クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

川の氾濫で“古墳”が消えた? ―真名板・酒巻・小松―

2011年08月31日 | 利根川・荒川の部屋
北埼玉には、地中に埋もれた古墳がある。
行田市の真名板古墳と酒巻古墳群、
羽生市の小松埋没古墳である。

なぜ埋没しているのかというと、
利根川の氾濫による土砂の堆積と、
関東造盆地運動と言われる沈降によるものと考えられている。

小松埋没古墳は、完全に埋没しており、
その形態が前方後円墳なのか円墳なのかもわかっていない。
石室は地表から1.2メートルのところにあり、
床面までは3メートルという深さだった。

土砂と沈降によって、古墳がまるごと埋まるのだろうか?
埋まる。
1回だけならともかく、
何度も水をかぶっていれば古墳など埋まってしまう。

金山町での災害救助支援で、
土砂を土嚢に詰めながらそう思った。
土砂の堆積と地面の沈降によって、
小松や酒巻に林立していた古墳群は、
地中にその姿を消したのだろう。

真名板高山古墳はいまでもそびえ立っているものの、
かつては120以上メートルもの巨大な古墳であり、
周囲には深さ2メートルもの二重堀が張り巡らされたのである。

このような古墳を埋めてしまう力が川にはある。
川は破壊者でもあり、恵みをもたらすものでもあった。
その川を制する者は、土地をも制することが可能となる。
真名板高山古墳の被葬者は利根川の水運と無関係ではなく、
それによる経済力と外交力があったと指摘されている(※)

川は、人々の生活と密接に結びついていた。
小松村の隣に位置する砂山村は、
川の氾濫によって荒れ地だったのだろう。
『新編武蔵風土記稿』によると、文禄年間に開墾が始まったという。

川は恐怖である。
しかし、幸でもある。
まるで神のような存在ではないか。

酒巻、小松、真名板の古墳たちは、
そんな川の水を何度もかぶったのだろう。
そして地中深くに眠ることとなった。

いまも地中に姿を消している古墳は間違いなくある。
そこに眠っているものは何だろう。
川の記憶か、それとも……

※参照文献
塚田良道、中島洋一「真名板高山古墳の再検討」
(「行田市郷土博物館研究報告」第4集、1997)


真名板高山古墳(埼玉県行田市)


酒巻古墳群(同上)


小松埋没古墳(同県羽生市)

※最初の画像は利根川の旧河道跡(埼玉県羽生市)
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災害のあとに奉納された“河川改修奉納絵馬”とは?

2011年08月30日 | 利根川・荒川の部屋
往古において、大雨による土手の決壊など、
その改修工事は多くの地元の人々だった。
手伝い普請で、遠国から大名が派遣されて工事をするものの、
重機のない往古は人手が必要だ。
そこで、男女問わず、村の人々が工事に携わったのである。

利根川流域には、その“改修図奉納絵馬”が神社に現存している。
大久根茂氏の調査によると、
埼玉県では10点の河川改修奉納絵馬があり、
その数は他県にはものだという(※)。

その一つが羽生市の新郷地区にある。
利根川の堤防を修復している絵図で、
作業をしているたくさんの人の姿を見ることができる。

この絵馬が奉納されたのは明治24年。
前年8月23日に大雨で堤防が決壊し、
その改修工事を描いたものである。

工事に男も女も関係ない。
明治23年の改修工事にも多くの女性が参加したらしく、
ドハ打ちをしている女性が描かれている。
おそらく歌を唄いながらドハ打ちをしていたのだろう。
絵馬からは、力強い男たちのかけ声と、
女たちの歌がいまにも聞こえてきそうである。

ちなみに、この「利根川堤防工事絵馬」は色がだいぶ剥落している。
それには笑えない話があるのだが、
ここに記すことでもあるまい。

絵馬の墨書によると、村人が力を合わせて河川改修工事を行い、
そのことを後世に伝えるために奉納したという。
工事は秋口に始まり、翌年の初夏に竣工した。

季節が変わっても続けられたその工事に、
人々の想いも強くなっていったのだろう。
竣工のあとも、人々の心に残っていたに違いない。
そんな想いが絵馬にはこめられていると言えよう。

むろん、新郷の絵馬だけではない。
他地域の絵馬も、それぞれ村人たちの熱い想いが込められている。
それは災害の記憶のみならず、
力を合わせて災害を乗り越えた人々の記憶でもある。

※参考文献
大久根茂「絵馬に描かれた河川改修」(「利根川文化研究」第31号、2008.9)


記事とは関係ないが新郷駅(埼玉県羽生市)
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寛保2年の“水害”でやってきた西国の藩は?

