クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

ラーメンを食べるとき“餃子”は? ―ラーメン部(7)―

2010年11月30日 | グルメ部屋
ラーメン屋へ行ったら、“餃子”は注文するだろうか。
ぼくはどちらかと言うと、
あまり注文しない。

いつからラーメンは餃子とセットみたいになったのだろう。
昼間なら、にんにくが入っているか否かが分かれ道だし、
夜だとカロリーが気になる。
(これでも体には気を使っている)
ベストは朝だが、その時間にラーメンを食べることはほとんどない。

ちなみに、ラーメン部では基本餃子は注文していない。
こだわっているわけではなく、
「いまのところは」なのかもしれない。

ただ、ラーメン屋の話になったとき、
餃子の話題を聞いたことがない。
ラーメン部に限らず誰と話をしても、
ラーメンの味に重きが置かれている。

しかし、餃子がメインの場合は話は別である。
テレビで数多くグルメが紹介されているが、
餃子は最強だと思う。
必ずと言っていいほど、食べたくなる。
「だって餃子だよ? 無関心でいられるはずないじゃん」
と言った人の気持ちがよくわかる。

餃子と言えば、“宇都宮”を思い浮かべる人も多いだろう。
宇都宮の人は、ラーメンを食べるときは餃子を付けるのだろうか。
そして、ラーメンより餃子の味にこだわるのか……


宇都宮の茶餃子



宇都宮二荒山神社(栃木県宇都宮市)
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戦国時代に“学校”で何を学んでいた? ―足利学校―

2010年11月29日 | 戦国時代の部屋
“足利学校”は国指定の文化財だ。
日本最古の学校と言われる。

足利義兼が創立し、上杉憲実が快元を招いて学校を整備したと考えられている。
「学校」と言っても、「日本最古」と言われる学舎である。
現代の感覚でそのまま当てはめることはできない。

というのも、生徒は禅僧に限られていた。
つまり、お坊さんでなければ入学できなかったのだ。
そして、彼らが学んでいたのは儒学だった。

中でも重視されていたのは“易学”である。
当時、戦国武将は“占い”によって合戦日や方角を定めていた。
かなりの験をかついでおり、
例えば犬が軍の右から左へ横切れば吉とし、
その逆は凶とされた。

「軍師」の言葉があるが、
それは「占い師」と言っても過言ではない。
足利学校で学んだ生徒は、
戦国武将のもとへ招かれていった。

合戦は「武」だが、また「知」でもある。
単に槍刀を振りかざせばいいというものではない。
人智を越えたところのパワー、あるいは験によって行われていた。
戦国武将に優遇されたことを考えると、
足利学校は軍師養成所の一面もあったと言えよう。

むろん、純粋に学問に励む者もいたし、
曲直瀬道三や田代三喜斎などの医者になる者もいた。
徳川家康のブレーン天海のように、
政治的権力を持つ者もいる。
足利学校は武田信玄にも認められるところであり、
いま風に言えば、抜群の就職率を誇り、
信頼と実績のある名門校だった。

ちなみに、在学中は禅僧でも、卒業して還俗するのは自由だった。
入学したければ、一旦お坊さんになればよい。
中には問題児もいたろうし、
権力争いやどろどろとした人間関係もあったのだろうが、
名門校としてその名を轟かせていた。

足利学校が閉校したのは明治5年。
同36年にその跡地に遺跡図書館が開設された。
この町で教師になった者は、
足利学校歴代校長(庠主)の墓にお詣りするという。
往古の教育内容と現代とではまるで違うが、
教育を重んじ、尊ぶその精神はいまも生き続けている。



足利学校(栃木県足利市)









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“ゆるキャラさみっと”へ行きませんか?

