた考えだとして取り合わない人ももちろんいた)。
ボーイソプラノが全曲録音する歌曲集としては、「美しき水車小屋の娘」こそ理想的である。この偉大な作品は、人物設定と場面設定の両方において非常に若さが強調されているので、ボーイソプラノの腕の見せ所となると私は確信する。思春期の一方的な恋が主題だからというだけでなく、粉挽き職人を自殺に追いやる純真無垢さは成熟した大人ではなく若者の特性だからである。Winterreise/Dichterliebeによる録音などは、「経験」によるものであり、その主人公は過去のより幸福であった時代を回顧して歌う。
われわれの「美しき水車小屋の娘」では、主人公は過去を振り返るのではなく、今、前を向いている。放浪して世の中を知りたいという喜びにあふれた願いは1曲目「さすらい」にはっきりと表れており、彼は大きな希望をもって旅に出る。粉挽き職人が放浪の喜びを5節にわたって歌い、ダッ、ダッというピアノの音がこれに合わせる。<3>
詳細な分析が可能である。例えば、旅というテーマは、様々な調の関係の中に表されている。1曲目は変ロ長調で、最終曲の「小川の子守唄」はそれと対極を成すホ長調で、この間増4度の跳躍がある。2曲目「どこへ?」では、ピアノ伴奏のト長調の十六分音符が楽しげな小川のせせらぎを表しているが、19曲目になると、同じト長調であるにもかかわらずどこか悲しげに流れるせせらぎを表す。ここで、粉挽き職人は小川に身を投げその中で静かに眠りたいという願いを歌うが、(‘Ach unten, da unten die Kuhle Ruh’「ああ、小川の中には爽やかな想いがある!)この言葉は、2曲目「どこへ」の ’Hinunter unt immer weiter…’(「谷をくだってどこまでも...」)という箇所と対応関係にある。この箇所は、詩の中に初めてホ短調の暗い暗示が出てくる部分である。
上述の例でもわかる通り、シューベルト自身がこの歌曲集の構成を入念に行ったのは明らかである。あらゆる詳細が説明され、すべての音が適切に配置され、その落ち着いたバランスは古典派といえる。しかし、このようなテクニカルな分析では明確にならない別の面がある。それは、この作品の演奏でも研究でも見落とされてしまいがちな感情の具現化ということである。私はこの点こそが「美しき水車小屋の娘」の本質だと考える。
一貫していて不変である小川や月、星(最終曲)と明確な対照をなす人間の感情の一貫性のなさが吐露され、この感情の矛盾はシューベルト自身がかなり美化して表現したものである。ミュラーの詩の中に、シューベルトが曲をつけなかったものが5編あることはよく知られている(うち2編は、この物語と聴衆の間に一定の距離を置くために書かれたプロローグおよびエピローグである)。
シューベルトは歌曲集を作るに際し、ロマン派特有のアイロニーを排除し、見方によっては皮肉とも取られかねないミュラーの詩を、生と死、純真と成熟についての深遠な解釈の詩に変えた。
物語を閉じるのは、子守歌である。オープニングの「さすらい」と同様5節から成っているが、一人の若者の現実の流浪の旅というよりも、もっと普遍的なコンセプトを示している。ここで聴衆は、粉挽き職人の旅は世俗的なものでも神聖なものでもなかったことを知る。<4> 彼は、死によって真実を見出すのである。そしてその唯一の真実とは、愛、苦痛、怒りなどのあらゆる人間の感情は永久のものではなく、変わりゆくものであるということである。彼は永久の眠りにつくことによって世俗的な苦悩から解放され、そこには未来永劫の自然だけが残される。月、霧、果てしなく広がる空。ここで解釈は聴き手にゆだねられる。
「美しき水車小屋の娘」のような優れた作品にはちょっとした哲学があるが、この哲学と意味という問題は、果てしない議論の的であり、全く主観的なものである。私の解釈は様々な解釈のうちの1つにすぎないし、それもいずれまた必ず変わる。結局、ある作品が何を意味するかは、演奏者にとっても聴き手にとってさほど問題ではない。ともかく、作品が何かの意味をもっており、演奏が、それにより影響を受けるということである。われわれの今回の録音についても、そう言えると考える。
ウィンチェスター・カレッジで行われたJames Gilchristの「美しき水車小屋の娘」の公演に大いに刺激を受けたHarryと私は、自分達もこの作品をやってみたいと思ったが、その時点ではまだレコーディングすることまでは考えていなかった。だから、Tadpole Music の故ニック・ライト氏(5)がCD化をOKしてくださったのは、ビッグニュースだった。ライト氏のこのプロジェクトに対する熱意は大変なもので、だからこそこのレコーディングが実現した。レコーディングは全曲、ハーフタームの休暇を利用してカレッジのコンサートホールで行った。集中を要する大変なセッションであったが、とてもやりがいがあった。プロデューサーの Simon Weir氏 と音響エンジニアのMorgan Roberts氏は、セッションの間ずっと、Harryと私にとことん自由に自己表現させ常に最終的な決定権を持つようにすることで、できるだけ楽にやれるように専門的な配慮をしてくださった。われわれの音楽教師、Robert Bottone先生とJames Ottaway先生も大変熱心に手助けしてくださり、常にご指導ご支援いただいた。
