クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

上杉謙信の命で羽生に参集した武将たち ―羽生城コトノハ―

2017年11月30日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
埼玉県立歴史と民俗の博物館で開催の特別展「上杉家の名刀と三十五腰」(平成29年12月10日まで)に、
永禄6年(1563)比定の閏12月5日付の「上杉輝虎書状」が展示されている。

輝虎(謙信)から小泉城主の富岡重朝に宛てた書状だ(富岡家文書)。
この頃、関東では上杉氏と後北条氏の戦いが激化していた。
後北条氏は武田信玄と同盟を組んでおり、
輝虎は両者を相手に戦わなければならなかった。

輝虎が富岡氏に書状を書き送った頃、
後北条氏と武田氏の動きが活発化していたらしい。
利根川を越えて、金山城(群馬県太田市)へ向かっているとの情報が輝虎のもとに届いた。
そこで輝虎はどうしたか?
富岡氏に次のように命じるのだった。

 従当口及後詰今般凶徒根切、然者太田美濃守・成田左衛門二郎所へ
 早速埴生之地へ可相移由申遣候、彼両衆引付其稼専一候

後北条氏・武田氏を倒すため、太田資正と成田氏長を「埴生之地」へ出陣させたため、
そなたも参集して戦いに専念せよ、という主旨。
「埴生之地」とは、現在の埼玉県羽生市に比定される。

この頃羽生城が存在し、広田直繁が城を守っていた。
上杉輝虎は後北条氏と武田氏の対応のため、
太田勢、成田勢、富岡勢を羽生に参集させたことになる。
むろん、広田勢もここに加わる。

直繁の弟の木戸忠朝は皿尾城に入っていた。
当然のことながらこの参集に加わっていたことだろう。
このときの「埴生之地」は各国衆が集まり、騒然となっていたのかもしれない。

ほかに記録はない。
集まった国衆たちがどうしたのか。
羽生ではどんな様子だったのか、
いまのところ知る由はない。

輝虎は書状に後北条氏と武田氏を「根切」(根絶やしにする)と書いたが、
むろん雌雄を決したわけではない。
両氏ともその後も輝虎と火花を散らし続ける。
成田氏長はやがて輝虎から離反し、
太田資正は城から追放されるという運命を辿る。
そうした波乱をこのとき彼らは感じていただろうか。
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幼子を“さきたま古墳群”に連れていくと?

2017年11月27日 | 子どもの部屋
息子をさきたま古墳群(埼玉県行田市)へ連れていく。
何か意図したわけではない。
自分が企画展を見たかったから、息子はその道づれ。

ただ、これまで色々な博物館や展示へ連れていったが、
古墳群内の “さきたま史跡の博物館”が一番落ち着いていたかもしれない。
なぜなら、パンフレットに掲載された資料を自主的に探し始めたから。
まだ資料の価値や背景がわかる年ではない。
でも、パンフレットに載っている鉄剣や埴輪を一生懸命探していた。

古墳群や博物館はいつも賑わっている。
団体連れや史学科の学生とおぼしき若者たちがたくさんいて、
幼子を連れていくとそれなりに気を遣う。

古墳群もひと通り見てまわった。
拙著『歴史周訪ヒストリア』(まつやま書房)を執筆したとき以来だったかもしれない。
冬の夜、古墳群で食べたカップラーメンのエピソードを拙著に書いた。
あれは二十代半ばのとき。
現場のあずまやの前を通ると、
何とはなしにカップラーメンのことを思い出す。

丸墓山古墳の墳頂に登った。
眺めたのは忍城方面。
石田三成も見たであろう視点だ。
戦国時代、ここからどんな景色が見えたのか。
と、思いながら景色を眺めた人はこれまでどのくらいいただろう。

将軍山古墳内の展示室にも足を運ぶ。
古墳内に展示室があるという異例の施設だ。
復原された石室を前にしたとき、
息子の目には被葬者が昼寝をしているように見えたらしく、
「ねんねしちゃったね」としきりに言っていた。

前玉神社に参拝。
博物館の前で展示されている古民家も覗いた。
見どころはたくさんある。

いま何かと話題になっている行田市だ。
その日もドラマのロケが市内であったそうな。
きっと多くの人が集まったのだろう。

息子はまだ「古墳」と認識していない。
大きな土山のある公園と思っているのかもしれない。
息子は足袋を履いたみたいに颯爽と古墳群内を駆け、
やがて転んだ。


丸墓山古墳から忍城方面を眺める


古墳の上に祀られる前玉神社
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“世界キャラクターさみっとin羽生”に行こう!

