『近代作家自筆原稿集』(東京堂出版)に収録された“嘉村礒多”の自筆原稿は美しい。
「美しい」の表現が適切かはわからないが、
判を捺したような綺麗な文字を書く。
字はその人を映す鏡のようなものだから、
礒多は几帳面で、完璧主義者だったのかもしれない。
しかし、果たしてそれだけだろうか。
嘉村礒多は私小説作家である。
主な作品に「秋立つまで」「途上」がある。
自分の周辺から素材をとり、
過去をも題材にして書く。
人は経験したものを書くのが最も書きやすいが、
礒多の場合、それをモデルにするのではなく、
そのままむき出しにして表す。
告白をすることで、罪悪感や劣等感から自己を救済する手法である。
いわゆる自己救済のわけだが、
書くことで救済されるならば、
その後書く必要性はなくなってしまう。
救われてしまった作家は、もう書くことができないのだ。
むろん、時間が経てば別の問題に悩まされたり、
一度書いた題材が再び心を疼かせるかもしれない。
しかし、この手法では連続して作品を書き続けることはできない。
すぐに行き詰まってしまう。
自己をのみ題材にする限り、書くべき内的衝動はすぐに枯れる。
現に礒多は寡作のままこの世を去る。
礒多はペンを執ることが苦しかったのではないだろうか。
いざ机に向かっても、
原稿用紙を睨んだまま、一向に書き出さない(せない)。
彼が師事した“葛西善蔵”のように。
善蔵は1日に2枚書ければ有頂天だったという。
礒多もそんな遅筆だったとすれば、
原稿用紙の枚数よりも、
升に埋める文字を書く時間の方が多かったのかもしれない。
ゆっくりと丁寧に文字を書く。
次に書く行は思い浮かんでこない。
再び書き出すまでたっぷり時間はある。
あるいは何度も清書をしたのかもしれない。
礒多の美しい自筆原稿は、
寡作作家の苦しみを映し出している気がしてならない。
「美しい」の表現が適切かはわからないが、
判を捺したような綺麗な文字を書く。
字はその人を映す鏡のようなものだから、
礒多は几帳面で、完璧主義者だったのかもしれない。
しかし、果たしてそれだけだろうか。
嘉村礒多は私小説作家である。
主な作品に「秋立つまで」「途上」がある。
自分の周辺から素材をとり、
過去をも題材にして書く。
人は経験したものを書くのが最も書きやすいが、
礒多の場合、それをモデルにするのではなく、
そのままむき出しにして表す。
告白をすることで、罪悪感や劣等感から自己を救済する手法である。
いわゆる自己救済のわけだが、
書くことで救済されるならば、
その後書く必要性はなくなってしまう。
救われてしまった作家は、もう書くことができないのだ。
むろん、時間が経てば別の問題に悩まされたり、
一度書いた題材が再び心を疼かせるかもしれない。
しかし、この手法では連続して作品を書き続けることはできない。
すぐに行き詰まってしまう。
自己をのみ題材にする限り、書くべき内的衝動はすぐに枯れる。
現に礒多は寡作のままこの世を去る。
礒多はペンを執ることが苦しかったのではないだろうか。
いざ机に向かっても、
原稿用紙を睨んだまま、一向に書き出さない(せない)。
彼が師事した“葛西善蔵”のように。
善蔵は1日に2枚書ければ有頂天だったという。
礒多もそんな遅筆だったとすれば、
原稿用紙の枚数よりも、
升に埋める文字を書く時間の方が多かったのかもしれない。
ゆっくりと丁寧に文字を書く。
次に書く行は思い浮かんでこない。
再び書き出すまでたっぷり時間はある。
あるいは何度も清書をしたのかもしれない。
礒多の美しい自筆原稿は、
寡作作家の苦しみを映し出している気がしてならない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます