クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生の“ゴールデンウィーク子ども祭り”に行きませんか?

2011年04月30日 | お知らせ・イベント部屋
今年も“キヤッセ羽生”で、
「ゴールデンウィーク子どもまつり」が開催される。
東日本大震災で自粛が相次ぐ中、
逆にイベントを開催して元気になろうというもの。
詳しくは、下記URL(羽生市ホームページ内)まで。
http://www.city.hanyu.lg.jp/kurashi/madoguchi/nousei/03_city/06_shisetu/kiyassehanyu/event/event.html


羽生のイメージキャラ“ムジナもん”と“いがまんちゃん”

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三峰神社は”一匹オオカミ風”に参拝したい? ―大口真神―

2011年04月29日 | 神社とお寺の部屋
雨が降っている月曜日などに、
なぜか自然に囲まれた静かなところに行きたくなる。
例えば、三峰山とか、三峰神社とか……

三峰神社の祭神はイザナギ、イザナミの二柱である。
しかしおもしろいのは、
眷属神として“大口真神(おおぐちのまがみ)”を祀っていることだ。
お犬様である。
境内にはお犬様の石造物が建っている。

しかし、元はオオカミ(山犬)から来ているようだ。
2匹のオオカミが山に住んでいて、
その眷属は9万8千匹に及んでいたという。
そのオオカミに霊験を感じた人々はこれを祀り、
信仰が始まったと伝える史料がある。

往事において、オオカミは猪や鹿を除ける動物だった。
田畑を荒らす動物から守ってくれるとして信仰を集めていたのだ。
「赤ずきんちゃん」の童話では悪役として登場するが、
オオカミは人間の味方だったのである。

番狂わせな計画停電を “オオカミ少年”のようだと言う人もいた。
しかし、大口真神として祀られ、
人々から信仰される動物だった。
決してオオカミに罪はない。

ちなみに、動物占いのオオカミさんは、
変わり者で個性豊かな発想家。
マイペースでも仕切りはうまいらしい。

ぼくが三峰神社に惹かれるのは、
この大口真神を祀っているところ。
雨の降る月曜日などに、
一匹オオカミ風に孤高に参拝したいものである。


9月土曜の雨の風景







※最初の画像は三峰神社の鳥居(埼玉県秩父市)
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皇女“和宮”の降嫁は大イベントだった?

2011年04月28日 | ふるさと歴史探訪の部屋
5月8日まで、埼玉県立歴史と民俗の博物館(さいたま市)で、
特別展「皇女和宮と中山道」が開催されている。
和宮は“孝明天皇”の妹で、
将軍“徳川家茂”の御台所となった女性である。

最初は反対していた天皇だったが、
文久元年8月14日に内諾。
江戸にいる家茂のもとへ京から下ることになる。
皇女の降嫁は史上初めてのことだった。

世間の関心は高く、
多くの瓦版が賑わせる。
和宮の降嫁は当時の世間の話題の的だったのだろう。

しかし、関係者にとっては大きな仕事である。
御輿を護衛する藩は12藩。
沿道の警固には29藩もの人たちが動員された。
当時の役人たちはさぞかしピリピリしていたに違いない。

埼玉では、本庄と熊谷、桶川の各宿に和宮は宿泊した。
桶川に泊まった人たちは5万人にも及んだというから、
ひとつの市の住民全員が行列を成してやってきたようなものである。

皇女の通る道だから、荒れてデコボコした道ではいけない。
道は整備され、砂利が敷かれた。
その砂利も現代のようにホームセンターで買うのではない。
良質な砂利の採れる村に白羽の矢が立ち、
吉日を選んで採取したのである。

かくして、多くの人間と時間、お金が費やされ、
和宮は無事に江戸に入った。
そして、家茂と挙式を挙げたのは文久2年2月11日のことだった。

この降嫁は広く人々に記憶されることになり、
桶川宿では祭りの際に和宮の降嫁行列が模されるし、
宿泊した本陣は関連の史料を大切に保存している。

しかし、和宮の結婚生活は長くは続かなかった。
慶応2年(1866)7月に夫家茂は死去してしまうのである。
わずか4年の新婚生活だった。
大イベントの降嫁だったわりに短い新婚生活は、
和宮の胸中に何を残したのだろう……


