クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

“羽生城”へ行きませんか?(58) ―木戸忠朝の亡骸Ⅳ―

2008年09月30日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
戦死、あるいは自害して果てたと考えられる“木戸忠朝”だが、
ひとつ気になる史料がある。
それは羽生城主の“病死”を伝える「斎藤家由緒書」だ。

同書によると、斎藤氏は上杉謙信の家臣であった。
羽生城の情勢が厳しさを増していた元亀天正の頃に、
羽生へ派遣されたという。
ところが、羽生城主は「病死」。
軍兵はことごとく退散したと記されている。

元亀天正年間の羽生城主は“木戸忠朝”である。
宝永4年(1707)に記されたこの由緒書には、
戦死や自害のことは一切出てきていない。
作成者が何を根拠に「病死」と記したのかは定かではないが、
あるいはそう言い伝えられてきたのかもしれない。

木戸忠朝の出生年月日は不明である。
初めて歴史にその名を現すのは天文5年(1536)で、
羽生領総鎮守の小松神社に三宝荒神の御正体を寄進したのが最初であった。
逆に、忠朝が歴史から名を消すのは、
天正2年(1574)7月以降である。

仮に、天文5年当時に20歳だったとすれば、
天正2年には58歳ということになる。
忠朝の二男“元斎”が永禄4年(1561)で13歳であったというから、
天文5年当時に20歳だったとしても大きなズレはないだろう。

したがって、天正2年当時忠朝は高齢であり、
「病死」したとしても不自然ではない。
城主でありながら、上杉謙信からの書状に連名で記されているのは、
このあたりに理由があるのかもしれない。

忠朝が病死したとして、
その後羽生城の指揮を執ったのは、
菅原為繁と木戸重朝だったのだろう。
ただ、重朝は忠朝と同様に天正2年7月以降から名前を見せなくなる。
本丸において自殺と記す「木戸氏系図」のように、
戦死あるいは自害したのは重朝だったのではないだろうか。

さらに想像を膨らませて、忠朝は「病死」ではなく「毒殺」であったとしたら、
状況はにわかに変わってくる。
毒を盛った者は誰なのか?
敵の放った忍びや間諜ではなく、
身内の犯行だとすると……

いずれにせよ、推測の域は出ない。
忠朝がどのように没し、どこに葬られたのかは未だ謎と言わざるを得ない。
いつか別の史料が現れて、解明されるときは来るのだろうか。
戦国末期に羽生城に生きた男は、
一向に饒舌に語ってくれない。
(続く)

※画像は源長寺の本堂
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9月30日生まれの人物は?(クレーンの日・くるみの日)

2008年09月30日 | 誕生日部屋
9月30日生まれの人物には次の名前が挙げられます。

天野貞祐 (哲学者)
隆慶一郎 (作家)
広瀬正 (SF作家)
トルーマン・カポーティ (作家)
ウィーゼル (作家)
並木路子 (歌手『リンゴの唄』)
星野哲郎 (作詞家『三百六十五歩のマーチ』)
五木寛之 (作家『青春の門』)
石原慎太郎 (東京都知事・作家)
長嶋有 (作家)
高口里純 (漫画家『花のあすか組』)
マーク・ボラン (ミュージシャン(T-REX))
マルチナ・ヒンギス (テニス)
小山ちれ (卓球)
斎藤こず恵 (ブルース歌手・俳優)
早瀬美里 (俳優)
小島麻由美 (俳優)
河野由佳 (俳優)
東山紀之 (俳優・歌手))

この日起きた事件は以下のとおりです。

遣唐使が菅原道真によって中止(894)
ペニシリン発見(1928)
大日本バスケット協会創立(1930)
毛沢東が中華人民共和国の初代主席に就任(1949)
ジェームス・ディーン死去(1955)
天皇・皇后が初の訪米へ出発(1975)
山岡荘八死去(1978)
プロ野球阪急のブーマー選手が外国人では初の三冠王を獲得(1984)
韓国とソ連が国交を樹立させる(1990)
茨城県東海村のウラン加工施設で放射能漏れ。日本初の臨界事故(1999)

『誕生日事典』によると、この日生まれた人物は、
“燦然と光り輝く真実を追究する人”とのことです。
誕生花は「嵯峨菊」(さがぎく)、花言葉は「高潔」

参照文献
高木誠監修/夏梅陸夫写真『誕生花366の花言葉』大泉書店
主婦と生活社編『今日は誰の誕生日』主婦と生活社
ゲイリー・ゴールドシュナイダー ユースト・エルファーズ著/
『誕生日事典』角川書店
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“羽生城”へ行きませんか?(57) ―木戸忠朝の亡骸Ⅲ―

