クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

「Bedtime story」から映画「3D彼女」へ ―コトノハ―

2018年10月20日 | コトノハ
子どもの運動会のBGMで流れた「Bedtime story」。
曲が流れている間、僕は微動たりともしなかったと思います。
(運動会なのに)。

ひと聴き惚れでした。
急いで歌詞検索すると、2018年9月にリリースした西野カナの曲ということが判明。
僕は一旦心を揺り動かされると行動派です。

その日の内にCDを購入。
よく見ると、「Bedtime story」は映画「3D彼女」の主題歌というではありませんか。
その予告編をユーチューブで検索すれば結構おもしろそう。

というわけで、39歳の男が一人で「3D彼女」を鑑賞。
劇場では案の定黒一点です。

たまたまなのか、そういう傾向なのかはわかりませんが、
一度芽生えた好奇心は止められません。
上映の最終日まで連続で観たいくらいでした。
少なくとも、もう一回は観たかったな。

恋をすることで新しい世界が拓ける。
それまでなかったコミュニティが展開する。

でも、その時間はいつまでも続くわけではない。
いつかは終わりを迎える。
そんな予感が日常の何でもないところに見え隠れして……。
という物語に弱いですね。
個人的に。

「Bedtime story」を聴き、映画「3D彼女」を観たら次は原作でしょうか。
同名のマンガが原作で、その数全12巻。
映画と原作が全く異なることはよくある話です。
「3D彼女」の場合はどうでしょう。

さて、「Bedtime story」からのコトノハ。

  愛してる、誰よりも、君が思うよりも
  いつだって、君のことで心はいっぱいなんだよ
  頼りないかもしれない、でも必ず守るから
  ああ、どうか僕のそばに
  ずっと僕のそばにいてほしい

作詞は西野カナ。
これを読むと、女性が書く詞だなぁと思います。

「俺が守る」的な詞はたくさんありますが、
こんなふうに対等の立場で、
飾らずに、
ストレートで
書く男性はどのくらいいるでしょう。

だからこそ、女性の書く詞に惹かれるのかもしれませんね。
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東京と埼玉の“山吹の里” ―太田道灌の伝説―

2018年10月15日 | 奇談・昔語りの部屋
詩人の正津勉先生のゼミが新江戸川公園で行われていた頃、
僕は高田馬場を流れる神田川沿いの道を歩いて会場に向かった。

その途中にあったのは、「山吹の里」と刻された石造物。
面影橋の袂にポツンと建っている。
とても目立つものではない。
でも、通るたび目に留まったのを覚えている。

この「山吹の里」は、太田道灌にまつわるエピソードを伝えている。
ある日鷹狩に出た道灌は、突然の雨に降られてしまう。
小屋を見付けて戸を叩くと、現れたのは一人の少女だった。
道灌は蓑を貸してほしいと少女に頼む。
すると、少女が道灌に渡したのは蓑ではなく山吹の花だった。

 七重八重花は咲けども山吹のみの一つだに無きぞ悲しき

少女は道灌に対してそんな歌を詠む。
呆気に取られる道灌。
蓑を貸して欲しいと言ったのに、出てきたのは山吹とは何事か。
少女の不親切さに怒った道灌は、その場を後にしたという。

ところが、道灌は後日この行為に恥じ入ることになる。
少女が詠んだのは兼明新王の古歌だった。
「山吹のみの」の「みの」は「蓑」に置き換えられる。
つまり、貧しいがために蓑がありませんと少女は伝えたかったのだ。

道灌は己の教養のなさを恥じ入った。
少女は決して不親切なわけではない。
教養ある慎み深い人物だったのだ。
以来、道灌は和歌に打ち込むようになったと伝わる。

太田道灌と少女が出会った場所を「山吹の里」という。
それが高田馬場にあったとされる。
ゆえに、面影橋の袂に「山吹の里」と刻された石造物が建っている。

この太田道灌のエピソードは後世の創作の可能性が高い。
でも、広く知られる逸話で広く親しまれてきた。

山吹の里の比定地は、
高田馬場のほかに埼玉県越生町がある。
前者は石造物のみだが、後者はちょっとした観光地になっている。

比較的大きな標柱が建ち、
その奥には水車小屋が設置されている。
戸を叩けば、まるで道灌が出会った少女「紅皿」が出てくるような雰囲気。

すぐ裏は小山が横たわっている。
頂上まで登れば越生町を眺望することができる。
この景観を眺めながら、太田道灌に想いを馳せた人は少なくないかもしれない。
雨の降る日に訪れれば、さらに情緒感が増すだろう。

