クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

詩人のいる街で“春”を迎えると?

2010年02月28日 | ブンガク部屋
春になると妙に“詩”が読みたくなる。
高校三年の春に『中原中也詩集』を読んだせいか。
あるいは、詩人の“正津勉”先生に出会ったのが、
春だったためか……

ぼくの郷里の“羽生”は詩人の町でもある。
古くは“木戸範実”が武家歌人として歌集を著し、
「二流相伝」という独自の歌学を生み出した。
文化人として名を馳せた幸手城主“一色直朝”も、
木戸範実をかなり意識している。

その孫の“木戸元斎”は羽生城自落のあと越後へ移り、
越後歌壇に大きな影響を与えた。
“直江兼続”と親交を結び、
必ずと言っていいほど歌会に参加している。

一方で、近代になると、
新体詩人として“太田玉茗”がいる。
生まれは行田だが、羽生所在の建福寺の住職となり、
田山花袋と深い親交を結んでいた。

また、戦後最大の詩人と言われた“田村隆一”が、
羽生に疎開したことはあまり知られていない。
「ああ上野駅」を作詞した“関口義明”氏も羽生出身である。
また300校近く校歌の作詞をした“宮澤章二”や、
童謡詩人の“矢辺たけを”氏も輩出している。

そんな羽生では「ふるさとの詩」が行われている。
現在活躍中の詩人“アーサー・ビナード”氏も、
ふるさとの詩で賞に輝いた経歴を持つ。

そんな詩の街で育ったせいではないが、
春になると妙に詩を読みたくなるのだ。
春という一つの節目が、
そうさせるのかもしれない。

別れがあれば出会いもある。
人は一つのところに留まり続けることはできない。
何も変わっていないようでも、
どこかで何かが変わっている。
特に春はそんな季節。
そんなあやふやさそのものが、
詩なのかもしれない。

最後に、“石垣りん”の「銭湯で」という詩を載せて、
この記事の締めとしよう。

「銭湯で」
東京では
公衆浴場が十九円に値上げしたので
番台で二十円払うと
一円おつりがくる。

一円はいらない、
と言えるほど
女たちは暮しにゆとりがなかったので
たしかにつりを受け取るものの
一円のやり場に困って
洗面道具のなかに落としたりする。

おかげで
たっぷりお湯につかり
石鹸のとばっちりなどかぶって
ごきげんなアルミ貨。

一円は将棋なら歩のような位で
お湯の中で
今にも浮き上がりそうな値打ちのなさ。

お金に値打ちのないことのしあわせ。
一円玉は
千円札ほど人に苦労もかけず
一万円札ほど罪深くもなく
はだかで健康な女たちと一緒に
お風呂などにはいっている。
(『石垣りん詩集』思潮社より)
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隠れ家メニュー“ドジョウの串焼き”はどんな味?

2010年02月27日 | グルメ部屋
「太郎店」(たろうだな)は、
隠れ家レベルで言ったらかなり上である。
羽生史談会の佐藤さんに教えられなければ、
例え前を通り過ぎても、
そこが店だとは気付かなかったと思う。

「太郎店」は川魚料理屋だ。
中でも珍しいのは“ドジョウの串焼き”。
その名の通り、焼き鳥のようにドジョウが串焼きになっている。
甘さの中に苦みがあって、
「珍味」と言えるだろう。

4代目という女店主に話を聞くと、
開店から100年以上は経っているという。
行けばわかるが、まさに昔ながらの店である。

ドジョウの串焼きは、かつて新聞にも取り上げられた。
しかし、自ら表立って宣伝することはないらしい。
さすが上級隠れ家。

「太郎店」へ行くには“予約”が必要だ。
アポなしで行くのは控えたい。


太郎店(埼玉県羽生市)
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クニのウラ部屋雑記(141) ―“参拝デー”に行きませんか?―

2010年02月26日 | ウラ部屋
“羽生古城天満宮”は効く。
この神社に参拝した人から、
「サクラ、サク」のメールを貰った。
その勢いで今度は本命に望むのだろう。