2011年08月29日 | 利根川・荒川の部屋
利根川流域の北埼玉の地域は、たびたび水害に見舞われていた。
いまでこそ、そびえ立つ堤防に守られ、
利根大堰ができたことによって、その下流の水位は下がり、
水害の記憶は薄れつつあるが、決して忘れてはならない。

羽生市内も利根川の堤防が切れ、
しばしば洪水に見舞われていた。
「カエルの小便で洪水になる」と言われるくらい、
板東太郎はたちまち暴れ川になったのだろう。

例えば、寛政3年(1791)8月7日に下村君で堤防が決壊。
民家5、60軒を押し流し、男女4人が死亡した。
堤村でも20軒と4人が流され、
延命寺は床下浸水したという記録が生々しく残っている。

被災した村々は、必ず復興する。
災害に屈しない精神は、
はるか昔から脈々と受け継がれている。

現在、被災した地域へ全国のボランティアが集まっているが、
往古においては、東国が被災すれば、
西国の大名にその復旧工事が幕府から命じられた。

川俣関所をも押し流した寛保2年(1742)の水害では、
毛利藩が利根川の堤修理の復旧工事にあたっている。

東国に上がってきたのは1700人。
惣奉行に毛利筑後、川奉行に清水長左衛門がなり、
その他もろもろの役に、590人以上もの人物が就いた。

寛保2年11月29日に工事を開始。
この工事に携わった人夫の数は16万にも及んだ。

東西約200里、南北90里にわたる大工事である。
費用は3万7千両以上もかかり、
工事に使用する材料も多く使われた。
若い男子に限らず、女や子ども、老人にいたるまでも工事に携わった。
その分、人や物が行き交い、
経済な影響も少なくなかっただろう。

ちなみに、西国から来た役人たちは、日帰りで戻るわけにはいかない。
当然、どこかに泊まる必要がある。
そのとき、忍領上新郷村の家々に分宿していた。

上新郷は日光脇往還の通る宿場町である。
惣奉行の毛利筑後は法性寺、
川奉行の清水長左衛門は伝六という家に宿泊した。

西国の多くの人たちが分宿したことによって、
上新郷村に新たな情報や文化がもたらされたことは想像に難くない。
中には、村の娘と恋に落ちた役人もいたかもしれない。
工事が終わって、そのまま西国に戻らなかった者も、
おそらく皆無ではないだろう。

そんな寛保2年の復旧工事は、
翌年の3月28日に落成した。
人と人とが助け合い、成し遂げた工事だった。

復旧工事が終われば、再び西国に戻らなければならない。
別れを惜しみ、北武蔵を去った者もいただろう。
一緒に西国へついていった者もいたかもしれない。
そこにはさまざまなドラマがあったはずである。
そんな歴史を湛える利根川は、
穏やかに流れている。



宿場町だった上新郷(埼玉県羽生市)



鷲宮神社の境内に建つ寛保治水碑(同県久喜市)


利根川


利根川の洪水(2007年撮影)
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金山と羽生の関係は“戦国武将”がきっかけ?

2011年08月28日 | 近現代の歴史部屋
昭和57年に羽生市と福島県金山町は友好都市となった。
なぜ、この2つの地域が結びついたのだろう。
実は、4百年以上前に生きた戦国武将が関係している。

金山町にはかつて“横田城”という山城があった。
その城を守っていたのは、山ノ内横田氏という一族だった。
鎌倉幕府に仕え、奥州藤原征伐の功績により土地を与えられ、
城を築いたのは応永10年(1403)だったという。

やがて世は戦国乱世となる。
その群雄割拠の時代に、東北で一人の英雄が生まれた。
それは“伊達政宗”である。

野心に燃える伊達政宗は、領土拡大を図る。
その中に横田城があった。
当時の城主の名は“氏勝”。
氏勝は勇将だったらしい。

蘆名氏の守る黒川城が政宗によって落城したものの、
横田氏は徹底抗戦の構えを崩さなかったのである。
鉄砲を撃ち、大石を落として敵兵蹴散らした。

しかし、奮戦したものの思わぬところで決着がつく。
それは、豊臣秀吉の天下統一だ。
さすがの政宗も時流に抗うことはせず、
やや遅れて秀吉に下った。

秀吉は政宗を厳しく咎めることはなかったものの、
切り取った会津の所領は没収となる。
そして“蒲生氏郷”に与えられたのだった。
これにより、氏勝は横田城を取り上げられ、
一族が長年営んできた領地から去らざるを得なくなる。

