クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

北武蔵の“パワースポット”はどこにある?(21) ―鑁阿寺―

2010年12月31日 | パワースポット部屋
栃木県足利市にある“鑁阿寺”(ばんなじ)は、
真言宗大日派の本山である。
開基したのは“足利義兼”。
同寺は館跡とも知られ、寺の周囲には土塁と堀が残っている。

鑁阿寺本堂の裏に“蛭子堂”と呼ばれるお堂がある。
ここはほかのお堂と一見雰囲気が違うのは、
安産祈願をした参拝者が多いことが一目瞭然だからだろうか。

この蛭子堂は安産の守護神として、
古くから信仰を集めている。
しかし、その由来となる伝説は思いのほか悲しい。

足利義兼が平家追討のため留守にしたところ、
室の“北条時子”は懐妊。
別の男の子どもではないだろうか?
怪しんだ義兼が問いつめたところ、
侍女の藤野が「筆頭家臣の足利忠綱と通じた」と報告した。

激怒した義兼が時子に命じたのは自害。
時子は涙を流しながら自ら命を断った。

すると、時子の大きなお腹から出てきたのはたくさんの蛭だった。
無実の罪で命を断った時子の無念が、
蛭となって現れたのだろうか。

悔いた義兼は鑁阿寺を建立。
そして、時子を供養するために、蛭子堂を建てたという。

夫に嫌疑をかけられるという意味で、
『古事記』に見えるコノハナサクヤ姫と似ている。
彼女は夫に疑いをかけられたが、自害ではなくある条件を言う。
「もしあなたの子どもならば、炎の中でも無事に生まれるでしょう」
かくして姫は、炎に包まれる産屋で無事に出産し、
身の潔白を証明するのである。

と言っても、これは神さまの話。
生身の人間である時子が、
炎の産屋で出産できるわけがない。
自ら命を断ってしまう。

この伝説の真偽は定かではない。
悲話としていまに伝わる。
しかし、安産の神様として、
ここに参拝する人の姿は絶えない。



鑁阿寺(栃木県足利市)



同寺の土塁と堀で憩うカモたち



ネコ
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カール・マルクスは“図書館派”か? ―作家の秘密道具(9)―

2010年12月30日 | ブンガク部屋
学生の頃、勉強場所について図書館派と家派に分かれたが、
書き手にも前者の者がいる。
管見によれば、小説家よりも学者にその傾向が強いと思う。
資料となる本がたくさんあるし、
勉強もしやすい。

しかし、小説を書くのに図書館は思いのほかうるさい。
子どもや学生の話し声は聞こえてくるし、
席の後ろを何度も通られると、
気が散ってならない。
書き手のタイプにもよるけれど、
創造するのに図書館はあまり適さないように思う。

『資料論』の著者で知られる“カール・マルクス”は図書館派だった。
彼が通っていたのは“大英図書館”。
世界的知名度を持つ図書館である。

マルクスは毎日そこへ出勤。
むろん、職員ではない。
利用者の一人である。
そして、そこで9時から夜の7時まで資料の海を彷徨い、
筆を執った。

図書館で過ごすマルクスは裕福かと言えば、そうではない。
経済学を勉強しているのに、
自宅の経済は火の車だった。
それでも彼は図書館に通い詰め、
朝から晩まで勉強した。
そして彼は、彼にしかできない仕事を残したのである。

マルクスは図書館で集中力を乱されることはなかったのだろうか。
どんなふうに、休憩や食事をとっていたのだろう。

大英図書館に集結した“知”は、
海のように彼を包み込んでいたのかもしれない。
いわば、大英図書館は、
彼の学問の揺りかごになっていた。

そして、世界に影響力を及ぼす仕事を成し遂げる。
もし図書館がなかったら、その仕事はできただろうか。
これは想像でしかないけれど、
家人に原稿をぶん投げられていたかもしれない。
やせこけた子どもたちの前で……