ところで、この逸話では何かと道灌にスポットが当てられがちだが、
少女の対応は果たして適切だったろうか。
「蓑を貸して」と言った相手に古歌で返す。
わかる人にはわかる。
そうでない人にはチンプンカンプンだ。

「あいにく蓑はございません」とひと言言えば、
いらぬ怒りを買わずに済んだわけである。
もしこれが窓口業務ならば、
誰もがわかりやすい言葉で説明するよう上司から指導が入るところだろう。

ところが、少女が古歌で返答したから広く知られる逸話になった。
もしも普通に返事をしていたならば、
語り継がれることはなかったはずだ。
何でもない1日として忘れ去られていた。
これが逸話のジレンマというものだろう。
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“羽生の魅力体験ツアー”でお待ちしています

2018年10月11日 | ふるさと歴史探訪の部屋
10月28日(日)に、
羽生市内において「羽生の魅力体験ツアー」が開催されます。

何をするかと言うと、藍染体験、まち歩き、冷汁作りなど、
羽生にゆかりの深いものを体験したり感じたり、味わったりする内容です。
「羽生」を満喫する1日と言ってもいいでしょう。

実は、「まち歩き」では私高鳥が担当させていただきます。
昨年度も「はにゅはにゅ日和」というタイトルで同様の企画を実施しましたが、
今回は町から川俣方面へ歩いていく予定です。

昨年度の様子は、平成30年10月号の市広報に参考資料として写真掲載されています。
私もちょこっと写っていますが、おわかりになりますでしょうか(計2枚)。
この体験ツアーの概要は以下のとおりです。

<羽生の魅力体験ツアー>
日時:10月28日(日)8時30分~16時(予定)※少雨決行
集合場所:羽生市民プラザ(羽生市中央3丁目7-5) 1階ロビー
内容
 ①藍染体験
 ②まち歩き(歴史散策 距離は約7km、約2時間)
 ③冷汁作り体験
定員:30名(先着順)
費用:1000円(当日集金)
持ち物:エプロン(汚れてもよい服、歩きやすいクツ)
申込:10月22日(月)までにキャラクター推進室まで(048-560-3119)

羽生市ホームページ内をご参照ください。
http://www.city.hanyu.lg.jp/docs/2017092600016/

まち歩きをするのは、10時半くらいからでしょうか。
口下手を自覚しながらも、
昨年度は羽生のおもしろいところをたくさん紹介させていただきました。
今回も、「羽生の魅力」として参加者の心に少しでも残るものがあればと思います。
ご参加される方、お会いできるのを楽しみにしています。

※最初の写真は川俣地区を流れる利根川と東武鉄道の鉄橋
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秋の羽生にて ―金木犀―

2018年10月08日 | はにゅう萌え
金木犀の花の香りが好きです。
そこはかとなく香ると秋の到来を感じます。

しかし、2018年は台風の影響であっという間に散ってしまいました。
平成最後の秋だったのに、
花散らしの台風となり、とても残念です。

ところで、埼玉県羽生市では、「モクセイ」が市の木に制定されています。
羽生市の条例で市の木が定められたのは昭和54年11月2日のこと。
(市の花は「フジ」です)
誰がどのようにして決めたのでしょう?