かくして流浪の身となった横田氏だが、
武蔵国に移ってきたのは寛永11年(1634)のことである。
武蔵国の榎戸村に居を構え、連綿と命を繋いだ。
そして、横田家当主が榎戸村から羽生に居を移し、
いまもその子孫が住んでいる。
横田家では代々横田城の城主であったことが語り継がれていた。

ある年、実際に会津へ足を運んでみたところ、
只見線の電車の中で地元の歴史に詳しい高校教師と偶然に会い、
止まった時間が流れ始めることとなる。

その流れはどんどん加速していった。
昭和48年10月、当時の羽生町長や郷土史家が金山町に行き、
氏勝を偲ぶ墓前祭に参加。
郷土史家江原春明は次のように述べている。

 おもえば氏勝公が横田を立って越後に向かったのは天正十八年十月二日。
 丸山氏が解決の糸口を得たのも、このたびの顕彰会が催されたのも、いずれも十月、
 偶然とはいいながら、何か人の世の不思議な結びつきを感じないではいられない
(加藤勉『横田家の人びと』より)

昭和53年4月には、
吹上町文化財保護委員の加藤勉氏によって『横田家の人びと』が出版された。
そして、横田氏との縁がきっかけとなり、
同57年に金山町と羽生市は友好都市が締結されたのである。

“縁”は、現在だけにつながるものではない。
金山町と羽生市の友好都市は、
四百年以上も昔の縁がつないだと言えよう。

いま我々が何気なく会っている人や、親しい人は、
もしかしたらずっと昔からの縁で繋がっているかもしれない。
落語などでは、「因縁」の言葉を使っているが、
何かが巡り巡っていまがあると考えることもできよう。

横田氏勝がこの縁を見たらどう思うだろうか。
歴史は決して断絶されるものではなく、
連綿とつながっているということを教えている。


越川駅(福島県金山町)






豪雪地帯の金山町にある簑傘
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大雨に見まわれた福島県金山町はどういう状態?(2) ―羽生の救助支援―

2011年08月27日 | 近現代の歴史部屋
金山町災害ボランティアセンターに駆けつけた人は多かった。
全国各地から来たのだろう。
実際に会った人で、山口県から飛んでいたという人もいた。

国も年齢も職業も関係ない。
ともに心を一つにする同志である。
初めて会う人なのに、
最初から「他人」の垣根は取り払われている気がした。

確かにいろいろな人がいた。
若いイケメン男子や、髪の長い女の子。
すでに定年退職をしている父親と、
学生の息子と二人で来たという親子連れ。
外国人や異国人のような風貌をした人など、
ぼくらが来る前にも多くの人たちが集まったのだろう。

ところで、救助支援活動というのは、
人助けの一方で、自分自身を向き合う機会でもあるかもしれない。
災害の被害の大きい現場や被災者、
駆けつけたボランティアの人たちに接している中で、
いろいろと考えさせられることが多かった。

そこには初めて出会う自分もいる。
そんな己がいたのかと驚く反面、
認めなければならない自身もいたりして……

相手の立場や気持ち、自分のしている行為や感じること。
また、地域や国のこと、これからのことなどが、
あれこれと頭の中をよぎっていく。
救助に駆けつけた人たちの胸中には、
どんな思いや感情があるのだろう。

みな泥だらけになって作業をしていた。
苦しそうに土砂を運ぶおじさんも、
果敢にスコップを振るう。
民宿に泊まり、何日も活動をしているという。

個人の力は小さなものかもしれない。
しかし、人が集まれば大きな力になる。

金山町はいつか必ず復興する。
豊かな自然に囲まれたこの町は、
その美しさを取り戻すだろう。


福島県金山町












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大雨に見まわれた福島県金山町はどういう状態?(1) ―羽生の救助支援―

2011年08月26日 | 近現代の歴史部屋
福島県金山町は大雨による災害に見舞われた。
金山町と羽生市は友好都市である。
災害救助支援に向かうべく、朝5時30分に出発した。

メンバーはぼくを入れて6名。
後日また、別のメンバーが次々と現場へ向かうことになっている。
この支援活動は8月12日付の「埼玉新聞」にも報じられた。

現場はどんな状況について、
同紙の言葉を借りると以下の通りである。
「橋が流され、道路も崩落していて危険な状態。外見的には問題のない家でも柱が傾いたりしているので、町営住宅に避難している人も多い」

実際に現場へ行くと、確かにその通りだった。
崩れた橋が川の中に沈み、その一部分が見えている。

只見川は未だに茶色く濁り、
なぎ倒された木々や、流されてきたのであろう青いビニールシートが、
川からずっと高い木に引っかかっていた。

同日付の「埼玉新聞」に掲載された写真のような光景はさすがになかったが、
土砂に悩まされた家々はたくさんあった。
自分の背よりずっと高い水が来たらしい。
不幸中の幸いだったのは、
死者が一人もでなかったことだろう。

