クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

天正6年、織田信長から太田資正へ届いた印判状は? ―おうち戦国―

2021年01月30日 | 戦国時代の部屋
おうち時間、資料を介して訪れる戦国時代。

大河ドラマで戦国時代が舞台になると、必ずと言っていいほど織田信長は登場します。
一方、上杉謙信は出たり出なかったり……。

「麒麟がくる」では武田信玄は登場したものの、上杉謙信は出てこないようです。
信長は謙信に対し、初期の頃は親和的態度を示していました。
が、のちに両者は対立します。
織田家の軍勢が手取川の戦いで上杉勢と干戈を交えたことはよく知られており、
勝利したのは謙信でした。

この戦いで信長自身は出陣していません。
また、羽柴秀吉も柴田勝家と不和を起こして帰国し、参陣していない状況でした。
したがって、手取川の戦いは織田氏と上杉氏の戦いの本格的な戦いと言うより、
前哨戦の序盤のようなものです。
もし、両氏が全面対決していたら、どのような戦いが繰り広げられたでしょう。

しかし、天正6年(1578)に上杉謙信が死去し、
同10年に織田信長が本能寺の変で倒れたため、両者の直接対決はなりませんでした。
謙信は春日山城内で倒れ、その数日後に息を引き取っています。
倒れてから死に至るまでの数日間、
謙信の意識は混濁し、意志の疎通を図ることも難しかったようです。

謙信の死は、すぐに信長の元へ届きました。
武田信玄と雌雄を争った謙信の死です。
敵対する信長にとっては吉報でしょう。
天正6年比定7月22日付で、信長は関東へ次の印判状を送っています。

 書状披見候、仍謙信死去事、無是非次第候、以道相果候処、残多候、就中、至関東出勢之儀、可有達之候、得其意、万方計策肝要候、猶万以仙千世可申候也、謹言
   七月廿二日  信長      (黒印・天下布武)
    三楽斎

前半部分が謙信の訃報に触れた信長の言葉です。
手段を講じて謙信を討ち果たすはずだったが、
それが叶わず残念である、という意になるでしょう。

謙信など自分が本気を出せばひねり潰してやったものを、といったところですが、
直接対決は永遠に叶わなくなったので何とでも言えます。
ただ、かつて謙信に敬愛の情を抱いていたきらいがあるため、
その死は単純に「吉報」の側面だけではなかったかもしれません。

ところで、この印判状を受け取ったのは関東の太田資正です。
このとき常陸国片野城にいましたが、
かつての岩付城主であり、上杉謙信から厚く信任されていた国衆でした。
永禄4年(1561)の謙信の小田原城攻めでは第一陣に布陣し、
蓮池門まで突破したという逸話も残されています。
資正もまた、後北条氏に対抗しうる勢力として謙信を信頼し、期待していました。
もし謙信が後北条氏を征伐したならば、資正は武蔵国における有力武将として、
関東秩序の一端を担っていたでしょう。

しかし、謙信と資正の関係がおかしくなり始めたのは、越相同盟の成立辺りからです。
後北条氏を征伐するはずの謙信が同氏と手を結ぶことになったため、資正は憤慨。
謙信に見切りをつけることになります。
完全に謙信からそっぽを向くわけではありませんでしたが、
心はだいぶ離れてしまったようです。

そんな資正が、新たな後北条氏対抗勢力として着目したのが織田信長でした。
天正5年12月時点で資正父子は信長の家臣である小笠原氏とやりとりをしており、
織田勢の関東出陣を要望しています。
謙信が死を迎える以前より、信長に期待を寄せているのです。

一方、謙信の死によって勃発した「御館の乱」において、
上杉景勝が武田勝頼と同盟を結んだことにより、
武田氏と後北条氏が火花を散らすようになります。
この抗争においても資正は武田氏側に立ち、打倒後北条氏の姿勢を崩しません。
そんな武田氏と織田氏は敵対関係にあることは周知の通りで、
天正3年には長篠の戦いを繰り広げています。
資正にとって「忠義」のために働くと言うより、
信長だろうと勝頼だろうと、後北条氏を倒すためならば力を尽くすといったところでしょう。

しかし、信長と勝頼はいずれも天正10年に死去。
資正にとっては皮肉な結末と言えます。
謙信もすでに亡く、信長が関東へ派遣した滝川一益も、
後北条氏と神流川で干戈を交えて敗北し、
伊勢への帰国を余儀なくされています。
太田資正の夢も、時代の節目にあって一区切りを付けざるを得ませんでした。