「あなたは何か“儀式”をしてますか?」と冗談めいて問われたとき、
ぼくは少し考えてから「参拝」と答えた。

羽生古城天満宮に参拝することが習慣化している。
習慣と儀式は違うが、
週に一度行く参拝は、「儀式」の領域なのだと思う。

人間、神様にお願い事を言っても、すがってはいけない。
神様は願い事を聞いてはくれるが、
それを叶えたりはしない(とぼくは思っている)。
最終的に叶えるのは自分自身だ。
(例えば“カイジ”だって、神に祈っても兵藤和尊に負けたではないか)

参拝をしてお祈りをする。
それは自分自身を見つめるのと似ている。
また、お願いを言うことは、
自分自身の目標の確認でもある。

何を求め、それを叶えるためにはどうしたらいいのか?
自分がどのような方向に進もうとしているのか?
ならば、具体的にどう踏み出せばいいのか?

意図せずとも、自ずとそういう意識の流れになる。
そして、その願いを叶えるべく行動に出る。
わずかな行動だとしても、
小さな積み重ねがやがて目標に届く山となる。

行動をすれば、そこから生まれる縁もある。
人と人との繋がりも生まれる。
それは、神様が運んだ縁かもしれないが、
お金では買えないものである。
自ずと大切に深めようとするし、
上からものを見ようなんて気持ちは起こらない。

つまるところ、参拝は自分探しに似ている。
もし迷うことがあったら、
一度手を合わせみるといい。
神様はヒントを与えるかもしれないが、
答えを出すのは自分自身である。

「週に一度」とは言わないまでも、
月に一度は“参拝デー”があっていいと思う。
もちろん神社仏閣でなくていいし、
“毛利元就”のように朝日に手を合わせてもいい。
きっと、自分自身の何かを見付ける。

自分自身を知ることは、
他者を知ることでもある。
人に優しくなれる。
誰かを傷つけたり、裏切ることもなくなるのではないか。
絶対とは言わないが、
ニュースで流れる痛ましい事件は少なくなるかもしれない。

ぼくは信心深いわけではないし、
宗教的な信仰もない。
ただ、天神様が好きなだけだ。

天神様は話を聞いてくれる。
時たま、どこかの会社社長みたいに、
「やってみはなれ」と言う。
そんな声を聞いたら、もうやるしかないだろう。

そして、誰かがぼくのために祈ってくれるのだとしたら、
やはり頑張ろうと思うのだ。
一途に……
天神の杜に咲く梅の花のように……



羽生古城天満宮(埼玉県羽生市東5丁目)
一般的には「東谷の天神様」と言われる。


羽生古城天満宮を指し示す道しるべ
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歴史ダイエットは効くのか?(8) ―利根川(行田~羽生)―

2010年02月24日 | 歴史さんぽ部屋
羽生市稲子で講座を開くことになっている。
前後わからないが、
別の講師が羽生城について話すというので、
急遽利根川沿いの史跡について取り上げることになった。

文禄3年(1594)に、羽生領川俣で2つに分かれていた利根川を締め切るまで、
一般的に会の川が本流だったと言われる。
(ただし、天正2年に上杉謙信が増水により利根川渡河ができなかっため、
 すでに本流ではなかったと思われる)

昨年の夏、須影公民館で会の川沿いの歴史を取り上げた。
今回はもう一つの流路“浅間川”である。

利根川については、諸先輩が熱心に取り組んでいる。
ぼくが話すのは恐縮なのだが、
郷土史に首を突っ込むきっかけは利根川だったのも事実だ。
愛着もひとしおである。

太古から流れ続けている利根川と、
そこに生きた人々の軌跡を辿ってみたい。
とりあえず、利根川沿いを走ってみることにしよう。

利根大堰
 ↓
須加城
 ↓
白山神社
 ↓
川俣関所址
 ↓
川俣締切址
 ↓
上川俣圦址
 ↓
内手
 ↓
亀開城
 ↓
龍蔵河岸
 ↓
旧川俣駅
 ↓
千手院
 ↓
葛西用水路元圦
 ↓
諏訪神社
 ↓
稲子河岸
 ↓
稲子圦址
 ↓
源昌院
 ↓
発戸河岸
 ↓
田舎教師詩碑
 ↓
風張城
 ↓
避来矢神社
 ↓
惣徳院
 ↓
御廟塚古墳
 ↓
村君鷲宮神社
 ↓
永明寺古墳
 ↓
千方神社
 ↓
延命寺
 ↓
掘の内
 ↓
スカイスポーツ公園
 ↓
常木神社



