クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

連続テレビ小説「らんまん」を古城天満宮より

2023年02月22日 | 神社とお寺の部屋
羽生城址碑の建つ“古城天満宮”を訪ねたら、
境内の桃の木が赤い花を付けていました。
今年も春がやってきたようです。

とはいえ、その花が桃の木なのか自信がありません。
花桃のようですが、植物に疎い僕は、
樹木や草花を目にしても、語りかけてくるその言葉を読み解くことができない。

日本植物学の父と呼ばれた“牧野富太郎”博士ならば、
すぐに植物の名を言い当てるのでしょう。
それだけでなく、その植物にまつわる故事や逸話が溢れ出てくるのかもしれません。
植物たちの声を読み解き、博士の目にこの世界はどのように映っていたのでしょうか。

ところで、令和5年前期のNHK連続テレビ小説「らんまん」は、
牧野博士をモデルにしたストーリーです。
富太郎役は神木隆之介さんが務めるのだとか。
ムジナモ自生地を持つ羽生市生まれとしては興味津々です。

牧野博士は1862年に高知県佐川町に生まれ、
1957年に東京で没しました。
高知県には“高知県立牧野植物園”があり、
東京には“練馬区立牧野記念庭園”及び“東京都立大学牧野標本館”があります。
「らんまん」放送決定から、いずれの館の学芸員さんはお忙しいと風の便りに聞きます。
放送がスタートすれば、さらに多くの来館者で賑わうのでしょう。

植物に疎い僕でも、牧野富太郎博士が巨星であることは理解できます。
正規の学問ルートを辿らずとも、研究に生涯を捧げ、誰も追いつけない功績を残しました。
肖像写真では温和な人柄に見えますが、
実生活は破天荒なところもあったようです。
そのような牧野富太郎博士がドラマでどのように描かれるのか楽しみであり、
ムジナモの登場も待ち遠しく思います。
古城天満宮と牧野博士は何ら関係ありませんが、
桃の花の咲く境内から「らんまん」の成功をご祈念します。
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下羽生とお笑いの相性はいい?

2023年02月16日 | はにゅう萌え
笑うことにはさまざまな効能があるという。
例えば、免疫力や記憶力の向上、ストレスや痛みの緩和、
ポジティブ思考になって幸せを感じやすくなり、長じて長生きにつながるらしい。

振り返って、失意のどん底の底にあった時期がある。
どうすることもできない現実に悶え、苦痛で身が裂けそうなほどのトンネルのど真ん中。
出口があるのかわからず、手を伸ばしても虚空をつかむばかり
そんな暗黒の時期がある。
そういうトンネルは、いま思い返しても息苦しい。

さて、同級生のS君は羽生市下羽生に住んでいた。
放送部だった機縁と、同じクラスになったこともあり、
同級生の中で彼の家に遊びに行くことが一番多かった。
それは、暗いトンネルにいたときも例外ではなかった。

S君の部屋に入ると、彼は文庫本を机に置いてお笑いのビデオを流した。
本がたくさんあるその部屋には、お笑いのビデオも並んでいた。
お笑い好きのS君は、特にダウンタウンのファンで、
トークやコント、音楽番組での歌手との絡みなどまめに録画していた。

僕はお笑い好きではなかったし、芸人にもまるで疎かった。
そんな僕でも、テレビを眺めて5分や10分もすると、腹を抱えて笑っていた。
笑い声は家中に響いていたかもしれない。
あるいは前の道を歩く人の耳に届いただろうか。
気が付けば、テレビとの距離は近くなり、ボリュームも上げていた。

S君の部屋を出るとき、来たときよりも痛みは和らいでいた。
悲しみそのものが消えたわけではない。
でも、少し息ができるようになったのは事実だった。

それは笑いによる効能だったのだろう。
痛みが緩和され、辛さから少し視線がそれたのかもしれない。
もうどうでもいい、と投げやりな高ぶりもメモリが下がっていた。

笑うことによって、免疫力が高まるというのはわかる気がする。
笑うほど、病気にかかるリスクは下がるらしい。
笑う門には福来るとはよく言ったもので、
笑顔になるほど前向きな気持ちになり、幸せを感じやすくなるのだろう。