先の信長が資正に宛てた印判状は、文言としては短いものです。
しかしながら、天下布武を推し進める信長の野望と、
関東静謐を目指して戦い続けた謙信の死、
そして、打倒後北条氏のために戦国大名と交流を持つ資正の想いが絡み合う天正6年時点の情勢が表されています。

このとき、信長は関東へ出撃すると伝えています。
印判状を目にした資正は、後北条氏征伐に向けてさらに意欲を燃やしたはずです。
この信長が、家臣の裏切りよって死去するとは、さすがの資正も思いもしていなかったでしょう。
その訃報に触れたとき、どんな感情が胸をよぎったでしょうか。

武田信玄、上杉謙信、武田勝頼、織田信長と、それぞれの死に触れた太田資正。
それでも彼の想いは消えることはなく、
後北条氏の滅亡は、明智光秀を討ち果たした豊臣秀吉が小田原城へ乗り込む天正18年(1590)まで待たなければならないのでした。
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出陣に際しては、馬や鎧はきらびやかに? ―おうち戦国―

2021年01月26日 | 戦国時代の部屋
おうちの中で資料を介して訪れる戦国時代。

後北条氏は出陣にあたって、武具や馬、身だしなみについて気を配っていたようです。
というのも、普段から合戦の準備を怠ることのないよう指示を出しており、
それが案外細かいのです。

例えば、天正13年(1585)比定4月5日付の「道祖土図書助」に宛てた北条氏政の印判状。
きたる出陣の支度にあたって、
鑓に金銀の箔を推し直すことや、一騎、自身の仕立てについては、馬や鎧等をきらびやかにするよう指示。
また、皮笠、立物、具足類のものを修復して綺麗にし、
小旗類は見苦しくないよう新たに仕立てるよう伝えています(『戦国遺文 後北条氏編』2793)。

 来調儀、別而諸軍之支度下知之間、前ゝ着到之辻、弥可致覚悟条々
 一指物四方
 一一騎、自身之仕立、馬鎧等迄、綺羅美耀(きらびやか)ニ可致之、諸武具委細、先着到ニ載之事
 右、先帳ニ一ゝ雖有之、猶改而申出候、皮笠、立物、具足類之物をハ、悉修復(綺)麗ニ致立、小旗類見苦敷をハ、何をも新可仕立、出来之日限五月五日を可限者也、仍如件

 四月五日(印文「有効」)
    道祖土図書助殿

戦場のおけるドレスコードのような印象さえ持ちます。
身なりは口ほど物を言う。
あまりにみすぼらしい恰好は合戦の準備不足を物語るものであり、
軍事的にも精神的にもよろしくなかったのでしょう。
きらびやかな格好で臨めば、経済的にも軍事的にも強く見えたのかもしれません。

出陣準備の慌ただしさが伝わってきます。
現代の感覚で言えば、試合前にユニホームを整え、
持っていく道具を確認するとともに、必要に合わせて修復や新調したりするといったところでしょうか。
それなりに時間を要しますし、出費もかかります。
思い付いてすぐに試合に臨めるわけではありません。

ただし、道祖土氏へ伝えているのは支度の指示です。
4月5日付の印判状で、上限を5月5日日までとしています。
緊急事態というわけではなく、もし敵勢の急襲があった場合は、
武具を修復したり新調したりする余裕はないでしょう。

ちなみに、4月5日付で同様の印判状を発給したのは、道祖土図書助だけでなく、
金子中務丞や鈴木雅楽助などに数名がいます。
きらびやかに……と指示をしているのは、道祖土氏と内田兵部丞です。
この両者にはそう指示するほどの何かがあったのでしょうか。

戦国時代において、派手好きな人もいれば地味を好む人もいたはずです。
きらびやかの定義は何だったのでしょう。
ブランドものの武具に身を包むか、
それとも買い物上手に適度な予算で整えるか……。
戦国大名のみならず、
国衆にしても武具や身だしなみからその人の性格が垣間見られたかもしれません。
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上野国における上杉憲政の祈願所は? ―おうち戦国―

2021年01月24日 | 戦国時代の部屋
おうちの中で資料を介して訪れる戦国時代の三夜沢赤城神社(群馬県前橋市)。
ここには、戦国乱世を生きた人々の足跡が残っています。

