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クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

幼子を“館林市立資料館”に連れて行くと?

2018年08月26日 | 子どもの部屋
館林市立資料館は図書館と併設されている。
図書館へ行ったついでに資料館、
あるいは資料館へ行ったついでに図書館というコースが可能だ。

同館では、9月2日まで収蔵資料展「水辺の風景」を開催している。
低地に暮らす身としては心くすぐられるテーマだ。
以下の切り口で展示構成されていた。

 ・水辺の環境
 ・歴史に見られる水との関わり
 ・水辺の環境を描いた芸術家
 ・生業と道具に見られる水との関わり

僕が目当てとしたのは「上毛館林城所産水草図」(8月26日までの実物展示)。
弘化2年(1845)に作成されたもので、
その名のとおり、城沼に生息する水草が描かれている。

描かれた水生植物は12種類に及ぶという。
よく見ると、タヌキモとその黄色い花も見ることができる。
ここには描かれていないが、食虫植物ムジナモもいたのだろう。
館林最古の野生植物の記録であり、
オモダカ、ハス、ヒシなどと一緒に、水中に遊ぶ魚も描かれている。

もうすぐ2歳になる娘を連れて館林市立資料館を訪れた。
まだ展示の内容はわからないし、
そこがどんな場所なのかも把握していない。
展示資料も目にしているようで見ていないのだろう。

何かと走り回ろうとする息子に比べて、娘は大人しい。
男の子と女の子の違いだろうか。
展示室には僕たち親子以外に誰もいない。
展示室に設けられたイスの上で、
娘は泣きもせず、騒ぎもせず、チョコンと座っていた。
もの言わない水生植物の花のように。

幼子を“織田信長”に会わせると? ―群馬県立歴史博物館―

2018年04月19日 | 子どもの部屋
群馬県立歴史博物館では、
平成30年5月13日まで企画展「織田信長と上野国」が開催されている。
幼子を連れて同館へ足を運ぶ。

信長関連文書や箕輪城出土遺物、
落合左平次道次背旗(4月15日まで)や滝川一益関連文書などが展示されており、
とても見応えがある。
解説も今風に工夫されていてわかりやすい。

とはいえ、幼子にとっては「信長ってだれ?」も同然。
長篠合戦や神流川の戦いもあったものではない。
信長よりチョロミー(「ガラピコぷ~」)。
滝川一益よりもハニワだ。

同館のミュージアムショップのそばには、
ハニワや土偶が入っているガチャガチャがある。
信長展から早く出たがっていた息子が、
そのガチャガチャをせがんだのは言うまでもない。

ところでいまから数年前、
友の会の依頼を受けて、講師として博物館の一室で講演をしたことがある。
テーマは「武蔵国から見た上野国の戦乱」という主旨のもの。

いま思い出しても恐縮してしまう。
と、同時に感謝もしている。
機会を与えていただき、ありがとうございました。

その頃はまだ息子も娘も生まれていなかった。
妻と新潟へ行く途中に群馬県立文書館に立ち寄り、
『群馬県史』を購入して旅の道連れにしたのを覚えている。

そして、宿で開いた『群馬県史』。
美味しいお酒と肴には『群馬県史』がよく合う。

依頼を受けて調べたものは、
この拙ブログでも「上州争乱」としてアップしたことがある。
いまから4、5年前のことだっただろうか。

とても楽しく書いた記憶がある。
並行して小説も書いていた。
そして「上州争乱」がアップし終えた頃に、
まつやま書房から本の執筆依頼があった気がする。
(拙著『歴史周訪ヒストリア』を未読の方はご笑覧ください)

記憶がやや曖昧なだけに懐かしい。
だから、群馬県立歴史博物館には親近感を覚える。

同館はリニューアルオープンしたばかりだ。
常設展も見応えのある内容となっている。
群馬の歴史は深くて熱い。

娘は人見知りするくせ、案外愛想がいい。
館内の職員にしきりに手を振っていた。
この博物館は、子どもにも居心地のいい場所なのかもしれない。

幼子を宮代町郷土資料館に連れていくと?