このような素晴らしい方々のお力がなければ、このような信じられない録音は生まれませんでした。激励してくださった寮長のAlastair Land先生、ニュー・ホールの使用を許可してくれたウィンチェスター・カレッジ、写真撮影担当のGary Holmes氏、ドイツ語指導のJohanna Mayr先生に感謝いたします。Harryと私は、われわれの大きな旅を実現させてくださった皆様すべてに大いなる感謝の辞を表します。
2006年3月
Nadanai Laohakunakorn
1)ここでHarryは、主人公の「愛」を非常に高いものととらえており、彼が死んでも彼の愛と自然は永劫に不変である、と述べているが、これに対しNadanaiは、愛も憎しみや苦悩と同じレベルでひとまとめに考えており、永劫なのは自然だけだと言っている(Nadanaiの第7パラグラフ後半参照)コラボレーションしている2人の見解がこのように明確に異なっているのが意外でありまた面白い。
2)狩人は彼の恋敵。ネット上で「美しき水車小屋の娘」のいろいろな解説を見てみたところによれば、粉屋という職業は厳しい修行が必要で、この主人公自身それに誇りをもっていたと考えられる。にもかかわらず、娘が、粉にまみれて父親の下で働く徒弟よりも、外で颯爽と野山を駆け巡る猟師の方に心を奪われた、という設定も「若さ」を強調する道具立ての1つになっているのではないだろうか。
3)ピアノが軽快な足取りを表しているという意味。
4)おそらく、世俗的なものだったか、神聖なものだったかという問題ではなかった、そういうことも超越していたというような意味かと思われる。
5) Nick Wright氏は、Tadpoleの創始者で、Harryのよき理解者の1人であったが、このプロジェクト開始後まもなく(つまりリリースを待たずに)世を去る。HarryとTadpoleの関わり等についてはまた後ほど書く予定。
* 文字化けを避けるためドイツ語のフォントは使用していません。
* 人名はの表記は、基本的に私が発音がはっきりとわかるもののみカタカナにしているので、原語とカタカナが混在しています。また、検索でヒットし易いようにするため、「ハリー」ではなく「Harry 」としています。
* 曲目の日本語タイトルは、ネット上で一般に用いられているものを使用。歌詞の日本語訳は、全音楽譜出版社
「シューベルト歌曲集1 美しき水車小屋の娘 高声用」より引用。
******
どうでしょう!これが、わずか14歳の歌手と17歳のピアニストによって書かれた解説です。自分たちの考えをこれほどしっかり持ち、品格あふれる言葉(英語の原文も美しい)で表現できたボーイソプラノ/ピアニストコンビはこれまでにいなかったと思います。
なお、このCDについての私自身の解説、感想等は今後少しずつ小出しにして(?!)書いていくつもりです。とりあえず、performers自身の解説を読んでいただきたく、アップしました。
この作品がより多くの人に知ってもらえるといいですね。それにしてもこの解説はGreat!!Harryについてもちろん、この作品について検索している人もこの解説を読んで、「買わなくては!」と思うことでしょう。(リリース数が少ないから、皆さん早く購入しましょう!)DSMだけ連載投稿になるのかしら?今後も楽しみにしています
シューベルトの歌曲集は男声用に作られているものが多いので、一般のシューベルトファンの人たちにとってもかなり新鮮で、かつ画期的なCDになっていると思います。
ぜひ、シューベルトファンの方に感想を聞いてみたいですね。
Harryに代わってお礼申し上げます。
(..って、あなたはHarryの何なのよ)
おっしゃるとおり、Harryのまことの花はこの作品で
満開になりました・・・
私は新潟でシューベルトの歌曲を愛好しているものです。「美しき水車小屋の娘」について調べているうちにこちらのブログに辿り着きました。誠に勝手ながらこの場をお借りして宣伝させていただきます。
新潟シューベルティアーデ第5回公演 ~シューベルトの歌曲 その魅力を味わう Vol.5 ~ 「フランツからの花束」
出演 田辺千枝子(ソプラノ)中森千春(メゾソプラノ)高橋宣明(テノール)佐藤匠(バリトン)栄長敬子(ピアノ)片桐寿代(ピアノ)八子真由美(ピアノ)
曲目 D257 野ばら D431 花の歌 D498 子守歌 D633 蝶 D764 ミューズの子 D795 「美しき水車小屋の娘」より ほか
来春2月17日(日)午後2時開演、りゅーとぴあスタジオA
前売 1,500円 当日 2,000円 全席自由
※前売券完売の場合は、当日券の販売がございません。お問合せの上ご来場ください。
お問合せ 新潟シューベルティアーデ事務局Tel:025-266-0173(栄長研究室) 携帯:090-9343-6236(栄長)
Mail:tek310@oak.ocn.ne.jp(佐藤)
プレイガイド りゅーとぴあ ヤマハミュージック関東新潟店 コンチェルト