2010年11月28日 | お知らせ・イベント部屋
今日、羽生水郷公園で“ゆるキャラさみっと”が開催される。
現地でお会いしましょう。
くれぐれも、ゆるキャラの着ぐるみを叩かないように……

<ゆるキャラさみっとin羽生>
日時:11月28日(日)
   午前10時~午後4時
場所:羽生水郷公園芝生広場
ご当地物産展・グルメ販売 午前10時~午後3時40分





ゆるキャラさみっとで食べることのできる“愛情(藍城)弁当”
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“ゆるキャラさみっと”に電車で行ったなら……?

2010年11月27日 | ふるさと歴史探訪の部屋
“ゆるキャラさみっと”に、電車で来られる人もいるだろう。
いま羽生駅構内は、
“藍染め”で彩られている。

羽生は“藍”の町で、
かつて紺屋は300軒近くもあった。
明治5年の青縞の出荷量は4万8304反。

4と9のつく日に立つ“市”では、
やわらかい藍の色で染まった青縞を買いに来る人で賑わっていた。
現在も、羽生市内ではいくつかの紺屋さんがあり、
青縞を買うことができる。
ちなみに、ゆるキャラさみっと初めて登場する“愛情(藍城)弁当”は、
藍染めの町の“藍”から来ている。

羽生駅は、明治36年4月23日の営業開始である。
田山花袋の小説『田舎教師』にも、
「寺の後にはこの十月から開通する東武鉄道の停車場ば出来て、
大工が頻りに鉋や手斧の音を立てている」と描かれている。

現在のベルギー風の駅舎が完成したのは平成16年。
その前までは、『田舎教師』の世界を漂わすような趣ある駅舎が建っていた。

駅は町の玄関口だ。
駅にはたくさんの人の“記憶”が詰まっていることだろう。

ぼくは幼い頃、祖母の自転車の後ろに乗せられて、
よく羽生駅前にあった“東武ストア”へ行っていた。
まだ保育園に上がる前のことで、
そこで買ってもらう弁当が楽しみだったのを覚えている。

祖母は毎日うどんを打っていた。
そのうどんには細く切った大根を入り混ぜていたのだが、
香りをよくするためか、
それとも量を増やす昔の人の知恵だったのかわからない。

うどんの生地はしばらく寝かせなければならない。
その間に、東武ストアに行っていたのだ。
なぜ祖母は東武ストアを選んでいたのだろう。
家から近い距離とは言えなかったし、
スーパーはほかにもあったはずである。
なのに、駅前の東武ストアに毎日出掛けていた。

ぼくは車より自転車に乗ることが多いのだが、
幼い頃に一緒に過ごした祖母の影響だと思っている。
自転車でふらふらしたり、
墓参りが好きなのも祖母がよくしていたからだ。
三つ子の魂百までのことわざは、本当だと思う。

その祖母は、ぼくが小学2年生のときに亡くなった。
若い死だった。
東武ストアもいまはない。
白い建物は残っているが、居酒屋とカラオケ屋が入っている。
駅前の風景もだいぶ変わり、
いまはベルギーの小便小僧が建っている。

あと30年もしたら、
いまの風景も大きく変わっているのだろうか。
それでもぼくは、羽生駅前に立てば、
自転車に乗って東武ストアに出掛けた祖母を思い出すのだろう。

三つ子の魂は百まで続く。
風景がどんなに変わっても。
祖母の打った大根入りのうどんと、
東武ストアの弁当の味と一緒に……



羽生駅前(埼玉県羽生市)


羽生駅自由通路に飾られた藍染め
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北武蔵の“パワースポット”はどこにある?(17) ―伊奈忠次像―

2010年11月26日 | パワースポット部屋
“伊奈忠次”の銅像が、
羽生(はにゅう)に建っていることはあまり知られていない。

忠次(ただつぐ)が残した功績は多くあるが、
その一つに治水がある。
関東の治水事業は、伊奈氏なくして語れない。

そんな伊奈忠次の銅像には、
いろいろな“流れ”をよくするパワーが秘めているのかもしれない。

日常が穏やかに過ごすためには、
流れがよくなくてはならない。
生きていれば、急な流れのときもあれば、
停滞しているときもある。
安定して流れることは難しい。

時には“障害物”がある。
この障害物があるがために前に進むことができない。

その被害は、個人だけとは限らない。
例えば、川の流れを少し変えたり、環境を改善したりすれば、
川そのものもよくなるどころか、
そこに住む生物やその流域、
流れ着く海だってきっと恩恵を授かる。

