クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

元祖「羽生音頭」はいつ発表された?

2019年10月11日 | 近現代の歴史部屋
小学生のとき、「羽生音頭」を躍った記憶があります。
ただ、僕が躍ったのは「新・羽生音頭」の方でしょう。
「新」ということは、「旧」があります。

元祖羽生音頭は、昭和30年6月発行の「羽生市広報」にて初めて発表されました。
『行田・加須・羽生の昭和』(いき出版)には、
その「羽生音頭」を躍る人たちを写した写真が出てくるでしょう。

「羽生音頭」の作詞者は“柳八重”で、
作曲者は“米山正夫”です。
歌手は“霧島昇”と“久保幸江”、
振付は“則武昭彦”といった面々です。

柳八重氏は「柳夢路」というペンネームを使用していますが、
八雲神社の宮司であり、羽生町役場の助役を務めた人物でもあります。
この八重氏が師事していたのは玉敷神社の宮司であり、
国学院大学の総長だった河野省三氏です。
そのような縁もあってのことでしょうか。
「羽生音頭」作詞の校閲は河野氏が行いました。

同年5月30日、臨時市議会にて羽生音頭製作に係る予算が議決。
6月2日にレコードに録音、
同月14日には振付指導会も終了し、
翌15日発行の市広報に発表となった次第です。

さて、作詞者の柳八重氏は20代の頃から妙に惹かれる人物です。
若気の至りで小説のモデルに書いたこともありましたが、活字にはなっていません。

明治29年生まれの八重は、同44年に河野省三に師事。
翌年に羽生町役場に就職し、助役まで務めましたが、
戦後の昭和21年に自らその職を辞しました。
没したのは昭和33年のことで、
「運命とは……運命とは……」と口にしたのが最後の言葉だったそうです。

読書家で文筆家の一面を持っていた八重は、
『羽生町誌』や『羽生町要覧』などを著しています。
親族の方の話によると蔵書があまりにも多く、
「お宅は本屋ですか?」と訊ねる人もいたのだとか。

ちなみに、羽生城研究者の冨田勝治氏も柳氏と親交があり、
郷土研究会などでしばしば顔を合わせていたようです。
神職や行政の顔を持つ八重氏ですが、
主に歴史の面で冨田氏と研鑽し合っていたのでしょう。

そんな柳八重氏が作詞した「羽生音頭」は、
羽生の地域資源と言っていい単語が多く出てきます。
町場と上新郷にゆかりのあるものが多く、
冨田氏と親交があったとはいえ、さすがに「羽生城」の言葉は登場しません。
市民がわかりやすく、親しみのあるものをピックアップしたのでしょう。

せっかくなので、「羽生音頭」の1番の歌詞を引用して、
この記事を締めくくりたいと思います。

  羽生良いとこ音頭もはずむ サテ
  足袋と被服の ソレ
  足袋と被服の宝島
  ヨイヨイ ヨイトコ宝島
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映画「人間失格」に描かれる太宰治に

2019年10月08日 | ブンガク部屋
映画「人間失格」のポスターは太宰治役である小栗旬が大きく写っていますが、
実のところ、主役は太宰をとりまく3人の女性たちです。

妻の美知子、
伊豆の太田静子、
太宰と共に入水する山崎富栄。
実際、この映画の副題は「太宰治と3人の女たち」。

田部シメ子(田辺あつみ)は一瞬登場しますが、
さすがに太宰の晩年を描いているので小山初代は出てきません。

大人になると太宰の印象は変わってきます。
10代に親しんだ作家が、そのままの像でいることは稀かもしれません。
太宰治は好きな作家の1人であることは変わりませんが、
「人」としての評価は十代の頃とだいぶ違います。

映画の中では、太宰は流行作家として描かれています。
さも自立しているような印象ですが、
彼が大地主の息子であることを忘れてはならないでしょう。

太宰が小説を書き続けられたのも実家かから仕送りがあったからです。
それは所帯を持ってからも続いていました。
その経済的援助がなければ「作家太宰治」が現在の評価を得ていたかは疑問です。