2008年09月29日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
果たして、羽生城主“木戸忠朝”は一体どこに眠っているのだろう。
有力視されているのは“源長寺”だが、
一時羽生城主の墓ではないかと騒がれたものがあった。

それは、源長寺からほど近い“堀越館”に所在する“五輪塔”である(画像参照)。
堀越館はL字型に伸びる“堀”と“土塁”が現存する方形館で、
市の文化財に指定されている。
堀越氏が住んでいることからそう呼ばれているのだが、
いつからそこに居住しているのかは定かではない。

冨田勝治先生は、戦国時代に羽生城主の近親者、
近世に忠朝の遺臣“鷺坂軍蔵”(不得道可)が住んでいたのではないかと推測している。
近隣の源長寺は矢狭間を設け、
砦同然の様相を呈していたことから、
羽生城の出城的存在だったのだろう。
冨田先生は堀越館の居館者として、
“藤井修理”と“菅原為繁”の名も挙げている。

最初に述べたように、
この堀越館には“五輪塔”が建っている。
これを発見したのは、確か羽生市内の郷土史家ではなかっただろうか。
発見当時、羽生城主の墓ではないかと話題になったという。

ところが、その後の調査で五輪塔は鎌倉末期のものと比定された。
平成4年には、五輪塔の下を発掘調査している。
蔵骨器の出土が期待されたが、
地中からは何も姿を現さなかった。
すなわち、五輪塔は移築されたということになり、
元はどこにあったのかそれを知る術はない。

塔の主はいまでも敷地内のどこかに眠っているのだろう。
それが羽生城主である可能性は薄い。
塔には何の文字も刻されておらず、
意味深に沈黙を続けている。
(続く)


堀越館(埼玉県羽生市藤井上組)


同上。堀と土塁。


同上


堀越館の遠景
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9月29日生まれの人物は?(クリーニングの日・招き猫の日・ふぐの日)

2008年09月29日 | 誕生日部屋
9月29生まれの人物には次の名前が挙げられます。

セルバンテス (小説家『ドン・キホーテ』)
ミケランジェロ・アントニオーニ (映画監督)
徳川慶喜 (15代江戸幕府将軍)
黒岩涙香 (新聞記者・作家)
鈴木三重吉 (児童文学者)
井出孫六 (作家)
松浦晃一郎 (ユネスコ事務局長)
林隆三 (俳優)
藤井猛 (将棋棋士)
INORAN (ミュージシャン(LUNA SEA))
amber(衛藤利恵) (歌手・タレント)
ウォン・ビン (俳優)
クロマティ (野球)
大木淳 (お笑い芸人)
榎本加奈子 (俳優)

この日起きた事件は以下のとおりです。

東大寺大仏の鋳造開始(747)
横浜に初のガス灯(1872)
ロックフェラーが世界初の億万長者となる(1916)
ニューヨーク・ヤンキースのベーブ・ルースが60号ホーマーを打つ(1927)
日中共同声明発表意(1972)
通算967勝の史上最多記録を達成した横綱千代の富士に国民栄誉賞(1989)
遠藤周作(作家)が死去(1996)

※9月29日は語呂合わせから“クリーニングの日”“招き猫の日”(来る福)“ふぐ(29)の日”

『誕生日事典』によると、この日生まれた人物は、
“緊張したリアクションの人”とのことです。
誕生花は「くじゃくアスター」、花言葉は「可憐」

参照文献
高木誠監修/夏梅陸夫写真『誕生花366の花言葉』大泉書店
主婦と生活社編『今日は誰の誕生日』主婦と生活社
ゲイリー・ゴールドシュナイダー ユースト・エルファーズ著/
『誕生日事典』角川書店
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“羽生城”へ行きませんか?(56) ―木戸忠朝の亡骸Ⅱ―

2008年09月28日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
木戸忠朝の遺臣“鷺坂軍蔵”が源長寺を再興し、
また同寺には、
羽生城主の供養碑と伝えられる石塔が存在している。
『新編武蔵風土記稿』によると、
軍蔵は亡き主君の追福のために源長寺を再興したという。