S君の部屋で観たお笑いに、どれだけ救われただろう。
彼の影響を受けて、僕もダウンタウンの番組を観るようになった。
僕らの世代は、ダウンタウンは避けて通れない存在だと思う。
当時の大人たちの一部は眉をひそめていたが、
僕の周囲は毎週欠かさずその番組を観ていた。
そういえば、クラスには浜ちゃんのファンだと言う女子もいたっけ。

お笑いによって苦痛が緩和された記憶があるせいか、
下羽生にはお笑い劇場あるいは寄席が存在するような感覚を覚える。
下羽生は葛西用水路が流れ、田園が広がり、
夏にはカエルの大合唱が聞こえる詩情あふれる地域である。
見た目には、劇場や寄席のある雰囲気ではない。

しかし、思えばこの地域には羽生市産業文化ホールがある。
市のイベントはもとより、お笑いや音楽ライブ、寄席やトークショーなど、
数多くのステージが開かれてきた。
直近では「NHKのど自慢」の収録が羽生で行われるという。
この地域には、たくさんの笑い声と熱狂が染み込んでいる。
あくまでも個人的な感覚だが、下羽生とお笑いの相性はいい気がする。

NHKのど自慢(in羽生)
https://www.city.hanyu.lg.jp/docs/2023012300072/
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心が折れそうなときに効く呪文は? ーコトノハ拾いー

2023年02月13日 | コトノハ
心が折れそうになるとき、
行き詰ってもうダメかもと諦めそうになるとき、
まだ大丈夫、と優しく肩を叩いてくれる1冊があれば何とかなる気がする。

なかなか結果が出ず、空回りばかりしながら、
林望氏の著書を何度も読み返した頃がある。
『魅力ある知性をつくる24の方法』(青春出版社、2001年)は、「認められる努力、疲れて終わる努力」の項があるように、
自分のやっていることに疑問と不安を覚えるときほど、
じんわりと効く本だったと思う。

赤線を引き、フセンを貼って、求める言葉へすぐにアクセスできるようにしていた。
座右の銘や好きな言葉を、手帳やノートに書いたり貼ったりする人の気持ちはわかる。
自分を元気にしたり、ためらう背中を押してくれたり、落ち込む心を慰めてくれるそんなコトノハ。
あるいは呪文。

年齢や環境によって感じ方は異なる。
不変で永続的とは限らない。
20代で読み飛ばしていた言葉が、40代で深く染み込むパターンもある。

読書には、コトノハ拾いの一面があるように思う。
本を読んでいると、意図せず目に留まり、何度も読み返したくなる文章に行き当たる。
それもまた出会いなのだろう。
筆不精で記憶力の弱い僕は、その全てを整理できず、記憶もできないから蔵書することになるのだけど、
保管スペースにも限度がある。

手放すならば、心に引っかかるコトノハに出会えなかった本ということになる。
とはいえ、いまがその時期でないのであって、
年を重ねてジワジワ効くこともあるから油断ならない。
仮に色褪せた言葉があっても、出会えたことは生涯忘れない。
ありがとうの気持ちを込めて書物の海へ流したい。

心身の調子を崩していた頃は、日ごとコトノハを探していた。
例えば、自分の身長くらい読んだ書物の中で、
心に効くコトノハはどれくらいあるだろう。

一般的には、1冊読んで3つの“気付き”があれば、
その本は自分との相性が良かったと判断される。
中には10個以上を数えることもあるから、それは大当たりということになる。
ただ、本は当たり外れの物差しだけでは測れず、
たくさんの想いと多くの人の仕事によって1冊になるから、
例え自分には見つけられずとも、きっと他の誰かの心には効いている。

