クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

1月4日に“心行地蔵尊”に触れたら…… ―パワースポット(33)―

2011年05月31日 | パワースポット部屋
さきたま古墳群のそばに“心行地蔵尊”が建っている。
小さなお地蔵さまで、決して目立つ存在ではないのだが、
案内看板も建っている。

行田図書館へ行くときに、
このお地蔵さまの脇を通っていくのだが、
初めて足を止めたのは1月4日。
“石の日”である。

そしてお地蔵さまの前で手を合わせてご挨拶。
石の日は石に触れるといいらしい。
何とはなしに、心行地蔵尊に触れた。

その数日後、古書店でずっと探していた本を見つけたのは、
ただの偶然だろうか。
ちなみに、心行地蔵尊に古書の発見を祈願したわけではない。

本は求めている人のところに行くというが、
願いもまたその想いの強さゆえに叶うのだろう。

想いが強ければ、意識せずともそれに向けて積み重ねるもの。
神仏が願いを叶えるのではなく、
全ては自分次第。
お地蔵さまは人々の願いに耳を傾けるだけ。
でも、ささくれだった心を、
優しい気持ちに満たしてくれるかもしれない。
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羽生の“産業文化ホール”はいつできた?

2011年05月30日 | 近現代の歴史部屋
羽生の図書館・資料館の目の前には、
“産業文化ホール”がぶっ建っている。
オープンしたのは昭和59年。

成人式はこの文化ホールで開催されているし、
コンサートや演劇など、
まさに羽生の文化の象徴と言える。
かの小澤征爾氏はここでコンサートを催した際、
その音響について絶賛したという。

北本から自転車で羽生城を見にやってきたお城男子は、
この文化ホールを見て目を丸くしていた。
「羽生はすごいもん持ってますね」
彼の目にはお城のように映ったのかもしれない。

文化ホールがオープンした当時、ぼくは5歳児。
この建物を初めて見たのがいつだったのか覚えていない。
どんな印象を受けて、初めて入ったのがいつだったのか……。

秋になると学校では芸術鑑賞会が企画されて、
文化ホールで演劇や音楽を鑑賞した。
それには行かず、釣りをしていたツワモノもいたが、
羽生っ子なら避けては通れない建物だろう。

ちなみに、大ホールのどん帳の絵は、
『田舎教師』の教え子“小林三季”の作である。
館林のつつじが岡を含む風景が描かれている。

この文化ホールの前で、告白をした人もいる。
絵的にはいいかもしれない。
ロケーションとしても使えるだろう。
その人にとって告白は、
大ホールに立つより緊張したかもしれない。
その恋が成就したかというと……
それは秘密にしておこう。
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奈良のシカは横断歩道を使う?

2011年05月29日 | 歴史さんぽ部屋
奈良のシカは神使というだけあって、よくできている。
道路を渡るときも、
横断歩道を使うらしい。
人気のなくなった夜の奈良公園で、
シカは優雅に道路を渡っていた……
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静御前はどこに眠っている?

2011年05月28日 | ふるさと歴史探訪の部屋
JR宇都宮線で寝過ごして、
目が覚めたら“栗橋”だったということがたまにあった。
とても静かな駅で、
電車を待つ間の読書には最適だったのを覚えている。

この栗橋駅を降りて、歩いて3分もかからないところに、
“静御前”の墓碑が建っている。
ここに、源義経の愛妾で知られる静御前が眠っているという。

鶴岡八幡宮にて、畠山重忠が打ち鳴らす銅拍子で、
源頼朝の前で舞いを舞った静御前。

しづやしづ賤のをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな
 吉野山嶺の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき

義経を追って奥州へ向かった静御前だったが、
武州栗橋の地で息を引き取ったと伝えられる。
義経は文治4年(1188)閏4月30日に自害して果てていた。

寝過ごして降り立った栗橋駅で、
ちょっと足を運んでみるにはいささか気のひける物語が眠っている。
800年以上が過ぎても、
義経を想う御前の心は変わらないままなのだろう……