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編集者といく羽生城めぐりは?(19) ―小田原城攻め―

2010年12月29日 | 羽生城跡・城下町巡り
上杉謙信に属した羽生勢の最初の仕事は、
小田原城攻めへの参陣である。

永禄3年8月に初めて関東へ越山した謙信に、
関東の諸将は従属の意を示した。
翌年、謙信が小田原城に着陣したとき、
城を取り囲んだ兵は11万5千余騎に及んだ。

その頃作成された上杉方の史料「関東幕注文」には、
「羽生之衆」として書き記されている。
広田直繁と川田谷(木戸)忠朝ら「羽生之衆」は、
忍城主成田氏らとともに第2陣に布陣。
先陣には、岩付城主太田資正らがいた。

11万5千騎の圧倒的な大軍の前では、
落城は時間の問題と思われる。
しかし、天文15年の河越夜戦のような前例もある。
油断はできない。

それに、小田原城の守りは固い。
謙信の感情の起伏の激しさを鑑みて、
「籠城シ、彼血気ヲ属シ、兵力ヲ疲弊セシメ」の作戦に出た北条氏康は、
下手に戦を仕掛けるのを避けた。

しかし、先陣と第2陣に布陣した武将たちの士気は高い。
太田資正は3千5百騎を率いて城を攻める。
蓮池門まで攻め入り、新たな城兵が現れても、
「運ハ天ニアリ、一人残ラズ討死セヨ」と槍をとって戦った。

第2陣の1万2千余騎も奮戦する。
太田資正の士気に触発された彼らは、
城の北東より攻める。
広田直繁、川田谷忠朝が目の当たりにする大戦だった。

そんな戦闘の中、謙信はカリスマ性を見せる。
蓮池門まで自ら馬を進めると、
城兵たちの前で弁当を取り寄せ、堂々と茶を飲むのである。

城兵たちは千載一遇とばかりに鉄砲を構える。
そして、謙信に狙いを定め、引き金を引く。

ところが、一発も当たらない。
たまたま手元が狂っただけ。
次こそは外さない。

城兵たちは再び玉をこめると、謙信を狙った。
しかしまたしても一発も当たらなかった。
もう一度撃っても、左の袖と鎧の鼻に当たっただけで、
謙信は無傷だった。

元より毘沙門天の化身と言われた謙信である。
武神の加護を受けているに違いない。
謙信は茶をゆるゆる三服のむと、悠々とその場から立ち去った。
その姿に敵も味方も目を奪われ、
同時に畏れを抱かない者はいなかった。

広田直繁と川田谷忠朝も、そんな謙信を目の当たりにしていた。
この方こそ神の化身。
敵味方も越えた聖将である。
二人は呆然と謙信の姿に見取れていた。

しかし、その謙信をもってしても小田原城は落ちなかった。
兵粮が乏しくなり、また武田信玄が不穏な動きをみせたため、
謙信は一旦退却する。
そして、鎌倉の鶴岡八幡宮に向かうのだった。


小田原城(神奈川県小田原市)
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太宰治が愛した食べ物は? ―作家の秘密道具(8)―

2010年12月28日 | ブンガク部屋
太宰治が愛した食べ物。
それはみそ汁である。

津軽の人にとって、みそは大切な食料だったらしい。
太宰は津島家の自家製みそをこよなく愛した。

学生の頃は、魔法瓶にみそ汁をつめて飲むほどだったという。
昭和12年に作家たちと旅行に行ったときも、
太宰は人目を隠れて6杯ものみそ汁を飲んだというエピソードも伝わっている。
太宰尾というと、酒好きのイメージがあるが、
実はみそ汁好きでもあったのだ。

みそ汁の脳に与える効用はよく知らない。
彼の創作に何らかの影響を及ぼしただろうか。
太宰作品をじっくり読めば、
仄かにみそ汁の香りが漂ってくるかもしれない。
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ラーメンを忘れられなくする要素は? ―ラーメン部(10)―