実は、「モクセイ」を市の木に決めたのは市民のほかなりません。
昭和54年2月号の「お知らせ版」号外で、市の木の候補を発表。
そこに挙げられたのは5つでした。

 マツ
 サザンカ
 ツゲ
 シイ
 モクセイ

この中から市の木を選ぶとしたらどれがよいでしょう? と市民に投げかけたわけです。
市民はこれぞと思う木を選び、ハガキで投票。
その投票率は定かではありませんが、
おそらくたくさんの投票があったと思いましょう。

結果が発表されたのは、同年9月号の市広報です。
市の木がモクセイ、花がフジに決定。
そして、同年11月の条例で改めて制定されたのでした。

もしも、当時の市民が「マツ」がよいと思えば、
全く別の結果になっていたことになります。
現在、羽生市役所をはじめとする公共施設には金木犀の木が植樹されていますが、
これが松に替わっていたはずです。

かくして、モクセイは羽生市民に親しまれる木になりました。
ちなみに、5つの候補を選んだのは、
羽生市民憲章等制定委員会の面々です。
マツやシイは市指定天然記念物の木が市内に立っているので頷けますが、
どうしてモクセイが候補に挙がったのかは謎です。
それを選んだ市民も何が決め手だったのか……。
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石室が遺されている可能性のある古墳は? ―大塚山古墳―

2018年10月05日 | 考古の部屋
10年くらい前、同級生の姉と会う機会がしばしばあった。
絵描きや元自衛官たちと一緒に飲み会。
その人は埼玉に住んでいたが、
縁あって群馬県の板倉町に移り住んだ。

元自衛官と一緒に、その人の家を訪れたことがある。
たった一度だけのことで、具体的な場所はわからない。
その人とはしばらく会っていないし、
元自衛官も広島へ嫁いでしまった。

同級生の姉が住む家の風景はぼんやり覚えている。
でも、それはどこなのだろう。
ある歴史的な特徴を持っていたから、もう一度目にしたいと思う。

ところで、高鳥天満宮のやや南西側に“大塚山古墳”が佇んでいる。
7世紀頃の築造と推定されている。

墳丘の上には石祠が佇んでおり、
宗教施設だから消滅せずに現存しているのだろう。
直径7メートル、高さ約2.5メートル。
出土遺物は全くないという。
傍らに建つ文化財説明板は次のように記す。

 この大塚山古墳は出土品が全くなく、発掘に関する伝承もないため、
 完全な形で石室が遺されている可能性があります。

大塚山古墳は道路沿いに位置しているが見付けにくい。
表示看板が建っているからそれが目印。

同級生の姉と会っていた頃、
城のことは話しても古墳の話題は出なかった。
時代の流れが早い現代のこと、10年前は「大昔」になる。

古墳は変わらず佇んでいても、
我々は変化を余儀なくされる。
姉の子どもはもう見分けがつかないほど大きくなったのだろう。

板倉と古墳。
歳月と共に記憶が蓄積されて、
古墳のように物言わず佇んでいる。

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“清水卯三郎”の展示が開催されている?

2018年10月02日 | ふるさと人物部屋
埼玉県立歴史と民俗の博物館において、
人物展示「文明開化の先駆者 清水卯三郎」が開催されている。

常設展の近現代の一角に展示されたもの(第9室)。
埼玉県立文書館との共催で、
卯三郎の直筆の手紙や、主宰した「かなしんぶん」などが展示されている。

清水卯三郎とは何者なのか?
同館の紹介文には次のように記されている。

清水卯三郎は、羽生に生まれ、幕末維新期に貿易・出版・かな文字普及などに
  幅広く活躍した実業家です。

マルチに活躍したので、その肩書きが難しい。
商人、実業家、文化人と言えばいいだろうか。
渋沢栄一らとパリ万博へ行ったことでも知られる。

卯三郎は商人という立場でありながら、
文化面で日本の近代化に尽力したと言っていい。
渋沢栄一の知名度には遠く及ばないが、
その功績は特筆すべきものが多々ある。

今回、県博で取り上げられたのも、
卯三郎が重要視されているからだろう(と思いたい)。
2018年が、明治から150年にあたる記念年ということもあるかもしれない。

人物展示「文明開化の先駆者 清水卯三郎」は、
10月21日(日)までの開催。

ちなみに、清水卯三郎をモデルにした小説を書いたことがある。
タイトルは「追想の花火 ―清水卯三郎伝―」。
埼玉県教育委員会が発行する「文芸埼玉」97号に掲載されているので、
興味のある方は参考までにご笑覧ください
(http://www.saitama-bungakukan.org/?page_id=107)。
なお、人物史ではなく小説であることを予めご了承ください。
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高鳥天満宮のそばに佇む古墳は? ―稲荷神社古墳-

