おうち時間、資料を介して訪れる戦国時代。
大河ドラマで戦国時代が舞台になると、必ずと言っていいほど織田信長は登場します。
一方、上杉謙信は出たり出なかったり……。
「麒麟がくる」では武田信玄は登場したものの、上杉謙信は出てこないようです。
信長は謙信に対し、初期の頃は親和的態度を示していました。
が、のちに両者は対立します。
織田家の軍勢が手取川の戦いで上杉勢と干戈を交えたことはよく知られており、
勝利したのは謙信でした。
この戦いで信長自身は出陣していません。
また、羽柴秀吉も柴田勝家と不和を起こして帰国し、参陣していない状況でした。
したがって、手取川の戦いは織田氏と上杉氏の戦いの本格的な戦いと言うより、
前哨戦の序盤のようなものです。
もし、両氏が全面対決していたら、どのような戦いが繰り広げられたでしょう。
しかし、天正6年(1578)に上杉謙信が死去し、
同10年に織田信長が本能寺の変で倒れたため、両者の直接対決はなりませんでした。
謙信は春日山城内で倒れ、その数日後に息を引き取っています。
倒れてから死に至るまでの数日間、
謙信の意識は混濁し、意志の疎通を図ることも難しかったようです。
謙信の死は、すぐに信長の元へ届きました。
武田信玄と雌雄を争った謙信の死です。
敵対する信長にとっては吉報でしょう。
天正6年比定7月22日付で、信長は関東へ次の印判状を送っています。
書状披見候、仍謙信死去事、無是非次第候、以道相果候処、残多候、就中、至関東出勢之儀、可有達之候、得其意、万方計策肝要候、猶万以仙千世可申候也、謹言
七月廿二日 信長 (黒印・天下布武)
三楽斎
前半部分が謙信の訃報に触れた信長の言葉です。
手段を講じて謙信を討ち果たすはずだったが、
それが叶わず残念である、という意になるでしょう。
謙信など自分が本気を出せばひねり潰してやったものを、といったところですが、
直接対決は永遠に叶わなくなったので何とでも言えます。
ただ、かつて謙信に敬愛の情を抱いていたきらいがあるため、
その死は単純に「吉報」の側面だけではなかったかもしれません。
ところで、この印判状を受け取ったのは関東の太田資正です。
このとき常陸国片野城にいましたが、
かつての岩付城主であり、上杉謙信から厚く信任されていた国衆でした。
永禄4年(1561)の謙信の小田原城攻めでは第一陣に布陣し、
蓮池門まで突破したという逸話も残されています。
資正もまた、後北条氏に対抗しうる勢力として謙信を信頼し、期待していました。
もし謙信が後北条氏を征伐したならば、資正は武蔵国における有力武将として、
関東秩序の一端を担っていたでしょう。
しかし、謙信と資正の関係がおかしくなり始めたのは、越相同盟の成立辺りからです。
後北条氏を征伐するはずの謙信が同氏と手を結ぶことになったため、資正は憤慨。
謙信に見切りをつけることになります。
完全に謙信からそっぽを向くわけではありませんでしたが、
心はだいぶ離れてしまったようです。
そんな資正が、新たな後北条氏対抗勢力として着目したのが織田信長でした。
天正5年12月時点で資正父子は信長の家臣である小笠原氏とやりとりをしており、
織田勢の関東出陣を要望しています。
謙信が死を迎える以前より、信長に期待を寄せているのです。
一方、謙信の死によって勃発した「御館の乱」において、
上杉景勝が武田勝頼と同盟を結んだことにより、
武田氏と後北条氏が火花を散らすようになります。
この抗争においても資正は武田氏側に立ち、打倒後北条氏の姿勢を崩しません。
そんな武田氏と織田氏は敵対関係にあることは周知の通りで、
天正3年には長篠の戦いを繰り広げています。
資正にとって「忠義」のために働くと言うより、
信長だろうと勝頼だろうと、後北条氏を倒すためならば力を尽くすといったところでしょう。
しかし、信長と勝頼はいずれも天正10年に死去。
資正にとっては皮肉な結末と言えます。
謙信もすでに亡く、信長が関東へ派遣した滝川一益も、
後北条氏と神流川で干戈を交えて敗北し、
伊勢への帰国を余儀なくされています。
太田資正の夢も、時代の節目にあって一区切りを付けざるを得ませんでした。
先の信長が資正に宛てた印判状は、文言としては短いものです。
しかしながら、天下布武を推し進める信長の野望と、
関東静謐を目指して戦い続けた謙信の死、
そして、打倒後北条氏のために戦国大名と交流を持つ資正の想いが絡み合う天正6年時点の情勢が表されています。
このとき、信長は関東へ出撃すると伝えています。
印判状を目にした資正は、後北条氏征伐に向けてさらに意欲を燃やしたはずです。
この信長が、家臣の裏切りよって死去するとは、さすがの資正も思いもしていなかったでしょう。
その訃報に触れたとき、どんな感情が胸をよぎったでしょうか。
武田信玄、上杉謙信、武田勝頼、織田信長と、それぞれの死に触れた太田資正。
それでも彼の想いは消えることはなく、
後北条氏の滅亡は、明智光秀を討ち果たした豊臣秀吉が小田原城へ乗り込む天正18年(1590)まで待たなければならないのでした。