2017年11月25日 | お知らせ・イベント部屋
11月25日と11月26日の両日開催されている「世界キャラクターさみっとin羽生」。
会場は埼玉県羽生市の“水郷公園”です。
羽生でお会いしましょう。
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広田直繁を賞賛する上杉謙信の手紙 ―羽生城コトノハ―

2017年11月22日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
文書館収蔵文書展「関東管領上杉氏と埼玉の戦国武将」(平成29年12月10日まで)には、
永禄12年(1569)に比定される閏5月6日付の「上杉輝虎書状」が展示されている(複製、通期展示)。

上杉輝虎はのちの上杉謙信。
送り先は「広田式部太輔」。
この者は羽生城主“広田直繁”(ひろたなおしげ)だ。

文書の内容としては、越相同盟が成立したことを直繁に伝えたもの。
これまで、関東をめぐって上杉氏と後北条氏が争ってきたのだが、
武田信玄による動きによって両者は急遽手を結ぶことになった。
謙信は色々と思うことがあったのに違いない。

というのも、越相同盟が成立する前、
謙信はかなり劣勢に立たされていたからだ。
関東の国衆たちはこぞって謙信から離反。
後北条氏に属し、関東における上杉氏の勢力は後退せざるを得なかった。

そうした離反の嵐の中、
ひたすら謙信への忠節を守った者がいた。
それが広田直繁だった。

羽生城周辺の諸城がこぞって後北条氏になびいているのに、
直繁だけは裏切ろうとしなかった。
そこで謙信は言う。

 近年者味方中何も南江随遂之処、
 其方被抽忠信候事、無比類候

近年、味方だった者が後北条氏へなびいていた中、
そなたの忠信は抽んでていた。
その忠信はほかに比べるものがない。
そう直繁を激賞するのだった。

定型文かもしれない。
でも、義を重んじていたと言われる謙信にとって、
直繁は義将に見えたのだろう。
この文書以外にも、直繁の忠節を賞賛したことがある(「歴代古案」)。

羽生城は決して難攻不落の城だったわけではない。
強大な軍事力を誇っていたわけでもない。
隣接するのは忍城主成田氏であり、
劣勢は火を見るより明らかだった。
それなのに、なぜか謙信から離反しようとしない……。

北武蔵の一城にすぎない羽生城。
無名に等しい広田直繁。
その直繁に書き送った謙信の書状。
謙信が直繁を激賞するコトノハは、
羽生城の魅力を伝える一方で、
なぜ上杉氏に属し続けたのかという謎も含んでいる。
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“世界キャラクターさみっとin羽生”はどんな賞を受賞した?

2017年11月19日 | 近現代の歴史部屋
埼玉県羽生市において、「世界キャラクターさみっとin羽生2017」が開催される。
日にちは11月25日、26日。
場所は市内の“羽生水郷公園”だ。

全国各地のキャラクターが集まるこのイベントは第8回を数える。
いまや羽生市を代表する一大イベントだ。
このイベントによって羽生市の名は全国に広まったと言っていい。
だから、さみっと当日は全国から多くの人たちが集まるし、
各メディアで大きく取り上げられる。

今年集まるキャラクターは約360。
41都道府県からの参加のみならず、
海外3か国からもキャラクターが駆け付ける。
世界規模のイベントだ。

ちなみに、このさみっとは「クールジャパンアワード2017」の特別表彰を受賞している。
これは世界各国の審査員たちが「クールジャパン」と共感したものに認定されるもの。
自治体が長年コツコツ開催し、
地域活性化につなげたものとして評価されたらしい。