しかし、「この川はこうあるべき」と言うかのごとき、
古く凝り固まった障害物があったら、
その川はいつまで経っても澱んだままである。
流れも停滞し、よくなることはない。

そんな障害物を取り除いて流れをよくするためにも、
伊奈忠次の銅像の前に立ってみよう。
忠次さんが流れをよくするのではない。
変化を起こすのは自分自身だ。
そのパワーを与えてくれる。

ただ、自分ではどうすることもできないこともある。
そんなときは、別のパワーを貰うことができるかもしれない。

ちなみに、忠次さんの銅像の後ろを流れるのは“中川”である。
一級河川のこの川の延長は84.4㎞。
太古川と古隅田川の真ん中を流れていたため、
中川という名がついたという。

実は、この中川の起点は羽生市である。
忠次さんの銅像から、歩いて約5分くらいのところを起点としている。
日常の中で、いろいろな煩わしいものがあるだろう。
それらを水に流し、
浄化して清めてから、
もう一度原点に立ち戻ってみてはいかがだろうか。



起点から望む中川(埼玉県羽生市)



伊奈氏陣屋跡(同県伊奈町)



伊奈氏墓碑(同県鴻巣市)



伊奈忠次の銅像(同県羽生市)
最初の画像も
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『田舎教師』の主人公の“ふるさと”はどんなところ? ―小俣―

2010年11月25日 | ブンガク部屋
秀三が幼少期に過ごした小俣は、
すぐ目の前に山々がそびえ立つ集落だ。
小俣駅に足を運んでみると、小さな駅だった。
駅員はおらず、自動改札口もない。

ちょうど電車が来て、数える程の人が下りてくるだけだった。
そのローカル感がいい。
ぼくはローカルな駅が大好きだ。

鶏足寺に足を運んでみると、
真っ暗な参道が続いていた。
山門は硬く閉じられ、
暗闇に包まれている。

とても夜に訪ねる場所ではない。
昼間は紅葉が楽しめるらしい。
空気はひんやりしていて、
参道沿いに立つ杉並木は、
ホラーな雰囲気たっぷりかもしれない。

平地に住むぼくとしては、
暗闇に包まれる山々は新鮮だ。
わざわざ暗い山に向かい、
その静けさと闇を楽しみたくなる。
(実際に楽しんだ)

小林秀三は小俣村で、どんな少年時代を過ごしたのだろう。
小林家は小俣村において名家だった。
その自負や誇りはあったに違いない。

しかし、病に倒れ若くして没してしまう。
まさか、小説の主人公のモデルになることなど、
夢にも思わなかっただろう。
青年の魂は、いまも小説の中で生き続けていると言える。

そのことが、秀三にとって良かったのかはわからない。
田山花袋の筆ではなく、
自分の力で名をこの世に残したかっただろうか。
小俣には、秀三の戒名を刻んだ位牌がひっそりと残っている。



小俣駅(栃木県足利市)



同上



羽生市民プラザ(埼玉県羽生市中央3丁目)
同館2階には「田舎教師」ふるさと資料室がある
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“ムジナもん”と遊びませんか?(62) ―愛情(藍城)弁当―

2010年11月24日 | ムジナもんの部屋
11月28日(日)は、
「ゆるキャラさみっとin羽生」が開催される。

当日、ゆるキャラたちが登場する一方で、
実は新たなグルメがデビューする。
それは“愛情(藍城)弁当”。
羽生の新たなグルメとして開発された弁当だ。

公募によって集まったレシピから選ばれたもので、
最優秀賞の3品がデビューする。すなわち、
“はにゅう丼”
“ムジナもん弁当”
“愛情(藍城)弁当”である。

はにゅう丼は「生羽(せいわ)どん」、
ムジナもん弁当は「あけてビックリ弁当」、
愛情弁当では「旬で勝つ弁当」が最優秀賞に選ばれた。

この3品は、ゆるキャラさみっとで実際に食べることができる。
ここで説明してもうまく伝わらない。
実際に食べに来てみてはいかがだろう?