大河ドラマで戦国時代が舞台になると、必ずと言っていいほど織田信長は登場します。
一方、上杉謙信は出たり出なかったり……。
「麒麟がくる」では武田信玄は登場したものの、上杉謙信は出てこないようです。
信長は謙信に対し、初期の頃は親和的態度を示していました。
が、のちに両者は対立します。
織田家の軍勢が手取川の戦いで上杉勢と干戈を交えたことはよく知られており、
勝利したのは謙信でした。
この戦いで信長自身は出陣していません。
また、羽柴秀吉も柴田勝家と不和を起こして帰国し、参陣していない状況でした。
したがって、手取川の戦いは織田氏と上杉氏の戦いの本格的な戦いと言うより、
前哨戦の序盤のようなものです。
もし、両氏が全面対決していたら、どのような戦いが繰り広げられたでしょう。
しかし、天正6年(1578)に上杉謙信が死去し、
同10年に織田信長が本能寺の変で倒れたため、両者の直接対決はなりませんでした。
謙信は春日山城内で倒れ、その数日後に息を引き取っています。
倒れてから死に至るまでの数日間、
謙信の意識は混濁し、意志の疎通を図ることも難しかったようです。
謙信の死は、すぐに信長の元へ届きました。
武田信玄と雌雄を争った謙信の死です。
敵対する信長にとっては吉報でしょう。
天正6年比定7月22日付で、信長は関東へ次の印判状を送っています。
書状披見候、仍謙信死去事、無是非次第候、以道相果候処、残多候、就中、至関東出勢之儀、可有達之候、得其意、万方計策肝要候、猶万以仙千世可申候也、謹言
七月廿二日 信長 (黒印・天下布武)
三楽斎
前半部分が謙信の訃報に触れた信長の言葉です。
手段を講じて謙信を討ち果たすはずだったが、
それが叶わず残念である、という意になるでしょう。
謙信など自分が本気を出せばひねり潰してやったものを、といったところですが、
直接対決は永遠に叶わなくなったので何とでも言えます。
ただ、かつて謙信に敬愛の情を抱いていたきらいがあるため、
その死は単純に「吉報」の側面だけではなかったかもしれません。
ところで、この印判状を受け取ったのは関東の太田資正です。
このとき常陸国片野城にいましたが、
かつての岩付城主であり、上杉謙信から厚く信任されていた国衆でした。
永禄4年(1561)の謙信の小田原城攻めでは第一陣に布陣し、
蓮池門まで突破したという逸話も残されています。
資正もまた、後北条氏に対抗しうる勢力として謙信を信頼し、期待していました。
もし謙信が後北条氏を征伐したならば、資正は武蔵国における有力武将として、
関東秩序の一端を担っていたでしょう。
しかし、謙信と資正の関係がおかしくなり始めたのは、越相同盟の成立辺りからです。
後北条氏を征伐するはずの謙信が同氏と手を結ぶことになったため、資正は憤慨。
謙信に見切りをつけることになります。
完全に謙信からそっぽを向くわけではありませんでしたが、
心はだいぶ離れてしまったようです。
そんな資正が、新たな後北条氏対抗勢力として着目したのが織田信長でした。
天正5年12月時点で資正父子は信長の家臣である小笠原氏とやりとりをしており、
織田勢の関東出陣を要望しています。
謙信が死を迎える以前より、信長に期待を寄せているのです。
一方、謙信の死によって勃発した「御館の乱」において、
上杉景勝が武田勝頼と同盟を結んだことにより、
武田氏と後北条氏が火花を散らすようになります。
この抗争においても資正は武田氏側に立ち、打倒後北条氏の姿勢を崩しません。
そんな武田氏と織田氏は敵対関係にあることは周知の通りで、
天正3年には長篠の戦いを繰り広げています。
資正にとって「忠義」のために働くと言うより、
信長だろうと勝頼だろうと、後北条氏を倒すためならば力を尽くすといったところでしょう。
しかし、信長と勝頼はいずれも天正10年に死去。
資正にとっては皮肉な結末と言えます。
謙信もすでに亡く、信長が関東へ派遣した滝川一益も、
後北条氏と神流川で干戈を交えて敗北し、
伊勢への帰国を余儀なくされています。
太田資正の夢も、時代の節目にあって一区切りを付けざるを得ませんでした。
先の信長が資正に宛てた印判状は、文言としては短いものです。
しかしながら、天下布武を推し進める信長の野望と、
関東静謐を目指して戦い続けた謙信の死、
そして、打倒後北条氏のために戦国大名と交流を持つ資正の想いが絡み合う天正6年時点の情勢が表されています。
このとき、信長は関東へ出撃すると伝えています。
印判状を目にした資正は、後北条氏征伐に向けてさらに意欲を燃やしたはずです。
この信長が、家臣の裏切りよって死去するとは、さすがの資正も思いもしていなかったでしょう。
その訃報に触れたとき、どんな感情が胸をよぎったでしょうか。
武田信玄、上杉謙信、武田勝頼、織田信長と、それぞれの死に触れた太田資正。
それでも彼の想いは消えることはなく、
後北条氏の滅亡は、明智光秀を討ち果たした豊臣秀吉が小田原城へ乗り込む天正18年(1590)まで待たなければならないのでした。