2018年09月30日 | 考古の部屋
肘曲池からほど近いところにある稲荷神社古墳(群馬県板倉町)。
稲荷神社が鎮座しているからその名が付いたのだろう。

昭和62年の調査によって円墳であることが確認されたという。
石室の床面に使用されていたのは、榛名山二ツ岳の安山岩(河原石)。

筑波山神社古墳や渕ノ上古墳などの谷田川沿いで使用されている。
稲荷神社古墳から北に歩けばすぐに谷田川にぶつかる。
ちなみに、河原石は板倉町文化財資料館で目にすることができる。

築造年代は6世紀後半頃と推定される稲荷神社古墳。
東に行けば高鳥天満宮が鎮座し、
南に行けば大塚山古墳がある。
住宅に囲まれているから見付けにくいかもしれない。

古墳も姿をだいぶ変えている。
標柱と文化財説明板が建っていなければ、古墳とは気付かないかもしれない。

墳丘に鎮座する稲荷神社は、
本堂は小さいが一の鳥居がやけに立派。
朱塗りされ、ひときわ存在感を際立たせている。

境内にいるとき車が一台通り過ぎた。
運転席に座っていたのは、しばらく会っていない知人に見えたのだが、
気のせいだろうか。

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9月28日付の「東京新聞」にて

2018年09月28日 | クニ部屋の本棚
9月28日付の「東京新聞」に、
拙著『古利根川奇譚』出版のことが掲載されました。
取材を受けたのは少し前のことで全く予想しておらず、
意表を突かれました。

記事を書いたのは中西公一記者。
今年の夏、羽生市の住民が
食虫植物ムジナモの種子発芽に成功したことを大きく取り上げていただいた記者です。
貴重な紙面を割いていただき、ありがとうございます。

郷土史に興味を持ったのは古利根川がきっかけです。
いつか利根川に関する本を書きたいと思っていました。

そんな想いがずっと胸の中にあったので、
「古利根川」と「高鳥邦仁」の文字が紙面に一緒に載っているのは、
とても嬉しく、面映ゆくもあります。

「郷土史なんて調べて何になるの?」とか、
「郷土の歴史なんて、地味で古くて年寄じみている。文章を書くのにそんなものを題材にしなくてもいいんじゃない?」などと、
20歳過ぎのときに言われたものです。

そうなのかも……と、同意する気持ちがあったことも確かです。
しかし、それを上回る好奇心が「諦め」を遠くに押し流しました。

好きな気持ちは止められません。
もし、20歳過ぎの自分にこの紙面を見せたら自信が持てるかな……と思います。
当時、自信など全くなかったので……。

新聞の記事を読んで、拙著に興味を持ってもらえればとても嬉しいです。
さらに、知られざる郷土の歴史に目を向けるきっかけとなれば幸甚です。

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彼岸花に彩られる日高市にて ―巾着田の曼珠沙華の里―

2018年09月25日 | 歴史さんぽ部屋
埼玉県日高市の彼岸花が見頃を迎えている。
赤いじゅうたんを敷き詰めたような無数の彼岸花が目を楽しませてくれる。

「じゅうたん」と言うにはやや背が高い。
幼子よりも少し高いだろうか。

彼岸花はどうしてこのようなデザインになったのだろう。
なぜ色が赤になったのか。
もしも真っ黒な花だったならば、
多くの観光客を集めることはなかったのかも……。

曼珠沙華こと彼岸花は、
その名前と色のせいで不吉に感じる人もいる。
好み云々ではなく、喚起されるイメージで遠ざけるのだ。

でも、逆に言うと神秘性を感じる花でもある。
彼岸花に彩られた墓地の光景など、
僕はかえって物語の一幕にありそうな気がして心惹かれる。
そう、花に罪はない。

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秋の羽生にて ―早生田堀の彼岸花―

2018年09月23日 | はにゅう萌え
岩瀬公民館の前、
あるいは羽生市立岩瀬小学校の裏と言えばいいのでしょうか。
小さな排水路が流れています。

戦中、早稲田大学の学生がその堀を掘ったので、
早生田堀(早稲田堀/わせだぼり)と呼ばれています。

食糧増産のため、政府が奨励した土地改良工事の一環で、
昭和19年に早稲田大学の学生100名が来羽。
大雪が降る中で作業し、学生たちは8日かけて堀を掘削したそうです。