2010年12月27日 | グルメ部屋
「ラーメン部」と言っても番外編である。
かつてラーメン屋だったという場所だ。

その町で一番おいしいラーメン屋だと聞いたのは中学一年のとき。
同級生から聞かされ、実際に行ったのだが、
「一番」だったかどうかは意見が分かれるところである。

十代の学生には優しい値段だったせいもあって、
ちょくちょく通っていた。
最後に行ったのは1995年の冬。
まだ土曜日に学校の授業があった頃で、
期末テスト前の放課後に食べに行ったのを最後に、
プッツリと足が途絶えた。

その日一緒にいた人と、
数日後に関係をこじらせてしまったせいもあるかもしれない。
店はいつの間にか閉店し、
土曜の放課後以来二度と味わえなくなってしまった。

店舗だけは残り、その後ラーメン屋とは全然別の店がいくつかオープンした。
しかし、いずれも長くは続かず、
気が付けば最後にそこでラーメンを食べた日から、
十年以上の歳月が流れていた。

ところが、そこを会場にした飲み会が急遽開かれた。
ひょんなきっかけで、
15年ぶりにその玄関を入る。

そこはラーメン屋ではない。
内装も違う。
しかし、店の作りそのものは15年前と変わっていなかった。

こぢんまりとした店内に、小さなカウンター席。
その向こうの厨房も、記憶の光景と変わらない。
カウンターに座ってラーメンを注文すれば、
あの頃と同じ丼が出てきそうな気がした。

「ラーメン屋」と言っても、味だけではない。
店の作りや雰囲気、厨房に立つマスターなど、
それぞれに個性がある。
そうした丼の中身以外の要素が、
ラーメンの味を作り出しているのだろう。

記憶に残っている店はラーメンだけではないと思う。
そのとき、どういう雰囲気に包まれていただろうか。
記憶の中のあなたは、
そのときどんな状況や時代の中にいて、
胸の内に何を想い抱いていただろうか……?
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編集者と行く羽生城めぐりは?(18) ―幻の城―

2010年12月26日 | 羽生城跡・城下町巡り
年末年始を迎え、里帰りをする人もいるだろう。
故郷はいつもと変わらぬ風景であるだろうか。
それとも、押し寄せる開発の波によって、
景色も人の流れもまるで様変わりしているだろうか。

ほとんど何も変わらないけれど、
ちょっと変えてみたいという人には、
幻の城行きをおすすめする。

幻であるがゆえに、普段は目に見えない。
例え目に映っても、
何もしなければ見えてこない。
他者から伝え聞くこともなければ、
訊いても「そんな城は知らない」と素っ気なく言われるだけ。

幻の城へ行くのは思いのほか困難だ。
城門はなかなか開かない。
しかし、つい先日、その城門を開くカギが現れた。
それは『羽生城と木戸氏』。
入手困難になっていた『羽生城―上杉謙信―』の改訂版である。
これを一読したあと、羽生の地に立てば、
そこはまるで別の土地に感じられるだろう。

『田舎教師』に描かれたようなのどかな田園風景ではなく、
群雄割拠の時代のつはものどもたちの息遣いが聞こえてくる。
北からは上杉謙信、南からは小田原後北条氏、
西からは武田信玄の足音が聞こえてくる。

城を守るは広田直繁と木戸忠朝をはじめ、
木戸重朝や菅原為繁、玉井豊前らの城将たち。
隣接する忍城主成田氏をはじめ、館林城主長尾氏、
深谷城主上杉氏、岩付城代北条氏繁らが、
情勢とともに揺れ動いている。

古河公方足利義氏は安定化せず、
公方の重臣だった関宿城主簗田氏は、
後北条氏から標的になっている。
この城を得るのは一国を得るに等しい、と……。

そんな戦国時代の空気にたちまち包まれるだろう。
日本史の教科書に載っているのが歴史の全てではない。
どの土地にも、培い、歩んできた歴史が眠っている。
その歴史の門を開いたとき、
それまで気付かなかった世界の豊穣さに瞠目するだろう。

年末年始はすぐそこまで迫っている。
そんな閉ざされた城門を開き、
幻の城へ足を運んでみてはいかがだろうか。



『羽生城と木戸氏』(冨田勝治著 戎光祥出版社)
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執筆にはどんな“儀式”をする? ―作家の秘密道具(7)―