関東管領上杉憲政が、長尾景虎(上杉謙信)に奉じられて関東へ出陣したのは、
永禄4年(1561)のことです
それ以前に、勢力伸張を図る後北条氏に対抗するべく、
扇谷上杉氏と古河公方足利氏と連合を組み、大軍をもって河越城(埼玉県川越市)を包囲した憲政でしたが、
北条氏康の夜襲によって敗北。
その後、北条勢の上野国進攻によって憲政は平井城(群馬県藤岡市)から退去し、
越後の長尾景虎のもとへ赴くのでした。

その後、景虎は上洛を果たし、将軍足利義輝から憲政の進退について一任されます。
お膳立ての整った謙信は、関東の秩序を取り戻すべく、
憲政を奉じて関東へ出陣。
憲政にとっては待ちに待った越山です。
後北条氏に一矢報い、旧領を取り戻す。
そんな意気込みだったでしょう。
永禄3年9月27日付で、憲政は赤城神社宮司へ次の判物を出しています。

 就越山当山へ立願之子細候、於向後者為祈願所、抽精誠祈念可為肝要候、殊不入事得其意候、仍如件
  永禄三年
    九月廿七日        光哲(花押)
  赤城山大夫
   奈良原紀伊守殿

光哲とは上杉憲政です。
三夜沢赤城神社へ越山について立願し、
今後は祈願所とするとともに、税などを免除する旨が書かれています。
謙信が春日山城を出撃したのは8月下旬なので、
約1ヶ月後にこの判物を発給したことになります。

翌年、憲政は長尾景虎とともに後北条氏の本拠地である小田原城を攻めます。
関東の国衆たちはこぞって景虎に従属の意を示し、
小田原城包囲網は11万5千余騎という大軍に膨れ上がっていました。
かつての河越城包囲網を上回る兵力です。
憲政は溜飲が下がる思いだったでしょうか。

とはいえ、小田原城攻略は成りませんでした。
上杉憲政と長尾景虎は、関東の国衆たちを引き連れて鶴岡八幡宮へ移動。
同社において、憲政は関東管領職と上杉氏の名跡を景虎へ譲渡するのです。

このように、憲政が奉じられて景虎が関東へ出陣した永禄3年を境に、
関東戦国史は大きく動いていくことになります。
後北条氏、上杉謙信、武田信玄は、関東を舞台に激しく火花を散らします。
憲政を奉じた謙信の関東静謐という目的は早々に成し遂げられるかと思いきや、
国衆たちの離反にもあい、泥沼化していくのでした。

憲政は天正年間に越後で起こった御館の乱で死去するため、
泥沼化していく謙信の戦いを見続けたことになります。
永禄3年に三夜沢赤城神社に判物を出したときの胸中と、
謙信が死去する天正6年(1578)とでは、どのような変化があったでしょう。

三夜沢赤城神社は、赤城神社の山腹に鎮座しています。
あくまでも僕の感覚ですが、観光地として手が加えられているわけではなく、
いにしえから積み重ねられた時の重みを感じます。

初めて同社を訪れたとき、時間が遅かったこともあってほかに参拝客はおらず、
境内は静寂に包まれていました。
そのときの印象が強いのかもしれません。
世間が少し浮ついているときなど、
三夜沢赤城神社のような落ち着いた静かな場所を求める気がします。
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星川沿いの関根伏越は何を語る? ―ひとり散歩―

2021年01月17日 | 歴史さんぽ部屋
藤間橋から少し下ると行田市関根に入ります。
大曲橋の少し先に調節堰があり、土手下には関根神社が鎮座しています。
旧関根村の村社であり、藤間神社から下って1つ目の神社です。
大曲橋は、昭和32年の架橋。
以前は、その名が示す通り大きく蛇行して流れていました。

関根神社からもう少し下ると、関根伏越が存在します。
星川の下を、関根落という排水路が潜って流れているわけです。
目立つものではなく、規模としても小さいため、
自転車や車では見落としてしまうかもしれません。

かつて、関根落は星川に注ぎ込んでいました。
しかし星川が増水すればうまく注ぎ込めず、下流域ではしばしば冠水したそうです。
当然、農作物に影響が及びます。
その影響は小さなものではありません。
下流域の人々にとって、関根落の冠水は悩みの種であり、
藤間村と真名板村(いずれも現行田市)は、上流域を相手に訴訟を起こしたこともありました(『行田市史』)。

星川が大きく蛇行するほどの低地です。
常に排水の問題があったのでしょう。
地域の中央では田んぼも深く、水をかいてもきりがなかったのだとか(同)。

現在のように、星川の下に落とし堀を潜らせる伏越にしたのは昭和9年のことです。
悲願叶って、関根伏越が完成。
ところが、飲み口が浅かったため、増水時には再び冠水に見舞われます。
そこで、人々の尽力によって再び改修工事が実施されることになりました。
現在の形となるには、昭和60年を待たなければなりません。
何気なく土手下に存在するものですが、長年にわたる人々の苦労と努力があるわけです。