おそらく木戸忠朝の亡骸は、
この源長寺の境内に眠っているのだろう。
ほかに補として挙げられるのは、
忠朝の母が開基した“正光寺”である。
同寺の山号が「直場山広応院」ということから、
兄“広田直繁”の菩提寺であった可能性を、
冨田勝治先生は指摘している(「広田氏と木戸氏」)

ところで、源長寺にある伝羽生城主の供養碑だが、
いささか疑わしい。
そもそも、その石塔はバラバラになっていた石を、
組み合わせて作ったようである。
五輪塔でも宝篋印塔でもない。
首を傾げざるを得ない。

忍領の郷土史家“清水雪翁”は明治40年に『北武八志』を著し、
その中に「木戸氏墓」について記している。
この「木戸氏墓」とは源長寺に建つ石塔を指す。
雪翁は源長寺に直接赴いたのだろう。
彼が目にしたもの。
それは“2基”の石塔であった。

藤井村源長寺にあり羽生城主木戸伊豆守忠朝夫妻の墓と云ふ
然れ共文字磨滅して孰れか忠朝なるや今は識別し難く高さ三尺位塔形にして二基あり

さらに、羽生領に住む医師であり郷土史家であった“伊藤道斎”も、
『埼玉群馬両県奇譚』の中で木戸忠朝の供養碑について触れている。
それによると、稲子村の某家で自害した忠朝を、
恩恵の受けた者が碑を建てたという。
その碑は某家の傍らにあったらしい。

また、同書には源長寺の所在する上藤井村に、
「五墳の碑」があったと記している。
戦死した武者か武具を埋め、
そこに碑を建てると「権現様」と唱えたという。
しかし、その碑は現在見当たらない。
(続く)


源長寺の本堂裏。
かつてここに構え堀があり、
羽生城主の墓碑が眠っているかもしれないと、
亡き冨田勝治先生はおっしゃっていた。

※最初の画像は伝羽生城主の墓碑。
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9月28日生まれの人物は?(パソコン記念日・プライバシーデー)

2008年09月28日 | 誕生日部屋
9月28日生まれの人物には次の名前が挙げられます。

シルビア・クリステル (俳優『エマニエル夫人』)
マルチェロ・マストロヤンニ(俳優)
グウィネス・パルトロウ (俳優)
ブリジット・バルドー(俳優)
ミカ・ハッキネン (F1レーサー)
松岡譲 (小説家・夏目漱石の長女の夫)
江上栄子 (料理研究家)
小西博之 (俳優)
徳井優 (俳優)
仙道敦子 (俳優)
渡辺美奈代 (タレント・歌手)
伊達公子 (テニス)
木村剛 (俳優)
吹石一恵 (俳優)
藪恵壹 (野球)

この日起きた事件は以下のとおりです。

江戸小石川の水戸藩邸に水戸光圀らが作らせた庭園後楽園が完成(1629)
日本エスペラント協会の第1回大会(1906)
京浜線で自動ドアの電車が登場(1926)
三島由紀夫著『宴のあと』プライバシー裁判でモデルとされた有田八郎側勝訴。ゆえにこの日は“プライバシーデー”(1964)
日航機が日本赤軍にハイジャックされ、ダッカ空港へ強行着陸(1977)
日本テレビが最初のテレビ音声多重放送を行う(1978)
日本電気(NEC)がパーソナルコンピュータPC-8000シリーズを発売。ゆえにこの日は“パソコン記念日”(1979)
柔道の山下泰裕に国民栄誉賞(1984)
1969年から続いたドリフターズの「8時だよ!全員集合」(TBS)が終了(1985)
M・マグワイヤ(野球)が年間70本のホームラン世界記録(1998)

『誕生日事典』によると、この日生まれた人物は、
“つれない恋人”とのことです。
誕生花は「へレニウム」、花言葉は「上機嫌」

参照文献
高木誠監修/夏梅陸夫写真『誕生花366の花言葉』大泉書店
主婦と生活社編『今日は誰の誕生日』主婦と生活社
ゲイリー・ゴールドシュナイダー ユースト・エルファーズ著/
『誕生日事典』角川書店
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“羽生城”へ行きませんか?(55) ―木戸忠朝の亡骸Ⅰ―

2008年09月27日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
羽生城主“木戸忠朝”が戦死、あるいは自害したのなら、
その亡骸はどこに葬られたのだろう。
嫡子“木戸重朝”もまたしかりである。

羽生城からほど近い場所に建つ“源長寺”は、
忠朝の開基と伝えられる。
戦乱によって源長寺は荒廃したが、
忠朝の遺臣“鷺坂軍蔵”(不得道可)が再興した。
亡き主君の菩提を弔うためであろう。

