
騎西町(現加須市)に所在する“竜興寺”には、
足利持氏と春王丸、安王丸の供養塔が建っている。
これを建てたのは、
初代古河公方の“足利成氏”(あしかがしげうじ)である。
つまり、成氏は永享の乱にて永安寺で自害した父持氏と、
結城合戦に敗れ、この世を去った兄春王丸と安王丸の冥福を供養するために、
竜興寺に供養塔を建てたのだ。
享徳の乱において、成氏は騎西城を攻略し、
対する関東管領上杉氏の最前線基地として位置づけた。
攻略については、(康正2年)4月4日付の書状に、
(長尾景仲らが)武州崎西郡ニ相集、輝玄申間、将師於差副数多兵軍、
去年十二月三日・同六日至軍戦、為宗勇兵数百人討取候了、
残逆等方々ニ皆以令馳走候
と記し、三条実雅に報告している。
そのため、城の周辺でも合戦が起こっており、
南多賀谷や北根原(旧川里町)で両軍が衝突した。
この享徳の乱時に、河越城や江戸城が太田氏によって築城されるのだが、
騎西城も重要な場所として位置づけられていた。
このように古河公方ゆかりの騎西に、
成氏は竜興寺を修造し、父と兄のために供養塔を建てたのである。
ちなみに、同寺の中興開山の曇芳は、
足利持氏の伯父だという。
そして、足利成氏の子で二代目古河公方となった“政氏”は、
竜興寺に対して寺領を安堵している。
3基の供養塔は、埼玉県指定の文化財である。
足利持氏、春王丸、安王丸の供養塔が
騎西にあることを意外に思う人もいるかもしれない。
静かに佇む石像物だが、
500年以上前の戦乱をいまに伝えている。

埼玉県加須市(旧騎西町)
足利持氏と春王丸、安王丸の供養塔が建っている。
これを建てたのは、
初代古河公方の“足利成氏”(あしかがしげうじ)である。
つまり、成氏は永享の乱にて永安寺で自害した父持氏と、
結城合戦に敗れ、この世を去った兄春王丸と安王丸の冥福を供養するために、
竜興寺に供養塔を建てたのだ。
享徳の乱において、成氏は騎西城を攻略し、
対する関東管領上杉氏の最前線基地として位置づけた。
攻略については、(康正2年)4月4日付の書状に、
(長尾景仲らが)武州崎西郡ニ相集、輝玄申間、将師於差副数多兵軍、
去年十二月三日・同六日至軍戦、為宗勇兵数百人討取候了、
残逆等方々ニ皆以令馳走候
と記し、三条実雅に報告している。
そのため、城の周辺でも合戦が起こっており、
南多賀谷や北根原(旧川里町)で両軍が衝突した。
この享徳の乱時に、河越城や江戸城が太田氏によって築城されるのだが、
騎西城も重要な場所として位置づけられていた。
このように古河公方ゆかりの騎西に、
成氏は竜興寺を修造し、父と兄のために供養塔を建てたのである。
ちなみに、同寺の中興開山の曇芳は、
足利持氏の伯父だという。
そして、足利成氏の子で二代目古河公方となった“政氏”は、
竜興寺に対して寺領を安堵している。
3基の供養塔は、埼玉県指定の文化財である。
足利持氏、春王丸、安王丸の供養塔が
騎西にあることを意外に思う人もいるかもしれない。
静かに佇む石像物だが、
500年以上前の戦乱をいまに伝えている。

埼玉県加須市(旧騎西町)
上記の足利成氏からの手紙ですが、中の「輝玄申間」とはどういう意味なんでしょうか?検索をしてみたのですが、意味がよくわかりません。
~~と申すので
古文では「~~間」とは「~~故に」もしくは「~~ので」ということらしいのですがこの輝玄申間はいったいどういう言い回しなんだろうなと思っています。
お手数ですが、もしおわかりでしたら教えていただけませんでしょうか?