2017年12月14日 | 子どもの部屋
幼子と“宮代町郷土資料館”に足を運ぶ。
平成29年12月24日(日)まで開催している特別展「古墳時代の拠点集落~道仏遺跡~」を見たいがためだった。

息子は、展示された土器を指さしながら「壊れちゃったね」と言っていた。
接合された土器は壊れ物として目に映ったらしい。

たしかに、地中に埋まっているときは壊れ物だったかもしれない。
しかし、発掘調査によって出土し、接合され、展示されている。
学芸員によってその遺物に価値が見いだされ、特別展を企画。
構成された空間の中で展示されているわけだから、
遺物たちは息を吹き返し、脈々と生きていると言っていい。

ところで、宮代町郷土資料館のすぐ北側では古民家も展示されている。
中に入れるだけでなく、実際に靴を脱いで家にあがることもできる。
昭和54年生まれの僕は、古民家にさほど懐かしさはない。
どちらかといえば、ミステリー小説に出てくるような雰囲気を感じてしまう。

昼間といえど、家の中は薄暗い。
いささか恐かったのか、
息子は手をつなぎたがった。
しかし、そこは慣れ。
ひと通り見れば、率先して前を歩く。
和室に展示された火鉢を興味深そうに眺めていた。

宮代町郷土資料館はいつ来ても心落ち着ける。
とても静かで、じっくりと資料に向き合える。
敷地内は木々が生い茂り、古民家よりも懐かしさを感じる。
心に余裕のなかった10月に足を運べば、
少しは息をつくことができたかもしれない。

僕らのほかに、小さな娘をつれた母親の姿があった。
地元の人なのか、それとも外からやってきたのかはわからない。
裏手の遊具で遊んでいた。
時間がゆっくり流れている。
日常に追われることなく、
いろいろなことを忘れて過ごしたい。
息子に手を引かれながらぶらぶら歩く。
二人の足跡の上を、色付いた枯葉が音もなく降り落ちていた。




幼子を“さきたま古墳群”に連れていくと?

2017年11月27日 | 子どもの部屋
息子をさきたま古墳群(埼玉県行田市)へ連れていく。
何か意図したわけではない。
自分が企画展を見たかったから、息子はその道づれ。

ただ、これまで色々な博物館や展示へ連れていったが、
古墳群内の “さきたま史跡の博物館”が一番落ち着いていたかもしれない。
なぜなら、パンフレットに掲載された資料を自主的に探し始めたから。
まだ資料の価値や背景がわかる年ではない。
でも、パンフレットに載っている鉄剣や埴輪を一生懸命探していた。

古墳群や博物館はいつも賑わっている。
団体連れや史学科の学生とおぼしき若者たちがたくさんいて、
幼子を連れていくとそれなりに気を遣う。

古墳群もひと通り見てまわった。
拙著『歴史周訪ヒストリア』(まつやま書房)を執筆したとき以来だったかもしれない。
冬の夜、古墳群で食べたカップラーメンのエピソードを拙著に書いた。
あれは二十代半ばのとき。
現場のあずまやの前を通ると、
何とはなしにカップラーメンのことを思い出す。

丸墓山古墳の墳頂に登った。
眺めたのは忍城方面。
石田三成も見たであろう視点だ。
戦国時代、ここからどんな景色が見えたのか。
と、思いながら景色を眺めた人はこれまでどのくらいいただろう。

将軍山古墳内の展示室にも足を運ぶ。
古墳内に展示室があるという異例の施設だ。
復原された石室を前にしたとき、
息子の目には被葬者が昼寝をしているように見えたらしく、
「ねんねしちゃったね」としきりに言っていた。

前玉神社に参拝。
博物館の前で展示されている古民家も覗いた。
見どころはたくさんある。

いま何かと話題になっている行田市だ。
その日もドラマのロケが市内であったそうな。
きっと多くの人が集まったのだろう。

息子はまだ「古墳」と認識していない。
大きな土山のある公園と思っているのかもしれない。
息子は足袋を履いたみたいに颯爽と古墳群内を駆け、
やがて転んだ。


丸墓山古墳から忍城方面を眺める


古墳の上に祀られる前玉神社

幼な子を“埼玉県立自然の博物館”に連れていくと……

2017年08月07日 | 子どもの部屋
埼玉県立自然の博物館(埼玉県秩父郡長瀞町)で、
企画展「埼玉生きもの情報―最新レッドデータブックの世界―」が開催されている。
“ムジナモ”も展示されているというから足を運んでみた。