2010年12月25日 | ブンガク部屋
何事も生み出すという行為には苦しみが伴う。
不安でもあり、恐れもある。
しかし、その分だけ生み出した達成感は何事にも代え難いものである。
生み出したものにしかわからない悦びがある。

文芸作品にも同じことが言える。
執筆という行為は楽のときもあれば、
その多くは苦しみでもある。
不安と恐れ、ときには苦痛もある。

もし「趣味」でやるとしたら、
もっと楽なものを選ぶだろう。
少なくとも、「作品」と呼べるものを生み出すには、
多くの汗を伴う。

文芸作品は小説だけに限らない。
論文、エッセイ、紀行文、随筆、詩……。
執筆という行為は、
いまここにはいない別の自分になることなのかもしれない。

脳を切り替え、作品の世界へ入り込んでいく。
それは容易なことではない。
スイッチの切り替えのように簡単には入り込めない。

書き始めても興に乗らなかったり、
不安がムクムクと頭をもたげてくることもある。
乱れる精神を集中させるために、
書き手は何かしらの“儀式”をしている。

北方謙三氏はクシで頭をかっぱいたり、叩いたりするという。
村山由佳氏は執筆前にピアノを弾く。
儀式は千差万別である。
それぞれのやり方、道具を使って儀式を行う。

理路整然とした学者の先生は、
淡々とスマートに筆を執るかといったらそうでもない。
「書き始めが最大の難関」という社会学者の清水幾太郎は、
書き出しがこじれると、「一枚書いては破り、二枚書いては丸める」。

そして、自分の書体やインクの色に気が映っていく。
インクの色がまずいのではないか。
自分の字が綺麗ではないから、
文章もなかなか進まないのではないか。

ようやく書き出しても不安は消えない。
心の中は澄んだ湖面のようではなく、イライラしている。
誰かに声を掛けられても無視。

そこで氏は儀式を行う。
石鹸で何度も手を洗うのである。
すると、気持ちが落ち着くという。
神経質そうに何度も手を洗う学者の先生……。
そこには生みの苦しみに悶える姿がある。

なぜそこまでして筆を執るのだろう。
むろん、仕事ということもあるが、
その根幹には“書かずにはいられない”という内的衝動があるだろう。
それは埋められない心の隙間だったり、
傷、コンプレックスだったりする。
執筆行為そのものが自己救済でなくとも、
その根幹には理を越えた内的なものが存在する。

あなたは筆を執るとき、
どんな行為をしているだろうか?
作家のもった部屋の中から、
クシで頭を叩く音や、
ピアノを奏でる音が聞こえてくるかもしれない。
コメント (2)
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忘れ去られた“戦車”が眠るウワサは本当か?

2010年12月24日 | 奇談・昔語りの部屋
かつてその松林には、“戦車”が眠っているという噂があった。
戦争が終わりに近付き、
兵隊が戦車を松林に隠したという。

その後終戦を迎え、戦車はそのままになった。
いつしか存在を忘れ去られ、
いまに到っている、と……。

その噂がどこまで本当なのかわからない。
中学生だったぼくらはその場所へ行った。
しかし、すでに松林は姿を消していた。
戦車もなかったけれど、
トラックのモーター席が何台も並んでいた。

古老の話だと、かつてそこには7メートルを越える砂丘が連なっていたらしい。
利根川の本流がすぐそばを流れていて、
流れ着いた土砂を強い風が巻き上げ、
長い月日をかけて砂丘ができたという。

その土地の名も「砂山」。
砂丘の上には乾燥に強い松が生え、
いつしか松原が広がったという話だ。

古老がずっと若かった頃、
配属将校の指揮で、松原で野営の訓練をしたという。
「松の中で飯を炊いて、近所の民家から貰ってきた梅干しで食べたんだが、
いまでも松の匂いをかぐと、あのときの米の味を思い出すよ」
古老は深いシワを刻んで目を細めた。