利根大堰



須加城



川俣関所址



川俣締切址碑と〆切神社碑(羽生道の駅)



上川俣圦址碑



内手(羽生支城)



亀開城(羽生支城)



旧川俣駅



葛西用水路元圦



稲子圦址



田舎教師詩碑



風張城(羽生支城)



御廟塚古墳



永明寺古墳



堀の内(羽生支城)



スカイスポーツ公園




会の川沿いの歴史探訪については
拙作「子ども古利根川探訪―羽生篇―」(「文芸埼玉」80号掲載)を参照
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館林の“分福茶釜”にはフタがない? ―稲子の伝説―

2010年02月23日 | 奇談・昔語りの部屋
高校3年のロードレース大会で、
絶対に負けたくない相手がいた。
いざスタートしてリードしていたが、
折り返し地点をまわったあと、
一向にすれ違わない。

結局、一度も相手の顔を見ずにゴールする。
人づてに相手の順位を聞くと、
ぼくのうしろにいたことがわかった。
それならなぜ一度もすれ違わなかったのだろう。
まるで、タヌキにでも化かされたような……

ハッと思う。
コースを通った“稲子”(いなご)には、
かねてからタヌキにまつわる言い伝えがある。
もしかすると、タヌキに化かされたのかもしれない。

いまからずっと昔のこと、
羽生領稲子村にはある“お坊さん”が大尽の家に住んでいた。
石臼を使ってさまざまな薬草を調合し、
村人たちから親しまれていたという。

ところが、ある真夏の日、
寝ているお坊さんの尻からシッポが生えているのを女中が見付けた。
屋敷の中は大騒ぎである。
その騒ぎに目を覚ましたお坊さんは、
慌てて外に飛び出る。
屋敷の者たちが部屋に押し寄せたときには、
石臼と茶釜のフタがポツンと残っていたという。

人々は館林の“茂林寺”のタヌキだったのだと噂した。
茂林寺は分福茶釜で有名な寺である。
以来、稲子の人たちは、
「分福茶釜にはフタがない」と言うようになったそうな……

ロードレース大会の日、
茂林寺のタヌキがたまたま稲子に来ていたのだろうか。
あるいは、茶釜のフタを取りに来たのかもしれない。
負けたくない相手に勝ったもののピンと来ず、
まるでキツネに……
もとい、タヌキにつままれたような感覚だったのを覚えている。



羽生市稲子の田園風景
最初の画像は利根川の土手の上


参照文献
掘越美恵子・田村治子『羽生昔がたり』(羽生市)
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“テスト会場”は何年経ってもピリピリしているか? ―羽生文化会館―

2010年02月22日 | 近現代の歴史部屋
羽生文化会館(商工会館)が取り壊され、
跡地には青空が広がっている。
同館が建ったのは、昭和39年3月30日。
市制施行10周年を記念しての建立だった。

葛西用水路に架かる旭橋のたもとに建ち、
古くから羽生に住む者には馴染みのある建物だったと思う。
館内には物産展示室、結婚式場、図書室などが設けられていた。

ぼくはソロバンのテストをここで受けた記憶が強い。
テストというせいもあって、
記憶の中の文化会館はどこかピリピリしている。

高校に入る前に、制服関係で来た気もするが、
何年たってもテスト会場である。
跡形もなく取り壊されたいまも……

ちなみに、昭和39年の羽生市人口は約4万4千人。
同年、市内全中学校にプールが完成し、
前年には学校給食センターができている。

新しい時代の波がどんどん押し寄せていた時代だった。
文化会館の完成は、
そんな高度経済成長に向かっていく時代の象徴だったと言えよう。

しかし、月日は流れ、建物は老朽化する。
いつしかそこから人影はなくなり、沈黙に包まれた。
転換期と言えるいま、
館の消滅はひとつの時代の終わりを告げたのかもしれない。

ぼく自身、もうソロバンをはじいていない。
あの頃ぼくを夢中にさせたファミコンも壊れてしまった。
文化会館のあとには別の何かができるという。
時代の流れは何を失い、何を運んでくるのだろう。
ポッカリあいた空は、
どこまでも青く澄んでいる……