夏と自然系博物館はよく似合う。
夏休み中ということもあって、
博物館内は来館者で賑わっていた。
僕は門外漢なのだが、この世界に触れるのは好きだ。

企画展は2階で開催されている。
「埼玉県内から絶滅した昆虫」「限られた環境にくらす生きもの」「生きものをおびやかすいきもの」といった観点から、
それぞれ資料が展示されている。

ムジナモ(標本)が展示されていたのは「レッドデータは生きている」のコーナー。
解説の中に「調査が進むとランクが変わる!?」や
「いつかランクが変わるかも!」が目に留まった。
人文系と同じで、調査や研究が進むことで変わるものもあるということだろう。

どの分野にも「絶対」はない。
いまは当たり前のことと認識されているものでも、
いつかはそれが非常識に変わることがあるのかもしれない。

一緒に連れてきた幼い息子も、
自然の博物館なら心の琴線に触れるものがあったらしい。
触れるはく製や、生物展示ホールで立ち止まる。
ご執心だったのは、押すとはく製にライトアップするボタンだったのだが……
ちなみに、ムジナモは生物展示ホールに複製として展示されている。

企画展「埼玉生きもの情報―最新レッドデータブックの世界―」は
8月31日(木)までの開催。
7月、8月は無休で開館している。
ムジナモも無休で展示されている。

幼な子を“羽生水郷公園”に連れていくと……

2017年07月11日 | 子どもの部屋
羽生市三田ヶ谷は自然豊かな地域だ。
淡水魚専門の“さいたま水族館”があり、
その南側には食虫植物“ムジナモ”の自生地もある。

さいたま水族館を含む水郷公園には池が広がり、
週末になると多くの人出で賑わう。
水郷公園の東側にあるのは“キヤッセ羽生”。
ここも週末になると親子連れで賑わい、
ちびっ子たちが走り回っている。

5月上旬、息子と娘を水郷公園へ連れていく。
新緑の中を息子は駆けていった。

どこに目が留まるかは、その人の価値観や興味によって異なる。
植物、池の中の魚、蝶々、地面を歩く昆虫、公園のレイアウト、遊具、公園の歴史、
池の水質・深さ、周辺の施設、来訪者の傾向……

父親の釣りに連れられていったら、昆虫の世界に興味を持ったという人がいる。
父親は魚に興味があっても、
息子は川のそばで生息する昆虫に目が留まったというわけだ。

自然系の研究者たちは、何をきっかけにその世界に興味を持ったのだろう。
そんなことを考えるときがある。
考えたところで答えが返ってくるわけではないが、
その「はじまり」に心の琴線が触れる。

息子と娘はまだ幼い。
興味を持つのは、自然か文系か理系かはわからない。
いまのところ、ご執心なのはブランコやすべり台といった遊具。
新緑の中を駆けていく息子から少し視点をずらしてみる。
周囲に生えている草花や飛んでいる虫たちに目を向けたならば、
僕も何かが始まるだろうか。

幼な子を野田の博物館に連れて行くと?

2017年05月04日 | 子どもの部屋
野田市郷土博物館は千葉県野田市にある。
野田と言えば醤油。
博物館内には、醤油の歴史に関する展示も充実している。

訪れたとき、平成28年度市民公募展「集まれ! 食の仕事人」が開催されていた。
妻の希望で公募展を見に行ったのだが、
幼な子の目には刺激的ではなかったらしい。

騒ぐわ、走り回ろうとするわ、床に寝そべろうとするわでちっとも落ち着かない。
親もじっくり展示を見ていられない。
「食の仕事人」たちが使っている道具が展示されており、
面白い構成と視点だったのだが暴れる息子に妨害される。