静御前の墓碑(埼玉県旧栗橋町)
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司馬遼太郎の行きつけの大学は? ―作家の秘密道具(28)―

2011年05月27日 | ブンガク部屋
司馬遼太郎のよく知られた逸話だが、
例えば彼が幕末のことを小説に書こうとしたとき、
古本街から幕末にかかわる本が消えたという。
つまり、参考文献として司馬が買い占めたのである。

また、ある人から出身大学を訊ねられたとき、
司馬はこう答えたという。
「古本大学です」

その名の大学は実在しない。
古本街の本から独学で学んだという意味だろう。
それだけ司馬は勉強熱心で妥協を許さなかった。
小説を書くためではあったものの、
例え筆を執らなくとも学び続けていたに違いない。

ぼくは、図書館が司馬で言う「古本大学」に近い存在だと思っている。
いわば、町の大学である。
図書館と言えば、一般書や雑誌、児童書、新聞などが置かれ、
確たるテーマを掲げているのでなければ、
どの図書館もさほど大きな差はないだろう。

そんな図書館で、一番特色を感じるのは郷土資料コーナーである。
実は、その図書館でしか所蔵していない本が存在するのだ。
というのも、一般的に流通していない私家版や冊子が、
著者から直接寄贈されているからだ。
どの図書館でも見られるわけではないし、すでに手に入らないものが多い。
そこにこそ、図書館の特色と差異があるとぼくは思う。

むろん、その手の資料を多く所蔵しているところもあれば、
少ないところもある。
少ないから悪いというわけでは決してない。
そこに必要性を感じていない人もいるだろう。

ぼくは郷土史の多くを羽生の図書館で学んだ。
この図書館は郷土資料に力を入れていて、
郷土史家たちの書いたものが比較的多く収蔵されている。
この手のものは、ベストセラー本のように利用者が多いわけではない。
埃をかぶっているものもある。

しかし、その資料を手にとって、
いままで知らなかった新しい世界が拓けていくあの感覚は忘れられない。
たかだか数ページの冊子でも、海が広がっていた。
古いのだけど新しい、
マイナーなのだけど新鮮。

新しい視点は見慣れた世界を揺れ動かし、
その視角を導き出す知識が図書館に多く眠っていた。
郷土資料の多くは貸出禁止だから、
コピーをとるか足を運ばないと見られない。
「図書館大学に学んだ」と言いたい。

(ちなみにぼくは蔵書派で、必要な本は必ず購入している。
図書館はあくまでも出会いの場。)

町の図書館は気軽に入ることができる。
本は読まれなくなったというが、
読書の大切さが失われたわけではないし、
「むしろ読まれている」という意見もある。
土日になれば、図書館や書店に足を運び、
また週末を使って勉強する人もいる。

「大学」というと仰々しいかもしれないから、
「町の学校」と言ってもいい。
電子図書が普遍化すれば、
図書館のあり方は今後変わっていくのかもしれない。
形態が変わっても、人類の“知”に対する希求は不変だろう。
その知が世界を変える。

今日も明日も明後日も、
町の学徒たちは図書館に足を運んでいる。

※最初の画像は羽生市立図書館・郷土資料館(埼玉県羽生市)
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昔の“出産”は、産み終わったあとがすさまじかった?

2011年05月26日 | 奇談・昔語りの部屋
窓を開けると“カエル”の鳴き声が聞こえてくる。
カエル嫌いには憂鬱な季節だろうが、
ぼくはこの鳴き声が好きで仕方がない。

水の張られた田んぼの風景が好きだ。
水のある風景は心に効く。
田んぼのカエルは昔からその命をつないできたのだろう。

環境の変化によって、カエルも数が減ってきているという。
用水が完備され、安定した稲作が可能になった江戸時代など、
カエルの鳴き声はうるさいほどだったのかもしれない。
この恋の季節、
カエルたちは張り切って鳴いていたのだろう。

ところで、連綿と続く命は“出産”がなければ繋がらない。
出産は女性にとっても家族にとっても一大イベントである。
それはいまも変わらない。
しかし、その方法や考え方は現在と異なっている。