台地の上に埼玉県立歴史と民俗の博物館はある(埼玉県さいたま市)
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腰を痛めたら“自転車”がいい? ―ウラ部屋雑記(138)―

2011年04月27日 | ウラ部屋
腰を痛めてしまった。
ギックリ腰というわけではないが、
歩くのがややしんどい。

腰痛は一度なってしまうと癖になる。
マッサージとか、いじったあとに腰痛になる傾向がぼくにはある。
だから、あまり触れないようにしている。

仕事で1日1万2千歩動いている友人は、
やはり腰を痛めているらしい。
「腰痛が……」などと居酒屋で話すぼくらは、
それだけ年を重ねてしまったのだろうか。

ギックリ腰に限りなく近い痛みに襲われたとき、
東京へ行ったことがある。
「地獄」だった。
シートにも座れないし、
歩くのもヨボヨボ。
激痛に襲われて、階段で座り込んでしまった一幕もあった。

ギックリ腰のときに遠出だけはしてはいけない。
というより、無理。
そういうときに限って、
遠出をしなければならない用事ができるのはなぜなのだろう。

腰痛持ちという女子から、
自転車に乗るのがいいと聞いた。
腰痛に悩まされてきた実績からたどり着いた結論なのだろう。
確かに、車高の低い車に乗るよりはだいぶ楽である。
しかし、自転車が腰痛に“効く”のかどうかは、
まだ未知の領域だ。
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吉見百穴で食べる“みそおでん”は?

2011年04月26日 | 考古の部屋
吉見百穴は山肌に無数の穴があいていて、
インパクトは十分だ。
蜂巣やビルの窓のようにも見える。

かつてここが、古代人“コロボックル”の住居跡ではないかと考えてしまうのもわかる。
発掘調査が終わってから長い間、
この横穴をめぐる論争が考古学界をにぎわせていた。
いまは墓穴ということで落ち着いているが、
何かと想像力を刺激されるだろう。

中学2年生の秋、
羽生から自転車で吉見百穴まで行ったことがある。
史跡巡りではない。
単に自転車でどこかへ出掛けたかっただけだ。

男子5人が午前9時に羽生を出て、
百穴に着いたのはちょうど12時だった。

ぼくは歴史が嫌いではなかったが格別好きというわけではなく、
ほかの4人も同じだったと思う。
来る途中で、日曜日なのに売っていた「ジャンプ」の方が興味津々だった。

その日買ったジャンプは『スラムダンク』が表紙絵。
自転車のカゴの中で、ずっと桜木花道が揺れていた。
百穴を前にして、
売店で買った“みそおでん”がやけにうまかったのを覚えている。

だから、吉見百穴には「ジャンプ」と“みそおでん”がよく似合う(個人的に)。
百穴では長居はしなかった。
そこまで行くのにかかった時間の3分の1だけではなかったか。

百穴の発掘によって、“武蔵国造の争乱”に新たな視座を与えたり、
“横渟屯倉”の存在の示唆、
ヒカリゴケなど14歳のぼくらにはどこ吹く風である。
重大なテーマは歴史よりも恋。
もっと細かく言えば、「ジャンプ」に連載されている『スラムダンク』や
『ドラゴンボール』の続きがどうなったかである。

みそおでんを食べて元気になったぼくらは、
そのまま来た道を辿った。
その途中には、日本一広い“川幅”がある。
いまは文化財に指定されているが、
当時はだだっ広いだけの河川敷だった。

ぼくらは土手を下りて、荒川の畔に座る。
空は穏やかに晴れていた。
ときより秋めく風が吹き抜けていく。
誰かが背伸びして持ってきたタバコの煙が、
青空に溶けていた。


吉見百穴からの眺め(埼玉県比企郡吉見町)


横穴
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宮澤章二の“思いやり”はどこで書かれた? ―作家の秘密道具(26)―

2011年04月25日 | ブンガク部屋
「こころ」は誰にも見えないけれど、
「こころづかい」は見える

このフレーズでおなじみの詩人“宮澤章二”は、
大正8年に埼玉県羽生市に生まれた。
学校の校歌も多く手がけていて、
ぼくは小学校と高校に宮澤章二が書いた詩を歌っていた。