娘は娘で、館に入った途端に泣き始める。
どの辺に泣くポイントがあるのだろう。
仕方ないから、外で息子と娘の子守りをして、
妻と交互に展示を見て回った。
できればもっと落ち着いて見たかったが、
幼な子を博物館に連れて行った時点でそれは高望みというもの。

ちなみに、同じ敷地内に市民会館(旧茂木佐平治邸)が建っている。
そこにいたのは多数のコスプレイヤーたち。
バラエティ豊かなポーズで写真撮影をしていた。
なんだかとても楽しそう。
地元の人か遠くから来た人だろうか。
博物館や文化財との接し方は千差万別だ。


幼な子を“水塚”に連れて行くと? ―おおとね図書館―

2017年04月23日 | 子どもの部屋
大利根図書館は名称がいささか長い。
「加須市立童謡のふる里 おおとね図書館(ノイエ)」という。

敷地内には多くの木が立ち、とても心落ち着く場所だ。
図書館の建つ敷地は、平成9年に地元の豪家小林氏から寄贈を受けたものだという。
「開琴亭公園」とも呼ばれ、明治13年建立の古民家があったと石碑に刻まれている。

そのためだろうか。
この図書館の外観は一見「図書館」らしくない。
建物のモチーフが古民家であるため、
何らかの公共施設とはわかっても、
「図書館」とは思わないかもしれない。

だからいい。
夏になれば敷地内の水路に水が流れ、周囲の樹木は青々と茂る。
雨の日に訪ねるのもいい。
雨音が一層静けさを増す。

図書館裏には“水塚”がある。
これは小林家時代から存在するものだろう。

水塚は大水対策の一つで、
洪水に見舞われたときの避難場所だ。
塚の上には蔵があり、食糧や船が常備されていた。
図書館内の水塚には蔵は残されていないものの、
塚は歴然と残っている。

息子を連れていったら、勢いよく水塚を登っていた。
子どもの足でも登ることが可能な高さだ。
塚の上には桜の木が植えられており、
春になれば満開の花に彩られる。

昭和22年のカスリーン台風では、大利根の土手が決壊した。
甚大な被害を及ぼした台風として記憶に新しい。
図書館内の水塚もそのときの水を被っただろう。
物言わぬ土山だが、大水との戦いの歴史を静かに語っている。

羽生の“砂山”には本当に砂山があったのか? ―子ども学芸員―

2015年08月09日 | 子どもの部屋
羽生市内に「砂山」と呼ばれる地域がある。
初めて耳にしたときは、読んで字のごとく「砂の山」があると思っていた。

そのイメージは間違ってはいない。
実際にこの地域には砂の山が連なっていた。
かつて古利根川の営みによってできた“砂丘”である。

いまも砂山を流れる“会の川”が、かつての利根川だった。
川が土砂を運び、それを巻き上げる冬の風によって、
川沿いにはいつしか大きな砂丘が発達した。
これを“河畔砂丘”(かはんさきゅう)と言う。

いまでもその一部を見ることができるが、
高度経済成長期以前はもっとすごかったらしい。
一番高いところで7メートル近くの砂丘があり、
その上を松林が覆っていた。
第2次世界大戦のとき、戦車をこの松林に隠すという話も持ち上がっていたそうだ。

しかし、高度経済成長期のとき、どんどん作られる高層ビルの材料として、
多くの砂が必要とされた。
河畔砂丘の砂は良質で、業者から目を付けられたらしい。
砂は瞬く間に売れ、往古の利根川の営みを伝える地形は姿を変えた。
松林は伐採され、砂丘は容赦なく削られる。
いまも残っているとはいえ、
往時に比べたら微々たるものなのだろう。

河畔砂丘は会の川沿いに発達していた。
ゆえに砂山だけのものではない。
ただ、その地名は地形に由来するものである。
地名は地域の歴史を紐解くカギでもあるのだ。

ところで、この砂山村にいつから人が住んでいたのだろうか。
おそらく、舟運によって人の行き来はあったと思われるが、
水害によって大きな集落には発展しなかったのだろう。
『新編武蔵風土記稿』によると、文禄の頃に開墾されるようなったという。