かつての出産は“坐産”が主流だった。
座ったまま赤ん坊を産んだのである。
産む場所も衛生管理の行き届いた病院などではない。
村はずれにある“ウブヤ”と呼ばれる小屋だった。

しかも、産み終わったあとがすさまじい。
産婦は横になることを許されず、
7日間は座り通さなければならなかったのである。

寝転がると頭に血がのぼるためや、
鬼に赤ん坊をさらわれないようにするためで、
出産を終えたばかりの女性にとっては苦痛の何ものでもなかっただろう。
睡眠をとってもならず、
身内の女性たちが大声で産婦の前で話し続けていたという。
そして7日目にようやく解放され、
出産祝いが執り行われたのだ。

こんな出産方法だったから、
命を落とした産婦もいる。
しかし、この方法が良しとされていたのだから、
誰も悪気はない。
それがかつて日本の出産の風習だった。

多くの血が流れ、死亡率も高かった出産は、
いまよりもずっと大きな出来事だったのだろう。
赤ん坊の死亡率も高く、
そのためいろいろな風習が生まれていく。
現代のように、スマートかつ衛生的な概念でいると、
歴史や「日本人」を読み誤ってしまう。

新緑が景色を彩り、数々の生命が息吹く季節は、
数々の命のドラマがある。
いまも昔も出産はドラマと言える。
そのドラマをかつてどう捉えていたかにまなざしを向けると、
日本の感性や価値観が垣間見えるだろう。
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20基以上も“埋没”している古墳群は? ―酒巻古墳群―

2011年05月25日 | 考古の部屋
“酒巻古墳群”は田畑が広がっている。
「古墳」がどこにあるのかわからない。
実は、ここは埋没された古墳群として知られている。

すぐそばを利根川が流れ、その堆積物と、
関東造盆地運動によって沈降したと考えられている。
完全に埋没していない古墳もあって、
憤頂が少しだけ顔を出している。

昭和の時代から発掘調査はされていて、
横穴式石室や形象埴輪列などが検出された。
古墳の形も、前方後円墳や円墳、帆立貝式前方後円墳などさまざまである。
これまで20基以上の古墳が確認されている。

埋没しているというところにロマンを感じる。
史跡に指定されているわけではないから、
現地に行ってもどこが古墳跡なのかもわからない。
そこが古墳群と知らなければ、
ただ通り過ぎるだけだろう。

だからこそいいとぼくは思う。
どでかく目立つものがある一方で、
人知れず埋没している古墳があってもいい。
酒巻古墳群のようなものを前にすると、
誰の目に見えて通り過ぎるものでも、
新しい“気付き”や“立ち止まる”感性でいたいと思うのだ。

※最初の画像は埼玉県行田市酒巻
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近代の乗り物は“テートー”と音が鳴る? ―乗合馬車―

2011年05月24日 | 近現代の歴史部屋
近代日本、郷土には“馬車”が走っていた。
“人力車”は明治維新後に登場したが、
庶民の普及にまでは至らなかった。

その一方で、明治3年に開業された“乗合馬車”は、
庶民の乗り物として親しまれるようになる。
馬が四輪車を引き、その中に5~10名の乗客が乗るというものだ。

立場(停留所)も一応あったが、手を挙げれば乗車することができる。
手綱を引くベットウは、馬車の通過をラッパで知らせた。
その音が「テートー、テートー」と鳴るから、
乗合馬車は通称“テートー馬車”とも“テト馬車”とも言われた。

羽生市では、明治27年には久喜と羽生とを結ぶ乗合馬車が存在していた。
運賃は、羽生久喜間で30銭だった。

明治34年には、羽生大越間に乗合馬車が開設される。
同44年には、加須→大越→弥勒→羽生→手子林→不動岡→加須を結ぶ行路を、
加須町の“小倉久蔵”が開業した。

馬車は2台。
加須と弥勒を7時に出発した乗合馬車は、
上の行路を2回半回っていた。
『田舎教師』(田山花袋作)の中にも、
「乗合馬車がおりおり喇叭を鳴らしてガラガラと通る」と描写されており、
庶民にとって乗合馬車の通る風景は馴染みだったのだろう。