非合法運動、卒業しようとしない大学、鎌倉での心中事件、
小山初代の過ち、水上での自殺未遂とハチャメチャな青春時代を送っています。
だからなのか、十代の頃は太宰が言う「苦悩」の言葉は違和感を覚えませんでした。
映画でも太宰が「苦悩」の言葉を口にするシーンがありますが、
大人になるとパロディとして感じてしまうのは寂しいことかもしれません。

ところで、映画「人間失格」で最も目に留まったのは子どもです。
太宰治の子どもたちが登場します。
妻との間にできた3人の子、
また太田静子の間にできた赤ちゃんですが、
父太宰治はどのように見えていたのでしょうか。
(内2人は作家になったことは周知のとおりですが)

大人になると、山崎富栄が太田静子の元へ行かせようとしなかったことに、
やるせない気持ちになります。
つまり、太田静子が産んだ子ども(のちの太田治子氏)は、
一度も父親に会えなかったわけです。
それを不憫に思ってしまうのは、十代のときにはなかった感情です。
太宰を「男」でなく「父」として見ているからなのでしょう。

太宰が入水したとき、遺書のほかに玩具が3つ置かれていたということです。
自分の子どもに宛てた玩具だったようですが、やはりやるせない感情を覚えます。
太宰が死の間際に子どもを想う気持ちがあったということが、
かえって切ないのです。

映画「人間失格」は女性目線で描かれています。
観客も女性が多かったように思います。
それにしても、作家が映画の主人公になってしまうのは太宰治ならではでしょう。

桂英澄は、太宰のことを「懐かしい人」と言っています。
一度も会ったことがなくても、いまでも多くの人に読まれているのは、
太宰が「懐かしい人」として私たちの心の琴線に触れるからなのかもしれません。
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羽生“市”になったばかりの昭和29年、市議会議員は何人いた?

2019年09月28日 | 近現代の歴史部屋
市役所では議会の会議が開かれます。
定例会のほか、必要がある場合において招集される臨時会があります。
市議会議員が行政に係る質問をし、
執行部がそれに答弁するというのが一般的です。

羽生が“市”になったのは昭和29年9月1日のこと。
では、初めて市議会が開かれたのはいつだったのでしょう。

それは、昭和29年9月4日です。
市制施行から間もない9月4日に、
羽生小学校(現羽生北小)の講堂で開かれました。

町村会議員がそのまま市議会議員になったので、
市制施行当時は120人を超す議員が存在しました。
現在の10倍以上の数です。
市制施行という特異な事情とはいえ、
100人以上もの議員が講堂に集まる姿は圧巻だったかもしれません。

ところで、当時はまだ「市長」は存在していません。
そこで、市選挙管理委員会は9月9日に市長選挙の期日を決定。
告示を9月25日、
投票日を10月10日としたのです。
慌ただしく新生羽生市が動き始めている印象を覚えます。

投票区は19区。
開票は羽生小学校講堂においてでした。

選挙の結果は、出井兵吉氏が当選したことは歴史の通りです。
当時、日本最高齢の市長誕生でもありました。
そのときどのような選挙戦が繰り広げられたのでしょう?
たくさんの人たちが奔走したはずです。
それらも「歴史」として刻まれ、新時代の息吹をいまに伝えています。
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昭和30年の羽生の“蓮ヶ原通り”の光景は?

2019年09月20日 | 近現代の歴史部屋
『行田・加須・羽生の昭和』(いき出版)の解説を書くにあたり、
蓮ヶ原通りから北を向いた写真を見ました。
蓮ヶ原通りは、松原通りに面する「伊勢屋」と元薬局店の間を通る細い道です。

この道沿いに、かつて羽生市役所がありました。
蓮ヶ原通りを写した写真は、昭和30年当時のものと思われます。
各戸に日章旗が掲げられていますから、
おそらく昭和30年1月14日の祝賀の光景でしょう。

昭和30年当時と比べ、道幅は変わっていないようです。
車1台が通るのがやっとの幅で、お世辞にも広いとは言えません。

変わったのは、その通り沿いに軒を連ねる民家でしょう。
どっしりとした瓦葺き屋根を持ち、木造の民家が並んでいるのです。
「昭和」を感じさせる写真と言えます。

「蓮ヶ原通り」の名称の由来は不明です。
その表記から言えば、蓮の花が咲く湿地帯だったことが想像されます。
ただ、歴史はそれほど単純ではないので、あくまでも漢字表記からの想像です。
「松原通り」も松並木があったのでしょう。
しかし、現在は1本も見ることはできず、商店が建ち並んでいます。