次第にその姿を消していく文化会館(商工会館)
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さすらいの“イタッチ”をどう使うか? ―タウン記者のウラ話(23)―

2010年02月21日 | ブンガク部屋
2月20日付の「埼玉新聞」に、
ムジナもんと仲間たちの“四コマまんが展”が掲載された。
この展示は4回目を数え、
今年は402作品が“羽生市民プラザ”で展示されている。

注目すべきは、55作品も応募した“小松博文”氏である。
かねてから、キャラクターデザインを手掛けてきたという小松氏は、
四コマまんがもコツコツと描いてきた。

見ると、羽生ならではの素材を使っているものも多い。
行き詰まったときは、よく市内を散歩していたと話す。
マンガを描くことで、
それまで見えなかった町が見えてくる。
そんなことを教えてくれる。

なお、関係者から話を聞くと、
全国から寄せられた作品は、
全体的にレベルが上がっているという。

また、“イタッチ”を使うネタが増えたとのこと。
“イタッチ”はムジナもんの対極に位置する存在だが、人気が高い。
このキャラをどう使うかによって、
ムジナもんの世界に彩りが増すと言えよう。
おそらく“イタッチ”はB型だと思う。

ムジナもんと仲間たちの四コマまんが展は、
2月18日~3月5日(金)まで。
羽生市民プラザ2階ギャラリーで、
午前9時から午後10時まで展示されている。
(最終日は午後5時で終了)




ムジナもん(羽生のイメージキャラクター)
2010年は羽生で“ゆるキャラサミット”が開催予定。



イタッチ



羽生市民プラザ


羽生市ホームページ
http://www.city.hanyu.lg.jp/index.html

web埼玉(埼玉新聞情報サイト)
http://www.saitama-np.co.jp/


※お忙しい中、取材に応じて下さった小松博文氏と、
 羽生市キャラクターグッズ検討会の皆さんに感謝します。
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城跡で“春”の足音を告げるのは? ―羽生古城天満宮―

2010年02月20日 | ふるさと歴史探訪の部屋
2010年も“羽生古城天満宮”の梅が咲いた。
天神様と言ったら、
やはり梅の花である。

かつて同社を訪れた儒者“亀田鵬斎”は、
天神様の梅の花が咲き誇れば、
学問も栄えると言った。
羽生は『田舎教師』の舞台になったこともあって、
草深き「田舎」のイメージがある。

しかし、武家歌人の“木戸範実”や“木戸元斎”、
グローバルな視点を持って活躍し、
かな文字論者だった“清水卯三郎”や、
漢学者の“渋井太室”、
新体詩人の“太田玉茗”や、
詩人の“宮澤章二”など多くの文化人を輩出している。
各時代にも、古城天満宮の梅は満開だったのだろう。

「学問」は学校で学ぶものだけに限らない。
「生涯学習」の言葉があるように、
学校を出れば勉強は終わるという時代は遠の昔に過ぎた。
レール以外のものを「趣味」とやや軽んずる人もいるが、
趣味こそ生涯学習である。

学校で出された課題をこなすのは、労働に似た「勉強」と言える。
逆に、自主的に学ぼうとするものこそ「学習」だ。
(先日一緒に呑んだ“たぬき”さんもそう言っていた)
常日頃からテーマを持っている人は、
24時間ずっと「学習中」と言えるだろう。

『プロ論』を見ても、物事を成す人に共通しているのは、
「学習人」であるということ。
常に何かを学んでいる。

古城天満宮の梅の花はひっそりと、静かに咲く。
決して、己を強くアピールしようとしない。
まるでこの地で孤高に生きた羽生城主のように……

梅の花が咲き誇れば、
学問も盛んになるという。
それだけ笑顔をもたらすのだろう。
前向きに生きる人は、
春の光りを浴びる花のように、
キラキラと輝いている……


羽生古城天満宮に咲く梅の花
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一刀両断にされた草食系男子の恋は? ―岡田十松―

2010年02月19日 | ふるさと人物部屋
2月18日付の「埼玉新聞」第一面のさきたま抄に、
“岡田十松吉利”について触れられていた。
2010年の大河ドラマ「龍馬伝」に絡めての記事で、
なかなかおもしろい視点だと思う。