勝手なイメージだが、
詩人はあまり机に向かわないものだと思っていた。
ノートを手にして町や自然の中を歩きながら、
わきあがってくる言葉を書き留める……。

だから机に向かうのは清書のときと、
推敲のときくらい。
最初から原稿用紙を使うこともない。
そんなイメージを持っていた。

ところが、宮澤章二は詩作とは「仕事」であり、
机の前に座って原稿用紙に向かわないと作品ならないという。

 仕事っていうのは、決してそれをしてお金をもらうって、そういうことではないんです。
 自分が生きていくうえで、自分を規制し、
自分をつくりあげてくれるのが自分の仕事なんですよね。
私にとって詩を書くということはそういうことなんです。
(インタビュー記事より)

突然言葉のフレーズが思い浮かぶことがあっても、
それはあくまでも言葉の原型。
その浮かび上がらせ方も、
四六時中そのことを考えていないとダメだという。

表現者は、24時間「表現者」なのだ。
寝ているときも、作品や創作について考えている。
煮詰まったとき、気分転換がてらに散歩をしたらアイディが思い浮かんだというのも、
煮詰まるまで積み重ねていたものがあるからだ。

真っ白な状態でいくら気分転換をしようと、
何も出てこない。
例え出てきたとしても、それを捕まえるのは難しい。
欲しいものは、それを望む者の前にしか現れないのと同様だ。
欲さなければ、目の前に現われても気付かない。

宮澤章二は机に向って詩を生みだしてきた。
ぼくが歌った校歌も、机上から誕生した詩だったのだろう。
机の前に座り続けることによって、詩は生まれてきた。

ペンを執らなければ作品は書かれない。
当然のことのようだが、
続けることは思いのほか難しい。
しかし、活動し続けることによって、肉体も精神もいきいきとすると詩人は語る。

「思いやり」も突発的ではなく、
長くその心を持つことで人を豊かにするのだろう。
宮澤章二の詩が使われたCMも、
そろそろ放送されなくなってきた。
完全に流れなくなったあとも、
人の「思いやり」はずっと消えずにいるに違いない。
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“石田三成”が布陣した丸墓山古墳が消える? ―大正2年―

2011年04月24日 | 近現代の歴史部屋
石田三成が忍城を攻める際、
墳頂から城を眺めたことで知られる丸墓山古墳。
この巨大な円墳は、
さきたま古墳群の顔とも言える。

しかし、この古墳も破壊と無縁のわけではなかった。
大正2年に工場を作る際、
その敷地用の土として白羽の矢が立ったのが丸墓山古墳だった。

一部のみを削り取るのではない。
対象は古墳まるまる一個だった。
地元の名士は反対の意を示したが、
最終的には同意。
「埼玉新報」の記者も次のように嘆いている。

 忍町には斯る古跡保存を主張するの士なく、空しく千有余年の大古墳を
 金豪橋本氏の為めに破壊されんとするに至ては慨嘆の外なく、
 桜樹を伐て薪と為すの愚を学ばんより薪材は他に幾千も在るべく、
 丸墓山の土に非ざれば橋本工場の台土の為すに足らざるにも非ざるべし
 (『行田市史』資料編近代2より)

結局、丸墓山古墳は破壊されることなくいまも残っているが、
このような流れで消滅したものは多い。
現に、さきたま古墳群は干拓のために
たくさんの古墳の土が使われている。

古いものは消えゆく運命にある。
往々にして、新しいものが好きな人は古いものを廃棄する傾向にある。
どこに価値を置くかで、物というのは180度変わる。

もちろん新しいものに価値がないというわけではない。
時代の流れの中で、新しいものはどんどん生み出されなければならない。
歴史好きな人は古いものが好きなことは確かだが、
未来を見てないわけではないことは言うまでもない。
歴史的観点から現代を捉え、それは未来を考える視座になる。

新しいものも、古いものがあってこその価値だろう。
古さを知った上での新しさは深さが違う。

丸墓山古墳は破壊されずに生き延びた。
昭和に入り、さきたま古墳群は史跡に指定され、
法によって保護されるようになった。
一度失ってしまえば二度と戻らない。
現在残っている歴史的なものは、
多くの時間の重みを背負っている。


石田堤を通って丸墓山古墳がそびえ立つ(埼玉県行田市)
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“北条氏政”が通ったかもしれない旧道は? ―小松―