市役所が現中央公民館にあった時代、来庁者は蓮ヶ原通りを通ったはずです。
徒歩、自転車、車、オート三輪……。
羽生駅から歩いた人も少なくなかったのではないでしょうか。

明治30年代、小説『田舎教師』の主人公のモデル小林秀三も、
蓮ヶ原通りを歩くことがあったかもしれません。
古写真と比べ、通りはいささかすっきりした印象を持ちます。
そこを通る人の顔ぶれも変わったでしょうか。
今後は令和生まれの子たちが、この通りを歩くのでしょうね。
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昭和30年、羽生の祝賀を“宣伝カーパレード”が盛り上げた?

2019年09月17日 | 近現代の歴史部屋
昭和30年開催の「羽生市制施行・市庁舎竣工祝賀」では、
“宣伝カーパレード”が行われました。
そのときの様子を撮影した写真が現存し、
『行田・加須・羽生の昭和』(いき出版)にも何枚か掲載されます。

宣伝カーパレードは昭和30年1月14日に催されました。
市内外の企業や商店が送り出した大小の宣伝カー37台が、市内を行進。
まだ拡幅されていなかった本町通り(プラザ通り)を行進すれば、
道はもういっぱいです。

宣伝カーを追いかけるように走る子どもの風景を写した1枚があります。
子どもにとって、3日間続いたこの祝賀は楽しいお祭りの何ものでもなかったでしょう。
1月14日当日は金曜日だったのですが、
学校は臨時休校だったのかもしれません。
楽しそうな笑顔で写る子どもたちがたくさんいます。

ちなみに、勤王足袋を作っていた小島株式会社の宣伝カーは、
車の荷台に学生服を着せた大きな人形を取り付けて走っています。
各企業や商店は、それぞれ工夫をこらしたに違いありません。
タヌキ(かネコ?)のようなキャラクターイラストを使用した宣伝カーは、
平成15年に登場する“ムジナもん”を彷彿とさせるものがあります。

1月14日当日は寒風が強く吹く日だったようです。
でも、目を楽しませる宣伝カーパレードに、
人びとは寒さを忘れたかもしれません。
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昭和30年、羽生の祝賀に“ヘリコプター”がやってきた?

2019年09月14日 | 近現代の歴史部屋
昭和30年、羽生市内において「市制施行・市庁舎竣工祝賀」が催されました。
タイトルのとおり、羽生が“市”になったのと、
市役所庁舎が新たに完成したことを祝っての祝賀でした。

開催日は1月14日~16日の3日間。
“宣伝カーパレード”や“市内一周駅伝”、
“小学生児童の旗行列”や“物産展示会”など、
各種イベントが祝賀を盛り上げ、市内はお祝いモード一色となりました。

祝賀式典が行われたのは現在の羽生北小学校です。
アーチも設置され、その写真も残っています。

式典が終わったあとの午後は、同校の校庭に“祝賀ヘリコプター”が飛来。
これは読売ヘリコプター105号機で、空の妙技を披露したということです。
また、出井兵吉初代羽生市長をはじめ、市内の有志がヘリコプターに搭乗し、
市内上空を飛びました。
ちなみに、市勢要覧等で掲載された出井市長とヘリコプターが写っている写真は、
このとき撮影されたものです。

3日間の祝賀ですから、
裏方の職員たちは当日を含めてその前後に奔走したことが想像されます。
しかも、市になったばかりですから、慣れない仕事ばかりだったでしょう。
市民と職員が一丸となって、この祝賀を成功させたのではないでしょうか。
市をあげてのイベントは、歴史にはっきりと刻まれています。
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羽生の現在の“城橋”はいつ架けられた?