馬車の車輪はゴムではなく木だったから、
砂利道を通ると「ガタクリ、ガタクリ」と音がなったという。
したがって、この乗合馬車を“ガタクリ馬車”や“ガタ馬車”と呼ぶ人もいた。

四輪車を引く馬は重労働だったに違いない。
坂道のある川越・松山間の馬車は馬を交換する必要があったし、
客が四輪車を押すことも珍しくはなかった。

行田在住の古老の話によると、
馬は汗をかくとうどんの“さし湯”を喜んで飲んだという。
これは、ベットウがうどんのさし湯を携帯していたのではなく、
うどん屋前の停留所の光景だったようだ。
また、ベットウは馬の汗を拭ってもいた。

のどかささえ漂う乗合馬車だが、
本格的に押し寄せた近代化の波によってその姿を消してしまう。
鉄道や乗合自動車の普及による消滅である。
埼玉県下では昭和9年を最後にその姿を消し、
いまでは書物を紐解かなければ知ることができない。

名もなきベットウと馬。
彼らにも名前があり、
乗合馬車の数だけ人生とそれぞれのドラマがあったのだろう。
庶民に愛された乗合馬車は、
近代を象徴するものでもあった。
そんな歴史の流れにそっと耳を澄ませば、
「テートー、テート」のラッパの音が聞こえてくるかもしれない。

※最初の画像は埼玉県羽生市弥勒の風景
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小説に描かれた羽生の“うどん屋”は? ―多佐倉―

2011年05月23日 | ブンガク部屋
暑い季節には、さっぱりした“うどん”が似合う。
個人的には、太くてコシのあるうどんが好きだ。
汁なしでもいい。

「うどんはのど越しを楽しむもの」と、
噛まずに飲み込む人もいた。
はじめは慣れないが、
やってみると気持ちのいいものである。
ただ、胃の消化具合と相談しなければならないのだが……

羽生の町で、小説に描かれたうどん屋がある。
その名は「多佐倉」。
現在はコンビニになっていて、
うどんの「う」の字もないのだが、
明治期には次のような光景が見られたらしい。

 発戸河岸の方に岐れる路の角には、此処らで評判だという饂飩屋があった。
 朝から大釜には湯が沸って、主らしい男が、大きなのべ板にうどん粉をなすって、
 せっせと玉を伸ばしていた。
 赤い襷を懸かけた若い女中が馴染らしい百姓と笑って話をしていた。
 (田山花袋作『田舎教師』より)

昼にうどんを食べると、なぜか『田舎教師』がよぎる。
上の描写ではなくて、「お種」が運んでくる「小川屋」の弁当。

ちなみに、「多佐倉」はないが、
小説に登場する「境界石」は現存している。
「青面金剛」と刻されており、
見た目は境界石というより庚申塔である。
長い間、道行く人を見守ってきたのだろう。

「多佐倉」のうどんの味は聞いたことがない。
汁は濃かったのか薄かったのか?
麺は太かったのか、それとも細かったのか?

宮内芳子氏が、いまは無きその店の外観を写真に収めており、
雰囲気だけを伺い知ることができる。
田舎ながらのうどん屋といったところだ。

これからどんどん暑くなり、
冷たいうどんがさらにおいしくなる。
あえて温かいうどんを食べてもいいだろう。
真夏の太陽の照りつける夏、
田山花袋も食べたかもしれない羽生のうどんを
楽しんでみてはいかがだろうか。

※最初の画像は境界石と多佐倉跡に建つコンビニ


羽生のうどん
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古河公方館跡へ行っても “よかんべ”? ―鴻巣御所―

2011年05月22日 | 城・館の部屋
鎌倉公方“足利成氏”が古河に移って以来、
「古河公方」として“享徳の乱”を引き起こす。
その居館跡(鴻巣御所)は現在“古河総合公園”になっていて、
春になると桃の花で彩られることでよく知られている。