戦車のことを訊いてみたけれど、
そんな噂は耳にしたことがないと言っていた。

松林が姿を消したのは、高度経済成長期のときだ。
砂が高値で売れたため、砂丘は格好のターゲットとなる。
松は伐採され、砂丘は削り取られた。
長い自然の歴史を刻んだ松原が姿を消すのに、
時間はかからなかった。

戦車もそのとき消えてしまったのだろうか。
それともまだ地中に眠っているのだろうか。
ぼくらはアスファルトに覆われた道の上から、
だだっ広い松原跡を眺めた。

ほんの少しだけど、小さな砂丘の上に松が立っている。
かつての松原の生き残りだろうか。
その松の向こうには、
青い空が突き抜けるように広がっていた。



ほんのわずかに留める松原の名残(埼玉県羽生市砂山)
最初の画像は同所のクリスマスバージョン
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“ムジナもん”と遊びませんか?(65) ―藍染めムジナもん―

2010年12月23日 | ムジナもんの部屋
“しいたけ”と呼ばれる男子が作ったムジナもんと、いがまんちゃん。
紺色なのは、藍染め仕様だからという。
もちろん販売はしておらず、
この世に数体しか存在していないムジナもんということになる。

しいたけはお洒落な男子で、
お手製のTシャツやスニーカーを履いている。
ぼくには到底真似できない特技だ。

そんな男子の作ったムジナモンといがまんちゃんも、
お洒落さんなのかもしれない。
世界にひとつしかないお手製のムジナもんを、
あなたも作ってみてはいかがだろうか?
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美しい自筆原稿の裏には何が隠されている?―作家の秘密道具(6)―

2010年12月22日 | ブンガク部屋
『近代作家自筆原稿集』(東京堂出版)に収録された“嘉村礒多”の自筆原稿は美しい。
「美しい」の表現が適切かはわからないが、
判を捺したような綺麗な文字を書く。

字はその人を映す鏡のようなものだから、
礒多は几帳面で、完璧主義者だったのかもしれない。

しかし、果たしてそれだけだろうか。
嘉村礒多は私小説作家である。
主な作品に「秋立つまで」「途上」がある。

自分の周辺から素材をとり、
過去をも題材にして書く。
人は経験したものを書くのが最も書きやすいが、
礒多の場合、それをモデルにするのではなく、
そのままむき出しにして表す。
告白をすることで、罪悪感や劣等感から自己を救済する手法である。

いわゆる自己救済のわけだが、
書くことで救済されるならば、
その後書く必要性はなくなってしまう。
救われてしまった作家は、もう書くことができないのだ。

むろん、時間が経てば別の問題に悩まされたり、
一度書いた題材が再び心を疼かせるかもしれない。

しかし、この手法では連続して作品を書き続けることはできない。
すぐに行き詰まってしまう。
自己をのみ題材にする限り、書くべき内的衝動はすぐに枯れる。
現に礒多は寡作のままこの世を去る。

礒多はペンを執ることが苦しかったのではないだろうか。
いざ机に向かっても、
原稿用紙を睨んだまま、一向に書き出さない(せない)。
彼が師事した“葛西善蔵”のように。

善蔵は1日に2枚書ければ有頂天だったという。
礒多もそんな遅筆だったとすれば、
原稿用紙の枚数よりも、
升に埋める文字を書く時間の方が多かったのかもしれない。

ゆっくりと丁寧に文字を書く。
次に書く行は思い浮かんでこない。
再び書き出すまでたっぷり時間はある。
あるいは何度も清書をしたのかもしれない。
礒多の美しい自筆原稿は、
寡作作家の苦しみを映し出している気がしてならない。
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北武蔵の“パワースポット”はどこにある?(20) ―耳じん様―