同寺には羽生城主の墓碑と伝えられる石塔がある。
本堂の裏にそれは3基あるのだが、
文字は磨耗して判読できない。
冨田先生は中央を忠朝の供養碑と捉えていた。
しかし、昭和に撮影されたとおぼしき写真と見ると、
現在とは墓碑の並びが異なる。
整備のときに動いたのだろうか。

なお、現在本堂の棟瓦は三階菱の紋が施されているが、
古瓦は梅鉢紋だという。
時代の移り変わりによって羽生城の記憶は薄れ、
伝承や口碑が入り乱れるようになったのだろう。

ちなみに、同寺には中興開基した鷺坂軍蔵夫妻の肖像画を所蔵している。
鷺坂軍蔵は徳川の時代が幕を開けると羽生城代となった。
城主は“大久保忠隣”である。
さらに言えば、軍蔵は忠朝の遺臣であって子どもではない。
戦乱の波に巻き込まれ、羽生自落を目の当たりにした軍蔵は、
文禄4年2月18日に没したという。

この男なら、忠朝がどこに眠っているか知っているはずである。
忠朝の兄“広田直繁”の消息もまたしかりだ。
鷺坂軍蔵は羽生城主の死の謎を解くキーマン的存在と言える。
(続く)


鷺坂軍蔵(不得道可)の肖像画(羽生市指定の文化財)

※最初の画像は源長寺の山門(埼玉県羽生市藤井上組)
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9月27日生まれの人物は?(世界観光の日・女性ドライバーの日)

2008年09月27日 | 誕生日部屋
9月27日生まれの人物には次の名前が挙げられます。

大槻文平 (財界人)
アーサー・ペン (映画監督『俺たちに明日はない』)
アイ・ジョージ (歌手)
辺見庸 (作家)
武田徹 (評論家)
大杉漣 (俳優)
今野敏 (作家)
岸谷五朗 (俳優)
川相昌弘 (野球)
羽生善治 (将棋棋士)
八嶋智人 (俳優)
伏石泰宏 (俳優)
小野伸二 (サッカー)
朝青龍明徳 (相撲)
室山真理子 (漫画家『あさりちゃん』)
正津勉(詩人)

この日起きた事件は以下のとおりです。

イギリスで世界初の蒸気機関車が開通(1825)
栃木県の渡辺はま氏が、日本人女性初の自動車運転免許を取得。以後この日は“女性ドライバーの日”(1917)
初の地下鉄(銀座線)起工式(1925)
日独伊三国同盟調印(1940)
昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問(1945)
日本最長の有料橋・琵琶湖大橋開通(1964)
皇室史上初めての天皇の海外訪問 (1971)
横浜ベイブリッジ開通(1989)

『誕生日事典』によると、この日生まれた人物は、
“とらえどころのないヒーロー”とのことです。
誕生花は「風船葛」(ふうせんかづら)、花言葉は「あなたとともに」

参照文献
高木誠監修/夏梅陸夫写真『誕生花366の花言葉』大泉書店
主婦と生活社編『今日は誰の誕生日』主婦と生活社
ゲイリー・ゴールドシュナイダー ユースト・エルファーズ著/
『誕生日事典』角川書店
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“羽生城”へ行きませんか?(54) ―古城堀の内Ⅱ―

2008年09月26日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
もうひとつの伝承は、
堀の内近くに祀られていたという一位社、二位社、三位社である。
この社にもいわくがある。
すなわち、羽生城主の子3人が戦死し、
これを祀ったというのである。

前二社は堀の内近くにあり、
三位社は対岸の飯野にあったという。
明治44年に一位社と二位社が八幡社に合祀されたが、
三位社はいつしか不明になったと伝えられる。

また、この三社の口碑は、羽生城主だけに留まらない。
流罪になった公家3人を祀ったとも言われる。
村君地区には古墳群が所在し、
「高貴な人」の伝承がいくつかあることから、
そこから派生したものかもしれない。

いずれにせよ、『新編武蔵風土記稿』が「祭神及び来由等と伝へず」と記すように、
はっきりしたことは不明である。
拙ブログでは、この三社を公家ではなく、
羽生城主に関係していると考えたい。