町は、多少の落ち着きを取り戻しているように見えたが、
災害の爪跡はあちこちに刻まされていた。

ぼくらの作業は、土砂を掻き出しそれを土嚢に詰めたり、
水に浸かった民家の床下に砂利を敷いたりする作業だった。
水を含んだ土砂はかなり重い。
それをスコップや鍬で掻き出すのだが、
すぐに息が上がってしまう。

土砂を詰めた土嚢をネコ(一輪車)で運ぶのも重労働で、
土嚢の積み下ろし、運搬という作業だ。
数回ならともかく、それを何十回と続けると、
全身は汗でびっしょりになる。
喉もカラカラだ。

作業日は、雨が降ったりやんだりしていたものの、
作業中は強い日差しが照りつけていた。
肌がジリジリ焼けるのがよくわかる。
立ちくらみに体がふらつくこともあった。

水を飲んではいけないと言われたひと昔の愚かな風習とは違い、
いまはこまめな休憩と水分補給をとる必要が医学的に証明されている。
愚かな少年野球時代を思い出しながら、
賢く何度も水分を摂った。

作業時間は、昼を入れて約6時間だ。
始まってしまえばあっという間かと思いきや、そうでもない。
でも、一緒に作業をしたおじさんや、
年老いたおばあちゃんから「ありがとう」の言葉を聞くと、
疲れも和らぐ気がするのは不思議なものである。

ぼくらの作業は一泊二日の日程だった。
二日目は、浸水した二階の畳や日常用品の運搬なども加わった。

被災者にならなければ、その気持ちはわからないのだろう。
よかれと思ってした行為が、
ときには押しつけがましくなることもあるのかもしれない。
短い日程だが、やれるだけのことを精一杯やることが誠意だと信じるしかない。

大正生まれだというおばあちゃんは家に一人だった。
土砂を土嚢に詰めるぼくらに「ありがたいねぇ」と言った。
その目に、今回の災害はどう映ったのだろう。
おばあちゃんは枝豆を差し出してくれた。
塩っけたっぷりの枝豆は、
火照った体にしみわたっていった。


かつて橋が架かっていた場所。
川底に橋の一部が沈んでいるのがわかる(福島県金山町)


豊かな自然に囲まれた山あいの町金山



※最初の画像は、茶色く濁った只見川(ただみがわ)
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ケンカのあとのラーメンはどんな味?Ⅱ ―ラーメン部―

2011年08月25日 | グルメ部屋
「もっとまじめにやりなさいよね!」

小さなラーメン屋で女の声が響く。
ぼくの席からは男の顔は見えないが、
背中がせわしなく動いている。

「まじめにやってるさ」
「どこがまじめなのよ! このままだと通知がひっきりなしにくるわ」

二人は夫婦なのかもしれない。
ケンカの原因はわからないが、
彼女は男の甲斐性のなさに怒っているらしい。

男は大きな音を立てて舌打ちした。
「うるせぇな。黙ってろよ」
「うるせぇなじゃないわよ! あんたがしっかりしなくてどうするのよ」

女は一歩も引き下がらない。
いつものことなのかもしれない。
しかし、今日こそケリをつけてやるという覚悟が体と言葉からにじみ出ている。

店内は緊迫した空気に包まれていた。
すると、男は急に立ち上がる。
「うるせぇよ! ちょっと待ってろ!」

吐き捨てるように言うと、
肩を怒らせて店を出ていってしまう。
何をしに行ったのかはわからない。
「そこまで言うなら何とかしてやる」という勢いだったが、
軽く見えたのは気のせいだったのだろうか。

店内には、ぼくと彼女の二人だけになる。
しかも、男が出ていってしまったから、
ひとつテーブルを挟んで彼女と向かい合う形になってしまう。

気まずい。
目のやりどころに困り、
ぼくは『サラリーマン金太郎』を読むふりをした。

そこに運ばれてきたのは注文の品だ。
彼女の前に置かれたのはラーメンとカツ丼。
男が注文したのはカツ丼だったのだろうか。
女は箸を手に取ると、ラーメンを食べ始める。