5年後、10年後はどんな言葉に線を引き、拾い集めているだろう。
心はどんな風に変化しているのか。
時代の流れは加速するばかりで、3年先の未來を読むこともできない。
少なくとも、僕は思い描く未来と現実に自信がない。
願わくば、重ねた年の分だけ、誰かに寄り添える言葉を残せるようになれればいいのだけど、
それは見つけることよりずっと難しい。
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取り逃がした武田信玄は大きい? ―三増峠の戦い―

2023年02月10日 | 戦国時代の部屋
戦国最強と謳われる武田信玄。
川中島合戦で上杉謙信と一騎打ちをした逸話はよく知られている。

謙信だけではない。
信玄は、戦国大名の後北条氏とも野戦を繰り広げている。
それは三増峠の戦い。
時は永禄12年(1569)のこと。

小田原城攻めから帰陣する武田勢を、
後北条氏が追撃した。
そもそも、後北条氏にとって本拠地である小田原を攻められるのはこれで2回目。
1度目は永禄4年(1561)に上杉謙信に攻められている。

籠城して事なきを得たが、城下を放火されている。
一矢報いたかったのかもしれない。
後詰として参じていた北条氏照と北条氏邦は、三増峠で武田勢を迎え撃つ。

信玄の耳にもこの情報が入っていた。
軍勢を二手に分けて進軍。
かくして、三増峠にて武田勢と北条勢が激突する。
さすがの武田勢も苦戦したらしい。
『北条記』は言う。

 甲州衆、最前ノ軍ニ悉カケマケ、信玄ノイトコ浅利監物ヲ初トシテ、多以討死也

このまま信玄の首に槍が届くのではないか。
北条勢の中にそう意気込む者もいただろうか。
しかし大名同士の合戦である。
そう簡単に雌雄は決しない。

二手に分けたもう一方の武田勢が三増峠に駆け付ける。
これにより流れが変わる。
次々に討ち取られる北条勢。
最強と謳われる軍勢だけに勢いは止まらなかった。
武田信玄の報告によれば、2千余人の兵が討ち取られたという(「諏訪文書」)。

この戦いに、北条氏康・氏政父子は参陣していなかった。
小田原城を出て三増峠に駆け付けたものの、北条勢は崩壊。
到着したところで戦いにはならなかった。
これについて『北条記』はこう語る。

 氏康父子、三里此方へ馳着玉ヘトモ、敵勝テ甲ノ緒ヲシメテ、不出合、
 労シテ功ナク、御馬ヲ入玉フ、三増峠合戦是也

北条氏康・氏政父子の軍勢が三増峠の戦いに間に合っていたならば、
流れは再び変わっていたかもしれない。
信玄もそれを危惧して早々に引き上げたのだろう。
氏康はこう語る。

 相・武境号三増山地迄、進陣候、敵手早取越間、当旗本一日之遅ゝ故、
 取遁候、誠無念之至候(「上杉家文書」)

三増峠に駆け付けるのが1日遅かったために敵を逃がし、
誠に無念である、と。
誰に述べたか?
越後の上杉謙信である。

後北条氏は武田信玄と干戈を交えるにあたって、
それまで敵対していた上杉謙信と手を結んだのだ。
苦渋の決断だったろうが、戦国最強の武田氏と対するため、
または一族の生き残りをかけて、
武神の化身と言われる謙信に頼らざるを得なかった。

ところが、謙信はなかなか後北条氏の要望に応えようとしない。
信玄が小田原城に向かっているさなかも、
駆け付ける気配を見せなかった。

例えば、上杉勢が北条勢とうまく連携をとり、
三増峠で武田勢と激突していたらどんな戦いになっただろう。
第四次川中島合戦のような激戦が繰り広げられたかもしれない。
一騎打ちに次ぐ逸話も生まれただろうか。

この点、北条氏康もチクリと言うのを忘れていない。
上杉氏の加勢がなかったゆえ、このようなことになって仕方がないと書き綴るのだった。

 御加勢一途無之故、如此之儀、無是非候(「上杉家文書」)

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2月12日(日)、羽生で“郷土芸能”が発表される?