2010年12月21日 | パワースポット部屋
“耳じん様”と呼ばれる碑がある。
元々は“行人塚”だったが、
土地開発によってその場所に移転建立したという。

行人塚は、亡くなった行者が眠っている塚である。
あるときこの村にやってきた行者は徳のある人で、
多くの村人を助けた。

中でも、耳の病気を治すことができたという。
それは山で修行を積んだ霊験によるものか、
あるいは諸国を巡り歩き、
耳の病気を治す知識を持っていたのかもしれない。

行者はそのまま村で暮らし続けた。
そして、その地で最後の時を迎える。

村人の誰もが嘆き悲しんだ。
いつしか行者は、村になくてはならない存在になっていた。
亡くなった行者は土に埋め、塚を築いた。

やがて月日が過ぎても、
村人の記憶から薄れることはなかった。
行者が好きだったという酒を供える者もいる。

耳や喉の病気が治れば、
行人さまのお陰だと自然と手を合わせた。
行人塚へお参りに来る人は絶えなかったという。
そしていつしか、「耳じん様」や「耳だれ様」と呼ばれるようになった。

そうした村人の親しみと感謝の気持ちは代々続く。
そして、土地開発のために塚が消えることになっても、
お参りに行く村人の姿は絶えなかった。
耳じん様に対する想いがそれだけ深いということだろう。
そこで、行人塚を移転建立し、現在に到っている。

いまも、この耳じん様にお参りに来ている人はいるだろう。
その想いはこの先ずっと続くのかもしれない。
時代を越えても、
人に感謝する気持ちは変わらないということを教えている。
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うどんみたいな極太麺のラーメンは? ―ラーメン部(9)―

2010年12月20日 | グルメ部屋
東大宮のいつも行列のできるラーメン屋さんの前を通ったら、
珍しく客の姿が少なかった。
ここぞとばかりに入店。

ラーメンの大盛りを注文しようとすると、
普通盛りでもかなりの量だという。
ならば普通盛りに訂正。
高田馬場のラーメン屋で、
「中」を注文して食べきれなかった思い出がある。

ちなみに、ラーメンを残したのはそのときと、
風邪を引いて食べた味噌ラーメンの2回である。
ラーメンに限らず、残すというのはとても後ろめたい。
食事はおいしく、綺麗に食べたいものだ。

そして、やってきたラーメンの普通盛り。
なるほど、確かにボリューム満点である。
普通盛りにして麺が450gあるらしい。
しかも、麺は極太。
まるでうどんのよう。

味は家系だった。
確かに人気のある味である。
高田馬場の行列のできるラーメン屋と似た味がした。

ところで、ぼくは油が得意ではない。
「油抜き」が可能ならば、迷わず抜いてもらう。
そのラーメンは味が濃く、こってりしていた。
胃が、高田馬場で食べ残したときと同じ表情をした。

「あれ、この感じは……」
そう思うとペースが落ちる。
おいしいのだけど食べられないというのは苦しい。
やがて胃が音を上げ、やむなく箸を置いた。

(おそらく)人生でラーメンを残した3回目になってしまう。
後ろ髪を引かれる思いで店を後にした。
久しぶりの満腹越え感。
体が休めと言っている。

それにしても、なぜ人は満腹になってもまたお腹が空くのだろう。
3日間くらい食べなくても済むなら、
人間社会はいまよりずっと変わっていたかもしれない。
そう思いながら道に出ると、
店の前はいつの間にか行列ができていた。
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カフカを作家にさせた2つの“境界”とは?―作家の秘密道具(5)―

2010年12月19日 | ブンガク部屋
「世界文学」に必ず登場する登場する“フランツ・カフカ”。
彼が作家として認められたのは死後のことである。

したがって、職業作家だったわけではない。
カフカは半官半民のような職業に就いていた。
彼の勤務先は労働者障害保険協会。
日中はそこで仕事をしていた。

しかし、勤務を終えたカフカは変わる。
自宅に戻った彼は、2時間の仮眠をとる。
夕食をとったあと、小さな包みを持って家を出た。
そして、モルダウ川に架かる橋を渡り、
何百段もの王城への石段を登っていく。

やがて辿り着いたのは、妹が借りていた小部屋。
カフカはそこで夜更けまで小説を書いていたという。
そこには、作家としてのカフカがいる。
昼と夜の顔があるように、
彼には昼と夜の仕事があった。