たぶん、まだ怒り心頭だったのだろう。
女はものすごい勢いでラーメンをすする。
店内にその音が響き渡った。
新しい客は来ないし、男も戻ってくる気配はない。

しばらくして、ぼくの注文したラーメンが運ばれてきた。
それに箸をつける頃、女はすでに食べ終わっていた。

女の勢いは止まらない。
そのままカツ丼に箸をつけたのである。

がっつくようにカツ丼を頬張る女。
見た目には大食いには見えない。
しかし、食べる勢いは止まらず、
しまいには丼を片手に持ってかきこんでいた。

興奮冷めやらないに違いない。
男は戻ってこないし、
外に出たのも逃げたのかもしれない。
そういうところが女の鼻についたのだろう。

ぼくがラーメンを食べ終わる頃、
女は丼を空にしていた。
そして勢いよく立ち上がると、
会計を済ませ、ヒールの音を響かせて店を出ていってしまう。

テーブルに残ったのは、
ラーメンとカツ丼の空の丼二つ。
もしほかに、餃子やモツ炒めを頼んでいたら、
全て平らげていたと思う。
食欲が満たされたようには全く見えなかった。

ぼくは『サラリーマン金太郎』を少し読んでから、席を立つ。
そして済ませた。
そのとき店のドアが開いたが、
あの男ではなかった。
小さな子どもを連れた親子である。

店の外に出る。
女はもちろんのこと、男の姿はどこになかった。
店の看板が弱々しく灯るばかり。

急にラーメンを食べたくなったのは、
あの男女が店にいるという虫の知らせだったのかもしれない。
そんなことを思いながら、
ぼくは店をあとにした。
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ケンカのあとのラーメンはどんな味?Ⅰ ―ラーメン部(24)―

2011年08月24日 | グルメ部屋
いまから何年前のことだろう。
ある夜、急にラーメンが食べたくなって店に入った。
それまでラーメンの「ラ」の字もなかったのに、
引きつけられるように店の暖簾をくぐった。

客は一組だけだった。
狭い店内に、若い男女が向かい合って座っている。

まだ入って間もないらしく、
二人の間にラーメンはない。
髪の短い日焼けした彼氏と、
線の細い綺麗な彼女が座っている。

ぼくはひとつテーブルを空けて席に着いた。
カップルは向かい合ってラブラブなのかと思いきや、様子がどうも変である。
彼女は睨むように彼氏を見つめ、
彼氏はふてくされた格好で椅子に座っているのだ。

そして、彼女が口を開いたかと思うと、
「これからどうするのよ!」という鋭い声。
「何とかなるべ」
「そうやっていい加減な気持ちで何とかなるとでも思ってるの!」

ぼくは、開きかけた『サラリーマン金太郎』の手を止めてしまう。
ケンカだ。
小さなラーメン屋を舞台に、
二人はケンカを始めたのである。
(続く)
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岩瀬の“天神さま”は勝負事を落とさない?(2)

2011年08月23日 | ふるさと歴史探訪の部屋
戦国期終結ののち、“柴山”の姓を名乗ったという羽生城主の次男。
この「次男」が何者なのかはわからない。
現在のところ、木戸忠朝の子として認められるのは、
木戸重朝と元斎である。

例えば、柴山氏は羽生城に仕えた者ではないだろうか。
城主とは烏帽子親・子の関係であり、
羽生城が自落しても、謙信に引き取られることはなかった。

羽生に残った者の多くがそうであったように、
忍城主成田氏に仕え、
天正18年に豊臣秀吉の天下統一が成ったのちは帰農したのだろう。

岩松寺には実際に柴山氏の墓碑がある。
柴山氏は岩松寺に積極的に働きかけていたようだ。
「柴山氏代々の寄附目録」には、鎧や太刀などが記されている。

そんな柴山氏は、5代目以降の消息は不明だ。
『新編武蔵風土記稿』には、松平伊豆守の家臣となり、
「故ありて家絶えたり」と見える。
同書には、柴山氏が岩松寺を開基したことを伝えている。

岩瀬は戦国羽生城の気配の漂う地域である。
しかし、前述したとおり、天神社はあまり知られていない。

ただ、地元では羽生城の落城秘話と、
懐に抱えられた御神体伝説は伝わっている。
「助かった御神体」として有名だ。

すなわち、落城とともに焼かれることはなかった。
落ちなかったありがたい御神体。
だから、天神さまに参拝すれば、「落ちる」ことはない。
ゆえに、受験生たちが市内外問わず、
この天神さまに参拝に訪れた、という。

受験生や勝負ごとを控えている者には、
ありがたい神さまである。
そうでない者も、近くに行った際は挨拶くらいしてもいいだろう。

ちなみに、岩瀬の天神社は元々現在地にあったわけではない。
弘化2年(1845)に石宮として再建され、
明治34年(1901)に岩瀬小学校建設のために移った。
そののちに現在地に落ち着いたということである。
“落ちない天神さま”は、地域の人たちに大切に守られている。


岩松寺にて(埼玉県羽生市岩瀬)
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岩瀬の“天神さま”は勝負事を落とさない?(1)