2023年02月08日 | お知らせ・イベント部屋
2023年2月12日(日)に、
“第14回羽生市郷土芸能発表会”が開催されます。
お囃子、太鼓、地芝居、獅子舞と、
市内に拠点を置き、伝統芸能を保持する7団体が出演予定です。
出演団体と公演順は以下のとおりとなっています。

1 旭町お囃子保存会
2 桑崎獅子舞保存会
3 羽生太鼓 みやび
4 中宿万作保存会
5 東大和おはやし保存会
6 下岩瀬白山太鼓保存会
7 羽生市こども歌舞伎保存会

コロナの影響により、本公演会が開催されるのは3年ぶりです。
決して短くはない期間でした。
3年ぶりの想いを込めて、各団体さんが熱演します。

ちなみに、当日は自分が司会を務めさせていただく予定です。
3年ぶりの開催ということもあり、
口下手の自分が団体さんの足を引っ張らぬよう頑張りたいと思います。

開場は12時30分から、
開演は13時となっています。
場所は羽生市産業文化ホールで、入場料は無料です。
お誘いあわせの上、ぜひご来場ください!
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板倉町でふと目が合う沼は? ―坂田沼―

2023年02月06日 | 利根川・荒川の部屋
沼好きとしては心をくすぐられる板倉町。
車の免許を取ったばかりで板倉町へ行ったとき、
やけに多くの沼が目に付いたのを覚えている。

あのとき見た沼はどこだったのだろう。
そう思うときがある。
その一つに坂田沼。
季節は夏で、沼には水草、岸部には草が生い茂っていた。
そこは、童話「やまなしもぎ」に出てくる沼を連想させた。

東洋大学が近いと言えば近い。
沼の畔には民家が建っている。
坂田沼の最深は2.4メートルで、
大人が入ったら足が付かない。
ひと昔前は、子どもたちの遊び場でもあったのだろうか。

そういえば、沼の畔に住む知人がいた。
雨の日も風の日も、当たり前のように沼を目にして過ごしていたことになる。
年末年始、お盆、クリスマス、節分……。
そのときどきの沼はどんな表情なのだろう。

でも、目前に沼があっては、それは日常生活の一部であって、
特に目に留めることはなかっただろうか。
その人は別の町に移り住み、職場も変わってしまったから、もう聞くことはできない。

体を壊したとき、ごくたまに板倉町へ足を延ばした。
沼を見たかったのかもしれない。
谷田川に憂いを流したかったのかもしれない。

病気はこじれ、なかなか職場に戻れなかった。
生きているのが息苦しかった。
いま思えば、あの日々は沼の底だったかもしれない。
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解けぬ誤解のまま、また春が来て

2023年02月04日 | ブンガク部屋
彼女に恋愛感情を持ったことは一度もない。
年上の彼氏がいて、雨の日、映画館近くの薬局へ一緒に行ったときも何とも思わなかった。
「私のこと軽蔑する?」と言った彼女に、「軽蔑なんかしないよ」と答えたのは僕の本音だった。

それなのに、僕が恋愛感情を抱いていると思ったらしい。
隠れてバイクに乗るクラスメイトから、内緒話のようにそう聞かされた。

彼女と僕は友だちだった。
まばたきするほどの一瞬間だけ、接点を持った同級生だった。
放課後の書店で偶然顔を合わせ、そのまま利根川の土手を駆け上ったのをきっかけに一緒に遊ぶようになったのだけど、
僕はその頃消えない悲しみに髪が白くなりかけ、
彼女は誰にも言えない不安を抱えていた。

放課後に会ったのはほんの気まぐれでも、彼女と過ごす時間は優しかった。
必要とされたくて、会う約束を交わした。
でも、薬局へ行って数日ののち、彼女は一方的に僕を突き放した。
三学期終業式の放課後に電話を切られ、また一人になった。