クールジャパンアワード特別賞の表彰式は、
世界キャラクターさみっとin羽生で行われる予定だ。
数年前のギネス世界記録といい、今回のクールジャパンアワード特別賞の受賞といい、
いまや羽生は世界を射程にしている。

キャラクターが集まって人が動く。
物や文化も集結し、新しい流れを生む。
羽生市ではこれまでにない快挙と歴史的事件が続いている。
11月25日と26日は、羽生でたくさんの思い出を作ろう。
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関東幕注文に見える「羽生之衆」 ―羽生城コトノハ―

2017年11月15日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
平成29年12月10日まで開催されている
文書館収蔵文書展「関東管領上杉氏と埼玉の戦国武将」。
その中に「関東幕注文」が展示されている(複製、前期展示のみ)。

上杉氏に従属した国衆たちの名前が列記され、
永禄4年(1561)頃の作成と考えられている。
この中に見える「羽生之衆」の文字。
これは羽生城関係者と見られる。

 馬寄 羽生之衆
 広田式部大輔    梅之紋
 河田谷右衛門大夫  かたはミ
 渋江平六良     くわのもん
 岩崎源三郎     二本鷹之羽

「広田式部大輔」は羽生城主広田直繁に比定される。
「河田谷右衛門大夫」は直繁の弟の木戸朝。
永禄4年頃は、まだ「河田谷」姓を名乗っていたことがうかがえる。

「羽生之衆」の前に列記されているのは、忍城主成田氏関係者だ。
忍衆ではなく「武州之衆」とあり、
一つの軍団の筆頭に成田氏がいて、指揮を執っていたということだろう。
その中に「羽生之衆」も従属していた。
だから「馬寄」と書かれている。

武州之衆はどこを攻めたか?
後北条氏の本拠小田原城だ。
永禄4年に上杉謙信が小田原城に乗り込む。
その中に成田氏や広田氏たちがいた。

「関東幕注文」に名を連ねたとき、
広田氏や河田谷氏はどんなビジョンを思い描いていただろう。
謙信の関東平定が速やかに成るものと踏んでいたとしたら、
羽生領を無事に治め、その政治的自立権が安定していくものと考えていたかもしれない。

でも、歴史はそのようには展開しなかった。
関東をめぐる争乱は上杉氏・後北条氏・武田氏の三つ巴合戦の様相となり、
泥沼化していくのだった。
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「関東管領上杉氏と埼玉の戦国武将」展を見に行こう

2017年11月12日 | 戦国時代の部屋
埼玉県立歴史と民俗の博物館で開催している特別展「上杉家の名刀と三十五腰」と併せて、
「関東管領上杉氏と埼玉の戦国武将」が開かれている。
会場は同じく県立歴史と民俗の博物館。
主催は埼玉県立文書館。

こちらも熱い展示だ。
武州戦国時代の歴史的人物たちの文書が一堂に会し、ガヤガヤと賑やか。
展示構成は以下の通り。

 第1部 関東管領上杉顕定の時代
  Ⅰ 関東管領と享徳の乱
  Ⅱ 山内・扇谷上杉氏同族の争い 長享の乱

 第2部 関東管領上杉憲政の時代
  Ⅰ 揺れる古河公方家と関東管領
  Ⅱ 北条氏の侵攻と河越合戦
  Ⅲ 長尾景虎から関東管領上杉輝虎へ

 エピローグ 上杉景勝と御館の乱

この構成を目にしただけで、胸躍る人は多いのではないだろうか。
亡き羽生城研究者・冨田勝治先生がもしご存命だったら、
きっと足を運んでいたのに違いない。
晩年、行田市郷土博物館で開催された忍城主成田氏の展示を、
2人で見に行ったことを思い出す。

羽生城に関連した文書も展示されていた。
永禄12年(1569)に比定される閏5月6日付の上杉輝虎書状(森山家文書)と、
同年比定の7月15日付の木戸忠朝書状(上杉家文書)だ。