文禄年間は1592年~96年である。
実はこの時期、一つの事件が起こっている。
それは、会の川の締め切りだ。
二つに分かれていた利根川の一つ(会の川)を締め切り、
東へ流す工事が文禄3年(1594)に行われた。

これが利根川東遷の第1期工事と言われるが、
その後の研究で忍藩による単独事業という説が浮上している。
文禄3年当時、会の川はすでに利根川の主流ではなくなっていたが、
その流れを締め切ったことで、流域の村々は安定するようになったのだろう。

砂山村に開墾のクワが入り、やがて人々が定住するようになった。
上掲書には、「新田」の文字の付く小名が3つ見られる。
すなわち、白石新田、新田前、稗田新田である。

江戸時代初期に開墾が始まり、新田の数も増えていった。
締め切られた会の川は細々とした川になり、
少なくとも村を飲み込む大河ではなくなった。
そこで獲れる魚は、村人のたんぱく源になったようだ。

大型ショッピングモールができたことによって、
砂山も全く影響がないわけではない。
昔では考えられないところが交通渋滞となり、
道路も新しく敷設された。
開発によって、「砂山」は消えていく一方だろうか。
ぼくらが遊んでいた頃の砂山の景色は、すでに遠い昔になっている。

昭和61年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2014年11月26日 | 子どもの部屋
昭和61年に羽生で起こった主な出来事は以下のとおり。

 3月、南羽生土地区画整理事業に着手
    第1回中央公民館まつり開催
 6月、バジオ新市長ら11名が羽生を訪問
 8月、図書館・郷土資料館がオープン

かつての南羽生駅周辺を知っている者なら、
いまの光景は全く別の場所に見えるだろう。
かつて南羽生駅周辺は田畑の広がる牧歌的な景観だった。
民家がないわけではなかったが、
現在のように新興住宅が林立していることはなかった。

とはいえ、昭和61年当時まだ幼かったぼくは、
南羽生駅周辺の景色はうる覚えだ。
写真で見る機会もほとんどない。
地図で当時をうかがい知るくらいだ。

現在の景観へと変わる事業が、昭和61年3月に始まったことになる。
大型ショッピングセンターもできた影響もあって、
今後も変わり続けるのかもしれない。

なお、図書館・郷土資料館がオープンしたのも昭和61年のことだった。
「郷土資料館ってどこなの?」という声があるが、
図書館を入ってすぐ左の展示室が資料館のスペースだ。
毎年開催されている企画展は、郷土資料館の事業ということになる。
すなわち、一つの建物の中に、図書館と資料館が併設されているのだ。

とはいえ、その建物を「図書館」と捉えている人がほとんどだろう。
ぼく自身、ずっとそう思っていた。
展示開催は、図書館の職員が関わっているものとばかり思っていたが、
実際は資料館職員の手によるものである。

初めて図書館に行った日のことを覚えている。
母に連れられて行ったのだが、
どの本を借りるかひどく迷ってしまった。

当時は、1人につき5冊までの貸し出しだった。
膨大にある本の中から5冊を選ぶのは難しい。
特に当たりを付けていたわけではない。
5冊借りなければならなかったわけでもない。
迷いに迷った末1冊だけ借りたのだが、
いま思えばタイトルを記録しておけばよかった思う。

現在は1人10冊までの貸し出しとなり、
閉館時間も6時までとなっている。
市民に親しまれる図書館・郷土資料館として定着している。

ちなみに、昭和61年当時、
ハレー彗星が大接近したことが話題になっていた。
また、伊豆大島三原山大噴火により、
島民が避難を余儀なくされた年でもあった。

昭和60年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2014年11月17日 | 子どもの部屋
昭和60年に羽生で起こった主な出来事は以下のとおり。

 3月、市民劇『田舎教師』を上演
 7月、県営水道から県水の受水開始
 10月、宮田土地区画整理事業完了

この年、市民による演劇『田舎教師』が上演された。
田山花袋の小説『田舎教師』を劇化したものだ。
1日だけの上演だったが、好評を博したという。
この劇の制作秘話のようなものが、
羽生市立郷土資料館の展示室ロビーに設置されたビデオコーナーで見ることができる。