春休みが明けると、彼女とクラスが一緒という皮肉な現実が待っていた。
しかし、空高く飛んでいった風船は二度と戻らぬものらしい。
一年間同じ教室だったのに、すれ違うこともなく、席も不思議と遠かった。
目が合うことも、日直もかぶらず、さよならも言わず、三月に離ればなれになった。
一年前の記憶が嘘のように、
彼女は一度も話したことのないクラスメイトよりもずっと遠くに見えた。

以来、偶然どこかで会うこともなく、30年近い歳月が流れた。
偶然会ったのは、彼女の父親の方だった。
いつかの放課後の書店のように、キツネのいる神社の境内に父親はにこやかに立っていた。

目元がどこか彼女と似ていた。
ふと懐かしさのようなものを覚えた。
が、むろん気まぐれのように過ぎていったあの頃の時間や誤解を父親が知るはずもなく、
ただ彼女が元気で過ごしていることを聞いた。
嫁いで東京に住み、母親になったという。

「相田みつを」の詩集はまだ持ってますか? 
そう訊きかけてやめた。
彼女は相田みつをの詩が好きだった。
放課後の書店で会ったときも、ちょうど相田みつをの詩集を買っているところだった。
もし、それが銀色夏生や宮澤賢治だったならば、何かが違っていたかもしれない。

誤解なんです、と言えるはずもなく、
それ以前に僕のことなどとっくに忘れているだろう。
思い出話を口にしたところでそれは野暮というもので、
記憶の中の解けぬ誤解は、この先いくつもの春を越えてもそのままに違いない。

別にそれでもかまわない気がした。
一年間同じ教室にいても、誤解を解こうとしなかったのだ。
年上の彼氏に嫉妬めいた感情を抱いたことのなかった僕にとって、
彼女にどう思われようが何でもよかったのかもしれない。
ただ、友だちですらなくなってしまったことが、心に隙間を覚えた。

気まぐれに過ぎ去った人には、
かけ違いの時間があるらしい。
かみ合わぬ想いはすぐに忘れると思っていたのに、
そう単純なものではないらしい。
回収されなかった伏線のように、花火は打ち上がらず、仄かな光のまま消えていく。
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羽生市民の心のコトノハは?

2023年02月02日 | コトノハ
羽生市役所の入り口近くに碑が建っている。
比較的大きなものだが、案外見過ごされがちかもしれない。

その碑は一体何か?
市民憲章である。

羽生市の市民憲章は、昭和54年11月2日に制定された。
このような憲章は各自治体がそれぞれ定めており、
住民たちの心のコトノハ、と言ってもいいだろうか。

羽生市では、先人たちが築いた郷土の歴史と伝統を大切にすることや、
羽生市民であることの誇りと自覚を持ち、
幸せと生きがいのあるふるさとを願って定めたという。
そのコトノハ(憲章)をあげてみよう。

 1.感謝の気持ちと 奉仕の心を伸ばします
 2.教養を深め 視野を広めます
 3.勤労に誇りを持ち 仕事に励みます
 4.環境をととのえ 住みよいふるさとに育てます
 5.きまりや秩序をまもり 明るい社会を築きます

ちなみに、当時の市広報を見ると、
市民から意見を募って制定されたという。
いくつか案があるのでどれがよいでしょう、というものだ。
委員会が発足し、市民の声を取り入れて制定された。

いずれも非の打ちどころがなく、石碑になってもおかしくないコトノハである。
特に「感謝の気持ちと 奉仕の心を伸ばします」は根幹を成すもので、
その気持ちと心があれば、
「住みよいふるさと」や「明るい社会」を築けるに違いない。

羽生市民憲章の碑は、市役所入口近くに建っている。
碑の前は来庁者の車が行き来しているから、
見学する際は交通に気を付けたい。
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