関根に実家を持つ後輩がいます。
家は農業を営んでおり、後輩は専業農家ではありませんが、
夏や秋になると農業の手伝いをしているそうです。
そのお宅が先祖代々農家だったならば、関根落の冠水と向き合ってきた一人になります。
のどかな田園風景の広がる関根ですが、
水と共存、あるいは戦い、湿地を生かした知恵をもって生活を営んできた歴史が眠っていると言えます。

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もしも上杉謙信が関東に本拠を移していたら…… ―おうち戦国―

2021年01月14日 | 戦国時代の部屋
新型コロナウィルスの流行し始めた頃、
地方へ移り住む人が増加するとの予想が立てられました。
しかし、実際には都内へ移住する人が増えているそうです。
というのも、テレワークの浸透により、通勤に費やす時間が改めて見直され、
どうせ住むなら職場の近くに……と考える人が増えたからだと言います。

職場と自宅。
確かに、両者が近ければ利点は多いかもしれません。
通勤時間が減った分、別のことに費やせますし、
また職場で何かあった場合、あるいは必要なことが生じたとき、
すぐに対応することもできます。

織田信長は、勢力拡大に合わせて本拠を変えたことでも知られています。
清州城や岐阜城など居城を変え、最後には安土城へ移り住みました。
もし本能寺の変で最期を遂げなければ、
別の城へ移っていた可能性もあります。

居城を変えたのは、何も信長が飽きっぽい性格だったからではないでしょう。
天下布武のため、いわば天下統一事業を推進するべく、
必要に合わせ、合理的に本拠を変えていたわけです。
引っ越し好きだったからでもありません。
天下平定を射程に入れた信長にとって、
住み慣れた場所への愛着や執着は薄かったようです。

関東に住む人間として、もし上杉謙信が信長のようにあちこち居城を変えていたならば、
歴史はどうなっていただろうと思います。
謙信は越後の戦国大名であり、その本拠は春日山城(新潟県上越市)です。
謙信は永禄3年(1560)に関東へ出陣し、
翌年に関東管領に就任しました。
すなわち、関東の将軍こと古河公方を補佐し、関東を静謐に治める立場になったわけです。

では居城を関東へ移そうか、と謙信が思っていれば歴史は変わったはずです。
謙信が関東にいるだけで、
敵対する後北条氏や武田信玄の動きが抑圧された可能性は高いからです。

謙信は生涯春日山城を本拠としました。
したがって、関東へ出陣しても、合戦後は春日山城へ帰っていきます。
厩橋城(群馬県前橋市)で年を越すことはあっても、
そこを居住地に定めるわけではありません。
いずれは関東に背を向け、三国峠を越えていくのです。

かつてほんの一時期、上杉謙信の判断によって、
前関東管領の上杉憲政と関白の近衛前嗣(前久)が古河城(茨城源古河市)に居住したことがありました。
関東管領に就任した謙信が古河公方に擁立したのは足利藤氏です。
その藤氏の本拠である古河城へ、憲政と前嗣を入城させたのでした。

あえて「もし」と言ってしまいますが、
このとき謙信が古河城に程近い関宿城(千葉県野田市)か、
あるいは栗橋城(茨城県五霞町)などに新たな本拠地を定めたならば、
古河公方―関東管領体制は、案外長く維持されたのではないでしょうか。
ほぼ関東の中心にいることで、国衆たちが謙信から離反することはなく、
後北条氏や武田信玄の動きも活発化しなかったかもしれません。

反上杉氏の反撃は、謙信が越後へ帰国してからのことです。
不在の隙を狙って活発化するのであり、それに呼応するように国衆たちが離反するのです。
国衆が離反しなければ、
謙信は小田原城を包囲した11万5千騎余もの軍事力を維持したまま、
関東を平定することも夢ではなかったように思います。
越後と関東を往復することによって、戦いは泥沼と化し、関東静謐は遠のくのでした。

何も謙信が悪いわけではありません。
居城を変えず、本拠地を守ることは戦国大名の常識でした。
自らの意志で本拠を変えることなど、想像もしなかったかもしれません。
後北条氏も武田信玄も、本拠を変えずに謙信と戦っています。