では、「子3人」とは一体誰なのだろうか?
口碑によると、長男を一位社、次男を二位社、
三男を三位社として祀ったという。
だとすれば、「羽生城主の子」として挙げられるのは、
菅原為繁、木戸重朝、木戸元斎の3人である。
しかし、前2人は天正2年当時、羽生を撤退し生き延びている。

羽生市岩瀬の「天神宮縁起」に“柴山縫殿助”という者が、
重朝の弟として登場するが、羽生城主の子として数えるには疑問が残る。
例え入れたとしても、重朝、為繁の2人であり、
もうひとりは誰なのか適当な人物が見当たらない。

按ずるに、この三社に祀られたのは「子」ではなく別の者であろう。
それは公家ではなく、羽生城主一族と想定する。
そこで自ずと浮かび上がってくるのは、
広田直繁、木戸忠朝、木戸重朝の3人である。

直繁は元亀元年以降に館林城へ移って消息を絶ち、
忠朝と重朝は天正2年7月からその名が消えている。
直繁は謀殺、木戸父子は戦死・自害と考えられ、
羽生自落のとき3人はすでにこの世からいなくなっていた。
もし城が安泰ならば、重朝が羽生城主に就いていたはずであり、
この三者が祀られていてもおかしくはないだろう。

堀の内に留まり、天正18年の戦乱の終わりを見届けた渋井氏か、
あるいはその付近の者が三者を祀ったのではないだろうか。
特に渋井氏は、永禄4年(1561)の小田原城攻めに参加した「渋江平六郎」と比定され、
羽生城主とは身近な関係であった。

後北条氏が滅び、徳川時代が幕を開けたとき、
亡き主君を偲んで三者を祀ったのだろう。
あるいは、祭神や由来が不明なことから、
天正2年以降の忍城主“成田氏”の支配時代に、
人知れず三社を建てたのかもしれない。

ただし、これはあくまで推測である。
新しい史料の発見によっては、
知られざる史実が明るみに出るだろう。
例えば、忠朝、重朝、源光斎を祀ったのかもしれず、
口碑のように公家に関係しているのかもしれない。

いずれにせよ、ここには「古城」があり、
自落に関連する伝承が残っている。
月夜の晩、この堀の内に足を運んでみてはいかがだろうか。
もしかすると、源光斎の吹く笛の音が、
どこからともなく聞こえてくるかもしれない……
(続く)


不動院(埼玉県羽生市名)から八幡社を望む


不動院境内にある延命地蔵


漢学者“渋井太室”の墓碑。
不動院墓地に所在。
銘の中に堀の内城に関する記述が見える。
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9月26日生まれの人物は?(ワープロの日・伊勢湾台風の日・八雲忌)

2008年09月26日 | 誕生日部屋
9月26日生まれの人物には次の名前が挙げられます。

ハイデガー (哲学者)
T.S.エリオット (詩人・批評家)
シャルル・ミュンシュ (指揮者)
鈴木義司 (漫画家)
牧伸二 (ウクレレ漫談家)
マウリツィオ・グッチ (経営者)
オリビア・ニュートン・ジョン (歌手)
リンダ・ハミルトン (俳優『ターミネーター』)
三井高福 (事業家)
伊東康孝 (経営者・すかいらーく社長)
風間深志 (冒険家)
天童よしみ (歌手)
木根尚登 (ミュージシャン・小説家)
池谷幸雄 (タレント・体操)
佐藤藍子 (タレント)

この日起きた事件は以下のとおりです。

織田信長が足利義昭を奉じて入京(1568)
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)死去。ゆえにこの日は“八雲忌”(1904)
台風15号で青函連絡船洞爺丸が転覆。死者・行方不明者1151名(1954)
観測史上最大の台風、伊勢湾台風上陸。死者行方不明5200人余。ゆえにこの日は“伊勢湾台風の日”(1959)
アメリカ大統領選の初のテレビ討論(1960)
日本相撲協会が部屋別総当たり制の導入決定(1964)
プロ野球選手の福本豊が世界新記録の105盗塁を達成(1972)
東芝のワード・プロセッサー第一号機が完成。以後この日は“ワープロの日”(1973)
ホメイニ師、「悪魔の詩」の作者・ラシディに死刑を宣告(1988)

『誕生日事典』によると、この日生まれた人物は、
“粘り強い完璧主義者”とのことです。
誕生花は「紅蜀葵」(もみじあおい)、花言葉は「温和」

参照文献
高木誠監修/夏梅陸夫写真『誕生花366の花言葉』大泉書店
主婦と生活社編『今日は誰の誕生日』主婦と生活社
ゲイリー・ゴールドシュナイダー ユースト・エルファーズ著/
『誕生日事典』角川書店
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“羽生城”へ行きませんか?(53) ―古城堀の内Ⅰ―