岡田十松は、羽生市砂山出身の剣術家である。
流派は神道無念流。
志多見の松村家で剣術を学んだあと、
麹町に道場を開いていた“戸賀崎熊太郎暉芳”の門を叩いた。

皆伝の印可を授けられたのは22歳のとき。
師から道場を任され、
門下生は激増したという。
これは十松の人柄によるものが大きいだろう。

亡くなったのは文政3年(1820)8月15日。
56歳の生涯だった。

その墓碑は東京にある。
羽生にはない。
市指定の文化財になっているものがあるが、
あれは岡田十松が父親のために建てた墓碑である。
十松が眠っているわけではない。

ところで、砂山に何人かの同級生がいる。
もう10年前のことだが、
いまでいう草食系男子が砂山の女の子に恋をした。
彼女はどちらかというと狩猟系。
草食系ではない。

それで、草食系男子の恋はどうなったかというと、
完膚無きまでに叩きのめされた。
いま思い返してみると、岡田十松の剣さばきもあんな鋭さと
キレのよさだったのではないかと思うほど、
見事な一刀両断だった。
泣いて電話をよこした彼の声が忘れられない。

墓碑銘によると、十松は厳しさの中にも、
人を思いやる優しい心を持っていたようである。
草食系男子の恋は砂山の露と消えた。
しかし、十松が一刀両断をしたあとには、
救いや希望があったに違いない……


岡田十松吉利が父親のために建立した墓碑。
羽生市指定文化財。

※最初の画像は砂山の島山寺(廃寺)遠景
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クニのウラ部屋雑記(140) ―恋よりも激しく―

2010年02月18日 | ウラ部屋
3月6日(土)に“パープル羽生”で講演をする予定だ。
「みらい」と羽生の「お知らせ版」2月号に、
その概要が掲載された。

2紙ともぼくの顔写真が載ったのだが、
後者は少々ぼけている。
本人がぼけているから、まあいいかなと思う。

演題は「羽生城と師とわたし」。
講座ではなく講演なので、私事の話題が多いと思う。

「師」というのは、羽生城研究に生涯を捧げた“冨田勝治”先生だ。
2008年に99歳で亡くなるまで研究を続けた。
ぼくとはちょうど70歳も年が離れていたが、
師に出会えたことは人生の財産だと思っている。

師に惚れるというのは、
ややもすると恋よりも激しいかもしれない。
恋とは別の感情である。
そんな内容のことを、羽生城史と絡めて話したい。

ところで、パープル羽生での講演を合わせると、
人前で話をする回数が15回になる。
拙い話を聞いて下さった方や、
話を持ちかけてくれた方に大変感謝している。
ありがたい。

しかし、数をこなしてくると、
そろそろ閑古鳥が鳴くのではないと不安になってくる。
パープル羽生での定員は80名。
例え1人でも聞いてくれれば全力を尽くすが、
閑古鳥の大群が飛来しては寂しさは否めない。

掲載からしばらく経って、
担当者に応募の様子を訊いてみた。
人前で話すのとはまた別の緊張である。
だから、「定員を20名オーバーしましたよ」の言葉には救われた気がした。
応募して下さった方に感謝したい。

ちなみに、拙ブログで何度も書いていることだが、
人前で話すのは得意ではない。
言葉がスラスラ出てこない。
弁の立つ政治家などを見ると惚れ惚れしてしまう。

物事を成すには努力しかないが、
縁起をかつぎたくなるのは人情というものだろう。
例えば、受験生が“カツ”を食べるのもその一例だ。

何かを断ったり、
不吉なものを一切遠ざけたりする。
例えば政治家も、選挙前にはそういう縁起かつぎをするのだろうか。

かつて戦国武将は、出陣するときは縁起をかつぎまくっていた。
生死を分ける戦いである。
武運を祈らざるを得なかっただろう。
まじない、占い、迷信がかなり合戦に影響を及ぼしていた。

それらを執り行っていたのが“軍師”である。
いわば彼らは“まじないし”の要素を色濃く持っていた。

もしいま、ぼくの前に軍師がいたら、
何かアドバイスを欲することは言うまでもない。
門に包丁を置いてそれを踏み越えたり、
破軍星に祈りを捧げたりするだろうか。
ただ、3月6日が「凶」と出ても、無視するけれども……