愛情(藍城)弁当について(羽生市ホームページ内)
http://www.city.hanyu.lg.jp/kurashi/madoguchi/syoukou/02_culture/04_kokuti/bentou/bentou2.html


<ゆるキャラさみっとin羽生>
日時:11月28日(日)
   午前10時~午後4時
場所:羽生水郷公園芝生広場
ご当地物産展・グルメ販売 午前10時~午後3時40分
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10年後の“吉川”の町はどう映っている?

2010年11月23日 | 利根川・荒川の部屋
約10年前に訪れた“吉川”の町は、
電車から見えた中川の光景がが印象深く残っている。
ちょうどその頃、川のことを調べていたからかもしれない。

「あ、ここにも中川が流れてる……」
電車は走り過ぎ、窓からあっという間に消えてしまう。
しかし、その一瞬の切り取られた中川の光景が、
ぼくの記憶の中でずっと残っていた。

約10年ぶりに吉川へ訪れたときも、
やはり思い浮かぶのは中川だった。
歳月と共に記憶は曖昧になり、
中川を目にしたのは本当に吉川だったのか自信がない。
当時のぼくはいろいろな町を訪れていて、
記憶がごちゃまぜになっている可能性がある。

そんな不安があったから、
電車の窓から中川が姿を現したときは妙に嬉しかった。
10年前がすぐそこにあるような……
あの頃、当たり前のようにそばにいた人たちの顔が、
思い浮かんでは消えた。

ただ、電車の窓から見える景色は一変していた。
かつては何でもない町だったが、
異質な存在感で横たわっているものがある。

それは大型ショッピングモールだ。
歳月の流れを象徴するように、
その建物はそびえ立っていた。

確かに何度も季節は移り変わったらしい。
大型ショッピングモールのそばで、
中川が少しだけ窮屈そうに見えた。
あと数年もすれば、ひしめく住宅地でいっぱいになるのだろう。
そのとき中川は……

月日の流れはどんどん早くなるばかりだ。
10年後の中川は、
どんな光景がその水面に映っているのだろう。
電車から見た中川は、
太陽の光りが反射してきらきらしていた。



吉川駅の前には金色のナマズがいる
(埼玉県吉川市)



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『田舎教師』の主人公の“モデル”はどこで生まれた?

2010年11月22日 | ブンガク部屋
田山花袋の小説『田舎教師』に登場する主人公「林清三」は、
実在した“小林秀三”をモデルにした人物である。

夢を抱きながらも田舎の代用教員となり、
葛藤や焦燥、不安や決意、揺れ動く明治の青年が描かれている。
そして、若くして病に冒され、
志半ばにして逝ってしまう……

埼玉県羽生市を舞台にしたこの小説は、
田山花袋の代表作の一つに数えられ、
いまなお読み継がれている。
同市には、秀三の墓碑が実在。
いまも秀三を偲ぶ「夕雲忌」が毎年行われている。

ところで、最期を羽生で迎えた秀三だが、
生まれは埼玉ではない。
栃木県足利である。
明治17年3月11日、足利郡小俣村で産声を上げた。

同25年、足利町の大火が起こる。
もし、この大火がなければ、秀三は羽生の代用教員になることも、
花袋が『田舎教師』を書くこともなかったかもしれない。

同26年、一家は熊谷に引っ越し、秀三も埼玉に足を踏み入れた。
以後、秀三は埼玉の学校に通う。
熊谷中学校(現県立熊谷高校)に入学したとき、
一年間だけ“弘中又一”から数学の授業を受けた。