2008年09月25日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
“堀の内”と呼ばれる羽生支城は、
埼玉県羽生市名にあったと推定される。
“不動院”と“八幡神社”が所在している場所である。

現在その遺構はない。
しかし、『武蔵志』には、
「名村古城堀の内と云、越後謙信臣渋井越前の居跡なり」と記されている。
この「古城」は、不動院と八幡神社を含めた一帯であったのだろう。
現在、利根川の土手が両社寺の真後ろで高く連なっているが、
遺構はその下に埋まっているものと思われる。

『渋井氏家譜』によると、
堀の内城主は“栢場源五郎吉家”であった。
渋井氏はその甥で家老を務めていたという。

羽生城が自落したのは天正2年(1574)閏11月である。
その際、飯野城兵と戦っていることから、
羽生勢は堀の内城から利根川を使って撤退したのかもしれない。
実は、堀の内には城兵の撤退時にまつわる伝承がいくつか残っている。

そのひとつに“源光斎の笛”がある。
源光斎は栢場源五郎の子であり、
『渋井氏家譜』によると盲目だったらしい。
羽生自落のとき、父源五郎は羽生を撤退したが、
源光斎は盲目のため一緒に行くことができなかった。
そこで、羽生に留まる“渋井越前吉元”に預けたという。

 羽生城没落越後引取之砌 源光斎盲目故 越前ニ預ケ 名村ニ留置
 (『渋井氏家譜』より)

肉親と離ればなれになった源光斎は、
寂寥感を募らせたのだろうか。
彼は肉親に想いを馳せながら笛を吹いたという。
やがて、この笛は某家の手に渡った。
そして正徳3年(1713)に神社に奉納された。
この神社が堀の内城内の“八幡社”である。
(続く)


不動院(埼玉県羽生市名)


渋井越前の墓碑(不動院内)
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9月25日生まれの人物は?(10円カレーの日・藤ノ木古墳記念日・介護の日)

2008年09月25日 | 誕生日部屋
9月25日生まれの人物には次の名前が挙げられます。

フォークナー (作家)
グレン・グールド (ピアニスト)
スタニスラフ・ブーニン (ピアニスト)
魯迅(作家)
高木彬光 (作家)
菊池秀行 (作家)
武田百合子 (随筆家『富士日記』)
北村総一朗 (俳優)
古川タク (イラストレーター)
久和ひとみ (キャスター)
マイケル・ダグラス (俳優)
マーク・ハミル (俳優)
クリストファー・リーブ (俳優)
ウィル・スミス (歌手・俳優)
キャサリン・ゼタ=ジョーンズ (俳優)
古今亭志ん輔 (落語家)
多田かおる (漫画家)
井上喜久子 (声優)
豊原功補 (俳優)
アジャ・コング (プロレス)
清水美砂 (俳優)
MEGUMI (タレント)
内山信二 (タレント)

この日起きた事件は以下のとおりです。

バスコ・ヌネス・デ・バルボアが太平洋を発見(1513)
幕府、シーボルトを国外追放(1829)
明治政府が刑罰としての入れ墨を禁止(1870)
「東京新聞」の前身「今日新聞」発刊 (1884)
煙草の専売法が決まる(1907)
全国地方銀行協会設立(1936)
沢村栄治がノーヒットノーランを達成(1936)
田中首相が訪中。日中国交樹立へ(1972)
日比谷公園内の松本楼では、この日700円のカレーを10円以上募金した人に提供。ゆえにこの日は“10円カレーの日”(1983)
奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の石室が発堀される。ゆえにこの日は“藤ノ木古墳記念日”(1985)


『誕生日事典』によると、この日生まれた人物は、
“社会ともちつもたれつの関係を築く人”とのことです。
誕生花は「萩」(はぎ)、花言葉は「思案」

参照文献
高木誠監修/夏梅陸夫写真『誕生花366の花言葉』大泉書店
主婦と生活社編『今日は誰の誕生日』主婦と生活社
ゲイリー・ゴールドシュナイダー ユースト・エルファーズ著/
『誕生日事典』角川書店
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クニのウラ部屋雑記(32) ―金山城と牛丼Ⅱ―