謙信は関東管領に就任したことで、関東が職場の一つになりました。
電話もなければ、テレワークの「テ」の字もなかった時代のことです。
三国峠は現代人の感覚よりも険しく、
春日山城と関東の距離は遠かったことでしょう。
味方の危機を知り、深雪をかき分けて三国峠を越えたこともありました。
関東静謐には、物理的な遠さがあったわけです。

ちなみに、古河城に居住した上杉憲政と近衛前嗣は、
後北条氏の動きが活発化したことにより、間もなく同城から退去しています。
前者は越後へ、後者は京へ戻りました。
そして、足利藤氏も在城し続けることができずに退去。
彼らにとって、越後へ帰国する謙信の背中は、
ずっと遠くに見えたかもしれません
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戦国時代の1月、領主たちは公方家へ何を贈った? ―おうち戦国―

2021年01月07日 | 戦国時代の部屋
おうちの中で資料を介して訪れる戦国時代。

関東の将軍として位置していたのは古河公方です。
もともとは鎌倉に御座所がありましたが、足利成氏のときに関東管領上杉憲忠を殺害し、
古河(茨城県古河市)へ移座し、古河公方と称されるようになりました。

成氏のあとは、政氏、高基、晴氏、義氏と続きます。
第4代古河公方足利晴氏が死去した永禄3年(1560)に、
長尾景虎(上杉謙信)が上杉憲政を奉じて関東へ出陣します。

この古河公方と、補佐役である関東管領を巡って、後北条氏と上杉謙信は衝突。
が、永禄12年(1569)の越相同盟の成立にともなって、
公方は足利義氏、管領は上杉謙信ということが定まります。
義氏を古河公方として謙信に承認させるのに羽生城主広田直繁と皿尾城主木戸忠朝が一枚噛んでいますが、
ここでは詳しく述べません。

古河公方は関東の将軍です。
新年を迎えると、関東の国衆(地域的領主)たちは贈り物をして挨拶を述べます。
面白いのは、誰が何を公方へ送り、その返礼として何を下賜されたのか記録が残っていることです。
例えば、天正5年(1577)では、「御年頭申上衆之御返之模様之事」として、
忍城主成田氏をはじめ、騎西城主小田氏や太田城主由良氏、館林城主長尾氏の贈り物が記録されています。

(前略)一、御太刀一腰・一荷五種進上 成田下総守
      御替無之、但御太刀被遣之候、
      御書計被遣之候、代官御対面アリ、号須賀者参(後略)


この年、忍城主成田氏は太刀一腰と一荷五種を足利義氏へ献上しました。
その返礼はないとしつつも、太刀と御書を下賜されています。
年頭の挨拶にあたっては、成田氏長自身が直接赴くのではなく、
代官の須賀氏が代理人になっています。

そんな公方への贈り物の中に、白鳥を献上する国衆がいます。
館林城主長尾顕長もその一人です。
『館林市史 資料編2』が述べているように、
白鳥の進上は関東の格式ある家の儀礼行為だったようです。
進上された白鳥はペットとして飼うのではありません。
食用や矢羽、防寒具等に用いられたということです。

現在、館林市内の多々良沼などで白鳥を目にすることができます。
戦国時代当時も飛来していたとすれば、
長尾氏は館林領内に点在する沼から白鳥を調達していたのかもしれません。

ちなみに、大河ドラマ「麒麟がくる」の中でも、
織田信長から将軍足利義昭へ和解の印として白鳥を贈っていました。
白鳥は、当時の贈答品として特別な意味合いがあったようです。
和解の印だけでは足利義昭の怒りを鎮めることはできませんでした。
その後白鳥はどうなったのでしょう。
せめて、将軍に八つ当たりされることなく静かに絞められたか、
あるいは逃がされて天寿を全うしたことを願います。
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90年代の羽生焼き鳥巡りにて ―ひとり散歩―

2021年01月06日 | 歴史さんぽ部屋
1度だけ、同級生のS君と羽生市内の焼き鳥巡りをしたことがあります。
居酒屋ではありません。
スーパーの出入口のところに、
移動式の焼き鳥店が出店していることがあります。
買い物前に注文し、終わったあとに焼き鳥を受け取るシステムです。

1997年の1月か2月だったか、
当時は2、3軒の焼き鳥店が出店していた気がします。
特に計画していたわけではありません。
遅い放課後、小腹が空いた僕たちはスーパーの敷地内で焼き鳥を食べ、
じゃあ他の店にも行ってみようかという話になり、
自転車で市内各所を巡ることになったのです。