2011年04月23日 | ふるさと歴史探訪の部屋
小松神社の目の前を通っている道は、
実は旧道である。
『新編武蔵風土記稿』にも描かれ、
いまは跡形もない“小松寺”も見ることができる。

旧道と平行するように2車線道路が通っているが、
こちらは新しい。
(この道を使ってショッピングモールへ行く人も多いだろう)

新道は車が行き交い、
まっすぐ羽生の町につながっている。
一方、旧道は車一台が通るのがちょうどいい。
ビュンビユン飛ばせない。

ちなみに、戦国時代に小田原の“北条氏政”が小松に布陣している。
現在小田原の安楽寺には、
天文5年に“広田直繁”と“木戸忠朝”が
小松神社に奉納した三宝荒神御正体を所蔵している。
これは北条氏政が小松に布陣した際に、
戦利品として持ち去ったと考えられている。

戦利品と言っても、氏政は羽生城を攻めたわけではない。
小松に布陣し、あまつさえ御正体を持ち去ることで、
精神的な圧力を与えたのだろう。

なぜ本城を攻めなかったかといえば、
関宿城が落ちれば羽生城も自ずと陥落すると考えていたからである。

ではなぜ、羽生城はそれでも上杉方の姿勢を示していたのか?
忠節でも強大な軍事力を有していたわけでもない。
後北条氏に属すことは、隣接する忍城主成田氏に接収され、
その政治的自立権を奪われるからである。

ぼくは羽生城を過大評価しているわけでもなく、
精神論を説いているわけでもない。
文学的見地に立った場合には、
物語風な精神論は切り捨てないが、
学術的見地からは決してこの城を美化するつもりはない。

誤解している人もいるようなので、
一応申し添えておく。

閑話休題。話がそれた
車に乗り慣れた人には、
なかなか気付けない道がある。
横道、脇道、裏道……

ときにそれは古い道かもしれない。
車はほとんど通らないし、
ひっそりとしている。
通学途中の学生が通るくらい……

しかし、もしかしたらそこに、
小田原城主北条氏政が通ったかもしれないなどと想像してみると、
普段は姿を現さない“隠れ道”が拓けるだろう。

※最初の画像は、埼玉県羽生市小松の古道
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“当選”したいときに行きたいお寺は? ―當選寺―

2011年04月22日 | 神社とお寺の部屋
各地で選挙活動が始まり、
新聞も選挙活動が目立つ。

立候補者が目にしたら、
必ず足を運ぶであろうお寺がある。
その名も「當選寺」。
縁起のいい寺院名である。

松山城の麓に建つ小さなお寺だ。
立候補者でなくとも、
何かいいことに当たりたいときは参詣するといいかもしれない。

ところで、自粛ムードが和らぎつつあるのか、
選挙カーで投票を訴える声が聞こえる。
震災のあとのためか、その声に何か感じないわけでもない。
4月19日付の埼玉新聞は、
「さきたま抄」で次のように述べている。

 一足早い市議選では街に選挙カーの声が響いている。
 自粛ムードが解けたらしいのはいいが、名前の連呼では意味がない。
 立候補者の責任は自らの覚悟を示すこと。
 政治への志を、生の声で語ってほしい。

有権者としては、政治を志す人の夢や魂を耳にしたいものだ。
むろん現実的な政策の提示は必要だが、
どんな町や国にし、
それを叶えるためにどんな具体策を考えているのかを聞きたい。

メディアで放送される与党と野党の攻防戦や、
政治批判は聞くだけでうんざりする。
批判だけなら誰もがやっている。
たまには評価すべきところを挙げ、
互いに協力し合って国を豊かにしていこうとする姿勢も必要ではないのか。

批判するにしても、
自分だったらこうするという考えも述べてほしい。
(それは政治の「解説者」も同じ)
いつもいつも批判ばかりだと、
結局誰が実権を握っても同じという感覚になってしまう。

しばらく政治ムードが続くのだろう。
「當選寺」には誰か足を運ぶだろうか。
有権者にとっても“当たり”と思わせる夢と実行力を期待したい。


※最初の画像は當選寺(埼玉県比企郡吉見町)
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羽生の隠れ職人が焼いた“ピザ”の味は?