2008年09月24日 | ウラ部屋
初めて行った金山城(群馬県太田市)の山頂で、
一緒にいた女の子たちは、
熱っぽく“牛丼”について語った。

「本当は細かくした豆腐を乗せて食べると最高なのよね」
夜景などそっちのけである。
彼女たちはとても可愛らしい女の子で、
牛丼をかきこんでいる姿は想像できない。

「ああ、牛丼が食べたい」
ひとりの女の子が言った。
心の欲望がそのまま言葉に出たようだった。
牛丼屋のいいところは、大抵24時間営業していることだ。
そんなところも牛丼ファンの心をくすぐるのだろう。

当然の流れのように、
ぼくらは金山を下りると牛丼屋へ向かった。
辿り着いたのは、彼女たちの聖地(?)「吉野屋」である。
そのときすでに日付も変わっていたと思う。

深夜にも関わらず、彼女たちは大盛りを注文した。
そして、卵とみそ汁も付ける。
幸せの定義はいろいろあるかもしれないけれど、
髪を後ろで結い、ワクワクした表情で牛丼を待っている彼女たちは、
まぎれもなく幸せだったと思う。

やがて運ばれてきた牛丼つゆだく4つ。
ひとくち食べて「おいしい」と満面の笑みを浮かべた女の子に、
ぼくは少しドキッとした。
それからどんぶりを片手に持ち、夢中でかきこむ。
「おいしいね」
「うん、すごくおいしい」
顔をホクホクさせ、その頬も赤くなっていた。

それまで何度も「吉野屋」へ入ったことがあるけれど、
その日が一番楽しい牛丼だったと思う。
心からおいしそうに食事をする人と一緒にいると、
なぜ幸せな気持ちになるのだろう。
温かくて優しい気持ちになったのは、
牛丼の熱気だけではなかったと思う。

あっという間に牛丼を平らげ、店を出た。
そのあとは真っ直ぐ帰路に就く。
何かとても満たされた気持ちだったのを覚えている。
それからどんな話をして、
どんな道を通ったのだろう。
帰りの車の中でも、やはり牛丼の話をしていた気がする。

家の前だったか、あるいはどこか別の場所だったか、
鷲宮あたりで彼女たちを下ろした。
すると、女の子のひとりがこう言った。
「まだ牛丼一緒に食べようね」

ぼくらは手を振って別れた。
その日初めて会った人だったけれど、
不思議と前から知っているような気がした。
そのまま羽生のレンタルビデオ屋へ戻り、
彼ともその場で別れる。

以来、彼とは一度も会っていない。
もちろん、牛丼を一緒に食べた女の子たちともである。
そもそも、その日彼と遊ぶ約束をしていたわけではないし、
もし偶然レンタルビデオ屋で会わなかったら、
金山城へ行くことも、女の子たちと牛丼を食べることもなかっただろう。
奇妙な夜だったと思う。

それから幾度となく金山城へ足を運んでいる。
そこが羽生城(埼玉県羽生市)とも深い関係のある城と知ったのは、
もう少しあとになってからのことだ。
いまでは歴史の観点からこの山城を見ることが多いけれど、
山頂から夜景を眺めると決まって牛丼が頭に浮かぶ。
大盛りつゆだくで、卵とみそ汁付き……
あの楽しかった牛丼は、
いまでも一番のままだ。

あの夜、金山城につれてきた彼と、
一緒に来た彼女たちはいま何をしているのだろう。
特に、名前も忘れてしまった彼女たちが、
どこで何をしているのか想像もつかない。
いまでも牛丼屋でどんぶりを片手にかきこんでいるだろうか?
その横には夫がいて、小さな子どももいるのかもしれない。
もう彼女たちの顔もぼんやりとしか思い出せないけれど、
いつかどこかの牛丼屋で会えそうな気がしている。
金山城から見える明かりの下で……

「金山城と牛丼」(了)


金山城(群馬県太田市)からの眺め。


※最初の画像は金山城跡図。
 山崎一側図「群馬県古城塁址図集」第五集(東毛篇)より
コメント (4)
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9月24日生まれの人物は?(南洲忌・みどりの窓口記念日・清掃の日)

2008年09月24日 | 誕生日部屋
9月24日生まれの人物には次の名前が挙げられます。

ジェロラモ・カルダーノ (数学者・医師)
フィッツジェラルド (小説家『偉大なギャッツビー』)
大倉喜八郎 (実業家)
大平透 (声優)
辻邦生 (作家)
筒井康隆 (作家)
海渡英祐 (作家)
久保菜穂子 (俳優)
山岸凉子 (漫画家)
のむらしんぼ (漫画家『つるピカハゲ丸』)
羽田美智子 (俳優)
田原健一 (ミュージシャン(Mr.Children))
大久保伸隆 (ミュージシャン(SomethingELse)
雑部いづみ (タレント)
リア・ディゾン(歌手・モデル)