2019年09月07日 | 近現代の歴史部屋
羽生市内に「城橋」という名の橋が葛西用水路に架かっています。
戦国時代に存在した羽生城に由来するものですが、
用水路は廃城後に掘られたものです。
つまり、羽生城が機能していた時代には存在していなかった橋です。
羽生古城跡からその名が付いたと言ってよいでしょう。

城橋のほかに「地蔵橋」とも呼ばれていました。
近くにお地蔵さまがあることに由来しています。

令和元年9月現在の城橋は、昭和33年に造られたものです。
鉄筋コンクリート製の近代的な橋ですが、以前は木製だったようです。
一部は鉄筋コンクリートが使用されたものの、ほとんどは木。
聞いた話によると、重みに耐えかねて橋が崩れてしまったことがあったそうですから、
昭和33年の架け替え工事の際の橋は、
案外新しかったのかもしれません。

幕末に作成された「東谷の絵図」を見ると、完全に木橋です。
ちなみに、小説『田舎教師』の主人公のモデル小林秀三は、
城橋を渡って勤務先の小学校へ通っていました。
城橋からの風景を描写した田山花袋も、実際に渡ったはずです。

昭和の城橋の建築の際、通行止めになっています。
代わりの橋が架けられたわけではありません。
全く渡ることができず、迂回しなければなりませんでした。

いまならば交通渋滞が懸念されるところですが、
当時はまだ自動車はさほど出回っておらず、
連日大渋滞が起こることはなかったでしょう。
新しい城橋の完成を、人々は心待ちにしていたのではないでしょうか。

ところで、昔の子どもにとって川は格好の遊び場です。
城橋や岸辺に立つ木から用水路目がけて飛び込む子どもが多かったそうです。
車がさほど走っていない時代のことですから、
城橋にたくさん集まっても、交通事故の心配は少なかったのでしょう。
心配なのは、交通事故よりも水難事故の方です。

『行田・加須・羽生の昭和』(いき出版)には、
昭和初期の城橋と葛西用水路の写真が掲載されるかもしれません。
たっぷり水を湛えた用水路は恐く感じるほどです。
実際に命を落とした子どもは少なくなかったそうです。

川を見て「恐い」という感覚は現代のものでしょうか。
我が子が用水路に飛び込もうとしていたならば、慌てて止めに入ります。
当時の子どもたちにも恐さはあったはずですが、
逆にそれが彼らを刺激していたのかもしれません。
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羽生市誕生の昭和29年、町にはヘップバーンがいた?

2019年09月04日 | 近現代の歴史部屋
羽生が“市”になった昭和29年はどんな年だったのでしょう。
文化面で言えば、映画「ゴジラ」が封切られた年でした。
社会では第5福竜丸がビキニ環礁でアメリカの水爆実験に巻き込まれ、
「死の灰」を浴びたことが大きく報じられています。

6月9日には自衛隊が発足、
9月26日には、台風時に洞爺丸転覆という痛ましい事故も起きています。

なお、日本初の“缶ジュース”が明治製菓から試売された年でもありました。
これまではビン詰だったのですが、
割れずに持ち運びが容易な缶の登場は画期的な事件と言えるでしょう。

お隣の行田市では何が起きていたのでしょうか?
し尿処理場が完成し、荒木・須賀・北河原の3村が同市に合併されています。

加須では、5月3日に2町6村が合併して「加須市」が誕生。
浮野(うきや)とその植物群が県の天然記念物に指定されています。
終戦を迎え、カスリーン台風を始めとする災害の爪痕から這い上がり、
徐々に近代化が進んでいった時期でした。

ちなみに、この年は「ローマの休日」が封切られ、
ヘップバーン旋風が巻き起こりました。
女性たちはヘップバーンのファッションに憧れ、実際に真似をし、
映画のようにソフトクリームを食べたのです。

穀倉地帯の北埼玉においても、
ヘップバーンに影響を受けた女性たちが町を歩いていたでしょうか。
あるいは、被服縫製工場に勤める女性が多かった時代ですから、
日中に作業着や学生服を作る傍ら、
こっそりヘップバーン風の服を作る人もいたかもしれませんね。
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羽生“市”になったばかりの庁舎の“隣”には何があった?