思い付きと行動。
17、8歳の僕たちは好奇心も相まって、
わけのわからないものに登ったり、飛び込んだりしたものです。
そんな行動に笑い転げ、大人に見つかれば絶対に叱られるものでも、
あるいは学校に通報される類のものであっても、
思い付きと行動を止めることはできなかったのです。

自転車での焼き鳥巡りは無茶な部類ではありませんが、
突然そんな展開になり、したり顔で味の批評をしていることに、クスクス笑いがこみ上げてきました。
一方で、卒業を目前に控えた僕たちは、
そんな時間が間もなく終わってしまう予感も感じていました。

イタロ・カルヴィーノの小説に『木のぼり男爵』という作品があります。
S君と無茶して遊んだ頃のことを思うと、時々この小説が脳裡をよぎります。
12歳の男爵長子が、嫌いな料理を拒否して木に登ったまま、
大人になっても下りてこないというイタリア文学です。

あの頃、わけのわからないものに登ったせいかもしれません。
僕たちは思春期と呼ばれる頃、一度は木に登って過ごしているのだと思います。
そこから世界を眺め、ときには苛立ち、笑い、抵抗し、自嘲する。
押し付けられる価値観と、うまくいかない歯がゆさ。
あるいは樹上にしかない楽しさと新鮮さ。

しかし、大人になれば自然と木から下りる。
熱から冷めるように樹上の時間は終わりを告げ、地に足をつけて生きていく。
あらかじめそれは意識していたことかもしれません。

再び木に登りたいと思っても、それがなかなか叶わずにいる。
あるいは樹上の時間に未練はなく、見向きもしない。
地に足をつけたあと、樹上の日々に対する感覚は人それぞれでしょう。
いずれにせよ、木の高さや時間の長短は別にしても、
人は樹上から世界を眺めて過ごす時間が一度はあるのだと思います。

でも、ときどき感じます。
本当に木から下りたのだろうか、と。
もし地に足をつけたなら、文章など書いていないのではないだろうか、と。
かつてS君と一緒に登ったものを見上げます。

小説『木のぼり男爵』では素敵な結末を迎えます。
それは一つの幸せの形なのかもしれません。
いや、いまこの小説を読んだら、別の感想を持つでしょうか。

90年代にS君と自転車を走らせた焼き鳥巡りは1度きりです。
そのあとだったか、井泉のお好み焼き店がどうしても見付からずに自転車を走らせたことがありましたが、
焼き鳥を目指したのはその日だけでした。

ときおり、S君と焼き鳥を食べることがあります。
とはいえ、お店の椅子に座ってお酒を挟んでのことです(むろんコロナ禍前のことですが)。
自転車で巡ることはありません。
お互いそれを欲しているわけでもないでしょう。
笑い転げるとすれば、おそらく別のもののはずです。
大人になった僕たちの背中は、
いつもの止まり木で羽を休める男2人に違いありません。
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戦国時代の1月、鷲宮神社から後北条氏への贈り物は? ―おうち戦国―

2021年01月03日 | 戦国時代の部屋
おうちで資料を介して訪ねる戦国時代。
関東のほぼ中央に位置する鷲宮神社(埼玉県久喜市)は、
かつて太田庄の総鎮守であり、古河公方や後北条氏と関係の深い社として存在していました。

戦国時代の1月。
鷲宮神社の神主大内氏は、
新年を迎えるたびに祈祷した巻数とともに鯉などを後北条氏へ贈っていました。
それを受け取った後北条氏も何もしなかったわけではありません。
謝辞とともに太刀一腰を進上したのです。
かつて両者はそんなやりとりをしていました。

鷲宮神社は水運交通の要衝地に位置する神社です。
神主の大内氏は、河関(鷲宮関)や町役を管理する立場にあった人物でもありました。
また、鷲宮神社に隣接するように存在していたのは粟原城(鷲宮城)です。
大内氏は城主を務めていたことでも知られています。

水運の要衝地にあって、城の主(あるじ)。
御北条氏にとって、鷲宮神社と大内氏は単なる神社と神主ではありません。
軍事的・政治的に重要視されていたことが考えられます。
その背景として、同社が古河公方と深い関係があったことも影響しているでしょう。

さて、天正13年のことです(比定)。
新年を迎えた大内氏は、後北条氏に贈りものをしています。
それは何か?
巻数と鯉とともに、ソーメンを贈っているのです(『鷲宮町史 史料三』31)。