2011年04月21日 | グルメ部屋
ピザ職人がごちそうしてくれるというので、Kさんの家に行った。
ピザ職人というのはKさんの奥さんだった。

Kさんは高校の先輩で、
不思議な縁でつながった人だ。
そのKさん夫婦の住むアパートは同級生の妹さんもいて、
その近くには、数年前から一緒に飲み始めたコジカ君がいる。
何かと縁が交錯する場所でもある。

ピザはこんがりと焼け、
あっという間に平らげてしまう。
その日集まったのはぼくを入れて5人。
ピザをはじめとする料理は、お店で食べるみたいにおいしかった。
ついつい箸が進んでしまう。

ところで、同じアパートに住む同級生の妹さんの話によると、
ある夫婦が1階でケンカをはじめた。
だんだん熱を帯びてくると、
開いた窓から物が飛んできたという。

まるでマンガのようなシーンだ。
実際にそんなことがあるのだと、妹さんも感心したらしい。

Kさん夫婦は大丈夫だろう。
「Kさん、幸せだね」と誰かが言うと、
「うん、幸せ」とKさんは答えた。

24歳のおしゃれ男子は、
料理ができない子とはつき合うのを考えてしまうらしい。
まあ、価値観はいろいろである。

在学中、ぼくとKさんは一度だけ顔を合わせたようだが、
お互い記憶が定かではない。
なんてったって、高校3年生の「合格体験説明会」のときに、
一度だけ姿を現したゲスト先輩だったのだから……

でも、一度交錯した糸は、
巡り巡って再び引き合わせることもある。
そのときは、お互い不思議な立場だったりするかもしれない。

空手道場に集められて合格体験の話を聞いたあの日、
その人の奥さんの焼いたピザを食べようとは夢にも思っていない。
これから先、そんな想像もしないおもしろい展開が待っているのだろうか。

食卓を囲むというのはそういう縁の交錯場でもある。
いろいろな時間が積み重なってその場所にいる。
偶然のようでもあるし、居るべくして居るような……。
どちらと捉えるだろうか。
香ばしく焼けたピザは、
積み重なって交錯した時間の隠し味がきいていた。
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なぜそこは“ポンポン山”なのか? ―玉鉾山―

2011年04月20日 | ふるさと歴史探訪の部屋
“ポンポン山”という不思議な名前の山がある。
「カチカチ山」のように、民話と何かゆかりがあるのだろうか。
それともおなかに関係するのだろうか……。

実は、民話もおなかも関係ない。
地面が“ポンポン”と鳴るのだ。
太鼓の音のようでもあるし、
タヌキがおなかを叩いているようでもある。

地面を踏む感触もどことなく違う。
地面の下が空洞になっている感覚だ。

ポンポンと音が鳴るからポンポン山。
ネーミングで魅せられるし、
実際に足を運んでも面白い。

周囲の景色は情緒があって、心が和む。
ポンポンと音が鳴る場所は神社の裏にある。
もし、「ポンポン」以外の音が鳴ったら、
神さまがいたずらをしているのかもしれない。


ポンポン山(埼玉県比企郡吉見町)
足を踏み鳴らすと“ポンポン”と音がする。


ポンポン山の遠景
「その内社によりたる辺踏鳴せば、鼓の如く響きある処あり、そこを玉鉾石と称す。
又通じて玉鉾山とも号せり」
(『新編武蔵風土記稿』より)






ポンポン山からの眺め
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石室がむき出しの古墳はどこにある? ―八幡山古墳―

2011年04月19日 | 考古の部屋
「古墳の上半分の土を取り除いたらこんな感じですよ」
というような古墳が行田の“若小玉古墳群”にある。
その名は“八幡山古墳”。

古墳の土が削り取られ、
横穴式石室がむき出しになっているのである。
まるで衣服を剥ぎ取られたかのよう……

元々、江戸時代から石室の一部は露出していた。
しかし、いまほどあからさまではなかった。
いつ石室全体が太陽の光にさらされたかというと、昭和初期である。

小針沼という広い沼があり、
それを埋め立てるために古墳の土が使われたのだ。
若小玉古墳群で現存しているのは2基のみ。
かつてはもっと多くの古墳が存在していたのだが、
そうした時代の流れによって消滅した。

現在は工業団地が建ち、
往古と景色が一変していることは想像に難くない。
八幡山古墳も工場に囲まれ、
やや狭そうな印象さえ覚える。

同じく昭和初期に発掘調査がされ、
石室が姿を現したことは新聞にも報道された。
このむき出しになった横穴式石室は話題を集め、
多くの人たちが八幡山古墳に足を運んだらしい。

しかし、いまはひっそりと佇んでいる。
ここに足を運んでも、
「大勢の観光客」の姿をぼくは目にしていない。
(たまたまかもしれないが)
現在古墳を含む一帯は小さな公園になっていて、
そこで遊ぶ子どもたちに親しまれている。


八幡山古墳(埼玉県行田市)




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かつて羽生には“芸者さん”がいた?