その堀はいまも岩瀬を流れています。
2018年秋、堀沿いに咲く彼岸花を見付けました。

彼岸花を花言葉は「情熱」や「あきらめ」、
「再会」「転生」や「思うはあなた一人」などがあります。

現在、岩瀬地区は開発が目覚ましく、
早生田堀のそばには新しく羽生病院が建ちました。
国道沿いにはお店が次々にでき、
田んぼの中を道が一本通っていた景観は新興住宅に変わっています。

そんな時代の移り変わりは、
戦中の記憶をどんどん遠ざけているかのようです。
やがて早生田堀も、新しい時代の中に埋もれてしまうのかもしれません。

平成最後の秋。
水が静かに流れる早生田堀は、
もの言わぬ彼岸花に彩られています。

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本庄の定期演奏会にて

2018年09月20日 | ウラ部屋
9月17日、“早稲田大学本庄高等学院”の定期演奏会が
埼玉県本庄市において開催されました。

会場は本庄市民文化会館。
この施設は女堀川沿いに建ち、
本庄駅から歩いて15分程度といったところでしょうか。

22年前、この文化会館を訪れたのも演奏会がきっかけです。
高校とは関係ありません。
ある吹奏楽団に所属する同級生の恩師が出演するというので、
一緒に出掛けたのです。

羽生駅から秩父線に乗り、熊谷駅で高崎線に乗り換え。
本庄駅から文化会館まで歩いていきました。

22年前の秋のことですが、
この日のことは不思議と印象深く覚えています。
と言っても、何か事件があったわけではなく、
電車に乗って吹奏楽団の演奏会を聴きに行った、というだけのことです。

その日のことが記憶に残っているのは、
色々なものが壊れそうだったからかもしれません。

いま目にしている風景がもうすぐ終わってしまう。
隣を歩いている同級生も、多分あと少しでいなくなってしまう。
僕自身もどこか別のところへ行かざるを得ない。
そんな終わりの予感に似た胸騒ぎと不安を抱えての本庄でした。

駅から文化会館までの道のりが少し遠くに感じられたのは、
同級生の口数が少なかったからかもしれません。
駅から続く1本道を歩き、「るーぱん」の前を通り過ぎます。

やがてぶつかるのは女堀川。
川幅は狭く、流れも速くはありませんが、川面までが深い川です。
橋を渡り、舗装されていない川沿いの道を歩きました。

22年前の記憶で最も残っているのは、この川沿いの道です。
駅前の開発された土地を歩いてきた目に、
女堀川とその土手上の道は、世界が変わったように見えたからでしょう。
川から文化会館まではほんのわずかな距離ですが、
その道を通ったことだけはよく覚えています。

ところで、同級生にとっては「恩師」でも、僕には「他者」でしかありません。
その日の演奏も、同級生と僕とは違って聴こえたと思います。
その視線も恩師にあったでしょうか。

コトバに対して人一倍感受性が強かった同級生。
いつも丁寧語で話し、映像が浮かぶ歌詞の曲が好きと言ったことがあります。
吹奏楽団の演奏には「歌詞」がありません。
でも、同級生には演奏がコトバとして聞こえ、
物語のような映像を思い浮かべている気がしました。

演奏会が終わったのは5時か6時頃だったでしょうか。
川沿いの道を再び歩き、「るーぱん」に寄り道。
隣を歩いても、「るーぱん」でテーブルを挟んでも、
同級生がどこか遠くに見えたのを記憶しています。
そして店を出て本庄駅まで歩くと、
高崎線の上り電車に乗り、本庄をあとにしたのです。

いま、22年の歳月を経て文化会館を目にしても、
とりわけ懐かしさがこみ上げてくることはありません。
1980年に開館したという文化会館。
銅鏡やハニワが施されたロビー壁面のレリーフは当時のままのはずです。
でも、それらも初めて目にするかのよう………。