この年は、科学万博つくば85が開催され、
ゲームソフトやワープロパソコンソフトが続々と発売された年だった。
科学万博つくば85は遠足で行ったのだが、
悪天候か何かで中止になったのを覚えている。
がまの油売りを初めて知ったのも、この科学万博がきっかけだった。

ファミコンの「スーパーマリオブラザーズ」が発売されたのもこの年のこと。
ぼくが初めて手にしてファミコンのソフトもこのマリオだった。
何度プレイしたか数え切れない。
マリオ人気は社会現象となり、
友だちの家で遊ぶときもいつもマリオが付いていた。

小学生の頃、マリオはずっと年上のおじさんだと思っていた。
髭が生えているからだろう。

しかし、後年意外な事実を知る。
マリオの年齢は、20代半ばなのだとか……。
小学生からすればずっと年上に違いない。
でも、20代半ばに「おじさん」は酷だろう。
ぼくはもうその年齢をいつの間にか超えてしまったが……

昭和59年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2014年11月13日 | 子どもの部屋
昭和59年に羽生で起こった主な出来事は以下のとおり。

 1月、産業文化ホールオープン
 2月、岩瀬公民館、三田ヶ谷公民館が完成
 3月、第1回市民マラソン大会開催
 4月、学童保育所設置
 11月、市制施行30周年記念式典を行う

産業文化ホールは目印になりやすい。
茶色い重厚な建物で、
市外からやってきた人はこの文化ホールを見て、
「羽生はすごいですね」と言ったのを覚えている。

各イベントが文化ホールが開催され、
有名芸能人のライブ会場となることも珍しくない。
成人式の開催も文化ホールだし、
先日行われた市制施行60周年記念式典もここが会場だった。
羽生を象徴する建物の一つと言っても過言ではないだろう。

なお、岩瀬公民館と三田ヶ谷公民館がこの年に完成している。
高校生の頃、岩瀬公民館を横目に通ることが何度もあったせいか、
比較的愛着のある建物となっている。
周囲の景色は少しずつ変わりつつあるが、
公民館は変わらずにそこにあってほしいと思う。

岩瀬公民館も三田ヶ谷公民館も、
広いグラウンドに面している。
三田ヶ谷公民館に隣接しているグラウンドでは、
少年野球で何度が来たことがある。

たぶん練習試合だろう。
試合内容や、対戦相手がどのチームだったのか全く覚えていない。
ただ、ずっと頭痛がしていたのだけは記憶している。

野球どころではなく、早く帰って寝たかった。
当時は水を飲んではいけないと言われていた時代だったから、
水分不足によるものだったかもしれない。
三田ヶ谷公民館というより、グラウンドの方にそんな思い出がある。

ちなみに、昭和59年は「日本が世界一の長寿国」になった年だった。
渥美二郎さんが「釜山港へ帰れ」をリリース。
カラオケ好きだった祖母に教えられ、
幼いぼくは同曲を熱唱していた。
なお、ぼくの心を鷲掴みにしていたドリフの「8時だョ!全員集合」が、
生放送中に突然の停電に見舞われたのもこの年だった。

昭和58年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2014年11月09日 | 子どもの部屋
昭和58年に羽生で起こった主な出来事は以下のとおり。

 2月、城沼土地区画整理事業完了
 3月、清掃センター完成
 4月、埼玉純真短期大学開校(現埼玉純真短期大学)
    川俣小学校新校舎が完成
 6月、中央公民館コミュニティセンターが完成
 9月、羽生病院が開院
 10月、県営さいたま水族館オープン
 11月、ふるさとさいたま百選に「さいたま水族館」「田舎教師のまち」が入選

さいたま水族館は、淡水魚専門の水族館だ。
羽生市三田ヶ谷にある。
遠足でも行った記憶があるような気がする。

当時は“ウーパールーパー”という魚が人気絶頂だった。
水族館内にも展示されて、
水槽の前には多くの人だかり!
見ることができたのはほんの一瞬だけで、
水槽の中から人の顔はどう映っていたのだろう。