いずれにせよ、開き直りが肝心である。
自信が持てたらしめたもの。
破軍星を味方につけられるだろう。
恋よりも激しく話したい。
羽生城を
師を……



羽生古城天満宮(埼玉県羽生市東5丁目)


羽生市ホームページ
http://www.city.hanyu.lg.jp/index.html
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ふらっと羽生の街を歩きませんか? ―ぶらって羽生―

2010年02月17日 | ふるさと歴史探訪の部屋
2月15日付の「埼玉新聞」に、
“ぶらって羽生”について報じられている。

これは、武蔵野銀行と立教大学観光学部が作成した羽生マップ。
羽生駅周辺の「まち歩きMAP」である。
歴史やグルメ、
秘密の抜け道や隠れ家的なスポットなど、
羽生の魅力を学生目線で紹介している。

羽生在住の人から、一度も来たことがない人まで、
「ぶらって羽生」を片手に街歩きをしたくなるだろう。

ぼくがこれを見てふと目を留めたのは、「田口肉店」。
羽生の肉屋さんはおおよそ月曜日が休みなのだが、
田口肉店は日曜日が定休日。
つまり、月曜日にコロッケやメンチカツが買えるということだ。

これは嬉しい。
早速、「田口肉店」へ足を運ぶ。
「ぶらって羽生」にもその写真が載っているように、
おふくろの味という感じだ。
その味はあたたかい。

同紙によると、「ぶらって羽生」は好評で追加依頼が来ているとのこと。
武蔵野銀行の本支店や、羽生市役所、
埼玉県内の東武鉄道各駅で配布している。

ちなみに、「田口肉店」にも「ぶらって羽生」が置かれていた。
ページを捲ると、
コロッケの香ばしい香りがするかもしれない。



ぶらっと隠れ小径を歩く。
小林秀三終焉の地付近。


「ぶらって羽生」
武蔵野銀行、立教大学観光学部製作

※最初の画像は、羽生の宝登山神社の裏に伸びる抜け道
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クニのウラ部屋雑記(139) ―たぬきは“jazz”がお好き?―

2010年02月16日 | ウラ部屋
人は見かけによらぬものである。
中学時代の同級生の“たぬき”さん(動物占いによる)は、
こよなくジャズを愛している。

月に買うCDの枚数は、
軽く20枚は越えているという。
「アマゾン」で買っているらしいが、
彼は「魔の森」と呼んでいた。
(トーマス・マンの小説みたいに)

たぬきさんはブログも運営していて、
日々ジャズネタを綴っている。
本名を明かしていないから、
もし教えられなければ、
書いている人がたぬきさんだとは100%わからなかっただろう。

なぜなら、ジャズを聞いているイメージではないからだ。
どちらかというと、日本の歌謡曲を聴いてそうだし、
秋葉系の曲が好きだと言っても、
違和感はないかもしれない。

それなのに、ブログではコアなジャズネタを綴っている。
おそらく同級生の誰もが、
それを見て彼とは気付かないと思う。
なかなか熱い男である。

羽生の「とんとん拍子」で一献傾ければ、
ぼくの知っているたぬきさんになる。
彼にしても、ぼくが羽生城に萌えたり、
ものを書いたりしていることは想像もしていなかったようだ。
お互い様である。

マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を読んでいるたぬきさんは、
本の話ができる。
学生時代の話題も尽きないが、
本の話は個人的にとても嬉しい。
村上春樹から魯迅、東洋哲学や宇宙の話など、
たぬきの七変化のごとく、
いろいろな話題が出てくる。

彼と話をしていて気持ちがいいのは、
差別をしないことだ。
妙なこだわりを持っているが、
線引きはしていない。
野性のたぬきがどうかは知らないが、
縄張り以外のものは寄せつけないという狭い了見ではないことは確かだ。

終始、紳士的な酒だったと思う。
静かに嗜み、かつダンディに(?)酒を傾ける。
ジャズ喫茶の雰囲気が、
たぬきさんから漂っていただろうか。

「とんとん拍子」を出たあとは「味てつ」へ向かった。
道路にはうっすらと雪が積もっている。
たぬきさんと二人で塩ラーメンを啜った。
こうして書いているいまも食べたくなるくらい美味い。

