埼玉県立歴史と民俗の博物館で開催の特別展「上杉家の名刀と三十五腰」(平成29年12月10日まで)に、
永禄6年(1563)比定の閏12月5日付の「上杉輝虎書状」が展示されている。
輝虎(謙信)から小泉城主の富岡重朝に宛てた書状だ(富岡家文書)。
この頃、関東では上杉氏と後北条氏の戦いが激化していた。
後北条氏は武田信玄と同盟を組んでおり、
輝虎は両者を相手に戦わなければならなかった。
輝虎が富岡氏に書状を書き送った頃、
後北条氏と武田氏の動きが活発化していたらしい。
利根川を越えて、金山城(群馬県太田市)へ向かっているとの情報が輝虎のもとに届いた。
そこで輝虎はどうしたか?
富岡氏に次のように命じるのだった。
従当口及後詰今般凶徒根切、然者太田美濃守・成田左衛門二郎所へ
早速埴生之地へ可相移由申遣候、彼両衆引付其稼専一候
後北条氏・武田氏を倒すため、太田資正と成田氏長を「埴生之地」へ出陣させたため、
そなたも参集して戦いに専念せよ、という主旨。
「埴生之地」とは、現在の埼玉県羽生市に比定される。
この頃羽生城が存在し、広田直繁が城を守っていた。
上杉輝虎は後北条氏と武田氏の対応のため、
太田勢、成田勢、富岡勢を羽生に参集させたことになる。
むろん、広田勢もここに加わる。
直繁の弟の木戸忠朝は皿尾城に入っていた。
当然のことながらこの参集に加わっていたことだろう。
このときの「埴生之地」は各国衆が集まり、騒然となっていたのかもしれない。
ほかに記録はない。
集まった国衆たちがどうしたのか。
羽生ではどんな様子だったのか、
いまのところ知る由はない。
輝虎は書状に後北条氏と武田氏を「根切」(根絶やしにする)と書いたが、
むろん雌雄を決したわけではない。
両氏ともその後も輝虎と火花を散らし続ける。
成田氏長はやがて輝虎から離反し、
太田資正は城から追放されるという運命を辿る。
そうした波乱をこのとき彼らは感じていただろうか。
永禄6年(1563)比定の閏12月5日付の「上杉輝虎書状」が展示されている。
輝虎(謙信)から小泉城主の富岡重朝に宛てた書状だ(富岡家文書)。
この頃、関東では上杉氏と後北条氏の戦いが激化していた。
後北条氏は武田信玄と同盟を組んでおり、
輝虎は両者を相手に戦わなければならなかった。
輝虎が富岡氏に書状を書き送った頃、
後北条氏と武田氏の動きが活発化していたらしい。
利根川を越えて、金山城(群馬県太田市)へ向かっているとの情報が輝虎のもとに届いた。
そこで輝虎はどうしたか?
富岡氏に次のように命じるのだった。
従当口及後詰今般凶徒根切、然者太田美濃守・成田左衛門二郎所へ
早速埴生之地へ可相移由申遣候、彼両衆引付其稼専一候
後北条氏・武田氏を倒すため、太田資正と成田氏長を「埴生之地」へ出陣させたため、
そなたも参集して戦いに専念せよ、という主旨。
「埴生之地」とは、現在の埼玉県羽生市に比定される。
この頃羽生城が存在し、広田直繁が城を守っていた。
上杉輝虎は後北条氏と武田氏の対応のため、
太田勢、成田勢、富岡勢を羽生に参集させたことになる。
むろん、広田勢もここに加わる。
直繁の弟の木戸忠朝は皿尾城に入っていた。
当然のことながらこの参集に加わっていたことだろう。
このときの「埴生之地」は各国衆が集まり、騒然となっていたのかもしれない。
ほかに記録はない。
集まった国衆たちがどうしたのか。
羽生ではどんな様子だったのか、
いまのところ知る由はない。
輝虎は書状に後北条氏と武田氏を「根切」(根絶やしにする)と書いたが、
むろん雌雄を決したわけではない。
両氏ともその後も輝虎と火花を散らし続ける。
成田氏長はやがて輝虎から離反し、
太田資正は城から追放されるという運命を辿る。
そうした波乱をこのとき彼らは感じていただろうか。