2011年04月18日 | 近現代の歴史部屋
かつて羽生は“眠らない町”だった。
青縞の生産地で知られたこの町は、
時代を下って“衣料の町”となる。

学生服や作業着、子ども服などを大量生産し、
町を歩けばいたるところでミシンの音が聞こえたという。

被服製造会社が増えれば工場もどんどん建つ。
それと同時に働く人も集まる。
人が来れば料理屋は繁盛するし、
娯楽施設も増える。

いまでは想像もつかないが、
かつて町には芸者さんがいたという。
お得意様を接待するために芸者さんがお呼ばれされたのである。

昭和42年発行の「羽生市商工名鑑」を見ると、
芸者さんの組合が載っている。
往古の羽生の夜は華やかだったのだろう。
舟を浮かべて遊ぶ施設もあった。

“電気館”をはじめとする映画館が2館あったし、
“羽生座”と呼ばれる芝居小屋もあった。
営業にやってきたビジネスマンが泊まるための旅館ができたり、
日中勉強のできない人のために、夜間の高校も誕生した。
それが現在の“羽生高校”である。

その前進は、県立不動岡高等学校定時制羽生分校として、
昭和23年11月8日に発足した。
往古から教育に熱を入れていたと言える。

工場で働く人は、必ずしも地元生まれとは限らない。
遠くの地から働きに来た人も少なくなかった。
経済や人の流れがいまとはまるで異なっていた。

最盛期には工場数が約450、
従業員数が約7000人もいたというから、
さまざまな人間模様もあったに違いない。

しかし、昭和50年代から風向きが変わり始める。
町からミシンの音は聞こえなくなった。
華やかな芸者さんも姿を消す。
映画館も芝居小屋も面影すらない。

当時の隆昌を知らない世代がどんどん増えている。
ぼくもその一人だ。

人や経済が活気にあふれたその時代の空気は、
想像するのも難しい。
それは『田舎教師』の影響もあるかもしれない。
ずっと昔に映画館や芝居小屋があったことを初めて知ったときは、
衝撃的だったのを覚えている。

しかし、いまのこの町が眠っているわけではない。
過去がにぎやかだからといって、
当時に戻りたいとは思わない。
「あの頃はよかった」などと言ったところで先には進まないのだ。

感傷することはあっても、過去を賛美しすぎてはいけない。
過去を知ったからには、
現代と未来にまなざしを向けるのが歴史を学ぶ者の姿勢だろう。

ときはどんどん過ぎていく。
ときの流れは無常だが、希望でもある。
過去を懐かしむより、
未来を夢見る方が時代を切り拓いていく。
先代から受け取ったバトンを次世代へと渡すとき、
そこにどんな新しい時代を築いているだろうか。
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元気の源は“がっつく”こと? ―ウラ部屋雑記(137)―

2011年04月17日 | ウラ部屋
うちには金魚がいるのだが、
1匹長老がいる。
いつからうちにいるのか記憶が定かではない。

ぼくが小学6年生のときに祭りでもらってきた金魚という疑惑もある。
だとしたら、約20年は生きていることになる。
金魚の平均年齢は5、6年と聞いていたから、
20年近くも生きられるのだろうか。

しかし、10年以上いることは確かである。
うちの方針は「可愛がりすぎないこと」。
下手に可愛がると弱っていく一方だ(と思う)。

長老には一つの特色がある。
それはがっついていることだ。

春夏秋冬、この長老は食欲旺盛だ。
真冬の冷たい水の中だろうと、
体を動かしてエサを欲する。
子金魚をおしのけてまでエサをせがむのだ。

人間も同じことが言えるかもしれない。
健康の基本は食べること。

食欲を失ってしまうと、体は弱ってしまう。
気持ちにも活力が出ない。
長老が20年も生きているとしたら、
その長寿の秘訣は食欲に違いない。

奈良へ行ったとき、がっついているシカがいた。
四車線道路の分離帯に生える草を食べていたのだ。
道路はひっきりなしに車が通っている。
その車の流れを止めてまで、分離帯に行ったのだろう。