この弘中又一こそ、夏目漱石の小説『坊っちゃん』の主人公のモデルである。
明治を代表する小説のモデルが、
教師と生徒という立場で同じ学校にいたことになる。

小林家は忍町(現行田市)に転居。
秀三は学校卒業後、
三田ヶ谷村(現羽生市)の弥勒高等小学校の代用教員となった。
忍町から三田ヶ谷村まで歩いて通っていたが、
のちに羽生の建福寺に移り住む。

建福寺の住職は、新体詩人として知られた“太田玉茗”であり、
玉茗と親交のあった花袋は、
このとき秀三の姿を見掛けている。
花袋は、のちに秀三をモデルにした小説を書こうとは、
そのとき思いもしなかっただろう。

やがて秀三は寺を出て、
羽生町の借家で暮らすようになる。
そこが、彼の終焉の地となってしまう。
いち田舎教師として生きようと決意した矢先、
病魔に冒され帰らぬ人となるのである。

その数年後、花袋は秀三の日記を参考に羽生を踏査し、
ペンを執る。
そして、明治42年に『田舎教師』を刊行するのである。



建福寺(埼玉県羽生市)



小林秀三終焉の地



小俣駅(栃木県足利市)
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編集者と行く羽生城めぐりは?(13) ―羽生城主の判物―

2010年11月21日 | 羽生城跡・城下町巡り
「羽生城」という城があったならば、
そこを守る城主はどんな人物だったのだろうか?

戦国時代末、羽生城を守っていたのは“広田直繁”と“木戸忠朝”である。
彼らは木戸範実と月清正光大姉の間から生まれた。
兄直繁が広田姓を名乗っていたのは、
そこに政治的意図があったと思われる。

一方、忠朝(ただとも)は最初河田姓を名乗っていたが、
やがて木戸姓を使うようになった。
羽生城主というと、おおよそこの木戸忠朝を指すことが多い。
しかし、忠朝が城主となる前に、
兄の直繁が羽生城主に就いていた。

2人はどんな姿をしていたのか、
残念ながら肖像画は残っていない。
現在、「冨田勝治展」(羽生郷土資料館主催)で展示されているのは、
忠朝遺臣の“不得道可”夫妻像である。
近世において、道可は羽生城代だったが城主ではない。

直繁と忠朝は一体どんな姿格好をしていたのだろう。
ぼくが羽生城に入った頃、
このことは大きな関心の的だった。

想像を膨らませてみるものの、
400年以上も前に生きた人物である。
うまくイメージできないし、夢枕に立つわけでもない。
「歴史は似た人物を登場させる」の法則に則って、
直繁と忠朝の生まれ変わり疑惑のある人はいたが、
むろん確証などない。

ところで、直繁と忠朝の文書は現存している。
僧侶の勝手還俗を禁じた判物で、
いずれも永禄9年に発給されたものだ(「正覚院文書」)。

直繁が1月26日、忠朝が3月21日に発給している。
永禄9年といえば、上杉謙信の小田城や臼井城攻撃があった年である。
勝手に還俗し、他国へ移る者を抑えるためだったのだろうか。

いずれにせよ、2人の判物を比べてみると、
肖像画はなくともその両者の人柄が浮かんでくるような気がする。
というのも、直繁の字は太くて力強いのに対し、
忠朝は流麗な字を書いているのだ。

木戸氏は武家歌人の家筋である。
忠朝の詠んだ歌は一句も現存していないが、
その判物の文字を見ると、彼もまた歌人だったのかもしれない。

一方、直繁の力強い字は無骨な印象さえ受ける。
忠朝と比べてしまうと、歌人としての雰囲気は感じられない。
忠朝が「学」の人であるならば、
直繁は「武」の人だったのかもしれない。

むろん、これはぼくの主観であり、
直繁にこそ「文」の香りを感じる人もいるだろう。
この2人の判物は、前述した「冨田勝治展」で展示されている。
ぜひ見比べて、その人柄を感じ取ってほしい。