2019年09月01日 | 近現代の歴史部屋
令和元年(2019)は羽生市制施行から65年目の年になります。
65年前、村々が合併し「羽生市」が誕生したわけです。
ときに、昭和29年9月1日のことでした。

この65年はあっという間だったでしょうか。
それとも長い道のりだったでしょうか。

この夏、現代史について調べる機会を得ました。
夏はずっと「昭和」にかかりきりで、あらゆる文献を参照し、
現場にも何度も足を運び、時間に追われっぱなしで苦しかった反面、新たに知る史実もあり、
興奮したことは一度や二度ではありません。
150枚以上の写真の解説と、リード文やコラムを書きました。
その成果は秋口に形になる予定です。

『行田・加須・羽生の昭和』という本が、“いき出版”から刊行されます。
書店のポスターや新聞のチラシでご覧になった方もいますでしょうか。
単著ではなく、複数の書き手がいらっしゃいます。
春先、たまたま市広報で古写真の解説をしましたが、
このような展開になるとは思ってもみませんでした。

さて、65年前、羽生は「市」になりました。
行政機関は“村役場”から“市役所”になったわけです。
現在の羽生市役所庁舎は昭和49年に完成し、移転しました。
では市制施行当時、市役所はどこにあったのでしょう?

それは現在の中央公民館です。
町役場の建物が、そのまま市役所庁舎として使用されたのです。
木造の建物で、「市」の行政機関としては手狭なものでした。

そこで早速、市役所庁舎建設の話が持ち上がります。
建設地は同じ場所。
すなわち、町役場の隣に新たな庁舎が建設されました。
完成したのは昭和30年ですから、
市制施行の前から庁舎建設は持ち上がっていたのでしょう。

新庁舎は鉄筋コンクリートです。
同じ敷地内に、木造と鉄筋コンクリートの両方の建物が並んでいたことになります。

その写真を目にしたことがあります。
『行田・加須・羽生の古写真』に掲載されるでしょうか。
ちょっとわかりにくいかもしれませんが、
そびえ立つ近代的な建物の横に、木造の庁舎が写っているのです。

同じ角度からの写真は、別の本に掲載されたことがあります。
しかし、2つの庁舎が写っている写真はわりと珍しいもの。
昭和54年生まれの僕は、木造も鉄筋コンクリート庁舎も目にしたことはありませんが、
どこか懐かしく感じられました。

思えば、現中央公民館の形も当時の庁舎に似ているかもしれません。
いえ、そっくりというわけではなく、どことなく面影が似ているという程度で……。
前述したように、昭和49年に現在の市役所庁舎が完成し、移転しました。
これにより、「市」として船出し、羽生市行政を支えていた旧庁舎はその役目を終えたのでした。
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10連休の後半、“風と土の館・野田”にて……

2019年05月03日 | お知らせ・イベント部屋
久しぶりに戦国時代をテーマにした話をします。
題して、利根川を渡った上杉謙信、武蔵東北部の戦国時代。
(いえ、僕が決めたのではなく主催者が考えてくれました)

5月4日、10時から「風と土の館・野田」という場所です(東松山市大字野田348)。
一度講演をしたことがあるのですが、
古民家風のところで、参加者は座敷に座って聞くスタイルだったと記憶しています。

NPOまちづくり楽会が主催する歴史講座で、
一般募集をしていたのかどうかわかりません。
なので、この拙ブログで告知することはありませんでした。
もしも参加される方がいましたら、当日はよろしくお願いします。
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羽生の旧庁舎はどこにあった?

2019年04月18日 | 近現代の歴史部屋
羽生市広報4月号(2019)には、
昭和30年に撮影された羽生市役所庁舎が掲載されています。
この庁舎は、現在の中央公民館の場所に建っていたものです。
町中に突き出るように建っていたことになります。

庁舎が完成したのは昭和30年のこと。
市制施行が昭和29年ですから、
その直後に「市役所」は登場したわけです。

そして、同35年に増築。
やや形を変えて、町中に建っていました。

現在の庁舎が建設されたのは昭和49年のことです。
町中ではなく、かつて羽生城の守りを固めていた沼跡に建設されました。
換言すれば、往古の行政機関の中心に移ったということでしょう。

駐車場スペースは少なく、何かと手狭になったため、
沼跡であり田んぼが広がっていた場所が選ばれたのでしょう。
そこには上杉謙信の旗かけの松と呼ばれる一本松が立ち、とても寂しい場所でした。
新庁舎の場所については色々な議論があったようです。

昭和54年生まれの僕は、旧庁舎に入ったこともなければ見たこともありません。
議場と執務室の映像をチラリと目にしたことがあるくらいです。
ワープロではなく手書きで公用文を作成し、
自席で煙草も吸っていたであろうこの時代、
庁内はどんな雰囲気だったのでしょう。
どんな人が働いていたのでしょうか。

羽生に新しく越してくる人、転出する人、
結婚する人、出生届を出す人など、多くの人が出入りしていたはずです。
僕の両親や祖父母も一度は行ったことがあるはず。

町中にあったため、庁舎は市民には身近な存在だったのかもしれません。
出入りせずとも、毎日目にしていた人は多かったでしょう。
一部火事に見舞われたこともあった旧庁舎でしたが、
市として船出したばかりの羽生の行政を支えていました。
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1990年代のはじめ、昭和橋を渡るのは大変だった?