自宅に戻っての2時間の仮眠は、
夜の顔に「変身」するための必要な時間だった。
一度仮眠をとり、頭の中をクリアにしなければならない。
昼の仕事を終えたばかりの煩雑な脳では、
とても作品に集中できなかった。

また、夜の仕事部屋に向かう途中にある「橋」と「石段」は、
彼をさらに「変身」させる装置として機能する。
すなわち、カフカは橋や石段という“境界”を越えて、
昼とは別の世界へ足を踏み入れていたのである。
自宅では日常の色が濃く、
ペンを執るにも作品の世界になかなか入れなかったのかもしれない。

彼が仕事場へ行くのは、
労働者障害保険協会の職場から作家へ「変身」するための、
いわば通過儀礼だった。
二つの境界を越え、別の世界に入ることで、
カフカは作家になりえたのである。
幻想かつ不思議な作品を残したのもそのためだろう。

カフカは夜更けまで仕事を進める。
前述したように、彼は職業作家ではない。
本を出版したものの、全く話題にならなかった。
彼はどんな想いで、
日々の暮らしの中で書き続けていたのだろう。

カフカはペンを置き、身支度をすると再びドアを出る。
そして、来た道を戻った。
石段を下り、橋を渡る。
2つの境界を越えたとき、
彼は労働者障害保険協会職員の顔に戻っているのだった。
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はにゅうの“酉の市”へ行きませんか?

2010年12月18日 | お知らせ・イベント部屋
今年も古城天満宮で“酉の市”が開催される。
天神さまが一番賑わう日だろう。
世知辛い世の中だが、
天神さまの酉の市で嫌なことを取り払おう。

日時:12月25日(土)
   午後5時~9時
場所:古城天満宮(埼玉県羽生市東5丁目)
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川への道は遠くゆるやかに? ―葛西用水路元圦Ⅱ―

2010年12月17日 | 利根川・荒川の部屋
暗い校門を出て町を抜け、
葛西用水路沿いの道を自転車で走って利根川に向かう。
川に何かあるわけはなくて、
ただ思い付いたように用水路沿いの道を走っていた。

そして川の土手に駆けると、電車が通り過ぎていく。
そのずっと向こうに見える橋には、
行き交う車の明かりが見えるけれど、
声は聞こえてこない。

頭上には満天の星空。
東の空にオリオン座がまたたいていた。
土手の上から見える利根川は暗く、寡黙に流れている。

「彼女、なんて返事をするかなぁ」と、Nは言った。
「きっと大丈夫だよ。根拠はないけど」
「考えるってことは、嫌いじゃないってことだよね?」
「そうそう」
「でも、好きでもないって言えるんじゃね?」
「告白をきっかけに好きになるかもよ」
「だといいなぁ」

「女心のことは、ほかの女友だちに訊けばいいじゃん」
「オレは今回の告白で、女の子たちとは縁を切ったんだ」
「そんな無意味な……」
「オレの心と体は彼女だけのものなの」

「もしふられたらどうするのさ?」
「そしたらそのとき考える」
「理系の人間には似つかわしくない行動だね」
「恋なんて行きあたりばったりなもんだろ」
「何があるかわからない」
「もしふられても、告白したことは後悔しないよ」
Nはそう言って笑った。

川の反対側は、町の明かりがキラキラしていた。
小さな町だけど、Nのように誰かに恋をしたり、
彼女のように誰かに気持ちを伝えられたり、
あるいはぼくのようにどこか冷めて過ごしていたり、
いろんな人間がそれぞれの季節を送っている。

町の光りそのとき少しだけまぶしく見えた。
彼女からの返事や、彼の恋がこの先どうなるかなんて誰にもわからない。
どんな結末になってもぼくらは交錯する人の想いの中で生きていくのだろう。

そのときぼくは知る由もない。
数日後、この土手上からの景色を、
彼女と一緒に見ることになることを……。

土手下には葛西用水路元圦跡。
数本の該当が静かに灯っていた。
かつてそこから川の水を引き込んでいた記憶はどんどん遠ざかる。
その少し先には、冬枯れした葛西用水路が、
町に向かって伸びていた。

(了)

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