 於当社有改年之祈祷、巻数并鯉十、索麺到来、珍重候、
仍太刀一腰進候、恐々謹言
   正月十三日   氏直(花押)
    神主民部少弼殿

「索麺」とあるのがソーメンです。
送られた鯉や索麺は、いずれ北条氏直や父氏政の口に入ったでしょうか。
ちなみに、この前年には巻数と鯉及び鮭が北条氏直に贈られています。

天正2年(1574)、関宿城と羽生城を攻略した後北条氏は、
北関東へと勢力拡大を図ることになります。
それに伴い、鷲宮神社は兵站地と化したようです。
同13年比定(1585)8月20日付の後北条氏の印判状では、
鷲宮に集めた荷物を陣中へ運ぶよう大氏氏に指示。
同17年8月7日付の太田氏房の印判状では、
岩付から鷲宮へ1日に3駄ずつ兵粮が送られています。

のちに古河公方権力さえも包摂した後北条氏です。
鷲宮神社に対しても、次第に政治色が強くなっていったことが考えられます。
鷲宮神社は後北条氏と縁戚関係のある古河公方足利義氏ともつながりがあったため、
上杉謙信が関東へ出陣した永禄3年(1560)以降も、
基本路線として北条方だったのでしょう。

北条氏が滅亡したあとは、徳川家康から400石が鷲宮神社へ寄進されています。
2代将軍徳川秀忠及び3代将軍家光からも400石を安堵する朱印状が出されており、
同社は荒廃することなく存続していくのでした。

そんな鷲宮神社は、アニメ効果により参拝者が上昇しているそうです。
確かに、何気ない1日に同社を訪れても、
境内にはアニメを介して来たとおぼしき若者の姿を見かけます。
初詣では殊に顕著かもしれません。
絵馬を見れば、綺麗なイラストが描かれているのが目立ちます。
30年前には考えられなかったことでしょう。

ところで、大内氏が城主を務めた粟原城(鷲宮城)は、
境内から青毛堀を隔てた場所にあったと考えられています。
「莿萱氏系図」では、羽生城主木戸忠朝によって燃落したという記述があり、
大内氏が北条方であったため、上杉方である忠朝に攻められたわけです。

その記述がどこまで真実を伝えているのか定かではありませんが、
文禄4年(1595)の記録では、鷲宮神社の神領の内、いくつかの土地が半分や3分の1の支配となっており、
本大室と辻村に関しては上杉謙信の関東出陣のときに失っています。
このことは、羽生城勢の進攻を物語っているのかもしれません。

そんな中世の躍動が鷲宮神社に眠っています。
最後に同社を訪れたのは、雨がそぼ降る日でした。
境内は静粛に包まれているのに、耳を澄ませば聞こえてきそうな戦国時代の喧騒や鬨の声。
雨がその凄味をさらに増し、快晴の日とはまた別の顔を見せていました。


粟原城を望む(埼玉県久喜市)
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藤間から望む“小針沼”と古代蓮タワー ―ひとり散歩―

2021年01月02日 | 歴史さんぽ部屋
星川(見沼代用水路)が流れる藤間の土手から、
古代蓮タワーが見えます。
埼玉県行田市にある古代蓮の里に建つタワーで、
掘り返された古代の種が、偶然開花したことから作られた施設です。

1995年、藤間を通ったとき古代蓮タワーは姿形もありませんでした。
公園として整備される前、そこは沼の広がる場所でした。
その沼の名は小針沼。
1990年に友人と釣りに訪れたとき、
すぐ近くに雷が落ちて雨宿りを余儀なくされた思い出の場所です。

現在の古代蓮の里敷地内には整備された沼がありますが、
小針沼の名残と言っていいでしょうか。
と言っても、ごく小さなものです。
護岸されており、公園として整備されているので、
辺りを見渡しても原風景のようなものはありません。

小針沼はかつて広大な沼でした。
少なくとも、古代蓮の里の脇を通る県道の西側にも広がっていましたし、
東は長野落に架かる地蔵橋よりも先まで伸びていたようです。
したがって、もし当時の小針沼が存在していれば、
藤間の土手からはその雄大な姿を望めたはずです。

小針沼がいつから存在するのか定かではありません。
『万葉集』に読まれた小崎沼と比定される向きもありますが、
参考程度に留めた方がよさそうです。
星川(見沼代用水路)がかつての利根川の一部と比定されますし、
長い眠りからさめた古代蓮の種子が、千年以上前のものと推定されるため、
往古から蓮が咲き乱れる湿地帯だったのでしょう。

小針沼は江戸時代に入って開発の手が入ります。
延宝年間(1673~81)に開発が始まったとされ、
享保13年(1728)より本格化しました。
宝暦4年(1754)に中堤を築堤。
古代蓮の里の県道がその一部になりますが、
堤の西側を上沼、東側を下沼と呼ぶようになったということです。