前者は、輝虎(謙信)が羽生城主広田直繁に宛てたもので、
武蔵国において忠節を守り続けている直繁を賞賛する一文が記されている。
同文書は展示解説リーフレットの9ページにも写真が掲載されており(表紙の一部にも)、
これまであまり注目されてこなかった広田直繁に、
改めて光が当たっているのではないだろうか。

木戸忠朝書状は上杉家家臣の河田長親に宛てたもの。
忠朝は広田直繁の弟にあたる。
深谷城主上杉憲盛を味方に引き入れたことを報告している。
(展示されている両文書は複製)

もちろん、展示されているのは羽生城関係文書だけではない。
長尾景仲や上杉顕定、足方政氏や太田資正など、
マニアックなようで著名な人物たちの文書を目にすることができる。

文書館収蔵文書展「関東管領上杉氏と埼玉の戦国武将」は、
12月10日(日)までの開催。
期間展示有り。
前期11月3日~11月19日
後期11月2日~12月10日

古文書は地味との声を聞くことがある。
しかし、文書は貴重な歴史の証言者。
その時代に生きた武将や公方たちの命の息吹が、
文書を通して伝わってくるだろう。
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上杉謙信・景勝の名刀が“県博”にやってきた?

2017年11月10日 | お知らせ・イベント部屋
埼玉県立歴史と民俗の博物館にて熱い特別展が開催されている。
その名も「上杉家の名刀と三十五腰」。
キャッチコピーは「謙信・景勝の名刀、埼玉に集う!」。

タイトルのとおり、上杉家ゆかりの名刀がずらり展示されている。
刀だけではない。
上杉謙信像や関係文書、
毛氈鞍覆や毘沙門天立像など、
見応えのある資料たちが一堂に会している。
構成は以下の通り。

 プロローグ 上杉家名刀の成り立ち
 第一章   謙信時代の名刀
 第二章   景勝時代の名刀
 第三章   歴代藩主の刀剣
 第四章   大名家の刀剣管理
 エピローグ 未来へ

この中で、羽生城(埼玉県羽生市)に関する文書も展示されている。
それは永禄6年(1563)に比定される閏12月5日の上杉輝虎(謙信)の書状で、
金山城へ向かう武田信玄や北条氏康の動きを警戒した謙信が、
忍城主成田氏や小泉城主富岡氏、岩付城主太田氏らの国衆を、
後詰(控えの部隊)として羽生城へ参集させることを命じた内容だ。

そこには「羽生」ではなく「埴生」と表記されている。
上野国の情勢に対し、
羽生城が「後詰」としての一旦を担っていたことがうかがえる。

このときの参集が具体的にどのようなものだったのかは不明だ。
この文書以外に語る資料はいまのところ見当たらない。
それだけに貴重な資料と言える。
名刀に比べると決して目立つ資料ではないのだが……

この特別展は平成29年12月10日(日)まで。
開館時間は午前9時から午後4時30分までとなっている(受付は午後4時まで)。

会期中に展示替えがあるという。
前期(11月3日~11月19日)
後期(11月21日~12月10日)
休館日は月曜日となっている。

そろそろ終盤にさしかかっている平成29年。
だんだんと寒さが増していく中、
特別展「上杉家の名刀と三十五腰」で胸を熱くさせたい。
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“羽生の菊まつり”へ行きませんか?

2017年11月07日 | お知らせ・イベント部屋
羽生の三田ヶ谷農村センターにおいて、
「羽生の菊まつり」が開催されている。
11月15日までの開催。

三田ヶ谷農村センターに隣接しているのは“キヤッセ羽生”だ。
道路を挟んだ反対側には“羽生水郷公園”。
淡水魚専門の水族館もある。
園内は紅葉の真っ盛りで、来園者の目を楽しませている。

菊まつりに行ったついでに周辺を散策してみる。
羽生の秋に一句思い浮かぶかもしれない。
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