2019年04月16日 | 近現代の歴史部屋
羽生市広報4月号(2019)に掲載された昭和橋の古写真は、
昭和30年頃に撮影されたものです。
昭和54年生まれの僕は、物心のついた頃に目にした昭和橋は、
同37年に新たに架け替えられたものでした。

2車線道路で、ダンプやトラックが絶え間なく走っていたのを覚えています。
当時の橋は歩道がありません。
したがって、徒歩や自転車で橋を渡るのは勇気のいるものでした。

僕が初めて自転車で昭和橋を渡ったのは、中学生の頃だったと思います。
羽生市の中学校に通う僕らは、昭和橋を使わないで対岸へ行こうとすると、
行田市に架かる武蔵大橋か、
旧大利根町(現加須市)の埼玉大橋を使わなければなりませんでした。

いずれも遠く、精神的にも大変骨の折れる距離です。
電車で渡るという手段もありましたが、中学生の主な交通手段は自転車。

羽生市本川俣地区の利根川で遊んでいた僕らは、
そんな事情もあって対岸がひどく遠くに感じられました。
対岸の土手の向こうに少し見える建物の看板が、
まるで異国のように見えることも……。

しかし、昭和橋を渡らなかったわけではありません。
橋の手前でスタンバイし、車が途切れたのを機に猛ダッシュ。
いま思うと、「スタンンド・バイ・ミー」の鉄橋を渡るようなノリだったかもしれません。

どんなにペダルを漕いでも、ごく一般の中学生ではたかが知れたもの。
橋の半分も行かない内に車に追いつかれてしまいます。
体のすぐ脇を通り過ぎていく何台ものトラック。
運転手から見たら、僕らはひどく邪魔だったでしょう。

反対側の車線にも車は途切れることなく走り過ぎ、よけようもありません。
ふと横を向けば利根川。
河原で見るのとはどこか違っていました。
橋の真ん中から眺める利根川はやはり雄大の流れていたのを覚えています。

そんな昭和橋越えを十代の頃に何度となく経験しました。
20歳を越えた頃、お酒に酔って電車を寝過ごし、歩いて昭和橋を渡ったこともあります。
そんな歩道のなかった前昭和橋は身近なようであり、
近寄りがたい存在だった気もします。
それでいて、とても愛着を感じさせる橋でもありました。

現在の橋は、2000年代に入って新しく架けられたものです。
上りと下りの橋がそれぞれ架けられ4車線化し、
広々とした歩道も設けられました。
対岸との距離は近くなり、僕らのときのように、
「スタンド・バイ・ミー」のノリで橋を渡る中学生はいないでしょう。

僕らが親しんだ昭和橋はすでに解体されています。
現行の橋は、厳密に言えば「平成橋」と言ってもいいかもしれません。
いずれこの橋も「歴史」に変わるのでしょう。
元号は2019年5月から「令和」に変わり、
「昭和」はどんどん遠ざかっています。
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羽生の“衣料のまち”の時代は恋の季節だった?

2019年04月12日 | 近現代の歴史部屋
羽生市広報4月号(2019年)に、
被服縫製工場内を写した古写真が掲載されています。
「映画撮影」というタイトルの通り、カメラや照明が働く女性たちに向いており、
何かの撮影風景を写したもののようです。
例えば、昭和30年代に製作された「伸び行く羽生」のメイキング写真でしょうか。

さて、かつての羽生は「衣料のまち」として、
被服縫製工場がたくさん存在していました。
最盛期には約450もの工場があったそうです。

それだけの数があると、当然ながら働き手が必要となります。
そこで、遠方から羽生へ出稼ぎに来る人が少なくありませんでした。
井沢八郎が唄う「ああ、上野駅」のように、
金の卵と呼ばれた人たちが列車に揺られて羽生に降り立ったのです。