2011年08月22日 | ふるさと歴史探訪の部屋
羽生市岩瀬の“天神社”は目立たず、
地元以外の人はほとんど知らないと思う。
ぼく自身、同級生がこの近くに住んでいたのだが、
天神社の存在を知ったのはずっとあとのことだった。

この天神社は妙な伝説がある。
すなわち、戦国期に羽生城があった頃、
城主“木戸忠朝”は“北条氏政”に仕えていたのだが、
命令に従わず、小田原からの怒りを買った。

そして、忍城主“成田氏長”を羽生城に攻めさせ、
岩瀬河原で干戈を交える。
北条は付近の諸将を集め、羽生城を攻めさせた。
猛攻により、城はついに落ちる。

このとき、城主の奥方と9歳の次男は、
城の天神曲輪に行き、天神像を懐にして民家へ姿をくらました。
やがて、戦乱は終わりを迎える。
世が次第に落ち着きを取り戻していく中、
岩瀬の岩松寺に身を寄せていた次男は姓を“柴山”と改めた。

忍勢と槍を交えた季節はすでに遠い。
落城のおり、懐に抱えた天神像はいつまでも手放せなかった。
そこで、文禄2年1月にその天神像を祀り、
岩瀬に神社を創建したのである。

以上が「天神社縁起」に記されている内容だが、
全て史実とは言えない。
羽生城は上杉謙信の旗下にあり、北条氏政に仕えた気配はない。
それに、城は落城ではなく自落である。
したがって、御神体を抱えて落ち延びるという筋書きは成り立たない。

しかし、城が自落して謙信に引き取られるおり、
御神体を持ち去った可能性は否めない。
それに、城主の末裔と言われる家があり、
羽生城関係者の中には、再び武蔵国に戻ってきた者もいたのだ。

ちりばめられたいくつかの史実が組み合わさって、
このような縁起が生まれたのかもしれない。
ただ、このような伝説が残っていること自体が重要だ。
縁起は慶安2年(1649)に岩松寺住持によって書かれたものであり、
嫡男が自刃し、次男が逃げ延びているという内容は注目される。

事実、嫡男の“重忠”は天正2年以降に歴史から忽然とその姿を消し、
次男の“元斎”は自落後も生き延び、
上杉景勝に仕えるのである。

※最初の画像は岩瀬の天神社(埼玉県羽生市岩瀬)
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榛名湖に入水した高貴な女性は? ―蕨城主渋川氏―

2011年08月21日 | 奇談・昔語りの部屋
群馬県榛名湖の入水伝説は多い。
その一人に、“蕨城主の夫人”がいる。

蕨城主(埼玉県蕨市)の“渋川氏”は、
後北条氏との戦いに敗れ戦死してしまう。
その知らせを聞いた夫人は悲しみ、
下女一人を伴って実家の上州木部家へ身を寄せることにした。

しかし、夫を失った悲しみは癒えない。
このまま生きていても、やがて敵に生け捕りにされてしまうかもしれない。

夫人は下女と榛名湖へ足を運ぶ。
そして、この世をはかなんだ夫人は湖へ身を投じてしまうのである。
そのとき夫人は祈った。
「我が身は竜神となり、蕨を雪や雹の被害から守りましょう」と。

かくして、夫人は下女とともに湖の底に沈んだ。
以来、蕨では雪や雹の被害がなくなったという。
夫人は蕨の村々を守る守護神となったのである。
下女はカニになり、湖を掃除しているためいつも水は澄んでいるという。

このような伝説が蕨に残っている。
村の人々は大切に語り継ぎ、
現代においても渋川夫妻に心を寄せる人々が、
昭和46年に「渋川公夫妻顕彰之碑」を榛名湖のそばに建てたという。

渋川氏は“義鏡”のときに、
“足利政知”とともに下向してきた一族である。
室町将軍家に仕え、武蔵国の熊谷と蕨に所領を持っていた。

関東では、足利成氏と上杉氏の戦い(享徳の乱)が激化しており、
幕府は将軍の弟“政知”を還俗させて関東に送った。
しかし、不安定な情勢に、政知は伊豆の堀越にとどまり、
その先に進むことができなかった。
ゆえに“堀越公方”と呼ばれるようになる。