館より桃。
古河公方よりゆるキャラといったところだろうか。

以前、同公園で開催されていた「よかんべ祭り」では、
ゆるキャラがちびっ子たちのアイドルになっていた。

「古河公方」と聞いてピンとくる人はどのくらいいるのだろう。
古河に住む人に少しだけ話題に出してみたら、
反応は極めて薄かった。
もちろん全住人が無関心のわけではないが、
史跡に行っても人影は少ない。

堀跡の沼では釣り人たちが釣り糸を垂れる。
どこからともなく野球部のかけ声も聞こえてくる。
歴女も歴男の姿も見えない。
肉食系公方の足利成氏がいまに蘇ったら、
大きな祭りを打ち上げるだろうか。
つはものどもの夢の跡は、静かに時を刻んでいる。


2010年よかんべ祭り(茨城県古河市)


古河総合公園にて





※最初の画像は「よかんべ祭り」にて
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金のオノを落としても女神さまが現れない池は? ―大宮公園―

2011年05月21日 | ふるさと歴史探訪の部屋
現在、大宮公園の池には水がない。
とても珍しい光景だ。
水質浄化のために水を抜き、
底の泥を天日干しにしているという。

大宮公園に親しい人は、
この池に親近感を持っているかもしれない。
ボートの浮かんでいる光景を覚えている。

沼や池は水が張っていると、
その水底に空想が刺激されるが、
水がないとだだっ広い空き地である。
元水底は土がひび割れ、
風情も何もない。

手品と同じで、
沼や池も底が見えないからいいのかもしれない。
間もなくすれば、人と水鳥、
多くの生き物たちの憩う場所に戻るのだろう。

干上がっている池を見ることの方が珍しい。
気になる人はいまの内に目にしておきたい。


大宮公園(埼玉県さいたま市)


旧見沼入江の名残でもある
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編集者と行く羽生城めぐりは?(38) ―松山城―

2011年05月20日 | 羽生城跡・城下町巡り
東松山に建つ松山城をはじめ、
菅谷館や杉山城など、
もちろん歴史の観点で見ると面白いのだが、
文化財行政的なまなざしを向けてみるのも興味深いものである。

畠山重忠の居館に比定される“菅谷館”が国指定の史跡になったのは、
昭和48年5月のこと。
しかし、比企郡には多くの城館が所在し、
遺構が良好に残っているものも少なくなかった。

そこで、平成14年に公的な調査機関が設立され、
同年から同18年まで国庫補助事業による調査が実施された。
そして平成20年3月に、
「比企城館跡群」という国指定の史跡となったのである。

菅谷館だけでなく、松山城跡、杉山城跡、小倉城跡が史跡として追加された。
広域指定として注目を集め、
「保存管理計画」も策定された。
史跡や遺構がいかに保存され、
整備・活用されていくか参考になるだろう。

お金では買えない歴史的価値の高いものを、
いかに守りいかに後世へ伝えていくかは、
現代に生きる我々の役目である。
保護と活用はなかなか難しい面もあるが、
そこに熱いまなざしを向ける人がいるからこそ、
文化は命を宿し、継承されていくのだろう。


松山城(埼玉県比企郡東松山市)














城からの眺め







※最初の画像は城のわきを流れる市野川
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「すてないでね」と言う羽生のお地蔵さまは?

2011年05月19日 | 歴史さんぽ部屋
羽生で見つけた看板。
お地蔵さまも言っている。
「あきかんをすてないでね」。

おそらく投げ捨てが多い場所なのだろう。
史跡などでも、
そこに捨てられている空き缶を見かけたりする。
モラルが問われるものだろう。

車に乗っていても、窓から平気で空き缶を投げる輩がいるが、
そんな光景を見たらお地蔵さまもきっと涙を流す。
そして、傘地蔵のように歩いて空き缶を持ち主のところに、
お礼参りに行くかもしれない……
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ガッツリ系ラーメンはお好き? ―ラーメン部(21)―

2011年05月18日 | グルメ部屋
一緒にいて食事のおいしい人がいる。
極端な話、そばにいるとお腹が空いてしまう人。
安心感とかテンションが上がるとか、
いろいろなものが作用しているのかもしれない。