がっついていたシカは2匹。
妙なたくましさを感じた。
食欲旺盛で結構。
少食の人より、がっついている人を見ている方が、
なぜか気持ちがいい。
(限度もあるかもしれないが)

しかし、いくら食欲があるとはいえ、
食べ過ぎはいけない。
なんでもほどほどが大事。
うちの金魚にもエサを与えすぎないようにしている。
長老はそれが不満なのか、
一緒に同居しているタニシをつついたりしている。



奈良のシカ

※最初の画像は羽生のゆるキャラのひとつ“フナどん”
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妻の成功は“夫”に左右される? ―作家の秘密道具(25)―

2011年04月16日 | ブンガク部屋
光るものを持っていて、
そのまま書き続けていたらものすごく輝くんじゃないかという女性がいた。
しかし、その人は彼氏ができてからものを書かなくなった。

心の中が満たされたからかもしれないが、
男が書くことを嫌がったという。
以来、彼女は書いていない。
いつかまた書き始めるかもしれない。
しかし、現在のところ彼女の名前は見ていない。

女性が何かを成し遂げようと決意したとき、
そこに立ちはだかる壁は男よりも多いのかもしれない。
例えば日本初の女医になった荻野吟子は、
女性というだけで試験を受けることもできなかった。

いまでこそ女性の社会進出は珍しくはなくなってきたが、
かつては家事や子育てに専念するものという概念がはびこっていた。
表現をしたい女性が、その概念の強い男を配偶者に迎えたら、
たちどころにその芽は摘まれるのだろう。

理解してほしいとまでは言わない。
ただわかってほしい。
夫の反対のために筆を折った人、
また長い休筆期間に入った人をぼくは知っている。

逆に、妻を献身的に支えた夫がいる。
例えばその男の名は“橋本憲三”。
女性史研究家で知られる“高群逸枝”(たかむれいつえ)の夫である。

最初は詩人として世に出た逸枝だったが、
次第にアナキズム評論家として活動し始める。
そして、女性史研究を始めたのは38歳のときだった。
このとき、夫の憲三は33歳。

「森の家」に籠もり、1日10時間以上の勉学を自ら強いた。
学者として社会的地位を築いていたわけではない。
「女性史の研究を始めます」と言って、すぐに大成するわけではないし、
パトロンから経済的援助があるわけでもない。
大成するかわからない研究に、
膨大な時間を費やさなければならなかった。

それを献身的に支えたのが夫である。
炊事洗濯といった家事に煩わされる時間が逸枝にはもったいない。
24時間、寝ていても研究を続けたかった。

そんな彼女を夫は理解し、家事も全て憲三が行った。
生活資金は憲三の収入でまかなったが、彼自身が失職してしまう。
決して裕福な暮らしではなかったし、
将来への不安もあっただろう。

しかし、憲三は逸枝のひたむきな研究を応援し、
その大成を心から願っていた。
一人の女性、あるいは研究者として認めていたのである。

憲三自身、かつては文芸活動にいそしむ日々を送っていた。
文士として名を成すことを夢見ていたに違いない。
しかし、表現欲が高揚する逸枝に対し、
彼の創造力は枯渇していった。

自らの能力に絶望した憲三は編集者としての才を発見し、
その道を歩くようになる。
彼が妻を支えたのも「夫として」である一方で、
「編集者として」でもあったのだ。
妻に、成し遂げることのできなかった自分の夢を重ねることもあっただろう。

二人にとって、互いがなくてはならない存在だった。
憲三がいなければ、今日の逸枝はいなかっただろう。
逸枝次々に論文や著作を世に出し、
いまも燦然と輝く仕事を残している。

燃える炎のごとく生きた高群逸枝は、昭和39年に森の家で亡くなる。
享年70。
夫憲三が亡くなったのは、その12年後の昭和51年だった。
妻とともに駆け抜けた79年の人生だったと言える。
妻を支え続けたその軌跡は、
死後多くのメディアが取り上げた。

逸枝が太陽なら、憲三は月だろうか。
しかしその輝きは互いに寄り添い、
独自の光を放っている。
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