そんな政知と下向してきた渋川義鏡は、
所領を持っていた蕨に城を築いたと言われている。
蕨の人々にとって、そんな渋川氏は貴人に見えたことだろう。

蕨では、榛名湖へ雨乞い祈願をしている地域であり、
その霊験に渋川夫人が選ばれたことは想像に難くない。
ゆえに、上記のような伝説が生まれたとされる。

その背景として、“女の霊力”が垣間見られる。
男では雨を降らすことはできない。
その意味でも、渋川夫人に白羽の矢が立ったのではないか。

ちなみに、渋川夫人の墓碑は蕨市内の宝樹院に建っている。
そこに刻された法名は竜体院殿自山貞性大姉。
竜神になった彼女の魂は、
いまも人々の心の中に生きている。


榛名湖(群馬県)


榛名湖で溺れたら絶対に助からないという


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須影の“砂丘”はどこにある? ―学芸員のさんぽ道―

2011年08月20日 | ふるさと歴史探訪の部屋
  羽生の大型ショッピングモール
    ↓
 須影の河畔砂丘

行くのは簡単である。
大型ショッピングモールから北に向かえばいいだけ。
ただ、指定文化財になっているわけではないし、
注意を払わなければ通りすぎてしまう。

学芸員の仕事として、資料の収集や整理、保存、展示、教育普及があるが、
新しい“価値”を見出すのも技の一つである。

そういう“目”をもって散策すれば、
必ず新しい発見がある。
その発見は、ときに見知った世界を覆してしまうかもしれない。

「須影」という地名は、
利根川の流れでできた自然堤防(須)と、
その後方(影)にできた村ということから由来している。

したがって、須影の地面を見ると“砂”が多い。
川の流れた跡が顕著なのは、“砂丘”の存在だ。
土砂と赤城おろしによってできた砂の高まりがあり、
それを“河畔砂丘”と呼んでいる。

現在の会の川沿いに、その河畔砂丘を見ることができる。
加須市志多見の一部分は保護地区になっている。
須影でその河畔砂丘がよく見られるのは、“共同墓地”だ。

見ればよくわかるのだが、
共同墓地は高いところに広がっている。
往古は、砂丘がずっと続いていたのだろう。

面白いのは、川もまた不変ではないということだ。
かつての須影の流れがいまはないように、
利根川の流路は変わっている。
地域を特定して言うと、
羽生さえも流れていない時代があったのである。

となると、須影の河畔砂丘ができる“以前”の時代もあったわけだ。
自然堤防もなければ、河畔砂丘も存在していない時代。
そこにはどんな風景が広がっていたのだろう。

形あるものは不変ではない。
何気なく横たわる河畔砂丘は、
そんなことを伝えているようではないか。

前述したように、その砂丘は意識しなければ目に止まらない。
意識したとき、あなたの目は学芸員になっている。
それは砂丘に限らず、どこかへ旅したとき、
なぜその土地に高低差があるのかを思いめぐらせば、
あなたの物語は始まるだろう。


須影共同墓地(埼玉県羽生市須影)


仙元宮の祀られた丘
富士山を模しており、とても高くなっている。
大型ショッピングモールへ行くとき、目にしている人は多いと思う。
これは河畔砂丘の上に、人工的に土を盛ったのだろう。
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三田ヶ谷(みたかや)の地名に秘められたものは? ―(6)―

2011年08月19日 | 地名の部屋
“ムジナモ自生地”や“キヤッセ羽生”、
“さいたま水族館”などがある三田ヶ谷(みたかや)は、
なぜこのような地名がついたのだろう。

諸説あり、定まっていない。
一つは「三田」である。
古代に田部を置いて官田を耕作させ、
その田んぼを“三田”と呼んだという。

もう一つは「御田」。
豊かな地を意味した言葉で、
農作物が豊穣に実ったことに由来する。

また、三田ヶ谷に所在する“蓮台寺”は、
本尊を阿弥陀如来とする。
この「弥陀」から、由来するのではないかとも言われる。

どれも正解かもしれないし、
いずれも間違っているかもしれない。
確かなことは言えないし、
あれこれ考えるのも一興だろう。

ちなみに、江戸期の三田ヶ谷村における農業は、
畑よりも田んぼが多い。
その田んぼの占める率は、畑の倍以上である。

田舎というと、一面に広がる田園を想像しがちだが、
実は羽生という地域は、
田んぼよりも畑の方が多い村が少なくない。
例えば、三田ヶ谷の隣に位置する“弥勒”は、
畑地が多いのである。

羽生は一見平地だが、実は高低差のある土地である。
往古、利根川が乱流していた影響で、
川沿いには土砂が積もり、土地が高い傾向にある。

利根川が流れていなかった時代もあり、
その頃は、羽生と館林間は陸続きだった。
しかし、利根川が台地を越えて羽生に流れ始めると、
地を削り、低いところと高いところができるようになったのだ。