逆に一緒にいてもおいしくない人もいる。
行儀が悪いとか、好き嫌いが激しいとか、
そういう人は食事でなくても距離を置きがちかもしれない。
食事は体を表すものだ。

一緒にいて食事のおいしい人と、熊谷のラーメン屋に入った。
つけ麺の「特盛り」とあるから、
それを注文してみる。
ぼくは大食らいではないが小食でもない。
男ならガッツリと、そんな乗りで。

ところが、そのつけ麺は想像以上の「特盛り」だった。
あまりに多いと、店員さんが「半端ないですよ?」と脅すところが多い。
それで量を下げることもある。

しかし、その店は店員さんが何も言わず、
特盛りつけ麺をドンと置いた。
スープは魚介系でかなりこってり。
特盛りでこってりでは、完食の難易度はかなり高い。
しかも太麺。

最初目にしたときから食べきる自信がなかった。
人間は大量の食事を見ただけで、
ある程度胃が膨らむという。
だから、バイキングでも大量に持ってくるのではなく、
少量ずつテーブルに置いた方が多く食べられるらしい。

案の定、そのつけ麺特盛りは完食できなかった。
2011年に入って初めてである。
おいしいのに食べられない。
もどかしい。
でも、物足りないよりずっと手応えはある。

ちなみに、ぼくらの前に若造2人が特盛りをかきこんでいた。
彼らは完食の勢いである。
少食を否定するつもりはないが、
ガッツリ食べる男子を見るのは気持ちがいい。
それが女子ならもう目が離せない。
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三蔵法師の骨が“埼玉”に眠ってる? ―玄奘三蔵霊骨塔―

2011年05月17日 | ふるさと歴史探訪の部屋
いまから5、6年前のこと、
「変なものがある」と教え連れてこられたのが、
“玄奘三蔵霊骨塔”だった。
『西遊記』に登場する三蔵法師の遺骨がそこに眠っているという。

中国風の門を潜ると、十三重塔がそびえ立っていた。
小さな公園のような場所になっていて、
確かに「変な」ような気がした。
しかし、その隠れスポット的な雰囲気は好きである。

三蔵法師とは実在した高僧で、
昭和17年にその遺骨が日本人の手によって偶然発見された。
その一部が日本にやってくると、
岩槻(現さいたま市)の“慈恩寺”に奉安された。

玄奘三蔵は唐の大慈恩寺にゆかりがあることと、
岩槻の浄国寺の仏眼舎利宝塔に安置されている仏眼舎利は、
玄奘三蔵が天竺に渡った際に拝領したものが、
巡り巡ってこの地にやってきた一部だという言い伝えがあるがために、
玄奘三蔵ゆかりの地として、遺骨が奉安されたのだろう。

ちなみに、浄国寺の仏眼舎利は羽生城将“菅原為繁(直則)”も、
一部携わっている言い伝えがある。

玄奘三蔵は僧であり、知識人である。
経典に対する疑問と真義を見いだすため、
原典を求めてインドへと旅立った。
629年(貞観3年)秋8月、
このとき玄奘三蔵は26歳だった(諸説ある)。

そして、帰還後は教典の翻訳に没頭する。
このとき多くの翻訳を完成させたのが大慈恩寺だった。
三蔵法師の書いた旅行記『大唐西域記』が『西遊記』の題材になり、
日本でもなじみ深い。

『西遊記』のアニメ版などでは中性的に描かれているが、
ぼくは“インディー・ジョーンズ”を彷彿とさせる。
国外への外出が許されない中、
好奇心と向学心に溢れ知の旅へと赴いた三蔵法師は、
かなり熱い知識人である。

そんな三蔵法師の遺骨が埼玉県に眠っていることは、
意外ではないだろうか。
地元の人にも「なんか変」と言われるこの意外性。
十三重塔の前で手を合わせれば、
天竺でなくとも、知の旅へと導いてくれるだろう。


玄奘三蔵の遺骨の眠る十三重の塔(埼玉県さいたま市)


写真は夜でどこか物々しいが、
日中に行けばさわやかで綺麗な場所である。
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