「何かあったん?」とぼくは訊く。
今回の会合は、前日にたぬきさんから誘われたからだった。
「人恋しくなっちゃってさ」と、たぬきさんは言う。
「女の子を誘えばいいのに」
「男同士で飲みたかったんだよ」
「オレに惚れてんの?」
「まあね」
たぬきさんは冗談口調で言って笑った。

「味てつ」を出てぼくらは別れる。
「突然誘って悪かったね」
「仕事帰りに直行だったから楽だったよ」
「これから歩いて帰るん?」
「まあね。たぬきさんはこれからアマゾン?」
「まあね」

ぼくらは手を振って別れる。
今夜も彼の頭上には、
ジャズの雨が降り注ぐのだろうか。
星降る夜みたいに……
たぬきさんは背中を向けると、
ゆっくり魔の森へと消えていった。



「とんとん拍子」(埼玉県羽生市南7丁目)


「味てつ」(同市南5丁目)の広東メン


国道122号沿いのジャズ喫茶『ドルフィン』
http://blog.goo.ne.jp/toyokoba1030
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“ムジナもん”と遊びませんか?(49) ―イオンモール羽生―

2010年02月15日 | ムジナもんの部屋
イオンモール羽生にいる“ムジナもん”にお気付きだろうか?
藍染めオブジェと一緒に、
中央エントランスに悠々と展示されている。
この展示は2月15日(月)まで。

例えば、ムジナもんのいる場所で待ち合わせをしたとする。
相手は大切な人だとしよう。

“藍”染めオブジェの前であるがゆえに、
“愛”が深まるかもしれない。
ムジナもんのシッポの白い花は、
きっと幸せを届けてくれる。
だから、待ち合わせ場所は、
藍染めオブジェとムジナもんのいる下で……
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クニのウラ部屋雑記(138) ―羽生マップ―

2010年02月13日 | ウラ部屋
絵と写真。
似ているようでも、見る者に与える印象はまるで違う。
某グループが、羽生市内のあるマップを作っている。

そのマップに使われているのは写真ではなくイラストである。
一緒に同じ委員をしている人に声を掛けられたのと、
別の日に市内の神社仏閣について訊ねてきた人をきっかけに、
マップ製作に携わることになった。

主には、神社仏閣の監修。
これまで拙ブログで多くの写真を載せてきたが、
イラストはない。
それだけにイラストというのが妙に新鮮である。

描く人の人柄も表れているのか、
暖かみがあってやさしい。
下手な写真よりずっといい。
史跡巡りといういささかお堅いイメージが、
やわらかくなって親近感がわく。

地域の情報を発信しようとする熱い人たちがいるものである。
その地域のイメージとは真逆のものをアピールすれば、
それなりのインパクトはある。
しかし、そのベースとして地域財産という視点は必要不可欠だろう。

その土地が長年培ってきた風土や伝統はあるものだ。
それを使わずして新しいものを作ったところで、
一過性のものにすぎない。
すなわち、歴史をないがしろにしては新しい発展はない。

地域財産を生かすのも殺すのも、
そこに住む人たちである。
その人たちが郷土に誇りを持つか否かは、
大きな分かれ目だ。
その後の歩むべき道が大きく異なる。
そういう意味で、地域財産やグルメ情報を掲載したそのマップは、
啓発的な要素を含んでいる。

完成次第、改めて紹介したい。


参考URL
「羽生市観光グルメ ビジネス シティガイド」
http://www.hanyu-city.com/index.html
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400年後のいま“渡し場”に佇むのは?

2010年02月12日 | ふるさと歴史探訪の部屋
小雨の降る中、榎さんが空を見上げていた。
そこは“榎の渡し”と言われているところ。
近くを会の川が流れ、
かつては舟が行き来していたのだろう。
現在は民家や会社が建ち、知らなければ通り過ぎてしまうが、
渡しを見守っていた榎さんは、
いまも静かに佇んでいる。

※榎の渡しは埼玉県羽生市上新郷にある。

参照記事
「徳川家康鷹狩の跡 ―川沿いの郷土史(8)―」
http://blog.goo.ne.jp/kuni-furutone118/e/b28c900bcbe0486031b07bcf9b46440e
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