この日起きた事件は以下のとおりです。

メートル原器制定(1872)
西南戦争終結。西郷隆盛自刃。ゆえにこの日は“南洲忌”(1877)
大日本相撲協会設立(1925)
国鉄指定席の予約「みどりの窓口」開業。ゆえにこの日は“みどりの窓口記念日”(1965)
「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」が施行。ゆえにこの日は“清掃の日”(1971)
イギリス人登山家がチョモランマ登頂に成功(1975)
勝新太郎経営の「勝プロダクション」が負債総額12億円を抱えて倒産(1981)
昭和天皇の容態が急変しバラエティ番組が放送自粛(1988)
ソウル・オリンピックで鈴木大地が日本新記録で金メダル(1988)
シドニー・オリンピックで高橋尚子が女子陸上史上初の金メダル(2000)

『誕生日事典』によると、この日生まれた人物は、
“さすらいの旅人”とのことです。
誕生花は「蕎麦」(そば)、花言葉は「なつかしい思い出」

参照文献
高木誠監修/夏梅陸夫写真『誕生花366の花言葉』大泉書店
主婦と生活社編『今日は誰の誕生日』主婦と生活社
ゲイリー・ゴールドシュナイダー ユースト・エルファーズ著/
『誕生日事典』角川書店
コメント (3)
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クニのウラ部屋雑記(31) ―金山城と牛丼Ⅰ―

2008年09月23日 | ウラ部屋
何事も最初が肝心である。
出会ったときの印象、あるいは出来事は、
なかなか忘れないものだ。

“金山城”は群馬県太田市にある。
初めてその山城へ行ったのは、19歳の春だったと思う。
羽生のレンタルビデオ屋で偶然会った高校の同級生が、
金山城まで連れていってくれたのだ。

彼は決して二枚目ではないけれど、
不思議と周りには女性の影が絶えなかった。
会うたびに前とは違う女の人を連れていたし、
高校時代はしょっちゅう他校の女の子と遊んでいた。

その日も彼は2人の女の子を呼んだ。
突然の呼び出しだったにもかかわらず、
その女の子たちは彼からの電話に快く応じたらしい。
彼とどんな関係なのかはわからず、
少なくとも恋人とはほど遠い存在だったと思う。
案外、元カノの友だちだったりするかもしれない。

どこで彼女たちを拾い、
どんないきさつで金山城へ向かったのかはもう覚えていない。
彼の運転する車でひたすら北へ向かい、
気が付けば金山の山頂に着いていた。
そこは展望台が設けられ、
太田の夜景が一望できるようになっている。

初めてそこを訪れた者は意外に思うかもしれない。
その山城から見渡せる夜景は、
まるで東京の高層ビルからの眺めのようなのだ。
無数に煌めく外灯と建物の明かり。
一瞬、山の中にいることを忘れてしまう。
往古、金山城主もこうして領土を見渡したのだろう。

「デートに使うなよな」と、彼は釘をさした。
おそらく彼は、何度となくそこに女の子をつれてきたのだろう。
デートでなくとも、好きな女の子をつれてきても効果的かもしれない。
恋人に近い関係ならともかく、
その日ぼくら4人が簡素な展望台に立っても、
とても甘酸っぱい雰囲気にはならなかった。

男女ペアになることもなく、
ぼくらはずっと4人一緒にいた。
そしてどんな話をしたかというと、
“牛丼”である。
金山城から牛丼屋が見えたわけではない。
何がきっかけでその話題になったのかはわからないけれど、
夜景を背景に牛丼の話でかなり盛り上がったのを覚えている。

2人の女の子は牛丼が好きだと言った。
何度も店に行っているらしく、
私流の“おいしい牛丼の食べ方”を熱っぽく語り始めた。
彼女たちは“つゆだく”派で、
しかも注文するのは大盛りらしい。
卵はあまりかき混ぜずに落とすのがいいのだとか、
紅生姜はたっぷり乗せ、
唐辛子は量が半分くらいになったらかけるのだとか、
とても楽しそうに語るのだった。
(続く)

※画像は金山城からの眺め。
コメント (2)
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