400年以上も昔の人を窺い知るのはなかなか難しい。
現代人の感覚ではわからない時代的、環境的背景があるからだ。
しかし、広田直繁や木戸忠朝という人物が、
かつてそこに存在していたことをその判物は伝えている。



羽生城主の判物や生まれ変わり説について、
小説ではあるものの書いたことがある。
「羽生のひと」(高鳥邦仁)というタイトルで、
「文芸埼玉」77号に掲載されている。
参考までに……


<企画展「「放課後の羽生城」のモデル 冨田勝治の蔵書から」>
期間:平成22年10月23日(土)~11月28日(日)
会場:羽生市立図書館・郷土資料館展示室
開館時間:9時~17時
入館料:無料
休館日:毎週火曜日(11月23日は開館)、10月28日、11月24日、11月25日が休館


羽生市立図書館・郷土資料館ホームページ
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/
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肉食系の時代に“上杉房顕”はどう生きたか? ―五十子陣―

2010年11月19日 | 城・館の部屋
兄を殺され関東管領に就いた“上杉房顕(ふさあきら)”は、
病弱で文人肌だったという。
いま風に言えば、草食男子だったのだろう。

一方、房顕の兄上杉憲忠を殺した“足利成氏”は、肉食系男子である。
鎌倉公方とはいえ、不安定な政治的立場にいた成氏(しげうじ)は、
憲忠を謀殺することで実権を回復しようとしたのだった。

成氏は鎌倉を出て、上杉軍と立河原や分倍河原で戦う。
そして、古河に移りここに拠点を構える。
「古河公方」の誕生である。

一方、草食系管領の上杉房顕は、上野平井城を拠点とした。
幕府は上杉氏を支持し、
房顕はいわば成氏征伐の大将である。
上野にて、宮原原合戦や穂積原合戦など、成氏と干戈を交えた。

いわゆる関東を舞台にした泥沼の合戦の“享徳の乱”の勃発だった。
平井城を拠点にしていた房顕は、
やがて五十子(いかっこ)に陣を移す。
それを五十子陣(いかっこのじん)と言う。

幕府は房顕を支持していた。
したがって、成氏は朝敵ということになる。
しかし、成氏は肉食系公方。
意気消沈するどころか、行動を活発化している。

一方、房顕にとっては荷が重かったかもしれない。
戦場をかけめぐるよりは、
歌を詠んだり典籍に親しみ、
ゆっくり過ごしたかっただろう。

兄を殺されているとはいえ、
その憎しみというより、
泥沼の合戦へと巻き込んだ成氏が恨めしかった。
心労が絶えず、体も壊しがちだったに違いない。

房顕は文正元年(1466)2月26日に、
32歳という若さで没してしまうのである。
時代に翻弄された人物と言えよう。
もし成氏が上杉憲忠を殺さなかったならば、
もっと別の人生を歩んでいたかもしれない。

五十子陣跡はほとんど何も残っていない。
鮮やかな桃の花で彩られる古河公方館跡とは対照的である。
肉食系の時代に生きた草食系管領は、
いまもひっそりと歴史の片隅に名を留めている。
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食べると元気の出るラーメンは? ―ラーメン部(6)―

2010年11月18日 | グルメ部屋
6人で1台の車に乗り、
ラーメン屋へ向かった。
そこは、ほうれん草を食べると元気になるおじさんの名前のつく店。
国道122号線を春日部方面に向かったところにある。

その店をおすすめした人は、いつも元気いっぱいの子。
一瞬で辺りに光りが灯るような、
そんな明るさある。

その店のラーメンにはほうれん草が乗っていた。
味付きチャーシューがラーメンの味を彩る。
元気いっぱいの人が紹介するラーメンは、
さすがテンションが高い。

ちなみに、その日はたまたま昼食を食べていなかった。
それなのに空腹感はゼロ。
夜のラーメン部のためというわけではなく、
風邪を引いていたわけでもない。
胃はなぜか一日沈黙していた。