「るーぱん」も変わらず建っていました。
22年ぶりに来店。
しかし、特に懐かしさはありませんでした。
22年前、どこの席に座ったのか記憶になく、
むろん店員さんも変わっているでしょう。

本庄駅、女堀川、川沿いの道……。
記憶に残る風景とあまり変わらないように感じますが、
感傷じみた想いに駆られないのは、
開発の波が町の空気を変えたからでしょうか。
それとも、何かが壊れそうな予感に駆られていたあの頃の感受性が、
すでに失われているからなのかもしれません。

22年ぶりに文化会館の椅子に座り、高校生たちの演奏を聴きます。
当時はまだ生まれてもいなかった子たちです。
同級生と来たのがついこの間のようなのに、
1人の人間が成人するだけの歳月が流れたことに、ぼんやりとした痛みを感じます。

演奏会には卒業生もたくさん聴きに来ていたようです。
かつての部活仲間とおぼしきグループをいくつか見かけました。

僕もそんな風に、誰かと一緒に来ることがあったかもしれない。
そんなふうに思うことがあります。
実は、ほんの少しだけ吹奏楽部に籍を置いたことがあったからです。

担当していたのはチューバ。
もしあのままチューバを吹き続けていたら、
いまでも連絡を取り合う吹奏楽部員がいたかもしれない。
たまに音を出すこともあったかも。
ちょうど吹奏楽部員だった妻が、そんな「その後」を送っているように。

もう一つの生き方を想像しても、後悔するわけではありません。
部活を辞めようと続けようと、おそらく結末は似たものでしょう。
演奏を聴きに同級生と本庄へ足を運んだでしょうし、
色々なものが壊れては、
また新しいものが創られていくという歳月を送ったはずです。

2018年9月17日に開かれた早稲田大学本庄高等学院の定期演奏会。
平成最後の秋は、
顧問の先生の最後の定期演奏会でもあったそうです。
30年以上指揮を執ってきたということですから、
僕らが高校生だった頃も指導をしていたことになります。
会場には1997年卒の同窓生もいたでしょうか。

始まりがあれば終わりがある。
終わりがあれば何かが始まる。
その繰り返しです。
22年前も、いま現在も。
改めてそう感じます。

戦国時代に存在した本庄城よりも、
22年前の方が遠くに感じるのはなぜでしょう。
終わりと始まり。
わかっているつもりでも、
そこに伴う寂しさは未だ慣れることがありません。
たぶん、これからも。





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2人の住職と……

2018年09月17日 | クニ部屋の本棚
2人の住職に会いました。
拙著『古利根川奇譚』のお祝い会ということで、
駅近くのイタリアンなお店でグラスを重ねました。

「住職」と言っても、昔ばなしに出てくるようなおじいちゃんではありません。
僕のひと回り上と、いくつか年下の住職です。
寺院名を出したいところですが、
許可をもらっていないので自粛。

ちょっとしたきっかけで出会った縁でした。
羽生城がつなげてくれた縁と言ってもいいかもしれません。
お付き合いをしてまだ10年も経っていませんが、
古くから知っているような感覚がします。

お店ではおいしい料理がテーブルを彩り、
ほかに置いてあることの少ない飲み物で乾杯。
ファンが多いお店です。
僕たち以外の客で店内は賑わっていました。

実を言うと、ここ最近心が情緒不安定になっていました。
ちょっとしたことが心に引っかかり、
普段ならば右から左へ受け流すのが、そうできなくなっていました。

ナイーブなときは、否定的な気持ちになってしまうものです。
他者や周囲を否定するのではなく、対象は自分自身。
元々ない自信がさらに失われ、切ない気持ちになることが多くありました。
忘れかけていた記憶なんかも蘇ってきて……。

そんなときに顔を合わせた2人の住職でした。
前向きな気持ちになれた気がします。
そんなことを気にしなくてもいい、と言ってくれたようにも感じます。

人との縁とはそういうものなのかもしれません。
心あたたかいお祝い会を開いて下さったお2人のご住職に感謝します。

なお、店内で拙著にサインを書きました。
ある書店にも僕のサインが飾られているのですが、
小学生のときに真面目に習字を習っておけばよかったと、
いまさらながら後悔しています。
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ちょっと変わった形の古墳は? ―宮塚古墳―