三田ヶ谷もかつて川が流れた形跡がある。
ムジナモ自生地の地中には、“埋没谷”が眠っている。
また、ムジナモ自生地は湿地帯だが、
その北に位置する蓮台寺付近は土地が高い。
これは川の流れの有無による地形だろう。

高いところに畑を作り、
低いところで稲作をした。
事実、ムジナモ自生地は稲作をするための人間の知恵がいまも残っている。
縦横に穿たれた堀割は、
土を盛って土地を高くし、そこに稲を植えたからだ。

その田んぼを“堀上田”(ほりあげた)と言う。
いまでこそ稲作はしてないものの、
江戸時代から始まるこの知恵を実際に見ることができる。

このような三田ヶ谷村で、農作物が豊穣に実っても不思議ではない。
そこからこの村名が作られたのだろうか。

田園風景の広がる「田舎」のイメージは、
昭和、しかも戦後になってからのものだろう。
土地の高いところは水不足、
低いところは排水に頭を悩ませていた。
畑が多かったからこそ、北埼玉の小麦文化が生まれたのである。

地名は、土地の地勢に由来することが多い。
何気なく使っている地名でも、
その意味を探ってみると、
村の新たな一面を見ることができるだろう。


羽生市三田ヶ谷




三田ヶ谷の収穫のとき


ゆるキャラさみっとin羽生は三田ヶ谷が会場である。
今年もゆるキャラを増やして開催される


さいたま水族館


さでかき。ムジナモ自生地で行われる。
堀の中の泥を掻き上げる作業である。
今後羽生の風物詩になるだろう。
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羽生の“キャッセこども納涼まつり”に行きませんか?

2011年08月18日 | お知らせ・イベント部屋
夏だ!
祭りだ!
キヤッセこども納涼まつりだ!

というわけで、8月21日(日)の9時30分から、
羽生市三田ヶ谷にある“キヤッセ羽生”で、祭りが開催される。

ステージイベントには、地元の人たちによる和太鼓や、
フラダンス、ヒップホップダンスショーが披露される。
その他イベントとして、
ヨーヨー風船釣りや、地元野菜の直売など、
盛りだくさんである。

キヤッセ羽生は、豊かな自然に囲まれている。
隣には淡水魚専門の“さきたま水族館”があるし、
食虫植物の“ムジナモ”の自生地もある。

キヤッセの祭りに行き、羽生を遊び倒そう!
この機会にぜひ、キヤッセに行きやっせ。


キヤッセ羽生HP
http://www.hana-beer.com/agri_park/
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1966年、宝蔵寺ムジナモ自生地で“事件”が起こった?

2011年08月17日 | 近現代の歴史部屋
羽生市三田ヶ谷にある宝蔵寺沼ムジナモ自生地は、
昭和41年5月に国指定の天然記念物となった。

よく誤解されるのは、
ムジナモが天然記念物ではないということだ。
確かにムジナモは絶滅危惧種になっているが、
天然記念物になったのは三田ヶ谷の“自生地”である。

実はこの自生地、
指定早々に解除されそうになった。
事件は夏に起こる。
台風の襲来である。

台風は大雨を降らせ、
その影響によって自生地は増水。
“沼”と言っても新田開発による“堀上田”で、
何本もの堀が四方八方横たわっているような状態だ。

これが増水によって堀は水没。
大きな沼となる。
ムジナモは根無し草ゆえに、
水の流れができればあっという間にどこかへ行ってしまう。
自生地の水没によって、ムジナモは大量に流出。
危うく指定解除になるところだったのだ。

国指定の文化財は、羽生市ではいまのところ宝蔵寺沼だけだ。
天然記念物というだけあって、
環境の変化の影響を大きく受ける。
人の環境への配慮は、この先ますます高まっていくだろう。

ちなみに、羽生市立郷土資料館では、
展示室ロビーにムジナモを展示している。
地元の三田ヶ谷小学校の児童が作ったムジナモ紙芝居も隣に展示。

「ムジナモ」を写真で見ても、
実物を目にしたことのない人は少なくない。
滅多に咲かないムジナモの花は“まぼろし”と言われるが、
これも咲き次第館内放送をしている。

この機会にぜひムジナモを見に行こう。
ついでに国指定の宝蔵寺沼ムジナモ自生地に足を運べば、
さらに理解が深まるのと同時に、
環境の大切さを認識するだろう。

ところで、夏休みのお友だち“自由研究”は終わっただろうか。
まだの子は、ムジナモを使ってみてはいかがだろうか?


増水した宝蔵寺沼ムジナモ自生地
埼玉県羽生市三田ヶ谷


ムジナモ


普段のムジナモ自生地






羽生郷土資料館でのムジナモ展示



羽生市立図書館・郷土資料館
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/
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