そのせいか、ラーメンを食べると胃が目を丸くする。
しかも、相手は元気になるラーメン。
静かに森田童子の曲を聴いていたのに、
突然ヘビメタに変わるようなものだ。
胃がいつの間にかロックになっていた。

ところで、ラーメン部の人たちは、
優れて秀でている人たちばかりである。
ぼくなど場違いもいいところ。

車を運転する男子は、技術系の勉強をしているという。
隣に座っていた女子はこんなことを言った。
「10代は勉強しかしてこなかったんです」

一度でいいからそんなことを言ってみたい。
勉強しかしてこなかった……
いまでも彼女の指にはペンだこが残っていて、
彼女の10代を象徴するように硬く、熱い。

利根川にばかり夢中になっていたぼくとは違う。
「将来なりたいのは利根川」
そんなことを言っていた自分が恥ずかしい……

ちなみに、ぼくが学生の頃、
勉強のできる人の鉛筆を使うと
テストでいい点数が取れるというジンクスが、
まことしやかに流れていた。

そのジンクスが本当なのかわからない。
一度試してみたが、いまいちだったのを覚えている。
でも、神頼み的なテストを受けるときは、
彼女の鉛筆を借りれば天啓に打たれるかもしれない……
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北武蔵のパワースポット”はどこにある?(16)―羽生水郷公園―

2010年11月17日 | パワースポット部屋
水のある風景が好きだ。
沼、川、海、雨に濡れる景色……
ときに荒れることもあるが、
多くは心穏やかにさせてくれる。

羽生水郷公園はその名の通り、
水の景色が広がっている。
静かに水を湛える沼は、
かつてここが平地であり、
利根川の流域地帯であることを感じさせてくれる。

ちなみに、現実世界で見る水もさることながら、
夢で水の広がる景色を見ることはないだろうか。
水は生命力や精神性のイメージで、
そのときの自分の精神状態や、
愛情について暗示しているという。

例えば澄んだ水は、愛情や豊かな感受性がわき上がることを告げているらしい。
水浴びをしている場合は、才能や新しい愛の目覚め、
水の上を歩いているのは、願いが叶う暗示。

逆に、濁った水は自分の精神状態がよくないことを示している。
沼地にぬかるみに足をとられていると、そのイメージのごとく、
行き詰まった現状にさらなる閉塞感を味わう暗示である。

水は精神を映す鏡。
水がどんな状態であるかで、
自分自身のいまを窺い知ることができよう。
ただし、組み合わせによって変わるため、注意が必要だ。

水郷公園の水はいつも穏やかである。
水面を水鳥が泳いでいる。
デートをするのもよし、子どもと遊ぶのもよし、
一人感傷にふけってもよし、
時間はゆっくり流れている。

水は浄化の作用もある。
ここで心の洗濯をして、
想いを明日に繋げてはいかがだろうか。



羽生水郷公園(埼玉県羽生市三田ヶ谷)



水郷公園で羽を休める水鳥。
ちなみに、羽生水郷公園は、
11月28日(日)開催の“ゆるキャラさみっと”の会場である。

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“ムジナもん”と遊びませんか?(61)―ゆるキャラさみっと―

2010年11月16日 | ムジナもんの部屋
11月28日に、羽生市で「ゆるキャラさみっと」が開催される。
全国のゆるきゃらが一堂に会すイベントである。

場所は“羽生水郷公園芝生広場”。
羽生インターを下りて、
“さいたま水族館”や“キヤッセ羽生”を目指せば到着する。

当日集まるゆるキャラは79体。
“ひこにゃん”も登場する。
ご当地物産展や、グルメ販売もする予定だ。

つまり、各ブースが出店し、ご当地グルメを販売する。
普段はなかなか食べられないものも、
この日はてんこ盛りにすることができるだろう。

時間は午前10時から午後4時まで。
ガッツリ楽しいでほしい。
11月28日、全国のゆるキャラに会いに、
羽生へ足を運んではいかがだろうか?