2018年09月13日 | 考古の部屋
熊谷市にちょっと変わった形をした古墳がある。
それは“宮塚古墳”。

古墳というと、「前方後円墳」や「円墳」などの用語が出てくる。
でも、宮塚古墳の形状は「上円下方墳」と表記される。

それはどんな形なのか?
文字の通り、上が円形で下が方形というもの。
すなわち、方形に盛られた土の上に、円形の墳丘が築造されているのだ。

全体の高さは4.15メートル。
「上円」は東西10メートル、南北8.5メートルと楕円形となっている。

円形の墳丘の上には小さな石祠が祀られている。
ゆえに破壊を免れたのだろう。
この円形部に積み上げられた河原石がいまも目にすることができる。
これは、後世に積み上げられた可能性があるという。

現在、宮塚古墳は国指定の史跡。
指定されたのは昭和31年5月15日のこと。
ちなみに、宮塚古墳は7世紀以降の築造と考えられている。

この宮塚古墳を含む一帯の古墳群は「広瀬古墳群」と呼ばれ、
周辺に現存する円墳に気付く。
中には、削り取られたとおぼしき古墳もある。

往古はもっとたくさん古墳があったらしい。
熊谷商業高校の校庭内で石室が発見され、
蕨手刀が出土したという。

宮塚古墳のすぐ北側には上越新幹線が通っている。
南側には国道140号。
新幹線や車が通り過ぎる場所となっており、
古墳周辺に広がる田畑ののどかさを深める。

ちなみに、地元では宮塚古墳を“お供え塚”と呼んできたという。
ほかにも、山王塚や山王宮塚、天道塚の呼称があり、
この場所が聖域として親しまれてきたことをうかがわせる。




周辺の古墳


周辺の古墳


削り取られたとおぼしき古墳
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9月8日の埼玉新聞にて

2018年09月08日 | クニ部屋の本棚
9月8日付の「埼玉新聞」で、
『古利根川奇譚』(まつやま書房)が紹介されました。

記事を書いたのは、江利川義雄記者。
「埼玉新聞」は過去に少し携わったことがあり、愛着のある新聞です。
貴重な紙面を割いていただき、ありがとうございます。

自分の顔が初めて新聞に掲載されたのも、
10年前の「埼玉新聞」でした。
今回も、大変恐縮ながら39歳の自分を掲載してもらったわけですが、
10年前に比べるとその歳月が流れているのを感じます。

29歳と39歳。
毎日自分の顔を鏡で見ていても、変化はわからないものです。
久しぶりに29歳のときに掲載してもらった自分を見たくなりました。
が、懐かしく思うか、がっかりするかはわかりませんね。
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書店の平台にて

2018年09月07日 | クニ部屋の本棚
拙著『古利根川奇譚』(まつやま書房)が、
書店の平台に並んでいるのを目にしました。

羽生のショッピングセンター内にある書店。
元上司から情報を得てその書店に足へ運んだら、
想像した以上のスペースをとってもらっていました。

平台は激戦区です。
かつて書店営業をしていた頃、
それは身に染みて感じたことでした。
平台はその書店の個性が現れる場所でもあります。
だから、平台に置いてもらえるありがたさはよくわかっているつもりです。
多謝です。

18歳のとき、自分の本が平台に積まれている光景を夢見たのを覚えています。
それを手にする人の姿も……。
いま思えば、十代のかわいい夢の一つだった気がします。

20代の頃、自分が手がけた本(参考書)が平台に並んだことがあります。
自分が編集に携わった本が、
ワゴンに積まれて売られているのを目にしたこともありました。

そのときどきに嬉しかったのですが、
自著となると感じ方が違いますね。
嬉しさと、気恥ずかしさと、緊張が入り交ざります。
自分の子どもがピアノ発表会や学芸会に出演する姿を見るときも、
これに似た感情になるのでしょうか。

前著『歴史周訪ヒストリア』のときもそうでした。
平台は一つのステージのようです。
ゆえに、交代も激しいもの。
長期間、平台に置かれるわけではないでしょう。
だから、平台の光景は目に焼き付けておきたいものですね。
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