時代とともに干拓が進み、沼は姿を消していったことになります。
1990年、僕たちが釣り糸を垂らした小針沼は、
かつての規模のほんの一部でしかなかったわけです。

そんな小針沼が古代蓮の里として整備されるようになったのは1992年のこと。
そこから8年間かけて整備されたため、
1995年当時はすでに手が加わっていたことになります。
藤間の土手から見る限り、そのような開発の躍動感はなく、
古代蓮タワーは突然現れたという印象です。
小針ならではの地域資源をモチーフに新しいものを作る。
地域史の1ページに刻まれる出来事です。


小針沼跡
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上杉謙信が移陣した伊勢崎の今村城は燃えていた? ―おうち戦国―

2021年01月01日 | 戦国時代の部屋
昨年不幸があったため「おめでとうございます」とは言えませんが、
今年もよろしくお願いします。

おうちの中で資料を介して訪ねる戦国時代。
上杉謙信の羽生城(埼玉県羽生市)救援が失敗したのは、天正2年(1574)4月のことです。
雪解け水で増水した利根川に進軍を阻まれ、
大輪(群馬県明和町)に帯陣したまま動くことができなかったのです。

対岸に控えていたのは後北条氏で、
当然忍城主成田氏の軍勢もあったことでしょう。
謙信は兵糧弾薬を羽生城へ運び込もうとしますが、北条勢の妨害にあって失敗。
何一つ功を奏さず、謙信は「一世中之不足おかき候事、無念ニ候」と、
羽生城将へ宛てた書状に悔しさを滲ませています(『群馬県史 資料編7』2765)

そして謙信はどうしたか?
大輪の陣を解き、伊勢崎へと向かうのです。
当時は赤石郷とも呼ばれた現群馬県伊勢崎市。
その内の今村というところに着陣すると、安心するよう羽生城将菅原為繁へ伝えます(同2766)。

 (前略)然者、諸軍徒ニ非可置候間、向赤石、号今村与地取立候、可心安候、
 何様逗留之内ニまてなるもの被越候者、其時分委可申候(後略)

謙信が今村へ動いたのは、北条勢が本庄へ陣を移したという情報を得たためでした。
本庄から利根川を渡った対岸に今村は位置しています。
利根川に進軍を阻まれた謙信は、羽生城が維持できるよう工夫したと為繁に伝え、
今村へ移陣後、再び羽生城へ向かうことはなかったのです。

さて、今村は城が存在していた場所です。
現在、その跡地は伊勢崎市指定史跡になっています。
伊勢崎市教育委員会が設置した文化財説明板によると、
本丸は台地を利用して三角状に築かれ、輪郭式に諸郭が囲む構造になっていたとのこと。
本丸跡に説明板が建っているのですが、
民家の敷地内なのか判断に悩むところにあり、足を踏み入れるのに躊躇を覚えます。

那波氏の居城の一つに数えられ、
金山城(群馬県太田市)攻撃の拠点にもなったという今村城。
耕地整理以前は土塁や堀が確認されたそうです。
山崎一氏作成の復原図を見ると、説明板が建っているのは本丸の南端にあたります。
「古城」や「城前」という字も見え、
鳥瞰すると城郭としての威容を誇っていたようです。

現在は城跡の名残をほとんど留めておらず、ごく一般的な景観が広がっています。
感覚としては、皿尾城址(埼玉県行田市)に似ている気がします。
何の変哲もない集落に見えますが、実はその大半は城内に組み込まれる。
遠い戦国時代、上杉謙信がここに立ったのかと思うと景色が変わって見えます。

天正2年4月に大輪から今村城へ入城したとき、
羽生城救援に失敗した謙信は心穏やかではなかったかもしれません。
兵糧弾薬輸送を担当した佐藤筑前守に対し、「佐藤ばかものニ候」と感情を露わにした謙信。
今村城は謙信が放つ熱によって燃えていたのではないでしょうか。

羽生城将としては、一日の早い謙信の救援を待っていたことでしょう。
今村城に移った謙信に失望の念も禁じ得なかったかもしれません。
書状にあるように、その後羽生城から今村へ赴いた者がいたはずです。
その者の目に今村の地はどのように見えたのか……。
むろん知る由もありませんが、羽生で生まれ育った者には何となくわかる気がします。


今村城址(群馬県伊勢崎市)






羽生城址(埼玉県羽生市)
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