多くの女性が羽生にやってきました。
そして被服縫製工場でミシンを踏み、汗を流したといいます。
むろん実家から通うのではなく、住み込みでの勤務です。
小さな工場でも3、4人の女性が住み込みで働いていたのだとか。

年輩者から聞いた話では、
外に出れば、道には若い女性がたくさん歩いていたそうです。
近隣から通ってくる人もいたでしょうから、
羽生駅は若者たちで混雑していたかもしれません。
当時は、道で一目惚れする羽生男子が少なくなかったでしょうか。

やがて訪れるのは恋の季節。
これも聞いた話ですが、仕事が終わった若い男性は、
働く女性たちの住む寮(住み込み部屋)へ出掛けていったそうです。
しかも1軒だけでなく、何軒もの寮を回ったと言います。

女性と話をして、気が合えばそのままデート。
あるいはデートの約束を交わします。
気が合わなければ何もありません。
打たれ強い男子ならば、気を取り直して次の寮へと足を運んだでしょう。

そんな出会いをきっかけにして、
そのまま結婚された方も多いと思います。
プロポーズは羽生のあの場所で……
という思い出もたくさんありそうです。
デートに「電気館」や「セントラル」へ映画を観に行った人もいるでしょうか。

羽生の道でナンパする男子もいたかもしれません。
ゴールインする人もいれば、
かぐや姫が歌う「赤ちょうちん」のように、
公衆電話の箱の中で膝を抱えて泣いた人もいた……?
羽生を舞台に、たくさんの恋物語があったはずです。

古写真に写る女性たちに、そんな恋の季節が訪れていたのかはわかりません。
ただ、当時の羽生の主産業を支えていたことは間違いありません。
何を想い、どんなドラマの中でミシンを踏んでいたのでしょう。
耳を澄ませば、古写真の中からミシンの音が詩のように聞こえてきそうです。
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旧昭和橋の“旧”はどの形の時代を思い出す?

2019年04月07日 | 近現代の歴史部屋
埼玉県羽生市と群馬県明和町をつなぐ「昭和橋」は、
昭和4年に完成しました。
ところが、昭和9年に悲劇が降りかかります。
台風の襲来です。

大雨によって川は増水。
木造で橋脚が多かった当時の昭和橋には、
上流から流れ着いた木材やゴミが引っかかってしまいます。

衝突するくらいならよかったのかもしれませんが、
漂着物はさらに新しい仲間を増やし、橋に負担をかけます。
そして、ついに橋の一部が破損。
ゴミとともに押し流されてしまいました。

台風が過ぎ去り水位が落ち着いた頃、修復工事が始まります。
埼玉と群馬を繋ぐ重要な橋です。
いつまでもそのままというわけにはいきません。

しかし、工事が行われている間はどのようにして利根川を渡ったのでしょう。
90歳の年輩者から話を聞きました。
昭和4年に橋が架かる以前のように、
舟を並べて板を敷く“舟橋”が急遽できたそうです。

いわゆる簡易橋で、狭くて低くて川はすぐ下を流れ、
渡るのがとても恐かったといいます。
90歳の年輩者は、実際にその簡易橋を渡った体験者です。
幼い頃の体験とはいえ、実にリアリティがあります。

なぜ渡ったのかというと、
館林の「花山」(つつじヶ丘公園)へ遠足に行くためでした。
同級生たちと一緒に渡ったのでしょう。
さすがに落ちてしまう子はいなかったそうです。
いまの時代ならば、渡河は許可されないのではないでしょうか。

台風によって破損した橋の一部は、新たに架け替えられました。
橋の全部が新しくなったわけではなく、一部が「トラス橋」になり、
いわば新旧が入り交ざった橋になったわけです。

したがって、羽生市広報4月号で
「旧昭和橋」というタイトルの古写真が掲載されていますが、
“旧”といえばトラス橋ではないものを思い出す人もいると思います。
初期の昭和橋は路面に砂利が敷かれていたそうです。
雨が降れば、あちこちに水たまりができていたのかもしれません。
現在の昭和橋よりも少し上流に架かっていました。

旧昭和橋もさることながら、
恐い(?)舟橋を渡っての遠足は、さぞや印象深く残っていることでしょう。
昔に戻りたい、とはあまり思いたくないのですが、
そんな舟橋を一度渡ってみたくなります。
その光景を見てみたい。
例えば、舟橋の上から見る日の出や夕暮れは、
きっといまとは違って見えたのでしょうね。

※90歳のAさん、貴重なお話をありがとうございました。
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旧昭和橋ができる以前は何があったのか?