ウーパールーパーブームは過ぎ去ったが、
さいたま水族館は大人が行っても楽しめるところだ。
利根川沿いの地域に生まれ育った人には、
懐かしさすら感じるかもしれない。

ところで、さいたま水族館のオープンの一方で、
東京ディズニーランドが開園したのも昭和58年のこと。
夢の国の開園である。
女子に限らず、ディズニー好きの男子はぼくの周りにもいた。

ぼくは、遠足というわけではなく、
家族か母の会社の同僚の人たちと行った記憶がある。
同僚の人たちが連れてきた子どもはみんな女子。
男子はぼく一人で、妙に気恥ずかしかったのを覚えている。

しかも、当時は車酔いが激しく、
バスでディズニーランドへ行ったのだが、
到着するまでが大変だった。
ゴールしたときはヘトヘトで、ディズニーランドがかすんで見えた気がする。

もし距離が近くにあって、
母の同僚の子どもの中に男子が1人でもいたら、
ぼくのディズニーランドに対する感覚はもっと違ったものになっていたかもしれない。
これは縁としか言いようがないだろう。

さいたま水族館も東京ディズニーランドも、
開園から30年が過ぎている。
これからも世代を越えて多くの人々に愛されていくに違いない。

昭和57年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2014年11月07日 | 子どもの部屋
昭和57年に羽生で起こった主な出来事は以下のとおり。

 4月、村君小学校新校舎完成
    岩瀬小学校屋内運動場完成
 7月、福島県金山町と友好都市の締結
 9月、第1回市民音楽祭開催
    水質浄化センターの建設工事に着手

福島県金山町と友好都市を結んだのは昭和57年だったことがわかる。
教育面では村君小学校と岩瀬小学校で動きがあった。
前者は新校舎が完成し、
後者は屋内運動場が出来上がっている。

ちなみに、昭和57年は“テレフォンカード”が発売された。
それに伴い、カード式公衆電話が登場する。
ぼくが高校生だった1990年代半ば、
“ポケベル”が流行っていた。

そのせいか、ぼくはテレフォンカードを何枚も持っていて、
休み時間にカード式の公衆電話でメッセージを送ったものだ。
もし昭和57年にそれらが登場しなければ、
小銭を入れてメッセージを送っていたのだろう。

小銭と言えば、500円硬貨が発行されたのもこの年のこと。
ずっと幼い頃に見た500円玉は、
小銭の王様という風格たっぷりだったのを覚えている。
500円玉1枚持つだけで、大金を所持しているような気持ちにもなった。
現在は、ランチの平均額といったところかもしれないが……
なお、この年に東北新幹線の大宮~盛岡間が開業している。

昭和56年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2014年11月03日 | 子どもの部屋
昭和56年に羽生で起こった主な出来事は以下のとおり。

 2月 東中学校、須影公民館、井泉小学校屋内運動場が完成
 4月 お種さん資料館オープン
 6月 県営羽生水郷公園オープン
 8月 利根川土手に田舎教師の詩碑建立
 9月 秩父線西羽生駅オープン

公共施設が相次いで完成した年だったと言える。
須影公民館の完成はぼんやりと覚えている。
突然できた白い建物。
記憶は定かではないが、かつて集会所の前にあったブランコと滑り台も
そのときにできたものではなかっただろうか。

県営羽生水郷公園は、いまや羽生の象徴の一つと言える。
「羽生と言えば?」の質問に、
「水郷公園」と答える人は少なくないのではないだろうか。

9月には西羽生駅がオープン。
ぼくがこの駅の存在を初めて知ったのは中学1年生のときだ。
部活の試合で熊谷へ行くときに使ったのだが、
羽生駅と西羽生駅の距離の短さに驚いたのを覚えている。

しかも、当時は無人駅。
色々な意味で印象深い駅だった。
西羽生駅周辺はかつて何もなかったのだが、
開発が進んで住宅が多い。
住人のニーズに合わせてのオープンだったのだろう。
新郷駅と同様に、見るとほのぼのとした気持ちになる駅である。