<ゆるキャラさみっとin羽生>
日時:11月28日(日)
   午前10時~午後4時
場所:羽生水郷公園芝生広場
ご当地物産展・グルメ販売 午前10時~午後3時40分

羽生市ホームページ(出演ゆるキャラを見ることができる)
http://www.city.hanyu.lg.jp/kurashi/madoguchi/syoukou/02_culture/04_kokuti/yuruchara/yuruchara2.html
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編集者と行く羽生城めぐりは?(12) ―羽生城絵図―

2010年11月15日 | 羽生城跡・城下町巡り
遺構の消えた羽生城は、
一体どんな姿をしていたのだろうか?

この謎を解くヒントに“絵図”がある。
現在、羽生城絵図と呼ばれるものは2種類ある。
「浅野文庫蔵諸国古城之図」と、
「武陽羽生古城之図」だ。

もう一つ、「東谷の絵図」と呼ばれるものがあるが、
これは正確に言うと、羽生城跡の図。
幕末に城跡に陣屋を築かれる際に、
描かれたものと考えられている。

「浅野文庫蔵諸国古城之図」に収録された絵図は、
現在のところ羽生城最古の絵図である。
広島市立図書館が所蔵し、
ときの広島藩主が、軍学研究のために集めた絵図の中に、
その一枚が収録された。
江戸初期に描かれたものと推定されている。

一方、「武陽羽生古城之図」は古くから羽生にあったらしい。
冨田勝治記の「羽生城との出合い」によると、
古物商に務めていた友人が見付け、
それを「柳八重」に見せたという。
柳氏は神主兼郷土史家であり、
そこから二人の交流が始まったと記されている。

この二つの絵図は、比べてみるといくつかの違いがある。
大きな違いは、南を覆っていた大沼が陸地化し、
小沼が2つ残っているだけになっている点だろう。

羽生城は大沼を背景に築かれた平城だった。
その沼の大きさは、「正保年中改定図」に描かれているように、
8ヶ村にまたがるものだった。

現在の羽生市役所の辺りは湿地帯で、
沼がいくつか残っていたというが、
それはその大沼の名残だろう。
そもそも、「城沼」という地名がいまでも使われている。

絵図の中央にあって、丸い形をした曲輪(くるわ)が本丸である。
西へ行くごとに、二の丸、三の丸となる。
絵図の北東に描かれているのが、天神曲輪である。
『新編武蔵風土記稿』に「城ありし頃は天神曲輪と云り」とあるように、
現在の古城天満宮と比定される。

最西が城下町であり、
本町通り示すと思われる線と道が描かれている。
現在の風景に、この絵図を重ねることは容易ではない。
かなり想像力をたくましくしないと見えてこない。

現在郷土資料館で開催されている「冨田勝治展」では、
本物ではないものの、
この2枚の羽生城絵図を見ることができる。
11月に出版された『羽生城と木戸氏』(戎光祥出版)の表紙を飾っているのも、
武陽羽生古城之図である。

城の遺構は全て消えてしまい、
「お城」の雰囲気を味わうことができない。
地面はアスファルトに覆われ、
沼の名残もない。
しかし、確かにそこに上杉謙信に仕え、
戦国乱世に翻弄された城があったことを、
2枚の絵図は伝えている。


古城天満宮(埼玉県羽生市東5丁目)に建っている羽生城絵図の看板。
これは「武陽羽生古城之図」を参考にしたもの



『羽生城と木戸氏』(冨田勝治著 戎光祥出版社)
この本の表紙を飾っているのは「武陽羽生古城之図」である。



<企画展「「放課後の羽生城」のモデル 冨田勝治の蔵書から」>
期間:平成22年10月23日(土)~11月28日(日)
会場:羽生市立図書館・郷土資料館展示室
開館時間:9時~17時
入館料:無料
休館日:毎週火曜日(11月23日は開館)、10月28日、11月24日、11月25日が休館


羽生市立図書館・郷土資料館ホームページ
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/
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