2019年04月03日 | 近現代の歴史部屋
羽生市広報4月号(2019年)の特集の中で、
「旧昭和橋」というタイトルの古写真が掲載されています。
昭和30年頃に撮影されたもので、
現在とは違って路面が木造です。

昭和橋が架けられたのは昭和4年のこと。
川幅が比較的狭いところに橋は架けられました。
ここは八王子同心が日光へ向かう道中の一つで、
江戸時代は埼玉県側の関所(川俣関所)を通って、舟で対岸に渡っていました。

余談ですが、天正2年(1574)の春に、
羽生城救援のために上杉謙信が駆け付けたことがあります。
大輪(現群馬県明和町)まで軍を進めた謙信でしたが、
雪解け水で増水した利根川に阻まれてしまいます。

結局、利根川を渡ることができず、羽生城救援は失敗。
もしもそのとき増水していなかったならば、
現在の昭和橋辺りか、その下流の東武鉄橋付近を渡っていたかもしれません。

さて、川俣関所が廃止されたのは明治2年のことです。
関所の御調べを受けずとも、渡ることが可能となりました。
では、それから昭和4年に昭和橋が完成するまで、
人々はどのようにして利根川を渡っていたのでしょう?

舟で渡っていたのか? 
それとも昭和橋の前身となるものがあったのか?

実は、その両方と言えるものが存在していました。
舟橋です。
川に舟を何艘も並べ、その上に板を架けるという舟橋が埼玉と群馬を繋いでいました。
明治23年に企業の手によって完成したものです。

元々、舟橋は公共事業で出来上がったものではなかったわけです。
利益を得ることを目的としていました。
渡し賃ではなく、橋銭をとれば利益が見込めると判断したのでしょう。

ところが、収益はなかなかあがらなかったようです。
間もなくして、最初に舟橋を完成させた企業は解散。
別の会社が引き継ぎますが、特に変化はありません。
そして、昭和4年10月1日に昭和橋が完成すると、
舟橋はその役目を終えたというわけです。

この昭和4年完成の昭和橋も、いまはもうありません。
現在の橋は平成に入って新たに架け替えられたもの。
一線を画します。

現在の昭和橋は4車線で、過去に比べてとても渡りやすい印象があります。
僕が十代のときは橋のアーチが7色に彩色されており、
中学時代に遊び場だった河原からもそれが確認できたものです。
「レインボーブリッジ」と呼ぶ人もいました。

この「レインボーブリッジ」の完成は昭和37年のこと。
(彩色されたのはのちのことだったと思います)
個人的には、この橋の方に親近感があります。
多感な時期に親しんだ橋だったからでしょう。

市広報に掲載された「旧昭和橋」は、これ以前に架かっていたものであり、
僕は見たこともなければ渡ったこともありません。
路面が木なので、下を向けば隙間から利根川の流れが見えたそうです。
利根大堰ができる以前ですから、川幅も広かったことでしょう。
自転車で昭和橋を渡り、好きな女性に会いに行ったという話も聞いたことがあります。

そんな旧昭和橋は解体され、平成にできた新しい橋がその役目を引き継いでいます。
車ならば渡るのに1分もかかりません。
特に気に留めることもないでしょうか。

しかし、最初からそこに存在していたわけではありません。
舟で渡っていたこともあれば、舟橋が架かっていた時代もあるということです。
戦国時代には上杉謙信がやってきて、臨時的に舟橋をかけて川を渡ろうとしましたが、
対岸で待ち伏せていた敵勢の妨害もあり、失敗してしまった歴史もあります。

歴史への関心の有無は別として、そんなことに想いを馳せながら昭和橋を渡れば、
いつもと違って感じられるかもしれません。
下を流れる利根川の表情も変わるでしょうか。
いまも昔もそこにはさまざまなドラマが眠っています。
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